テレビ屋という仕事柄、各界の著名な方々に会う機会が多くあります。むろん仕事です。そのことについてはれっきとした理由がない限り、文章には書きません。仕事上の出会いですからむやみに披露するのは、自分の中に設けているいわば守秘義務にも似た原則に違反する、という気がしています。
しかし近年、いきさつとか功績とか人柄などを考慮しつつ、いくつかの出会いについては書いて置くほうがいいのではないか、とも考え出しています。主に亡くなった方々を中心に。それは大きくいえば歴史の一要素、とも見なせるからです。
イタリアでは取材を通して、誰もが顔や名を知っている方々にお目にかかりました。ファッションデザイナーやプロサッカー選手にも多く出会いました。90年代が中心です。サッカー選手はもはや全員が現役を引退しています。が、どなたも健在です。一方、デザイナーは亡くなった方も多い。
仕事とはまったく別の場で行き逢った有名人の方もいます。そのひとりが先日新型コロナウイルス感染症で亡くなった岡江久美子さんです。岡江さんとは筆者が大学卒業間近だった頃に、世田谷区・千歳船橋駅近くの居酒屋で偶然に隣り合わせ、年齢が近いこともあったのでしょう、とても親しく楽しく語り合った記憶があります。
映画の話を多くしました。いつかいっしょに映画を撮りましょう、ぐらいの生意気を言ったかもしれません。筆者は大学卒業後には、ロンドンの映画学校入学を目指して渡英することが決まっていました。そのせいもあっていわば気持ちがハイの状態でした。英国留学についても多くを語ったと思います。
既に有名人なのに、岡江さんには気取りも気負いも、むろん思い上がりのかけらさえも見えませんでした。お互いに20歳代前半の若者同士とはいえ、社会的な立場は大いに違います。それなのに筆者に対している彼女の表情や物腰や言葉使いには、自然体の美しさだけがにじみ出ていました。
文字通り明るくさわやかで聞き上手。また大いに話し上手でもでありました。ごく普通の若者だった筆者が美形の有名人に萎縮しなかったのは、ひとえに岡江さんの飾らないお人柄ゆえでした。筆者は終始あたかも大学の女子学生のうちの、親しみやすい人と会話をしているような気分でいました。
大いなる田舎者である筆者は、都会出身の女子学生にいつも憧れていました。東京出身の岡江さんはその典型的な存在にも見えました。垢抜けて麗らかでしかも可愛い女性。筆者はまさに学生気分で彼女に対し、岡江さんもおそらくそれに似た気分で返してくれていたような記憶ばかりがあります。
それから半年後に筆者は英国に渡り、4年以上後に日本に帰国してTVディレクターになりました。岡江さんがいろいろなところで活躍なさっていることは分かっていました。同じ時代に筆者は、東京を基点にアメリカのケーブルTV向けの報道番組やドキュメンタリーを矢継ぎ早に作っていました。
その気になればテレビ局やプロダクションなどの関係者を通して、岡江さんにコンタクトを取ることは可能でした。われわれはテレビカメラの向こう側とこちら側、また有名女優としがないディレクター、という立場の違いはあるものの、つまるところ同じ業界人同士ではあるのです。
単にコンタクトを取るばかりではなく、筆者は仕事を作って岡江さんに出演を依頼することもできました。米ケーブルTV番組は、日本を紹介する2、3分の報道セグメントから10分前後の報道ドキュメンタリーまたソフトニュースなどから成り立っていました。
筆者は若くて未熟ながらも企画アイデアだけは豊富で、連日機関銃のように起案をし、日米混合のスタッフと共にロケに出かけ、編集作業に没頭していました。筆者の企画はぼ全てが通って制作に回されました。ケーブルテレビはいわば黎明期で新しいことにがむしゃらに挑戦していました。だから駆け出しのディレクターに過ぎない筆者の計画でも、よく受け入れられたのだと思います。
番組企画のひとつとして、たとえば岡江久美子さんを取り上げて、日本のタレントあるいは女優の生き様、とでもいうようなタイトルで短いドキュメントを制作することも十分に可能でした。ケーブルTVというマイナーな媒体とはいえ、れっきとしたアメリカ向けの番組ですから、当時日本人は芸能人やアーチストに限らず、文化人また知識人など、ほぼ誰もが積極的に出演を受けてくれていました。
しかし、多忙な日々の中で岡江さんにお願いをする企画を出すことはなく、筆者はまもなくニューヨークに移動することになりました。そこで2年余り仕事をした後に、今度はイタリアに移住しました。どの国にいても日本には仕事や休暇でひんぱんに帰り、岡江さんがTBSの『はなまるマーケット』 で活躍されていることなども知りました。
日本の仕事では主にNHKにお世話になりました。しかし、民放にもかかわりむろんTBSとの仕事もしました。しかし、岡江さんとの接点はないまま時間は過ぎました。テレビでお顔を拝見するたびに、遠い学生時代の記憶を呼び起こしながらひとり勝手に親しむのみでした。
再会することはありませんでしたが、新型コロナ感染症で亡くなったという驚愕のニュースを衛星放送で知って、すぐにイタリアからお悔やみの記事を書こうと思いつきました。しかしながら、冒頭で述べたプロのテレビ屋としての自制が勝り、ためらいました。
そうこうするうちに岡江さんの訃報から2ヶ月が経ちました。だが今も新型コロナの脅威は消えていません。たとえば世界一厳しいとされたロックダウンが終わったここイタリアでは、反動で人々のタガがはずれたのか、3密の危険への警戒心などもどこかに吹き飛んだようです。マスクも付けずに人々が密集して、歓楽にひたる光景がひんぱんに見られます。怖い状況です。
そしてそれは、イタリアほどのコロナ地獄は経験しなかった日本でも、どうやら似たり寄ったりの様相を呈し始めたようです。ほんの少し前の日本では、志村けんさんや岡江さんの訃報が、人々の中に新型コロナへの強い危機感を植え付けるきっかけになりました。
その視座ではおふたりは、自らの死を持って多くの日本人の命を救った、とも言えます。それを尊崇する意味でもやはり自分なりに追悼の意思を示しておこうと考えました。また、岡江さんとは仕事でご一緒したことはないのだから、いわば1人のファンとしてブログ上でお悔やみを申し上げるのは許されるのではないか、とも思いました。
訃報が公表されて以降、岡江さんのお人柄に対する賞賛が後を絶ちません。筆者ははるか昔の学生時代に偶然にお会いして、彼女の人品の清らかさに感銘を受けた自分の印象と、多くの人々のそれが同じであることを誇りに思いつつ、胸中でそっと手を合わせています。
official site:なかそね則のイタリア通信