イタリアが再生した記念日にまた思うドイツの危うさ

昨日、6月2日はイタリア共和国記念日。旗日で休みでした。

第2次大戦末期の1945年4月25日、イタリアはナチスドイツとファシズムを駆逐して終戦を迎えました。

それは解放記念日と呼ばれ、やはり祝日です。

日本人の多くが、日独伊三国同盟の史実にひきずられて、イタリアを日本とドイツと同列に並べ一律に第2次大戦の敗戦国と考えがちです。

イタリアはむろん敗戦国ですが、イタリア自身のいわば生い立ちあるいは因縁、などという観点から見れば戦勝国でもあります。

なぜならイタリアは、ナチズムに席巻された状況で終戦を迎えたドイツや、軍国主義に呑み込まれたまま天皇を筆頭とする戦犯さえ処罰できなかった日本とは違い、民衆の蜂起によってファシズムとナチズムを排撃したからです。

枢軸協定で結ばれていたイタリアとドイツは、大戦の真っ最中の1943年に仲たがいしました。

それは戦況の変化や政治的な利害など複合的な要素が絡んだものでしたが、ムッソリーニが失脚したことも大きな原因でした。

最終的にはイタリアはドイツと敵対関係になってナチスと激しく戦い、やがて連合軍に降伏。ドイツも完全敗北しました。

終戦からほぼ一年後の1946年6月2日、イタリアは国民投票によって王制を排し共和国になりました。

イタリアはそこに至って真の民主主義国へと生まれ変わりました。

イタリアは日独と歩調を合わせて第2次世界大戦を戦いましたが、途中で状況が変わってナチスドイツに立ち向かう勢力になりました。

言葉を替えればイタリアは、開戦後しばらくはナチスと同じ穴のムジナでしたが、途中でナチスの圧迫に苦しむ被害者になっていったのです。

戦後、イタリアが一貫してナチスに蹂躙され抑圧された他の欧州諸国と同じ警戒感や不信感を秘めてドイツに対しているのは、第2次大戦におけるそういういきさつがあるからです。

ドイツは戦後、真摯な反省を繰り返すことによって過去の大罪を許されました。だが人々は彼らの悪行を忘れてなどいません。

ところが当のドイツはそのことを忘れつつあります。だから極右のAfDが台頭しました。

AfDは何もないところから突然発芽したのではありません。ドイツ国民の密かなの驕りと油断を糧にしてじわじわと増殖しているのです。

筆者はイタリアの解放記念日や共和国記念日には、過去の歴史に鑑みて、あらためてドイツの潜在的な危険を思わずにはいられません。

 

 

 

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一つ屋根の下の捕食者一家に萌えとろける

小型の鷹あるいは隼(ハヤブサ)らしい鳥が、初めてわが家の軒下に巣を作ったのは2019年の初夏です。

自家はイタリアのシャンパン「スプマンテ」の里として知られる北イタリアのフランチャコルタにあります。

家の周囲には有機農法で耕やされる広大なぶどう畑が連なっています。上空には多くの鳥が舞います。

ぶどうが有機栽培なので昆虫などの生き物が増え、それを狙う動物も目立つようになりました。

それらを追うらしい猛禽類も盛んに滑空します。夕刻と早朝には小型のフクロウの姿も目撃できます。

ぶどう園にはネズミなどのげっ歯類も多く生息しています。野兎さえ目撃されることがあります。

中世風の高い石壁を隔てて、ぶどう園につながっている筆者の菜園にも多くの命が湧きます。虫も雑草も思いきりはびこっています。むろん鳥類も多い。小さなトカゲもにぎやかに遊び騒ぎます。 ヘビもハリネズミもいるます。

ハリネズミは石壁の隙間や2ヵ所の腐葉土作り場、また菜園まわりに生いしげる雑草の中にまぎれ込んでいたりします。

ヘビは毒ヘビのVipera(鎖蛇)ではないことが分かっているので放っておきます。が、出遭うのはぞっとしません。筆者はへびが死ぬほど好きというタイプの人間ではありません。

どうやらそれは向こうも同じらしい。なぜなら簡単には姿を見せようとしません。

ここ数年は顔を合わせていませんが、脱皮した残りの皮が石壁や野菜の茎などにひっかかっていて、ギョッとさせられます。

ヘビは筆者と遭遇する一匹か、命をつないだ別の固体が、今日もその辺に隠れているにちがいありません。

猛禽類の隼(と呼ぶことにします)は、にぎやかな下界の様子に誘われてわが家の軒下に営巣を決め込みました。

というのは言葉の遊びですが、餌となる生き物が多く生き騒ぐから、それらの近くに巣を作ったということなのでしょう。

落ちぶれ貴族の宏大なボロ屋敷であるわが家の屋根は高い。だだっ広い屋根裏は倉庫になっていて、全体に通風孔がうがたれています。

2019年、隼は通風孔の一つに設置された照明の裏側に営巣して子育てをしました。筆者は屋根裏からそっと近づいては写真を撮っていましたが、一度母鳥に気づかれて大騒ぎになりました。

母鳥は爪を立てて恐ろしい形相で筆者に襲いかかろうとしました。だが鳩の侵入をふせぐために設えられている金網に阻まれました。隼はその金網をつかみ鬼の爆発顔で必死に筆者を威嚇しました。

それに懲りて筆者は撮影に慎重になりました。懲りたとは、母鳥が怖いというのではなく、逆に筆者が彼女を恐怖させることに懲りた、という意味です。

危険を感じて、母鳥が雛を見捨てるなどしたら筆者の責任は重大だと気をもみました。

遠くから観察して分かったのですが、母鳥は子供がごく小さいときは片時も巣を留守にしません。隼や鷹はつがいで子育てをします。父鳥が獲物を運んで母子を養います。

ことしは撮影の難しい昨年と同じ場所に巣が作られました。雛が幼い間は母鳥はずっと子供のそばにいて、どんなに息を殺して近づいても気づかれてしまいます。

母鳥は(同じ個体かどうかは分かりませんが)、2019年に筆者が不注意に巣に近づいて鬼の形相になった時とは違い、遠くの筆者に気づくと立ち上がって雛から離れ、それでも飛び去ることはできず不安げな横目でこちらを見たりします。

そのたたずまいがあまりにも切ないので、筆者はそっと体を引き息を殺して立ち去ることしかできません。

それでも母鳥がいないときは、雛を怖がらせないように細心の注意を払いつつ消音モードのスマホで写真を撮っています。

昨年はポルトガル旅行で留守にしていた間に雛は大きく育ち、帰って見ると5羽いたうちの2羽だけが残っていました。後の3羽は巣立ちしたのか死んだのか分かりません。

早く大きくなった雛は、生存をかけて兄弟雛を殺したりもすると言います。ここでもそんな命のドラマがあったのかもしれません。

そう考えると、自然の摂理とはいえ、少し胸が痛みます。

ことしも卵は5個ですが、1個だけ離れた場所に寄せられていました。親鳥はどうやってそれを抱くのだろうと訝る前に、彼らは鋭い本能で卵が死んでいるのを悟るのだと気づきました。

その卵は、4羽の雛が孵化した後もしばらく巣の脇に残されていました。それを見て筆者はふと「死児 (しじ)の齢(よわい)を数える親」という言葉を思いました。

しかし卵はいつの間にか消えていきました。親鳥が片づけたようには見えません。

雛たちが餌を前に騒いだり遊んだりしているうちに蹴落としたのでしょうか。

 

 

 


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映画「コンクラーベ」と「真正コンクラーベ」を較べて見れば

4月初旬、映画Conclaveを日本からイタリアに飛ぶ便の中で観ました。映画の日本語タイトルが「教皇選挙」であることは後にネットで知りました。

内容は「新しい映画とは何か」という問いに十分に答え得るることが直截に答えるもので、そのことについて書こうと思っていた矢先、フランシスコ教皇が亡くなってリアルな教皇選挙、コンクラーベが開催されることになりました。

筆者はフランシスコ教皇が選出された2013年のコンクラーベの際に少し勉強して、秘密選挙であるコンクラーベについてある程度の知識を得ていました。それなので映画の内容がすんなりと腑に落ちました。

腑に落ちたというのは、リアルなコンクラーベの詳細を知った上で、フィクションである映画Conclaveのメッセージに納得したという意味です。

ローマ教皇は世界におよそ14億人いるカトリック教会の最高指導者です。「イエス・キリストの代理人」とも位置づけられて信者の道徳的規範を体現する大きな存在です。

彼は同時にバチカンの国家元首として司法、立法、行政の全権も行使します。コンクラーベはそのローマ教皇を決める選挙です。選ぶのは教皇を補佐するバチカンの枢機卿団。

選挙人数は80歳以下の枢機卿120人とされます。だが一定ではありません。今回のコンクラーベでは135名の枢機卿が投票資格を持ちますが、うち2人が病気で参加できないため、133人が集って秘密選挙を行うと見られています。

なぜ秘密選挙なのかというと、世界中から結集した枢機卿はバチカンのシスティーナ礼拝堂に籠もって、外界との接触を完全に絶った状況で選挙に臨むからです。

電話やメールを始めとする通信手段はいうまでもなく、外部の人間との接触も一切許されません。メディアや政治家また権力者などの俗界の力が、選挙に影響を及ぼすことを避けるためです。

選挙方法は枢機卿の互選による投票で、誰かが全体の3分の2以上の票を獲得するまで続けられます。第1回目の投票は5月7日の午後に行われ、そこで当選者が出ない場合は翌日から午前2回と午後の2回づつ毎日投票が実施されます。

権力者を決める重大な選挙であるため、枢機卿の間では駆け引きと権謀術数と裏切りと嘘、また陣営間の切り崩しや足の引っ張り合いが展開されるであろうことは想像に難くありません。

そこにはしたたかな選挙戦が進む過程で、最も職責にふさわしい人物が絞り込まれていく、という効用もあります。

映画Conclaveは、現実のコンクラーベでは伺い知ることのできないそうした内実を描いています。もちろんフィクションですが、選挙にまつわる清濁の思惑、特に濁の魂胆が激しく錯綜する極めて世俗的な政治劇を余すところなく見せます。

映画の新しさ、あるいは大衆に受ける映画とは、表現法や視点、またそれを実現するに足る新しいテクニックが発揮されていること、また中身に時代の息吹が塗り込められていることなどです。

例えば1950年に発表された黒澤明の「羅生門」は、複数の人間が同じ事件を自身のエゴに即して全く違う視点で見、語るという表現法が先ず斬新でした。

さらに太陽にカメラのレンズを向けるというタブーを犯して暑さを表現したこと、移動レールに乗ってカメラが藪の中を疾駆するとき、木の枝がレンズにぶつかってはじける臨場感満載のシーン、殺し合う2人の男が怒りと恐怖で疲労困憊しながら獣の如く戦いのたうち回るリアリズムなど、思いつくだけでも数多くあります。

また「用心棒の」冒頭で斬り落とされた人間の腕を咥えた犬が走るカット、ラストで血が爆発的に噴き出す斬撃シーン、「蜘蛛の巣城」で弓矢が銃弾さながら激しく降り突き刺さるシーン、影武者の戦陣シーンで部隊の動きを長回しのカメラが流暢に追いかける計算されつくした構成、などなど数え上げれば切りがありません。

それらは例えばクエンティン・タランティーノの「パルプフィクション」で死者がふいに起き上がるシーンや、「キルビル」で主人公が地中の棺桶から出て地上に這い上がる場面などにも通底する発明であり、発見であり、エンターテイメントです。優れた映画、ヒットした映画、面白い映画には必ずそうした驚きがちりばめられています。

映画Conclaveには撮影テクニックや表現法の新しい発明はありません。むしろその部分では陳腐です。だが今の時代の息吹を取り込んでいるという新しさがあります。それがイスラム過激派のテロとLGBTQ+です。

映画では人間のどろどろした動きが丹念に描かれますが、選挙の結論は中々出ません。行き詰まったかに見えたとき、イスラム過激派による爆破事件が起こり投票所の窓も破壊されます。

すると保守派の有力候補が、イスラム教への憎悪をむき出しにして宗教戦争だ、彼らを殲滅するべきと叫びます。

それに対して1人の候補が「戦争ではキリスト教徒もイスラム教徒も同様に苦しみ、死ぬ。我らと彼らの区別はない。戦争は憎しみの連鎖を呼ぶだけだ」と説きます。

その言葉が切り札となって、次の投票では彼に票が集まり、結局その候補が新教皇に選出されます。

そして実は新教皇に選ばれたその人は「インターセックス」という性を持つ人物であることが、伏線からの流れで無理なく明らかにされます。

イスラム過激派のテロとLGBTQ+という、いま最もホットな事案のひとつをさり気なくドラマに取り込むことで、映画Conclaveは黴臭い古いコンクラーベを描きつつ新しさを提示しています。

映画での新教皇の演説は、亡くなったフランシスコ教皇が、2013年のコンクラーベで「内にこもって権力争いに明け暮れるのではなく、外に出て地理的また心理的辺境にまで布教するべき」という熱いスピーチを行って票を集めた史実を踏襲しています。

またフランシス教皇が保守派の強い抵抗に遭いながらも、LGBTQ+の人々に寄り添う努力をした事実などもドラマの底流を成しています。

2025年4月21日に亡くなったフランシスコ教皇の後継者を決める秘密選挙・コンクラーベは、間もなく蓋を開けます。

そこではフランシスコ教皇の改革路線を継承する人物が選ばれるかどうかが焦点になるでしょう。

世界中に14億人前後いると見られるカトリック教徒のうち、約8割は南米を筆頭に北米やアフリカやオセアニアなど、ヨーロッパ以外の地域に住んでいます。

ところが聖ペドロ以来265人いたローマ教皇の中で、ヨーロッパ人以外の人間がその地位に就いたことはありませんでした。

内訳は254人がヨーロッパ人、残る11人が古代ローマ帝国の版図内にいた地中海域人ですが、彼らも白人なのであり、現在の感覚で言えば全てヨーロッパ人と見なして構わないでしょう。

ところが2013年、ついにその伝統が途絶えます。

南米アルゼンチン出身のフランシスコ教皇が誕生したのです。先日亡くなったフランシス教皇その人が、史上初めて欧州以外の国から出た教皇だったのです。

フランシスコ教皇は、教会の公平と枢機卿の出自の多様化を目指して改革を推し進め、アジア、アフリカを中心に多くの枢機卿を任命しました。

5月7日から始まるコンクラーベで投票権を持つ135人のうち108人は、フランシスコ教皇が任命した枢機卿です。出身国は71カ国に及び、ヨーロッパ中心主義が薄れています。

このうちアジア系とアフリカ系は41人。ラテンアメリカ系は21人いる。ヨーロッパ系は53人いて

依然として最多ではありますが、かつてのようにコンクラーベを支配する勢いはありません。

バチカンの行く末は、信徒の分布の広がりを反映した多様性以外にはあり得ません。それに対応して、将来はヨーロッパ以外の地域が出自の教皇も多く生まれるでしょう。

フランシスコ教皇はアルゼンチンの出身ですが、先祖はイタリア系の移民です。つまり彼もまたヨーロッパの血を引いていました。

だがそうではない純粋のアジア、アフリカ系の教皇の出現も間近いと考えられます。あるいは今回のコンクラーベで実現するかもしれません。

その場合、アジアのフランシスコとも呼ばれるフィリピンのルイス・アントニオ・タグレ枢機卿などが、もっとも可能性があるように見えます。

そうはいうものの、しかし、下馬評の高かった候補が選ばれにくいのが、コンクラーベの特徴でもあります。5月7日が待ち遠しくてなりません。

 

 

 

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死して後もなお民衆とともに生きようとした教皇フランシスコ

2025年4月26日、第266代ローマ教皇フランシスコの葬儀が執り行われました。

キリスト教徒ではない筆者は、教皇の就任式や葬儀、また彼らの普段の在り方等々に接する場合、ほぼ常に天皇と比較して見、考える癖があります。

今回も同じでしたが、偉大な人物だったフランシスコ教皇の前には、彼に勝るとも劣らない先達がいたことを、先ず書いておくことにしました。

教皇と天皇にまつわる感懐については近いうちにまた書ければと思います。

「(移民を拒む)壁を作るな。橋を架けなさい」とトランプ大統領を諭したフランシスコ教皇の葬儀は適度に荘厳なものでした。

適度に荘厳とは、例えば2005年に行われた第264代教皇ヨハネパウロ2世や、3年前に死去したエリザベス英国女王の絢爛豪華な葬儀などに比べれば質素、という意味です。

儀式全体の慎ましさはフランシスコ教皇の遺志によるものでした。筆者はそこに、いかにも清貧を重んじたフランシスコ教皇の弔いの核心を見て心を打たれました。

葬礼はバチカンの伝統に則って執り行われました。従って威風堂々たるものでした。だが参加者の顔ぶれや人数や式次第などは、前述の2人の葬儀に比較すると見劣りがしたのです。

それはフランシス教皇自身が、華美を徹底的に排した式次第を生前に言い渡し、信徒に向けては「私の葬儀に出席するのは止めてその分の費用を貧しい人に与えてください」と遺言していたことなどが影響したと考えられます。

また棺が従来よりも簡素なものになり、葬儀のあり方自体も徹底して絢爛が払拭されました。埋葬そのものでさえ平易化 されました。

埋葬場所がサンピエトロ寺院からより庶民的なサンタマリアマッジョーレ大聖堂に変更され、埋葬自体も教皇の家族のみで行われました。墓には簡潔にFrancescus(フランシスコ)とのみ刻まれました。

それらが全てフランシスコ教皇の遺言によって実行されたものだったのです。

フランシスコ教皇は弱者に寄り添う「貧者の教会」の主として、疎外され虐げられた人々を助け、同性愛者や破綻した信徒夫婦の苦悩を受け留め、勇気を持って普遍的な愛に生きよ、と人々を鼓舞し続けました。

さらに2019年には来日して、「核兵器の保有は倫理に反する」と呼びかけ核抑止論を真っ向から否定しました。

同時に平和を強く希求し、シリア内戦からウクライナ戦争、ガザ紛争などへと広がる終わりのない世界紛争の終結を目指して活動を続けました。

彼はバチカンの改革も積極的に推進。キューバとアメリカの関係改善にも尽力しました。のみならずバチカン自身と中国との和解劇も演出しました。

清貧の象徴であるイタリア・アッシジの聖人フランチェスコの名を史上初めて自らの教皇名とした彼は、「貧しい人々と弱者に寄り添え」と言い続けました。

ただ主張するだけではなく、教皇は実際に清廉のうちに生きて自らを律しました。その名の通り飾らない性格と質素な生活ぶりで、信徒は言うまでもなく異教徒にさえ愛され、尊敬されたのです。

フランシスコ教皇は、宗教的また政治的にも大きな存在でした。だがそれよりも彼は、人間として偉大な人物でした。

ローマ教皇という巨大な肩書きではなく、人格によって人々を平伏させたのがフランシスコ教皇だったのです。

フランシスコ教皇は自らの葬儀さえ質素に行うよう指示しました。死して後も虚飾を否定して、真に民衆と共に歩む姿勢を明確に示したのです。

フランシスコ教皇の人生哲学は独自のものでしたが、同時に先達もいました。

彼の生き様は、歴代の教皇のうち、善良な魂を持つ少なくない数の教皇らの足跡をたどったものでもあたのです。

例えば教皇を含む司祭が持つ素朴な羊飼いの杖は、時間経過と共に変遷進化して十字架の形をした笏杖(しゃくじょう)になり、十字に3本の横棒が付いたものは教皇だけが使用できる特別な用具になりました。

第262代教皇パオロ6世は、それを教皇の権威の象徴であり思い上がりだと非難して、3本の横棒の付いた笏杖を廃止し、代わりに十字架のキリスト像を導入しました。

十字架の笏杖は、着座33日で死去したヨハネ・パウロ1世を経て、パウロ6世を事実上引き継いだヨハネ・パウロ2世によって最大限に活用されました。

ヨハネパウロ2世は26年余に渡って教皇の座に居ました。彼は多くの功績を残しましたが、最も重要な仕事は故国ポーランドの民主化運動を支持し、鼓舞して影響力を行使。ついにはベルリンの壁の崩壊までもたらしたことです。

さらに彼は敵対してきたユダヤ教徒と和解し、イスラム教徒に対話を呼びかけ、アジア・アフリカなどに足を運んでは貧困にあえぐ人々を支えました。同時に自らの出身地の東欧の人々に「勇気を持て」と諭して、いま触れたようにベルリンの壁を倒潰させたと言われています。

ヨハネ・パウロ2世は単なるキリスト教徒の枠を超えて、宗教のみならず、政治的にもまた道徳的にも人道的にも巨大な足跡を残した人物でした。

ヨハネパウロ2世が好んで用いたのが十字架上のキリストをあしらった笏杖です。彼は笏杖を捧げ持ち頭を垂れて沈思黙考し、あるいは憂苦に満ちた面持ちで神に祈る構えの写真を多く撮られています。

要するに「笏杖を手に祈る」彼の姿は「絵になった」のです。優れた宣伝素材でした。

それは彼自身とバチカンが二人三脚で仕組んだ広報戦略であり、同時にメディアが仕組んだ構図だとも考えられます。

人の気をぐいと惹きつけるヨハネパウロ2世の孤影は、彼の功績とぴたりとマッチするものでした。彼は民衆に寄り添うと同時に権威も兼ね備えた完璧な存在だったのです。

人々は彼がひんぱんに捧げ持つ笏杖は、宗教的存在としての彼の手引きであり、人間存在としての彼の誠心の象徴だと捉えました。

今般亡くなったフランシスコ教皇は、ヨハネパウロ2世によって枢機卿に叙任されまた。そのことからも分かるように彼は終生ヨハネパウロ2世を崇敬しその足跡をたどることを厭いませんでした。

同時に彼独自のスタイルも編み出し堅持しました。

ひと言で表せばそれが清貧です。彼は徹底して貧者と弱者に寄り添う道を行きました。彼にとってはヨハネパウロ2世の笏杖でさえ奢侈に見えました。だからめったにそれを手にしなかったのだと筆者は推察します。

フランシスコ教皇は自らをよく「弟子」と形容することがありました。それは言うまでもなくイエス・キリストの弟子であり、民衆に仕える謙虚な僧侶また修道士という意味の弟子であると考えられます。

同時にそこには、自らをヨハネパウロ2世の弟子と規定する意味もあったのではないか、とも筆者考えています。

冒頭で述べたようにフランシスコ教皇の葬儀は、彼の死生観と生前に発意した質素な内容の式次第に沿って進行し、見ていて清々しいものでした。

そこには眼を見張るほどの荘重さはありませんでしたが、故人の生き様を表象する清廉さに満ちていました。

フランシスコ教皇は質朴に生き、弱者に寄り添い、強者に立ち向かう一点において、ついに彼の師であり憧憬でもあったヨハネパオロ2世を超えてはるかな高みに至り、輝いていると思います。

 

 

 

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トランプ主義がドイツと日本を核武装へと追い込む日

欧州は安全保障を巡って風雲急を告げる状況になっています。

トランプ大統領が、軍事同盟であるNATOへの貢献責務を放棄する可能性をほのめかしているからです。

特に核を持たない国々は、ロシアを見据えて不安のどん底にあります。

トランプ大統領は、ウクライナのゼレンスキー大統領とテレビカメラの前で前代未聞の口論を展開するなど、相も変らぬ恫喝外交を続けています。

その一方では貿易相手国に関税をかけまくると叫び、欧州から、厳密に言えばドイツから米軍を引き上げる、NATO内での核シェアリングをやめる、などとも示唆しています。

その中でも、特に核シェアリング否定発言に関して敏感に反応したのが、ドイツの次期首相と目されるフリードリヒ・メルツ氏です。

彼はドイツと欧州が、アメリカから独立した安全保障体制を構築すると同時に、NATO内の核大国である英国またフランスと核シェアリングをするべき、という旨の発言をしました。

だがその本音は、ドイツ独自の核開発であり核兵器保有だろうと思います。

ドイツでは核兵器の開発保有は、それを話題にすることさえタブーであり続けてきました。日本とよく似た状況だったのです。

だがトランプ独断専行大統領の脅しに驚愕したメルツ氏は、やすやすとそのタブーを破りました。

アメリカ第一主義をかざして、欧州との長い友好関係さえ無視するトランプ大統領に、オーマイゴッドいざ鎌倉よと慌てた欧州首脳は、メルツ氏に限らず誰もが怒りと不安を募らせています。

彼らはトランプ&ゼンレンスキー両大統領が口論した直後、ロンドンに集まって緊急会合を開き、前者が切り捨てようと目論む後者をさらに強く抱擁、ウクライナへの支持を改めて確認し合いました。

友好関係を金儲け論のみで捉えるトランプ主義は、権威主義者のロシア・プーチン大統領を賛美するばかりではなく、欧米ほかの民主主義友好国を大きく貶めています。

日本も見下される国の一つです。

今のところは欧州やカナダまたメキシコなどの国々ほどなめられてはいませんが、「アメリカの同盟国」である日本を見るトランプ大統領の心情は容易に推察できます。

日本は欧州と同じく安全保障をアメリカに頼り過ぎて来ました。いま日本が置かれている状況は、それぞれに「友人国同士が多い欧州内の国々」とは違います。

日本は孤立しています。その意味ではむしろウクライナに近い。ウクライナにおけるロシアの代わりに、例えば中国が日本に侵攻しないとは誰にも断言できません。

日本は中国ともまたロシアとも友好的な関係を保ちつつ、アメリカに頼らない独自の安全保障も模索するべきです。そこには核戦略が含まれても驚くべきではありません。

人類の理想は核の無い世界であり戦争ゼロの世の中です。先の大戦で地獄を見ると同時に唯一の被爆国ともなった日本は、飽くまでも理想を目指すべきです。

だが同時に国際政治にも目を配らなければなりません。政治とは現実です。そこには軍備は言うまでもなく核戦略まで含まれます。

それらをタブー視しているばかりでは物事は解決しません。その善悪と、是非と、実現可能性の有無、またそれへの全面否定も含めて、日本は国民的議論を開始するべきです。

メルツ・ドイツ次期首相の英仏との核シェアリング、ひいてはドイツ独自の核保有まで暗示した発言は、不本意ながら日本にも当て嵌まる、と見るのがつまり政治の厳しさです。

 

 

 

 

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あるいはトランプとAfDの真実

ウクライナのゼレンスキー大統領と米トランプ大統領が、テレビカメラの前でおどろきの醜態を演じました。

世も末に見える大口論を見ながら、筆者はトランプ政権が賛美するドイツのAfDを想いました。

先日のドイツ総選挙で躍進した極右のAfDは、しれっとして黒を白と言いくるめるトランプ軍団に似た不吉な気配を帯びています。

ヒトラーはヒトラーを知らなかったが、ドイツのAfDはヒトラーをよく知っています。

だから彼らは野党でいる限りは、けたたましくも醜怪なだけの政治集団に留まるでしょう。

しかし彼らが単独で政権を握るような事態になれば、トランプ“笑えないお笑い”大統領が、「独裁者はプーチンではなくゼレンスキーだ!」」とコペルニクス的大発明をわしづかみにして、世界に投げつけたような事件が起きないとも限りません。

それは例えば、彼らが「ヒトラーは独裁者でも悪魔でもない。独裁者の悪魔はユダヤ人だったイエス・キリストだ!」と神がかり的な発見を発明して興奮し、全ての教会とユダヤ人を殲滅しようと企てるような顛末です。

トランプ大統領の言動の多くとAfDの躍進には、それくらいの潜在的な危険があります。

筆者はドイツ国民とアメリカの半数の国民の正気を信じます。

だが、ドイツには前科があり、アメリカ国民の半数は-徐々に明らかになったように-陰謀論やデマに踊らされやすい愚民である事実が、多少気がかりでないこともありません。

 

 

 

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AfDの恐怖はありきたりになって、故にさらに危険が増した

ドイツ総選挙の結果は驚きのないものでした。極右のAfDが躍進して、第1党の「キリスト教民主・社会同盟(CDU・CSU)」に次ぐ2位につけました

だがそれは早くから予想されていた展開で、目新いものではありません。

ならばAfDの危険はなくなったかと言えば、もとより全く逆で、2021年の前回選挙に比べて支持を倍増させた極右党の勢力が今後も続伸すれば、やがて世界をも激変させかねない事態です。

だが第1党になったキリスト教民主・社会同盟は、「ファイアウォール(防火壁)」を盾にAfDとの連携を拒否しています。従ってAfDが近い将来に政権入りする可能性は低い。

ドイツの「ファイアウォール(防火壁)」はナチスへの嫌悪と反省から生まれました。極右政治がタブー視され、政党間でAfDを政権から排除する合意が形成されたものです。

だが仮にAfDが政権の一角を担うことになっても、彼らは生の主張をそのまま前面に押し出すことはないと筆者は考えます。

それはここイタリアの極右「イタリアの同胞」とそれを率いるメローニ首相が、極右からより穏健な急進的右派へと舵を切って進んだ例を見れば分かります。

ここイタリアでは政治土壌の主要因子である多様性がそれを成し遂げますが、ドイツにおいては国内のリベラル勢力とEUの中心勢力が、極右モメンタムを厳しく抑制すると思います。

また客観的に見て、AfD自体も過去のナチ党 (国民社会主義ドイツ労働者党)とヒトラーの轍を踏むとは考えにくい。

ヒトラーはヒトラーを知らなかったが、AfDとその支持者たちは巨大な負の遺産であるヒトラーを知悉しています。その現実が彼らのナチス化を厳しく制すると思うのです。

そうではありますが、しかし、トランプ主義がトランプ氏以後、ヴァンス副大統領を始めとする“トランプの金魚の糞”勢力によって席巻され続ける場合は、状況が全く違うことになるdしょう。

欧州ではAfDとそれに付き従うと見られる極右政党がさらに力を付けて、社会情勢がかつての日独伊三国同盟時代のような暗黒に向かいかねません。

人々の怒りをあおり、憎しみの火に油を注ぎ、不寛容の熾き火を焚きつけるのが得意な彼ら極右過激派の悪意は、易々と世の中を席巻します。歴史がそれを証明しています。

従って彼らは拡大する前に抑え込まれたほうがいい。放っておくとかつてのナチスのごとく一気に肥大して、制御不能な暴力に発展しかねません。

とはいうものの、繰り返し強調しておきたい。欧州の今この時の極右勢力はヒトラーのナチズムやムッソリーニのファシズムと同じではありません。

悪魔の危険を知り、悪魔ではないように慎重に行動しようとする悪魔が、現今の欧州の極右なのです。

しかしそれでも、いやそうだからこそ、極右モメンタムは抑さえ込まれたほうがいい。激流となって制御不能になる前に、その芽が摘み取られるべきです。

なぜなら狡猾な悪魔も、悪魔には違いないからです。

 

 

 

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トランプのマブダチAfDの恐怖

2月23日に行われるドイツ総選挙を、極右政権下にあるイタリアからじっと見ています。ドイツの極右AfDがどこまで勢力を伸ばすかが最も気になるところです。

AfDは各種世論調査で、キリスト教民主・社会同盟の30%に次ぐ20%の支持率を維持しているとされます。

ドイツの支持率統計は正確だと証明されていますが、アメリカの隠れトランプ支持者と同じように、隠れ極右支持者がいる可能性もあります。驚きの結果が出ないとも限りません。

AfDはトランプ政権、またプーチン大統領らと同じ穴のムジナです。その周りにはトランプの吼えるポチ、マスク氏がいて、彼はAfDはドイツの救世主だと叫んでいます。

彼らに親近感を抱きつつ遠くない場所から眺めているのが、ここイタリアのメローニ首相です。彼女はトランプ大統領とマスク氏の友人です。友情の大本にはむろん政治イデオロギーがあります。

メローニ首相は極右と呼ばれ、極端なケースではネオファシストと規定されることさえあります。

だが彼女は政権樹立後は中道寄りにシフトし、穏健な極右あるいは急進的右派とでも形容できる政治姿勢を保っています。

EU(欧州連合)とも良好な関係を築き、それどころか時にはEUの中心的な役割さえ演じて、筆者が規定する「欧州の良心」を体現する姿態さえ見せます。

彼女がそうなったのは、イタリア共和国の真髄にある多様性がもたらす必然です。

イタリアの政治風土には、多様性が乱舞する故の極論や過激思想が生まれやすい。が、それらの極論や過激思想は、同じく多様性故により穏健へと向かうことを余儀なくされます。

メローニ首相と彼女が率いる極右政党「イタリアの同胞」は、トランプ主義と親和的ですが、同時にそれと対立しがちな欧州の良心と民主主義を守ろうとする力でもあります。

ドイツのAfDも、政権の一角を担うことがあれば、イタリアの同胞と同じ道を辿る、と筆者は考えてきました。

もっともそれは、イタリアの国民性とは違い、キレると歯止めが効かなくなるドイツの民意の存在の可能性、という不安を脇に置いての話ですが。

世界政治の舞台では、イタリアは日本と同じく取るに足らない存在です。一方ドイツは大きな影響力を持ちます。従ってAfDの躍進は大きな脅威です。

それでも同政党が単独で政権を握らない限り、ドイツのリベラル勢力と欧州全体のそれが抑止力となって、AfDの暴走はきっちりと止められると筆者は考えてきました。

しかし、第2次トランプ政権の誕生でその見通しには霞がかかり始めました。

ロシアとさえ手を結ぶトランプ主義が、今後も勢いを増して世界を席巻すれば、それに引きずられて欧州の極右も本性を露わにする可能性が高まります。

その際に、イタリアのメローニ首相がトランプ主義に引きずられるか、あるいは欧州の良心を守る砦の一角に留まり続けるかは、世界が真にどこに向かうかを占う手がかりになるかもしれません。

言うまでもなくなく将来、AfDが単独で政権を握るような事態になれば、そしてトランプ主義が今と同じく猛威を振るっていれば、イタリアの政治状況などほとんど何の意味を持たなくなるでしょうが。。

 

 

 

 

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見えてきたトランプの野望らしきもの

関税に固執するトランプ大統領の頭の中にあるのは経済のことであり、経済を強くすることで彼の支持者を満足させ、アメリカを偉大に、つまりMAGAを達成することである。

それがトランプ政権の使命であり彼の支持者が熱望することだ、というのは一面の真実に過ぎません。

経済力が強くなるとは、要するに軍事力が拡大することでもあります。トランプ大統領のひそかな野望は、経済を強くし軍事力を高めて世界を支配することかもしれません。

それというのも彼は、政権発足と同時にかねてからの主張だったグリーンランドを占領し、パナマ運河を収奪し、カナダをアメリカに併合すると平然と述べ、そこに向けて動いています。

そればかりではない。アメリカファースト、つまりアメリカの孤立主義を捨ててガザを軍事支配し、住民を排除してリゾート地に作り変えるとまでうそぶいています。

それらの主張は帝国主義への先祖がえり以外の何ものでもありません。どうやら彼は専制政治を導入して世界を支配したいようです。

もしそうならば、一党支配の元で覇権主義に走っている中国の習近平主席や、ソビエト再興の野望を抱いてウクライナを席巻し、さらに支配域を広げることを夢見るロシアのプーチン大統領と何も変わりません。

それどころかトランプ主義の専横は、民主主義を騙(かた)る分だけ質(たち)が悪いとさえ言えます。

トランプ主義の岩盤支持者らは、トランプ氏が選挙キャンペーン中に強調した「戦争をしない」、「ウクライナとガザの戦争を止める」、「誰も死なせない」などのキャンペーンにも熱狂しました。

アメリカはかつて世界の警察と呼ばれ、民主主義を守るという大義名分を掲げて多くの国に介入しひんぱんに戦争を仕掛けてきました。

トランプ支持者の国民はそのことにウンザリしている。だから彼らは戦争をしないと明言したトランプ氏を支持しました。彼らはトランプ氏を平和主義者とさえ見なしました。

だが果たしてそうでしょうか?トランプ大統領は、先に触れたように、グリーンランド獲得とパナマ運河収奪に軍事力を使うことも辞さないとほのめかしています。

ガザの場合には米軍を投入しそこを占領して、瓦礫を片付けリゾート地を造るとさえ明確に述べました。それらは容易に戦争を呼び込む施策です。

トランプ大統領は民主主義を守る戦争はしないが、侵略し、収奪し、支配する戦争は辞さない、と公言しているようなものです。

仕上げには彼は、ロシアに蹂躙されるウクライナを「加害者」と断じました。向かうところ敵なしの狂気であり凶器です。

トランプ大統領の本性は僭王であり侵略者のようです。危険極まりないと思います。

 

 

 

 




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トランプ主義の怖さの真髄

トランプ大統領は関税を武器にカナダとメキシコを平伏させ、 返す刀でガザの住民を追い出してリゾートに造り返る、というぶっ飛んだ案を発表しました。

それはまさしくヒトデナシにしか思いつけないグロテスクな考えです。なぜならそこには、イスラエルに痛めつけられた人々への憐憫の情がひとかけらもないからです。

まさに金のためなら何でもする“不動産開発業者“の発想でしかありません。アメリカ合衆国大統領の戦略的思考とはとても言えません。

人間を人間と見なせない者は人間ではない。

それがトランプ大統領の「ガザの住民を全て排除して“中東のリビエラ”にする」という発言を聞いたときの筆者の率直な思いでした。

潰滅したガザを、故郷を、追い出されるパレスチナ人は、なんと哀れで何とも屈辱的な存在ではないでしょうか。

ところが行き場を失くしたパレスチナ人の中には、悲しいことにトランプ大統領の提案を受け入れる者も出るだろうと見られています。

ガザの疲弊はそれほどに深く徹底したもので、回復不能とさえ考えられているからです。

ガザを壊滅させたのは、トランプ大統領の発言をニヤニヤ笑いながら隣で聞いていたネタニヤフ首相です。

彼はまるで米大統領の発言を引き出すために、ガザの破壊と殺戮を実行したようにさえ映りました。

ネタニヤフ首相と、パレスチナの消滅を熱望するイスラエル内外のウルトラ極右シオニストらの罪は深い。

住民を追い出してガザをリゾート地に作り変えようという案は、政権内の高官らが集い意見を出し合ってじっくりと練ったものではなく、トランプ大統領独自のものらしい。

いかにも“不動産開発業者”トランプ氏が思いつきそうなアイデアですが、恐らくその前に、娘婿のジャレッド・クシュナー氏の入れ知恵があったのではないか、とも言われています。

ユダヤ人のクシュナー氏は、パレスチナを地上から消すと考える同胞と同じ立場で、ガザを開発して金を儲けると同時に、そこの住民をイスラエルのために排除したいと願っているとされます。

自らの家族と金儲けのためにはひとつの民族を浄化することさえ辞さない、という考えはすさまじい。トランプ一族の面目躍如というところではないでしょうか。

皮肉なことにトランプ氏のアイデアは、その非人間的な側面を敢えて脇において観察すれば、ある意味天才的とも呼べるものです。邪悪でユニークな思いつきなのです。

徹底的に破壊されて瓦礫の山と化し、もはや人が住めない状況にまでなっているガザ地区を、米軍を中心とするアメリカの力で整理して立て直す。

それは他国の内政には首を突っ込まない、というトランプ大統領の「アメリカ第一主義」に反する動きになるでしょう。

だがガザ地区をアメリカが一旦支配して元通りに整備する、というのがガザ住民のためのアクションなら、人道的見地からもすばらしい案です。

しかし残念ながら、彼が考えているのは住民を完全無視した金儲け案です。むごたらしいまでの我欲です。

繰り返しになりますが、とても人間とは思えない惑乱ぶりです。

トランプ主義は、行き着けば自由主義社会全体の総スカンを食らう可能性があります。

そうなった場合、欧州とアラブ・アフリカ、またトランプ追従に見切りをつける見識があれば日本も、たとえば中国と手を組む可能性があり得ます。

独裁国家、権威主義政権として欧米と日本ほかの民主主義世界に忌諱されている中国ですが、トランプ主義の挙句の果ては、つまるところ中露北朝鮮にも似た恐怖政体です。

ならば“トランプ小帝王“に苛められ脅迫され続けるよりも、中国のほうが御しやすい、と自由主義社会が判断することがないとは誰にも言えない、と思うのです。

 

 

 


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