北斎・広重に見る近代的自我あるいはその欠如

昨年、イタリア・ミラノで大きな北斎展が開かれました。ほぼ同じ催し物が間もなく、世界最古の大学がある学生の街ボローニャでも始まります。筆者はミラノに続いてボローニャの展覧会も観に行こうと待ち構えています。

ミラノでは1999年に大規模な北斎展が行われて以来、かなり頻繁に江戸浮世絵版画展が開かれています。そこでは浮世絵への理解と関心が高いのですが、ミラノの感興はイタリア全土のそれになりつつあります。

展覧会では葛飾北斎のほかに歌川(安藤)広重と喜多川歌麿の作品も展示されます。合計の展示数は200余り。3巨匠の作品がそれだけの規模で一堂に会する展覧会を見るのは、筆者にとって昨年のミラノが初めての体験でした。

展示作品は全て素晴らしいものでしたが、筆者はそこでは特に、北斎の風景画3シリーズ「富嶽三十六景」「諸国滝廻り」「諸国名橋奇覧」と、広重の「東海道五十三次」が並ぶように展示されているのをひどく面白く思いました。

北斎と広重をほぼ同時並行に鑑賞しながらあらためて感じたことがあります。それは広重をはるかに凌駕する北斎の力量です。北斎はドライで造形的、広重は叙情的で湿っぽい、とよく言われますが、北斎は精密とダイナミズムで広重に勝り、人物造形でも広重より現代的だと感じました。

作品群の圧倒的な美しさに酔いしれながら、人の顔の描写にも強く気を引かれました。北斎は遠くに見える小さな人物の顔の造作も丁寧に描いていますが、広重はほとんどそこには興味を抱いていません。そのために描き方も雑で、まるで子供が描く「へのへのもへじ」と同じレベルにさえ見えます。

多くの絵で確認できますが、特に人物が多数描かれているケースでそれは顕著です。例えば「嶋田・大井川」の川越人足の顔は、ほとんど全員が同じ造作で描かれています。子供の落書きじみた文字遊戯の顔のほうが、まだ個性的に見えるほどの、淡白な描き方なのです。

東海道五十三次は全て遠景、つまり”ヒキあるいはロング”の絵です。大写し又はクローズアップの絵は一枚もありません。そこでは人物は常に景観の一部として描かれます。これは当たり前のようですが、実は少しも当たり前ではありません。そこには日本的精神風土の真髄が塗り込まれています。

つまり、人間は大いなる自然の一部に過ぎない、という日本人にとってはごく当たり前のコンセプトが、当たり前に提示されているのです。そこでは、個性や自我というものは、自然の中に溶け込んで形がなくなる。あるいは形がなくなると考えられるほどに自然と一体になります。

その流れで個性や自我の発現機能であるヒトの表情は無意味になり、その結果が広重の人物の表情の「どうでもよい」感満載の表現だと思います。のっぺらぼうより少しましなだけの、「へのへのもへじ」程度の顔の造作を「とりあえず」描き付けたのが、広重の遠景の人物の表情なのです。

それらの顔の造作は「東海道五十三次画」全体の精密と緊張、考究され尽くされた構図、躍動感を捉えて描き付けた動きやタッチ、等々に比べると呆気ないほどに粗略で拙いものです。作品の隅々にまで用いられた精緻な技法は、人物の表情には適応されていないのです。

厳密な意味では北斎の表情の描き方も広重と大差はありません。が、北斎は恐らく画家としての高い力量からくる自恃と精密へのこだわりから、これを無視しないで表情を描き加えています。だがそれとて自我の反映としての表情、つまり感情の露出した顔としてではなく、単なる描画テクニック上の必要性から描き加えたもの、というふうに筆者には見えます。

従って、広重よりはましとはいうものの、北斎もやはり人物の顔の描写をそれほど重視してはいません。たとえば彼の漫画などの人物の表情の豊かさに比べると、たとえ遠景の人物の表情とはいえ、どう見ても驚くほどにシンプルです。表情の描写には、彼の作者としての熱意や思い入れ、といった精神性がほとんど見られないのです。筆者はそこに近代精神の要である“自我”の欠落のようなものを発見して、一人でちょっと面白がりました。

“私”という個人の自我意識によって世界を見、判断して、人生を切り開いていく、という現代人の我々にとって当然過ぎるほど当然の価値観は、西洋近代哲学の巨人デカルトが“我思う、故に我あり”というシンプルな命題に託して、それまでの支配観念であった「スコラ哲学」の縛りを破壊した“近代的自我”の確立によって初めて可能になりました。

スコラ哲学支配下の西洋社会では、「個人」と「個人の所属する集団と宗教」は『不可分のもの』であり、そこから独立した個人の存在はあり得ませんでした。デカルトが発見した“近代的自我”がそのくび木を外し、コペルニクス的転回ともいえる価値観の変化をもたらしたのです。自我の確立によって、西洋は中世的価値観から抜け出し、近代に足を踏み入れたのでした。

日本は明治維新以降の西洋文明習得に伴って、遅ればせながら「自我の意識」も学習し、封建社会の精神風土とムラ社会メンタリティーに執拗に悩まされながらも、どうにか西洋と同じ近代化の道を進んできました。欧米を手本にして進み始めて以降の精神世界の変化は、政治・経済はもとより国民の生活スタイルや行動様式など、あらゆる局面で日本と日本人を強く規定しています。

しかし、西洋が自らの身を削り、苦悶し、過去の亡霊や因習と戦い続けてようやく獲得した“近代的自我”と、それを易々と模倣した日本的自我の間には越えられない壁があります。模倣は所詮模倣に過ぎないのです。それは自我と密接に結びついている、「個人主義」という語にまつわる次の一点を考察するだけでも十分に証明ができるように思います。

「個人主義」という言葉は日本では利己主義とほぼ同じ意味であり、それをポジティブな文脈の中で使う場合には、たとえば『いい意味での個人主義』のように枕詞を添えて説明しなければなりません。その事実ひとつを見ても、日本的自我はデカルトの発見した西洋近代の自我とそっくり同じものではないことが分かります。デカルトの自我が確立した世界では、「個人主義」は徹頭徹尾ポジティブな概念です。「いい意味での~」などと枕詞を付ける必要はないのです。

自我の確立を遅らせている、あるいは自我を別物に作り変えている日本的な大きな要素の一つが、多様性の欠落です。「単一民族」という極く最近認識された歴史の虚妄に支配されている日本的メンタリティーの中では、他者と違う考えや行動様式を取ることは、21世紀の現在でさえ依然として難しく、人々は右へ倣えの行動様式を取ることが多くなります。

それは集団での活動をし易くし、集団での活動がし易い故に人々は常にそうした動きを好み、結果、画一的な社会がより先鋭化してさらなる画一化が進みます。そこでは「赤信号も皆で渡れば怖くなく」なり「ヘイトスピーチや行動もつるんで拡大」しやすくなります。その上に多様性が欠落している分それらの流れに待ったをかける力が弱く、社会の排外志向と不寛容性がさらに拡大するという悪循環になります。

多様性の欠落は「集団の力」を醸成しますが、力を得たその集団の暴走も誘発し、且つ、前述したように、まさに多様性の貧困故にそれを抑える反対勢力が発生し難く、暴走が暴走を呼ぶ事態に陥って一気に破滅にまで進みます。その典型例が太平洋戦争に突き進んだ日本の過去の姿です。

江戸時代の北斎や広重にはもちろん近代的な自我の確立はありませんでした。しかし、彼らは優れた芸術家でした。芸術家としての誇りや矜持や哲学や思想があったはずです。つまり芸術家の「独創を生み出す個性」です。それは近代的自我に酷似した個人の自由意識であり、冒険心であり、独立心であり、批判精神です。

しかし、社会通念から乖離した個性、あるいは“近代的自我”に似た自由な精神を謳歌していた彼らでさえ、自らの作品の人物に「個性」を付与する顔の造作には無頓着でした。筆者は日本を代表する2人の芸術家が提示した美の中に、“近代的自我”を夢見たことさえないかつての日本の天真爛漫の片鱗を垣間見て、くり返しため息をついたり面白がったりしたのでした。

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サルデーニャ島「4人のムーア人旗」の由来~島民の誇りと屈折

島旗=州旗=国旗

イタリア・サルデーニャ島には4人の黒人の横顔をあしらった独特の島旗があります。イタリア語で「Quattro mori(4人のムーア人)」と呼ばれるその旗を、島人は州旗と称し「国旗」とも表現します。

日本の四国よりも少し大きなサルデーニャ島は、付随する離島と共にイタリアの20州のうちの一つの州を形成しています。従って旗が州旗と呼ばれても何ら問題はありません。むしろそれが正しい呼称でしょう。

だがそれを「国旗」と呼ぶと、意図するコンセプトに深刻か否かの違いはあるかもしれませんが、発言した者は明確な動機に基づいてそれを口にしています。

つまりサルデーニャ島民が発言する場合はそれは、イタリア共和国からのサルデ-ニャ島の「独立」を意味する文脈で語られているのです。

島民の独立志向は島の苦難の歴史の中から自然発生的に出てきたもので、一時期は大きなうねりとなってイタリアを揺るがせたこともあります。が、現在は静まっています。しかしそれはサルデーニャ島民の心が静まったことを意味するものではありません。

島がたどってきた複雑な歴史や、当事者たちの複雑な心境、また島人の不満とイタリア本土人の無関心、など、などという世界では割とありふれた現象が、当事者中の当事者である島人の心を鋭く抉らずにはおかないのは、それが彼らのアイデンティティーの根幹に関わる重大事案だからです。

起源

スペインのアラゴン王国、イタリア半島のピエモンテに本拠を置く「大陸の」サルデーニャ王国、そして最後にサルデーニャ島自身のシンボル旗となった4人のムーア人の旗は、ひとことで言えば、キリスト教徒とイスラム教徒の血みどろの長い厳しい闘争によって生み出されたものです。

具体的に言えば、旗の意匠はスペインのアラゴン王国が1096年、侵略者のムーア人つまりアラブ・イスラム教徒を撃退し4人の将軍の首を落として戦勝を祝った、とする伝説に基づいています。それを示す古い絵柄では4人の顔が目隠しされています。捕らえた敗軍の将に目隠しをして首を切り落とすのは、洋の東西を問わず戦国の世の習いでした。日本の戦国時代でも敵の首を切り落として戦利品としました。

アラゴン王国軍は、アルコラスの乱と呼ばれるその大きな戦を、聖ゲオルギウス(英:聖ジョージ)の手助けで勝利した、と言い伝えられています。4人のムーア人の顔と共に聖ゲオルギウスの象徴である白地に赤い十字が旗に描かれているのはそれが理由です。

またムーア人の4つの顔は、アラゴン王国が4つ大きな戦争、即ちサラゴザ、ヴァレンシア、ムルシア、バレアリス諸島での戦いに勝利したことを表す、という説もあります。そこに十字軍のシンボル的な存在でもある前述の聖ゲオルギウスの伝説がからんだ、と主張するものです。

しかし最も多く語られるのは、前述のアラゴン王国がアルコラスの戦いに勝利した際、4人のムーア人将軍の首を切り落として祝ったとするものです。宿敵のイスラム教徒への怨みと怒りがこもったその説の方が信憑性が高い、と筆者も思います。

意匠の変遷

旗のデザインと成り立ちに関しては、伝説と史実が入り乱れた多数の説がほかにも存在します。史実の最も古い証拠としては、1281年に作られたとされる鉛製の封印があります。そこに描かれたムーア人は髭を蓄えていて且つ鉢巻をしていません。

14世紀にサルデーニャ島がアラゴン王国の支配下に入ると、4人のムーア人の絵柄はサルデーニャ島でも、あたかも島独自のもののように使われた始めました。そして1380年頃には4人のムーア人旗はアラゴン王国統治下の島の旗と認定され、サルデーニャ軍は1571年、鉢巻をした4人が右を向いている図柄を記章として採用しました。

以後、ムーア人の図柄は額に鉢巻をしたりしなかったり、頭に王冠が描かれたり、髭を蓄えていたりいなかったり、目隠しをされたり、顔が左に向いたり逆になったり、肌が白く描かれたり等々、様々に変化して伝えられました。アラゴン王国は最終的にオリジナルの絵柄を尊重して、頭に鉢巻を巻いたものが正しい、という触れを出したほどです。

島民の抵抗

1720年、サルデーニャ島はシチリア島との交換でアラゴン王国からサヴォイア公国に譲り渡されました。以後サヴォイア公国は、国名を「サルデーニャ王国」と改名して島を支配しますが、王国の本拠はフランスの一部とイタリア本土のピエモンテが合体した「大陸」でした。王国の首都もそれまでと変わらずピエモンテのトリノに置かれました。そして1800年、4人のムーア人の鉢巻が目隠し姿に変わった図柄の旗が出回るようになります。

これはイタリア本土を本拠地にしていたサヴォイア家が、サルデーニャ島を獲得したことをきっかけに前述のように自らの公国をサルデーニャ王国と称し、支配地の島に圧政を行ったことに対する島民の抵抗の現れだとされています。目隠しの絵は、鉢巻姿だった古い旗の図柄をわざと間違えて伝え残したもの、とも言われています。

さらに旗の原型はアラゴン王国にあるとはいえ、4人のムーア人旗はアラゴン統治以前のサルデーニャ島の歴史を物語るとされる説もあります。その当時サルデーニャ島には ガルーラ、ログドーロ(トーレス)、アルボレア、カリアリという4つの小さな独立国があり、それぞれがイスラム教徒の侵略から頑張って島を守ったとされます。4人のムーア人はその4国を表すというのです。

しかしその主張は、島人たちの希望的憶測あるいは願望に過ぎないと筆者は思います。彼らには侵略者のイスラム教徒を撃破する軍事力はありませんでした。8世紀からイベリア半島を蹂躙し支配したイスラム教徒は、破竹の勢いで地中海の島々も配下に収めていきました。サルデーニャ島の住民は、他の被征服地の住民同様に、 欧州のキリスト教勢力がイスラム教徒を撃破するまで身を縮めるようにして生き延びた、というのが歴史の真相です。

サヴォイア家支配下の1800年頃から島に多く出回るようになった4人のムーア人の目隠しの図柄は、その後も広がり続け、サヴィオア家の支配が終わり、やがて2つの大戦を経て、イタリアが近代化し成熟社会を迎えた20世紀終盤まで続くことになります。

第2次大戦後の1950年、目隠し姿の4人のムーア人旗は、サルデーニャ州(島)の正式フラッグとして認定されました。そこでは4人の顔は目隠しをしたままでした。そして1999年、4人の顔は目隠しではなく額に鉢巻をし且つ旗竿を左に右向きの横顔であること、とこれまた正式に改訂されました。

屈折

何世紀にも渡って物議をかもし続けたムーア人旗の絵柄やコンセプトの変遷を見るにつけ、筆者は大きな感慨を覚えずにはいられません。すなわち、サルデーニャ島民がかつての支配者のエンブレムを自らのそれと認識し、且つ絵柄の中心である4人のムーア人を、あたかも自らの肖像でもあるかのように見做している点が気持ちに引っかかるのです。

そこには2重の心理のごまかしがあります。一つはアラゴン家及びサヴォイア家の紋章を引き継ぐことで、自らも支配者になったような気分を味わっていること。また戦いに負けて首を落とされて以降は、いわば「被害者」である4人のムーア人にも自らを重ね合わせて英雄視している点です。

彼らは支配者であると同時に支配される者、つまり被抑圧者でもあると主張しているようにも見えます。もしもその見方が正しいならば筆者は、前者にサルデーニャ島民の事大主義を、また後者に同じ島民の偽善を感じないではいられません。筆者の目にはそれは、抑圧され続けた民衆が往々にして見せる悲しい性であり、宿命でさえあり、歴史が悪意と共に用意する過酷な陥穽、というふうに見えなくもないのです。

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