「渋谷でテロ」という悪夢を招かないために

先日の記事で取り上げたテーマ、渋谷が変わったかどうか、若者オンリーの街かどうかなどの議論はさておき、渋谷で今もっとも目立つのは若者ではなく外国人です。渋谷センター街を歩くと欧米系の白人がよく目につきます。しかし日本人と見た目があまり違わないアジア人はきっともっと多いことでしょう。

彼らの多くは観光客ですが、多くはまた日本に滞在している人々であることは疑いありません。国内に留まっているそれらの人々と、新たに入ってくる外国人のうちの希望する者が、日本に定住することを認めるのか認めないのか、彼らを受け入れるのか受け入れないのか、日本人は真剣に考えるべき時期に来ています。受け入れると決めた場合、それは移民と同義語と心得るべきです。

外国人労働者とか移住労働者、あるいは出稼ぎ労働者、技能実習生、一時就労者、季節労働者など、など、と都合の良いように名前を変えてみても、彼らが移民であることの実態は変わりません。外国人労働者は全て移民と考えるほうが理にかなっています。

日本側の利便に基づいて働かせておいて、用済みになったらさっさと帰国してもらう、という考えで外国人労働者を雇う者は、間違いなくレイシストであり排外主義者です。なぜならそれらの人々は、相手が同じ日本人ならばそんな具合に冷たくは扱わないはずですから。

外国人を自らと同じ「普通の」人間である、と「普通に考えられない」者は誰もが皆、レイシストの素質を色濃く持っている、と認識しなければなりません。そしておそらく日本人の8~9割がこの部類に入ると考えられます。

そこには積極的に人種差別的な言動をするような行動パターンは見られませんが、何かにつけ白人種に遠慮したり無意識のうちに尊敬する一方で、アジア人や黒人などを「意識的にあるいは無意識に」見下したり、忌諱したり揶揄したりする一般的な風潮があることは否めません。

世間知らずな精神風土から派生する日本人の言動は、グローバル社会にあっては「知らなかった」で済まされるような甘い事案ではありません。日本人は後進的な閉鎖社会を育むメンタリティーを修正し、多様性を尊重する社会の構築に向けて動き出す必要があります。

外国人の受け入れを厳しく統制し、移民政策は取らないと執拗に言い続けてきた安倍政権は、実習生などの名目での裏口入国の移民を黙認し続けてきました。そして先日「改正出入国管理・難民認定法(改正入管法)」を成立させて、ついに「表玄関」からの外国人受け入れに本格的に踏み切り、事実上の移民政策を発進させました。

改正入管法には「特定技能1号」と「特定技能2号」という、命名自体が既に人間を物として扱うような「差別的な」響きを持つ在留資格が設けられています。1号は家族の同伴が認められず2号はOKという、日本政府に都合の良い規定が明記されています。しかし人間はそんな風に型通りにあるいは機械的にあつかわれるべき存在ではありません。

改正入管法によって入国した人々は、日本で生きていくうちに強い人間関係を構築したり、恋に落ちて結婚し子供を持ったり、職場に必要不可欠な大切な人材になったり、と人として当たり前の生活を展開していくことでしょう。そこで5年の任期がきたから自分の国に帰れ、と強制すれば摩擦が生じるのは必至です。

また家族の同伴が認められる「特定技能2号」は、初めから移民そのものなのですから、「移民政策は取らない」という安倍首相得意の口先ごまかしの姑息な強弁をやめて、全ての国民に移民を認め共生する道筋をたどるよう、促し説得するべきなのです。

突然のようですが 最近 、沖縄で安倍政権の強権的且つ横暴な手法による辺野古移設工事が強行されても、日本には暴力による抵抗、つまり立ち位置が変わればテロと呼ばれかねない騒動は起きないことが明らかになってきました。それは良いことですが、沖縄の屈辱と悲運に目を向けた場合、果たしてそのまま済ませた方が是か非かは定かではありません。

辺野古で起きている日本政府の横暴な行為に対しては、もしもそれが日本以外の国での出来事であるならば、暴力的抵抗が起きていても決して不思議ではありません。周知のように暴力を用いた抵抗運動は、それをされる側にはテロとして規定されますが、歯向かう側から見れば止むにやまれぬアクションであることがほとんどです。

ともあれ辺野古で住民の暴力抵抗が発生していない現実は、日本人が権力には羊のように従順であることを改めて示しているとも言えるわけですが、将来移民が多くなって多文化社会が出現したとき、人々が非民主的且つ強権的な安倍政権の手法を黙って受け入れるかといえば、それはおそらく難しいでしょう。

安倍首相と取り巻きの権力機構は、いつもの伝で「移民政策は取らない」と姑息な口説を用いて真相を隠蔽しつつ改正入管法を成立させました。しかし、あくまでも「外国人労働者」の受け入れに過ぎない、とする在留資格「特定技能1号」と「特定技能2号」は、れっきとした移民肯定法なのです。

移民を受け入れること自体は悪いことではありません。悪いことどころか、日本は今後は移民を受け入れることによってしか生き延びる道がないことは明らかです。問題は、その「大問題」を矮小化して伝える政権のあり方です。そしてさらなる大きな問題は、それを受け入れる日本国民です。

安倍首相はもう見苦しい強弁を止めるべきです。滅びの美学にのっとって国が亡びることを人々が受け入れるなら構いません。だがそれは嘘です。国民は皆生き延びたいはずです。それならば移民を受け入れるしかありません。そうではなく、国と共に滅びたい、というのであれば、それは死にたくない子供を無理やり地獄に引きずり込む、無理心中と同じ奇怪な世界観だと言わなければなりません。

ネット上にはびこっている右翼系の排外主義者らは、自らは何らかの方法で生き延びる画策をしておきながら、移民を受け入れるくらいなら共に滅びよう、という趣旨が密かに込められた欺瞞満載の主張をすることさえ厭いません。しかし彼らにだまされてはなりません

日本は生き延びるべきです。そのためには移民を受け入れるしかありません。ならばより良く、より正直に、より真摯に生きるために彼らを「我ら」と同じように扱うべきです。彼らは日本人と同じように教育を受け、社会福祉の恩恵に浴し、言うまでもなくきちんと税金も払ってもらう存在になるべきなのです。

そのうえで彼ら自身のルーツや文化を尊敬されつつ「日本人化」もまた受け入れてもらうのです。それは矛盾するコンセプトに見えますが、決してそうではありません。なぜなら彼らが日本の文化や伝統を心から尊敬していれば、彼らは自然に「日本人化」もしていくからです。それは欧米諸国の移民を見れば明らかです。

欧州に目を向ければ、主にイスラム過激派による近年のテロや反乱によって、あたかもイスラム系移民の全てが移住先の社会に適応できずにテロに走るような印象があります。だが決してそうではありません。多くの移民は移住先の社会に受け入れられ適応しているのです。

言うまでもなくそこに順応できずに疎外感を深め、過激思想に染まりテロに手を貸し、挙句にはテロの実行犯になってしまう者もいます。それを無くすには移民が“郷に入らば郷に従え”の精神を持つことと、同時に移住先の国民が彼らを受容する精神を育むことが重要なのです。

決してやさしい問題ではないことは欧米の状況が物語っています。しかしその背後には多くの成功例があることも忘れてはなりません。日本には2018年現在、既に128万人もの外国人労働者が働いているとされます。それが正しい数字ならば、不法労働者や不法滞在者を加えた数字はその2倍程度の可能性がある、と考えた方が現実的です。

また日本の学校に在籍中の子供のうち、「日本語指導が必要な児童生徒」は4万4000人にものぼります。短期間で帰国する筈だ、あるいは帰国させる、との勝手な思い込みでそれらの子供たちに十分な教育を施さなければ、将来彼らは疎外され怒れる若者となって、欧州等で既に起こっているように暴力やテロに走る可能性も高くなります。

彼らをそのまま放置すれば、 たとえテロに見舞われなくても 、日本社会は増大する外国人によって破壊されてしまうでしょう。現実を見つめて寛容でいるべきところは躊躇なく寛容に受け入れ、制限するべきところはきちんと制限し禁止し規定して、一日も早く「本音の」移民政策を掲げるべきなのです。

安倍政権が「必要な時だけ必要な数の人間」を受け入れて、要らなくなれば帰国してもらう、という都合の良い考えのみで政策を推し進めて行けば、近い将来渋谷のセンター街でテロが発生しても少しもおかしくありません。言うまでもなくここでいう渋谷とは、東京中の、ひいては日本中の繁華街のことにほかなりません。


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無神論者がクリスマスに熱狂する理由(わけ)

2018年、実に25年ぶりにクリスマスを日本で過ごしました。イタリア在住の筆者は毎年帰国はしているのですが、クリスマスとそれに続く年末年始は常にイタリアにいました。イタリア人家族を持つ筆者にとっては、特にクリスマスは在宅が必至だったのです。

イタリアを含む欧米諸国や世界中のキリスト教国では、人々がクリスマスをにぎやかに且つ厳かに寿ぎます。同時に世界中の非キリスト教国でも、人々はクリスマスを大いに楽しみ祝います。 25年ぶりの日本でのクリスマスもにぎやかに過ぎました。

毎年、クリスマスのたびに思うことがあります。つまり、今さらながら、西洋文明ってホントにすごいな、ということです。クリスマスは文明ではありません。それは宗教にまつわる文化です。それでも、いや、だからこそ筆者は、西洋文明の偉大に圧倒される思いになるのです。

文化とは地域や民族から派生する、祭礼や教養や習慣や言語や美術や知恵等々の精神活動と生活全般のことです。それは一つ一つが特殊なものであり、多くの場合は閉鎖的でもあり、時にはその文化圏外の人間には理解不可能な「化け物」ようなものでさえあります。

だからこそそれは「化け物の文(知性)」、つまり文化と呼称されるのでしょう。

文化がなぜ化け物なのかといいますと、文化がその文化を共有する人々以外の人間にとっては、異(い)なるものであり、不可解なものであり、時には怖いものでさえあるからです。

そして人がある一つの文化を怖いと感じるのは、その人が対象になっている文化を知らないか、理解しようとしないか、あるいは理解できないからです。だから文化は容易に偏見や差別を呼び、その温床にもなります。

ところが文化の価値とはまさに、偏見や恐怖や差別さえ招いてしまう、それぞれの文化の特殊性そのものの中にあります。特殊であることが文化の命なのです。従ってそれぞれの文化の間には優劣はありません。あるのは違いだけです。

そう考えてみると、地球上に文字通り無数にある文化のうちの、クリスマスという特殊な一文化が世界中に広まり、受け入れられ、楽しまれているのは稀有なことです。

それはたとえば、キリスト教国のクリスマスに匹敵する日本の宗教文化「盆」が、欧米やアフリカの国々でも祝福され、その時期になると盆踊りがパリやロンドンやニューヨークの広場で開かれて、世界中の人々が浴衣を着て大いに踊り、楽しむ、というくらいのもの凄い出来事なのです。

でもこれまでのところ、世界はそんなふうにはならず、キリスト教のクリスマスだけが一方的に日本にも、アジアにも、その他の国々にも受け入れられていきました。なぜでしょうか。それはクリスマスという文化の背後に「西洋文明」という巨大な力が存在したからです。

文明とは字義通り「明るい文(知性)」のことであり、特殊性が命の文化とは対極にある普遍的なコンセプトです。言葉を替えれば、普遍性が文明の命です。誰もが希求するもの、便利なもの、喜ばしいもの、楽しい明るいものが文明なのです。

それは自動車や飛行機や電気やコンピュターなどのテクノロジーのことであり、利便のことであり、誰の役にも立ち、誰もが好きになる物事のことです。そして世界を席巻している西洋文明とは、まさにそういうものです。

一つ一つが特殊で、一つ一つが価値あるものである文化とは違って、文明には優劣があります。だから優れた文明には誰もが引き付けられ、これを取り入れようとします。より多くの人々が欲しがるものほど優れた文明です。

優れた文明は多くの場合、その文明を生み出した国や地域の文化も伴なって世界に展延していきます。そのために便利な文明を手に入れた人々は、その文明に連れてやって来た、文明を生み出した国や地域の文化もまた優れたものとして、容易に受け入れる傾向があります。

たとえば日本人は「ザンギリ頭を叩いてみれば文明開化の音がする」と言われた時代から、必死になって西洋文明を見習い、模倣し、ほぼ自家薬籠中のものにしてきました。その日本人が、仏教文化や神道文化に照らし合わせると異なものであり、不可解なものであるクリスマスを受け入れて、今や当たり前に祝うようになったのは一つの典型です。

西洋文明の恩恵にあずかった、日本以外の非キリスト教世界の人々も同じ道を辿りました。彼らは優れた文明と共にやって来た、優劣では測れないクリスマスという「特殊な」文化もまた優れている、と自動的に見なしました。あるいはそう錯覚しました。

そうやってクリスマスは、無心論者を含む世界中の多くの人が祝い楽しむ行事になっていきました。それって、いかにも凄いことだと思うのですが、どうでしょうか。

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世界一の成獣羊肉料理を食する

羊肉&ステーキ

2018年の6月終わりから7月半ばまでイタリア・サルデーニャ島滞在しました。そこでは、海とビーチを忘れて観光や食巡りに終始しましたが、サルデーニャ島の食に関しては、筆者は一つ大きな勘違いをしていました。

それは島の重要な味覚の一つである子羊料理が、一年中食べられるもの、と思い込んでいたことです。島では子羊料理は晩秋から春にかけて提供される「季節限定の膳」だ、と聞かされて驚きました。

冷凍技術の発達で、昨今のイタリアでは子羊の肉はいつでも、どこでも手に入ります。ましてや羊肉の本場のサルデーニャでは、子羊料理は一年中食べられるに違いない、と思い込んでいたのです。

ところが子羊のレシピはどこのレストランのメニューにも載っていませんでした。代わりに多く目についたのが、サルデーニャ島のもう一つの有名肉料理「ポルケッタ(Porchetta)」、つまり子豚の丸焼きです。

ポルケッタにされる子豚は幼ければ幼いほど美味とされ、乳飲み子豚のそれが最高級品とされます。そのコンセプトは子羊や子ヤギの肉の場合とそっくり同じです。

ヒトの食料にされる動植物は、果物を除けばほぼ全てにおいて、残念ながら幼い命ほど美味とされます。それどころか誕生前のさらに幼い命である卵類でさえも、ヒトは美味いとむさぼり食います

ポルケッタは2軒のレストランで食べました。皮ごと提供されるその料理は、通ほどカリカリに焼けた皮を好むとされます。筆者は通ではありませんが、見事に焼きあがった皮の美味さには舌を巻きました。

肉そのものも絶妙な柔らかさに焼きあがって舌ざわりが良く、且つ香ばしい。口に含むとほんのわずかな咀嚼でとろりと溶けました。2軒の膳ともにそうでした。

店の一軒目は壁画アートが熱いオルゴーソロの店。路上にテーブルを出しているほとんど屋台同然の質素な場所でしたが、味は極上でした。

2軒目は滞在先のすぐ近くにあるレストランでした。そこは海際の街にありながら魚料理を一切提供せず、島のオリジナルの「肉料理」にこだわって評判が高い店です。

ポルケッタを食べに初めて足を運んだあと、そのレストランには一週間ほど毎日通いました。山深い島の内陸部でなければ食べられないような肉料理が盛りだくさんだったからです。

ポルケッタの次には普通の牛ステーキに始まって、成獣羊肉や牛の内臓や豚のそれを焼き上げた料理を一週間、毎日メニューを変えて味わいました。はほぼ全ての膳が出色の出来栄えでした。

店のメインの肉料理は炭ではなく徹底して薪の熾火で焼かれます。また味付けはほぼ塩のみでなされるのが特徴で、胡椒などもほとんど使いません。

料理される内臓は主に牛の心臓、肝、肺、腎臓、横隔膜、脳みそなど。また豚の睾丸なども巧みな火加減と塩使いで焼かれて提供されます。

それらはいずれも秀逸な味付けでした。ごく普通の牛ステーキでさえもちょっとほかでは味わえないような 妙々たる風味がありました。有名なフィオレンティーナ・ステーキも真っ青になるような豊かな味覚なのです。

パスタもミンチ肉や内臓の細切り煮込みやチーズなどを活かしたソースを使って、とにもかくにも「サルデーニャ島内陸部の伝統肉料理」にこだわったものでした。

サルデーニャ島の料理の基本は肉です。島でありながら魚介料理よりも肉料理が好まれたのは、島民が海から襲ってくる外敵を避けて内陸の山中に逃げ、そこに移り住んだからです。山中には魚はいません。

現在のサルデーニャ島には素晴らしい味の魚介料理が溢れています。だがそれは島オリジナルの膳ではなく、沿岸部を中心とするリゾート開発の進行に伴って、イタリア本土の金持ちたちが持ち込んだレシピなのです。

魚料理、特にパスタに絡んだサルデーニャ島の魚介料理は、イタリア本土のどの地域の魚介パスタにも引けを取りません。当たり前です。元々がイタリア本土由来のレシピなのですから。

通いつめた店で出される島オリジナルの肉料理はなにもかもが珍しく、またどれもが目覚ましい味わいでしたが、その店での最高の料理は「羊の成獣の骨付き肉焼き」でした。

それは目を洗われるような味わいの調理でした。しっとりと焼き上げられた羊肉は、肉汁はほとんどないのに肉汁のうま味がジワリと口中に広がるような不思議で秀逸な味がしました。

さらに付け加えると羊の成獣肉の臭みはきれいに消し去られていました。しかし「子羊肉」にも共通する羊肉独特の風味はきちんと残っています。もしかすると熟成肉なのか、とも思いましたが確認はしませんでした

羊(及びヤギ)の成獣の肉料理は筆者の中では、これまでカナリア諸島で食べた一皿が一番の味でした。が、今回のサルデーニャ島の焼き羊肉がそれを抑えてあっさりとトップに躍り出ました。

それは飽くまでも羊(及びヤギ)の「成獣の肉」の味のことです。成獣よりも上品でデリケートな味わいのある「子羊の肉」は一体どんな素晴らしい味がするのだろう、と考えるとわくわくします。

筆者は今度は、子羊料理の旬だと聞かされた晩秋から春の間に、サルデーニャ島を再び訪ねてみようと決意しているほどです。

※記事タイトルの「世界一の羊肉料理」とは、ヤギ及び羊料理が好きな筆者の独断と偏見による評価です。それは今後いくらでも順位や査定や格付けが変わる可能性があります。



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