イタリア初の女性首相と極右の因縁

極右と規定されることも多い右派「イタリアの同胞」のジョルジャ・メローニ党首が、イタリア初の女性首相となって1週間が経過しました。

連立政権とはいえ、ついに極右政党が政権を握る事態に欧州は驚愕した、と言いたいところですが現実は違います。欧州は警戒心を強めながらもイタリアの状況を静観してきた、というのが真実です。

メローニ政権は、少しの反抗を繰り返しながらも、基本的にはEU(欧州連合)と協調路線を取ると見られています。

近年、欧州には極右政党が多く台頭しました。それは米トランプ政権や英国のBrexit(EU離脱)勢力などに通底した潮流です。

フランスの「国民連合」、イタリアの「同盟」と「イタリアの同胞」、スペインの「VOX」ほかの極右勢力が躍進して、EUは強い懸念を抱き続けてきました。

2017年には極右興隆の連鎖は、ついにドイツにまで及びました。極右の「ドイツのための選択肢」が総選挙で躍進して、初めての国政進出ながら94議席もの勢力になりました。

それはEUを最も不安にしました。ナチズムの亡霊を徹底封印してきたドイツには、極右の隆盛はあり得ないと考えられてきたからです。

それらの極右勢力は、決まって反EU主義を旗印にしています。EUの危機感は日増しに募りました。

そしてとうとう2018年、極右の同盟と極左の五つ星運動の連立政権がイタリアに誕生しました。

ポピュリストの両党はいずれも強いEU懐疑派です。英国のBrexit騒動に揺れるEUに過去最大級の激震が走りました。

だが極右と極左が野合した政権は、反EU的な政策を掲げつつもEUからの離脱はおろか、決定的な反目を招く動きにも出ませんでした。

イタリアでは政治制度として、対抗権力のバランスが最優先され憲法で保障されています。そのため権力が一箇所に集中しない、あるいはしにくい。

その制度は、かつてフムッソリーニとァシスト党に権力が集中した苦しい体験から導き出されたものです。同時にそれは次々に政治混乱をもたらす仕組みでもあります。

一方で、たとえ極左や極右が政権を担っても、彼らの思惑通りには事が運ばれない、という効果も生みます。

過激勢力が一党で過半数を握れば危険ですが、イタリアではそれはほとんど起こりえません。再び政治制度が単独政党の突出を抑える力を持つからです。

イタリアが過激論者に乗っ取られにくいのは、いま触れた政治制度そのものの効用のほかに、イタリア社会がかつての都市国家メンタリティーを強く残しながら存在しているのも理由の一つです。

イタリアが統一国家となったのは今からおよそ160年前のことに過ぎません。

それまでは海にへだてられたサルデーニャ島とシチリア島は言 うまでもなく、半島の各地域が細かく分断されて、それぞれが共和国や公国や王国や自由都市などの独立国家として勝手に存在を主張していました。

国土面積が日本よりも少し小さいこの国の中には、周知のようにバチカン市国とサンマリノ共和国という2つのれっきとした独立国家があり、形だけの独立国セボルガ公国等もあります。

だが、実際のところはそれ以外の街や地域もほぼ似たようなものです。

ミラノはミラノ、ヴェネツィアはヴェネツィア、フィレンツェはフィレンツェ、ナポリはナポリ、シチリアはシチリア…と各地はそれぞれ旧独立小国家のメンタリティを色濃く残しています。

統一国家のイタリア共和国は、それらの旧独立小国家群の国土と精神を内包して一つの国を作っているのです。だから政府は常に強い中央集権体制に固執します。

もしもそうしなければ、イタリア共和国が明日にでもバラバラに崩壊しかねない危険性を秘めているからです。

各都市国家の末裔たちは、それぞれの存在を尊重し盛り立てつつ、常にライバルとして覇を競う存在でもあります。

イタリア共和国は精神的にもまた実態も、かつての自由都市国家メンタリティーの集合体なのである。そこに強い多様性が生まれます。

そして多様性は政治の過激化を抑制します。多様性が息づくイタリアのような社会では政治勢力が四分五裂して存在しますそこでは、極論者や過激派が生まれやすい。

ところがそれらの極論者や過激派は、多くの対抗勢力を取り込もうとして、より過激に走るのではなくより穏健になる傾向が強い。跋扈する極論者や過激思想家でさえ心底では多様性を重んじるからです。

2018年に船出した前述の極右同盟と極左五つ星運動による連立政権は、政治的過激派が政権を握っても、彼らの日頃の主張がただちに国の行く末を決定付けることはない、ということを示しました。

多様性の効能です。

今回のイタリアの同胞が主導する右派政権もおそらく同じ運命を辿るでしょう。

メローニ首相率いるイタリアの同胞は、元々はEUに懐疑的でロシアのクリミア併合を支持するなど、欧州の民主主義勢力と相いれない側面を持ちます。

「イタリアの同胞」はファシスト党の流れも汲んでいます。だがイタリア国民の多くが支持したのは右派であって極右ではありません。ファシズムにいたっては論外です。

メローニ新首相はそのことを知り過ぎるほどに知っています。彼女は選挙戦を通して反民主主義や親ロシア寄りのスタンスが、欧州でもまたイタリア国内でも支持されないことをしっかりと学んだように見えます。

メローニ「右派」政権は、明確に右寄りの政策を打ち出すものの、中道寄りへの軌道修正も行うというスタンスで進むでしょう。

それでなければ、彼女の政権はイタリアと欧州全体の世論を敵に回すことになり、すぐにでも行き詰まる可能性が高い。

 

 

facebook:masanorinakasone

official siteなかそね則のイタリア通信

タナボタ英新首相の正体

リシ・スナク氏が英国の新首相に就任しました

ジョンソン元首相、トラス前首相に続く3人目の負け犬首相です。前代未聞の事態が次々に起きる英国は、あるいは存続の危機にあるのではないか、と本気で懸念します。

ジョンソン元首相は追い詰められて辞任しました。トラス前首相は失脚しました。そしてスナク新首相は保守党の党首選でトラス前首相に敗れたばかり。彼もやはり負け犬なのです。

負け犬が3連続で首相を務める英国はきわめて異様に見えます。

何よりも先ずそのことを指摘しておきたいと思います。

負け犬から突然、タナボタで英国最強の権力者になった、スナク首相の就任演説をBBCの実況放送で聴きました。

辞職したばかりのトラス前首相のミスをさりげなく、だが明確に指摘しながら、そのミスを是正し英国経済を立て直す、と宣言する様子は傲岸なふうではなく、むしろ頼もしいものでした。

しかしそれはまだ単なる彼の言葉に過ぎません。

コロナパンデミックに続くロシアのウクライナへの侵攻によって、英国に限らず世界中の経済は危機にさらされています。巨大な危難は英国一国だけで解決できる問題ではないと見えます。

世界経済は複雑に絡み合い利害を交錯させながら回っています。

有名金融関連企業で働いた後、ジョンソン政権で財務大臣も務めたスナク首相は、実体経済にも詳しいに違いありません。それでも単独で英国経済を立て直せるかどうかは未知数です。

経済政策でコケれば彼もまた早期退陣に追い込まれる可能性が高い。そうなるとスナク氏は再び落伍者となって、負け犬指導者が4代続く事態になり英国存続の危機はいよいよ深化するばかりです。

閑話休題

スナク首相は経済政策を成功させるか否かに関わらず、既に歴史に残る一大事業を成し遂げました。筆者の目にはそちらのほうがはるかに重要トピックと映ります。

いうまでもなくスナク首相が、英国初の非白人の首班、という事実です。

彼は宗教もキリスト教ではなくヒンドゥー教に帰依する正真正銘のインド系イギリス人です。人種差別が根深いイギリスでは、画期的な出来事、といっても過言ではありません。

2009年、世界はアメリカ初の黒人大統領バラク・オバマの誕生に沸きました。それは歴史の転換点となる大きな出来事でした。

だが同時にそれは、公民権運動が激しく且つ「人種差別が世界で最も少ない国アメリカ」に、いつかは起きる僥倖と予見できました。

アメリカが世界で最も人種差別の強い国、というのは錯覚です。アメリカは逆に地球上でもっとも人種差別が少ない国です。

これは皮肉や言葉の遊びではありません。奇を衒(てら)おうとしているのでもありません。これまで多くの国に住み仕事をし旅も見聞もしてきた、筆者自身の実体験から導き出した結論です。

米国の人種差別が世界で一番ひどいように見えるのは、米国民が人種差別と激しく闘っているからです。問題を隠さずに話し合い、悩み、解決しようと努力をしているからです。

断固として差別に立ち向かう彼らの姿は、日々ニュースになって世界中を駆け巡り非常に目立ちます。そのためにあたかも米国が人種差別の巣窟のように見えます。

だがそうではありません。自由と平等と機会の均等を求めて人種差別と闘い、ひたすら前進しようと努力しているのがアメリカという国です。

長い苦しい闘争の末に勝ち取った、米国の進歩と希望の象徴が、黒人のバラック・オバマ大統領の誕生だったことは言うまでもありません。

物事を隠さず直截に扱う傾向が強いアメリカ社会に比べると、英国社会は少し陰険です。人々は遠回しに物を言い、扱います。言葉を替えれば大人のずるさに満ちています。

人種差別でさえしばしば婉曲になされます。そのため差別の実態が米国ほどには見えやすくありません。微妙なタッチで進行するのが英国の人種差別です。

差別があからさまには見えにくい分、それの解消へ向けての動きは鈍ります。だが人種差別そのものの強さは米国に勝るとも劣りません。

それはここイタリアを含む欧州の全ての国に当てはまる真実です。

その意味では、アメリカに遅れること10年少々で英国に非白人のスナク首相が誕生したのは、あるいはオバマ大統領の出現以上に大きな歴史的な事件かもしれません。

筆者はスナク首相と同じアジア人として、彼の出世を心から喜びます。

その上でここでは、政治的存在としての彼を客観的に批評しようと試みています。

スナク首相は莫大な資産家でイギリスの支配階級が多く所属する保守党員です。彼はBrexit推進派でもあります。

個人的に筆者は、彼がBrexitを主導した1人である点に不快感を持ちます。Brexitは徹頭徹尾NGだと考えるからです。

白人支配の欧州に生きるアジア人でありながら、まるで排外差別主義のナショナリストのような彼の境遇と経歴と思想はひどく気になります。

ジョンソン首相の派手さとパフォーマンス好きと傲慢さはないものの、彼の正体は「褐色のボリス・ジョンソン」という印象です。

それゆえ筆者は英国の、そして欧州の、ひいては世界に好影響を与えるであろう指導者としての彼にはあまり期待しません。

期待するのはむしろ彼が、ジョンソン前首相と同様に「英国解体」をもたらすかもしれない男であってほしいということです。

つまりスナク首相がイギリスにとっては悪夢の、欧州にとっては都合の良い、従って世界の民主主義にとっても僥倖以外の何ものでもない、英連合王国の解体に資する動きをしてくれることです。

 

 

official siteなかそね則のイタリア通信

トラス首相とともに沈み行く英国が見える

トラス英首相が辞任を表明しました。

就任からわずか6週間での辞任。

驚きですが、予定調和のような。

不謹慎ですが、何かが喜ばしいような。

何が喜ばしいのかと考えてみると、ボリス・ジョンソン前首相の鳥の巣ドタマが見えてきました。

ジョンソン前首相はいやいやながら辞任し、虎視眈々と首相職への返り咲きを狙っています。

トラスさんのすぐ後ではなくとも、将来彼は必ず首相の座を目指すことでしょう。

彼の首相就任は英国解体への助走、あるいは英国解体の序章。。。

なるほど。喜ばしさの正体はこれです。筆者は英国の解体を見てみたいのです。

英国解体は荒唐無稽な話ではありません。

英国はBrexitによって見た目よりもはるかに深刻な変容に見舞われています。

その最たるものは連合王国としての結束の乱れです。

イングランド、ウェールズ、スコットランド、北アイルランド から成る連合王国は、Brexitによって連合の堅実性が怪しくなりました。

スコットランドと北アイルランドに確執の火種がくすぶっています。

スコットランドはかねてから独立志向が強い。そこにBrexitが見舞いました。住民の多くがBrexitに反発しています。

スコットランドは独立とEUへの独自参加を模索し続けるでしょう。

北アイルランドも同じです。

Brexitを主導したのはジョンソン前首相でした。彼は分断を煽ることで政治力を発揮する独断専行型の政治家です。

Brexitのように2分化された民意が正面からぶつかる政治状況では、独断専行が図に当たればあらゆる局面で政治的に大きな勝ちを収めることができます。

言葉を変えれば、2分化した民意の一方をけしかけて、さらに分断を鼓舞して勝ち馬に乗るのです。

彼はそうやって選挙を勝ち抜きBrexitも実現させました。だが彼の政治手法は融和団結とは真逆のコンセプトに満ちたものです。

彼の在任中には英国の分断は癒されず、むしろ密かに拡大し進行しました。

だが国の揺らぎは、エリザベス女王という稀代の名君主の存在もあって、あまり目立つことはありませんでした。

そんな折、ジョンソン首相がコロナ政策でつまずいて退陣しました。

国の結束という意味ではそれは歓迎するべきことでした。

ところが間もなくエリザベス女王が死去してしまいました。

代わってチャールズ3世が即位しました。新国王は国民に絶大な人気があるとは言えません。国の統合に影が差しました。

そこへもってきて就任したばかりのトラス首相が辞めることになりました。

彼女の辞任によって、退陣したばかりのジョンソン前首相がすぐにも権力の座をうかがう可能性が出てきまshじた。

ジョンソン前首相は英国民の分断を糧に政治目標を達成し続けたトランプ主義者であり、自らの栄達のためなら恐らく英国自体の解体さえ受け入れる男です。

彼が首相に返り咲くのは、先述したように英国の解体へ向けての助走また序章になる可能性がありあす。

それは悪い話ではありません。

理由はこうです:

英連合王国が崩壊した暁には、独立したスコットランドと北アイルランドがEUに加盟する可能性が高い。2国の参加はEUの体制強化につながります。

世界の民主主義にとっては、EU外に去った英国の安定よりも、EUそのもののの結束と強化の方がはるかに重要です。

トランプ統治時代、アメリカは民主主義に逆行するような政策や外交や言動に終始しました。横暴なトランプ主義勢力に対抗できたのは、辛うじてEUだけでした。

EUはロシアと中国の圧力を押し返しながら、トランプ主義の暴政にも立ち向かいました。

そうやってEUは、多くの問題を内包しながらも世界の民主主義の番人たり得ることを証明しました。

そのEUはBrexitによって弱体化しました。EUの削弱は、それ自体の存続や世界の民主主義にとって大きなマイナス要因です。

英連合王国が瓦解してスコットランドと北アイルランドがEUに加盟すれば、EUはより強くなって中国とロシアに対抗し、将来再び生まれるであろう米トランプ主義的政権をけん制する力でのあり続けることができます。

大局的な見地からは英国の解体は、ブレグジットとは逆にEUにとっても世界にとっても、大いに慶賀するべき未来です。

《エリザベス女王死去⇒チャールズ国王即位⇒トラス首相辞任⇒ジョンソン前首相返り咲き》

という流れは、歴史が用意した英国解体への黄金比であり方程式です。

というのはむろん筆者の希望的観測ではありますが。。。

 

 

facebook:masanorinakasone

official siteなかそね則のイタリア通信

ベルルスコーニの最後の奉公

ベルルスコーニ元首相に関する直近の記事を読んだ読者の皆さんの中には、彼のイタリアにおける影響力が極めて大きいと考える人も多いよう。

それは筆者の書き方が悪いのが原因です。非力を謝罪したうえで少し付け加えておきます。

ベルルスコーニ元首相は90年代初め以降、イタリア政界に多大な影響力を持ち続けましたが、アップダウンを繰り返しながらその力は右肩下がりに下がり続けました。

2011年にはイタリア財政危機の責任を取らされて首相を辞任。支持率は急降下しました。

そして2013年、脱税で有罪判決を受けて公職追放となり議員失職。彼の政治生命は絶たれたと見られました。

ところが元首相は2019年、公民権停止処分が解除されたことを受けて欧州議会選挙に出馬。何事もなかったかのように欧州議会議員に当選しました。

イタリアのメディアの中には彼を《不死身》と形容するものまで出ました。

しかし、ベルルスコーニ元首相率いる「FI(フォルツァ・イタリア党)」の、先日の総選挙における得票率はわずか約8%。かつて飛ぶ鳥を落とす勢いだった政党としてはさびしい数字です。

非力なFI党首のベルルスコーニ氏が影響力を持つのは、同党が選挙で大勝した右派連合の一角を占めるからです。

右派連合の盟主は、次期首相就任が確実比されているジョルジャ・メローニ氏が率いる極右「イタリアの同胞」です。

ジョルジャ・メローニ氏はかつてのベルルスコーニ政権で、31歳の史上最年少閣僚として起用された過去を持っています。

両者の立場が逆転した今、メローニ氏が自らの政権内でベルルスコーニ氏を優遇する可能性は十分にあります。

醜聞と金権と汚職にまみれたベルルスコーニ元首相が、支持率を落としながらもしぶとく生き残ってきたのは、物理的な側面から見れば彼がイタリアのメディアの支配者である事実が大きい。

インターネットが普及した欧州先進国の中にあって、イタリアは未だに既存メディアが大きな影響力を持つ国のひとつです。特にテレビの力は巨大です。

イタリアのメディア王とも呼ばれる元首相は、自らが所有するテレビ局のニュースや番組やショーに頻繁に登場して自己アピールをします。

日本で言えば民放全体を束ねた勢力である元首相所有のMEDIASETが、堂々とあるいは控えめを装って、ベルルスコーニ元首相の動きを連日報道するのです。

そうした実際的な喧伝活動に加えて、多くの国民が元首相を寛大な目で見ることも彼の生き残りに資します。

ほとんどがカトリック教徒であるイタリア国民は、「罪を忘れず、だがこれを赦す」というカトリックの教義に深く捉われています。

彼らはベルルスコーニ元首相の悪行や嫌疑や嘘や醜聞にうんざりしながらも、どこかで彼を赦す心理に傾く者が多い。

たとえ8%の国民の支持があっても、残りの92%の国民が強く否定すれば彼の政治生命は終わるはずです。

だがカトリック教徒である寛大な国民の多くが彼を赦します。つまり消極的に支持する。あるいは見て見ぬ振りをします。

結果、軽挙妄動の塊のような元首相がいつまでも命脈を保ち続けることになるのです。

要するにベルルスコーニ元首相は、右派連合が分裂しない限り、メローニ政権内で直接・間接に一定の影響力を行使することでしょう。

彼の動きはいつものように我欲とまやかしに満ちたものになるに違いありません。それは連立政権を崩壊させるだけの「数の力」を持っています。

だがそれだけのことです。彼の時代は終わっています。もしも政権を瓦解させれば彼自身も今度こそ本当に政治生命を絶たれます。

86歳にもなった元首相はそんな悪あがきをすることなく、彼が唯一イタリア国民のために成せることをしてほしい。

つまり前回も書いたとおり、極右的性格のメローニ政権がEUに反目して国を誤ろうとするとき、諌めて中道寄りに軌道修正させるか、軌道修正の糸口を提供することです。

寛大な国民に赦され続けて政治的に生き延びてきたベルルスコーニ元首相の、それが国民への最後の奉公となるべきと考えますが、果たしてどうなるでしょうか。

 

facebook:masanorinakasone
official site
なかそね則のイタリア通信

 

 

 

 

「ちむどんどん」にドン引きした訳を語ろう

NHKの朝ドラ「ちむどんどん」が終了しまた。大団円と形容しても良いフィナーレも相変わらず微妙でした。

だが、時間を一気に40年も飛ばした後で元に戻して終わる正真正銘の最後は、フィクション(ドラマ)の基本である時間経過の魔法を上手く使っていると感じました。

その一手だけでも、6ヶ月に渡った消化不良の一部がきれいさっぱり無くなった気がしました。

結局、この長丁場のドラマの最大の欠陥は、これでもかとばかりに愚劣なエピソードを重ねた“にーにー”の存在だったことが明白になりました。

多くの視聴者は、主人公の暢子のキャラクターにも好感を抱かなかったようです。それが嵩じて役者自体の評判も悪くなっている風潮もあるらしい。

主人公の暢子は料理にひたむきに取り組む一本気な女性として描かれます。彼女は料理に没頭するあまり、人情の機微に疎いKY(死語?)な女性であり続けます。

終盤では妹とその恋の相手が、衆目集まる前で感動の抱擁に至る直前、無謀にも2人の間に割って入って、恋人を押し退け妹を思い切り抱きしめることまでします。

多くの視聴者が「は?」と首を傾げたに違いない演技は、役者ではなく演出のキテレツな感性が生み出したタワケです。

演出は“暢子の愛すべきキャラクター”の一環としてそのシーンを描いている節があります。だが、そこだけに限らず、笑いを目指しているらしいエピソードの全てが空回りしていました。

演出家にはユーモアのセンスがない。鈍感な暢子という視聴者の評判があるようですが、そうではなくて演出が鈍感なのです。

断っておきたいが、筆者は監督が誰なのか知りません。エンドクレジットも見ていません。彼(彼女)は明らかに能力のある演出家です。全体の差配力も高い。何よりもNHKが演出を任せた監督です。実力がない訳がない。

筆者はドラマの演出も少し手がけた者として「ちむどんどん」を批判的に見ていて、脚色の不手際を指摘しつづけています。しかしそれはいわば細部の重大な欠点についてのもので、演出家の存在の全体を批判したいのではありません。

完璧な演出家も完璧な演出もこの世には存在しません。それは「ちむどんどん」の場合も同じです。筆者は「ちむどんどん」の実力ある演出家の失点を敢えてあげつらって、ドラマの出来具合を検討してみたいだけです。

主人公の暢子のエピソードも人物像も、にーにーのそれも、つまるところ、前述のように演出家のユーモアのセンスの無さが生み出す齟齬、と筆者の目には映ります。

すべりまくるシーンのほとんどは、明らかに笑いを誘う目的で描かれています。だが一切うまく機能していません。

暢子の故郷である沖縄山原(やんばる)、東京、横浜市鶴見のシーンは割合に巧く描かれていると思います。だがしつこいようですが、主人公の暢子とその兄のにーにーの人物像とエピソードが辛い。

それはどちらも細部です。しかし、物語の中核あたりにちりばめられた大きな細部であるため、結局ドラマ全体に深い影を落としてしまいました。

視聴者の眉をひそめさせ、考えさせる優れたドラマの制作は難しい。多くのドラマがそこを目指して失敗します。

そして視聴者を笑わせるドラマを作るのは、もっとさらに至難です。

さらに言えば、視聴者を笑わせ同時に考えさせるドラマは、天才だけが踏み込める領域です。例えばチャップリンのように。

「ちむどんどん」は全体としては一定の水準を保つドラマながら、制作が非常に困難な笑いのシーンのほぼ全てでコケた、というのが筆者の評価です。

長帳場の朝ドラですから、資金力と能力のあるNHKとはいえ、安手のシーンや展開が頻繁に見られるのは仕方がありません。

それらの瑕疵は、終わりが良ければ全て良し、という雰囲気で仕舞いになるのが普通です。「ちむどんどん」もそうだと言いたいが、やはり少し厳しい。

最終回の前日、重要キャラクターのひとりである歌子が昏睡(危篤?)状態になり、暢子に率いられた兄妹が、他人も巻き込んで海に向かって助けを求めて叫ぶシーンが放送されました。

それは「理解不能だ」「もはやカルトだ」などとネット民の大ブーイングを呼んだようです。だがネット民ではなくても、恐らく多くの視聴者が展開の唐突と場面の意味不明に驚いたのではないでしょうか。

何の説明も無く挿入された物語を筆者は次のように解釈しました。

あれはいわゆる「魂(たま)呼び」あるいは「魂呼ばい」の儀式です。死にかけている人の名を呼んで、肉体から去ろうとする魂を呼び戻し生き返らせようとする古俗の名残です。

今のように科学が進んでいない時代の人々は、愛する者の死の合理的な意味が良くわからない分、恐らくわれわれよりもさらに強く死を恐れた。同時に奇跡も信じました。

恐れと祈りに満ちた強い純真な気持ちが、 魂(たま)呼びという悲痛な儀式を生みました。そのやり方は地方によって違います。

井戸の底に向かって呼びかけたり、西に向かって叫んだり、屋根の上で号泣したりもします。井戸は黄泉の国につながっています。西方浄土は文字通り西にあります。屋根に上れば西方への視界も開けます。

時代劇などで、人々が井戸の底に向かって死者や危篤者の名を呼ぶシーンを見たことがある読者も多いのではないでしょうか。井戸はあの世につながっているばかりではなく、底にある水が末期の水にも連動しています。

沖縄の民間信仰では死後の理想郷は海のかなたにあります。いわゆるニライカナイです。儀来河内とも彼岸浄土とも書きます。それは神話の「根の国」と同一のものであり、ニライは「根の方」という意味です。

そこで沖縄の兄妹は、必死に海に向かって助けを求めて叫ぶのです。しかし呼ばれたのは病人の歌子の名前ではなく、死んだ父親の魂です。

筆者が知る限り沖縄には魂呼びの風習はありません。だから危篤の歌子の名前ではなく、ニライカナイにいる亡き父の魂に呼びかけて助けを求めた、と解釈しました。

だが兄妹が突然海に向かって叫ぶ場面の真の意味を、いったい何人の視聴者が理解していたのでしょう?極めて少数ではないか。もしかするとほぼゼロだったかもしれません。

ニライカナイという概念を知っている沖縄の視聴者でさえ首を傾げた可能性が高い。それほど唐突な印象のエピソードでした。

そんな具合にすっきりしないまま、ドラマは翌日の最終回を迎えて、歌子は元気に年齢を重ねて40年が過ぎた、という展開になります。

中途半端や荒唐無稽や独りよがりの多いドラマでしたが、ニライカナイの概念と魂呼びの風習に掛けたらしい挿話を、突然ドラマの終わりに置いた意図も不明です。

あのシーンはもっと早い段階で展開させたほうが、珍妙さが無くなって深みのあるストーリーになったと思います。

返す返すも残念な仕上がりでした。

 

 

facebook:masanorinakasone
official site
なかそね則のイタリア通信