国民と対話できない菅首相はうっとうしい稿に続いて菅首相について書きます。彼の存在は、日本の政治家の奇天烈を世界に知らしめるのに最善のテーマ、と考えます。そこで今後もこだわって書いていければと思っています。
それは筆者のこの文章が世界で読まれるという意味ではなく、彼の存在自体が世界に日本の政治の不思議を物語る。筆者その様子を語ろうという意味です。
適任者とも見えないのに、いわばタナボタのようないきさつで日本国のトップになった菅首相は、彼がその地位に登りつめたのではなく、国民がそこに据えてやったものです。
ところが菅首相は、権力者の常ですっかりそのことを忘れてしまったようです。あるいは彼はその事実を、事実通りに受け取って考えてみることさえないのもしれません。
だがわれわれ国民は決してそのことを忘れてはなりません。なぜならそれは民主主義の根幹にかかわる重大な要件だからです。
つまり国民が「主」であり彼ら権力者は「従」、という厳とした構造が民主主義であるという真実です。
それにもかかわらずに、特に日本の権力者は上下を逆転して捉えて、自らがお上であり主権者である国民が下僕でもあるかのように尊大な態度に出ます。
非はむろん政治家のほうにあります。だが、彼らをそんなふうにしてしまうのは、長い歴史を通して権力者に抑圧されいじめぬかれてきた国民の悲しい性(さが)でもある、という皮肉な側面も見逃せません。
日本国民が、民主主義の時代になっても封建社会の首木の毒に犯されていて、政治家という“似非お上”の前についつい這いつくばってしまうのです。
そして政治家は、彼らを恐れ平伏している哀れな愚民の思い込みを逆手に取って、ふんぞり返っている背をさらに後ろに反らして付け上がり、傲岸不遜のカタマリになってしまいます。
日本国民はいい加減に目覚めて、背筋を伸ばして逆に彼らを見下ろすべきです。
権力者が国民を見下ろす風潮は、民主主義がタナボタ式に日本に導入されて以後も常に社会にはびこってきました。厳しい封建制度に魂をゆがめられた日本人が、どうしてもその圧迫から脱しきれない現実がもたらす悲劇です。
明治維新や第2次大戦という巨大な世直しを経ても桎梏はなくなりませんでした。なくならなかったのは、世直しの中核だった民主主義が、日本人自らが苦労して獲得したものではなかったからです。
民主主義は欧米社会が、日本に勝るとも劣らない凶悪な封建体制を血みどろの戦いの末に破壊して獲得したものです。日本はその果実だけを試練なしに手に入れました。だから民主主義の「真の本質」がわからないのです。
菅首相は日本の未熟な民主主義社会で、その器とも見えないのに首相になってしまいました。そして首相になったとたんに、日本の政治権力者が陥るわなに見事にはまって、自らを過信して思い上がりました。
言葉を替えれば彼は、自らを「お上」だと錯覚しある種の国民もまた彼をそう見なしました。底の浅い日本民主主義社会でひんぱんに描かれる典型的な倒錯絵図です。
管首相はコロナ対策で迷走を繰り返しながら、国会質疑や記者質問に際して横柄な態度で失態を隠したり、説明責任を逃れたり、ブチ切れたり逆切れしたり、と笑止で不誠実な対応を続けました。
そこには国民との対話こそが民主主義の根幹、ということを全く理解できないらしい政治屋の、見苦しくうっとうしい姿だけがあります。
管首相の一連の失態の中でも最も重大な不始末は、ことし1月27日、国会質疑で立憲民主党の蓮舫代表代行に対し「失礼だ。一生懸命やっている」 と答弁したことでしょう。
蓮舫氏の言い方に問題があったことよりも、管首相が国民の下僕である事実を忘れて国民への報告(=対話)を怠り、開き直って居丈高に振る舞ったことが大問題です。
日本最強の権力者という願ってもない地位を国民の“おかげ“で手に入れながら、彼は日本の政治家の常で自らが民衆の上に君臨する「お上」だと錯覚しました。
それは彼に限らず日本の政治家に特有の思い込みです。彼らは権力者という蜜の味の濃い地位に押し上げられたことに感謝し、謙虚にならなければならない。ところが逆に思い上がるのです。
民主主義における権力者は、あくまでも民意によってその地位に置かれている「市民の下僕」です。ところがその真理とは逆の現象が起こる。それはー繰り返しになりますがー日本の民主主義の底が浅いことが原因です。
国民は権力者に対して、「俺たちがお前を権力の地位に付けた。お前は俺たちの下僕だ。しっかり仕事をしなければすぐに首を切る(選挙で落選させる)。そのことを一刻も忘れるな」 と威圧しつづけるべきなのです。
国民は彼ら「普通の人」を、権力者という人もうらやむ地位に据えてやっています。国民はそのことをしっかりと認識して、彼らに恩を着せてやらなければなりません。
彼ら政治家や権力者が威張るのではなく、国民が威張らなければならない。それが良い民主主義のひな型なのです。
だが日本ではほぼ常に権力者が「主」で国民が「従」という逆転現象がまかり通ります。政権交代がなかなか起きないこともその負のメンタリティーを増長させます。
多くの先進民主主義国のように政権交代が簡単に起きると、国民は権力者の首が国民の手で簡単にすげ替えられるものであることを理解します。理解すると権力者にペこぺこ頭を下げることもなくなります。
具体的な例を挙げればイタリアで2018年、昨日までの政治素人集団だった「五つ星運動」が、連立政権を構築して突然権力の座に就きました。そんなことが現実に起きると、事の本質が暴かれて白日の下にさらされます。
つまり、言うなれば隣の馬鹿息子や、無職の若者や、蒙昧な男女や、失業者や怠惰な人間等々が、代議士なり大臣などになってしまう現象。彼らの在り方と組織構成が権力者の正体であり権力機構の根本なのです。
そういう状況が日常化すると、権力なんて実は誰でも手に入れられる、あるいは国民の力でどうにでもなる代物だ、ということがはっきりとわかって、民衆は権力や権力者を恐れなくなります。
そこではじめて、真の民主主義が根付く「きっかけ」が形成されていくのです。
official site:なかそね則のイタリア通信