国際的味覚

値段の高いものを人がおいしいと感じるのは、下品どころか、感情を備えた人間特有の崇高な性質ではないでしょうか。

例えば筆者は、サクランボが大好きですが、イタリアで食べるサクランボは日本で食べるよりもはるかにおいしい。

日本とイタリアのサクランボの味は「物理的」にはあまり変わりがないのかも知れません。

だが筆者は明らかにイタリアのものがおいしいと感じます。なぜか。

イタリアのサクランボはドカンと量が多いからです。

サクランボを大量に、口いっぱいにほおばっているとき、筆者は日本ではあんなにも値段の高い高級品を、今はこんなにもいっぱい食べまくっている、という喜びで心の中のおいしさのボルテージが跳(は)ね上がっているのです。

恐らくこれはイタリア人が感じているものよりも、ずっとずっと大きなおいしさに違いない。

なぜなら彼らは、サクランボの「物理的な」おいしさだけを感じていて、日本の山形あたりのサクランボの「超高級品」という実態を知らないから、従って「ああ、トクをしている」という気分が起こらない。

筆者は日本を出て外国に暮らしているおかげで、時にはこういういわば「味の国際化」の恩恵を受けることがあります。

しかし、これはいいことばかりとは限りません。

というのも筆者は日本に帰ってサクランボを食べるとき、そのあまりの量の少なさに、ありがたみを覚えるどころか、なんだかケチくさい悲しみを感じ、もっとたくさん食わせろと怒って、おいしさのボルテージが下がってしまう。

このように、何事につけ国際化というものは善(よ)しあしなのです。

 

 

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