G7の光と影と日本メディアのディメンシア 

C7広島サミットを連日大々的に且つ事細かに伝える日本のメディアの熱狂を面妖な思いで眺めてきました。

ここイタリアもG7メンバー国ですがメディアは至って冷静に伝え、ほとんど盛り上がることはありません。

イタリア初の女性首相の晴れの舞台でもあるというのに少しも騒がず、金持ち国の集会の模様を淡々と報道しました。

それはイタリアメディアのG7へのいつもの対応です。そしてその姿勢は他のG7メンバー国のメディアも同じです。

国際的には影の薄い日本の畢生の大舞台を、日本のメディアがこれでもかとばかりに盛んに報道するのは理解できます。しかも今回は日本が晴れの議長国です。

だが国際的には空騒ぎ以外のなにものでもない日本の熱狂は、見ていてやはり少し気恥ずかしい。

ここイタリアは国際政治の場では、日本同様に影響力が薄い弱小国です。だがメディアは、たとえG7が自国開催だったとしても日本のメディアの如くはしゃぐことはまずありません。

イタリアは国際的なイベントに慣れています。政治力はさておき、芸術、歴史、文化などで世界に一目おかれる存在でもあります。スポーツもサッカーをはじめ世界のトップクラスの国です。

政府も国民も内外のあらゆる国際的なイベントに慣れて親しんでいて、世界の果てのような東洋の島国ニッポンの抱える孤独や、焦りや、悲哀とは縁遠い。

前述したようにイタリアは憲政史上初の女性首相を誕生させました。そのこと自体も喜ばしいことですが、メローニ首相が国際的なイベントに出席するという慶事にも至って冷静でした。

イタリアは同時期に、北部のエミリアロマーニャ州が豪雨に見舞われ、やがてそれは死者も出る大災害に発展しました。

メローニ首相にはG7出席を取りやめる選択もありました。が、ロシアが仕掛けたウクライナへの戦争を、G7国が結束して糾弾する姿勢をあらためて示す意味合いからも、敢えて日本に向かいました。

このあたりの事情は内政問題を抱えて苦慮するアメリカのバイデン大統領が、もしかするとG7への出席を見合わせるかもしれない、と危惧された事情によく似ています。

日本のメディアは米大統領の問題については連日大きく取り上げましたが、筆者が知る限りメローニ首相の苦悩についてはひと言も言及しませんでした。

あたり前です。G7構成国とはいうもののイタリアは、先に触れたように、日本と同じく国際政治の場ではミソッカスの卑小国です。誰も気にかけたりはしません。

そのことを象徴的に表していた事案がもう一つあります。

岸田首相が広島で開催されるG7という事実を最大限に利用して、核廃絶に向けて活発に動き各国首脳を説得したと喧伝しました。

だがそれは日本以外の国々ではほとんど注目されませんでした。
この部分でも大騒ぎをしたのは、政権に忖度するNHKをはじめとする日本のメディアのみでした。

アメリカの核の傘の下で安全保障をむさぼり、核廃絶を目指す核兵器禁止条約 にさえ参加していない日本が、唯一の被爆国であることだけを理由に核廃絶を叫んでも、口先だけの詭弁と国際社会に見破られていて全く説得力はありません。

G7国が岸田首相の空疎な核廃絶プログラムなるものに署名したのは、同盟国への思いやりであり外交辞令に過ぎません。

核のない世界が誰にとっても望ましいのは言わずと知れたことです。だが現実には核保有国がありそれを目指す国も多いのが実情です。

日本政府はそのことを踏まえて現実を冷静に見つめつつ廃棄へ向けての筋道を明らかにするべきです。

被爆国だからという感情的な主張や、米の核の傘の下にいる事実を直視しないまやかし、また本音とは裏腹に核廃絶を目指すと叫ぶ嘘などをやめない限り、日本の主張には国際社会の誰も耳を貸しません。

そうではあるものの、しかし、G7は民主主義国の集まりであり、中露が率いる専制国家群に対抗する唯一の強力な枠組み、という意味で依然として重要だと思います。

特に今このときは、ロシアのウクライナ侵略に対して、一枚岩でウクライナを支援する態勢を取っていることは目覚ましい。

2017年のG7イタリアサミットを受けて、筆者はそれをおわコンと規定しさっさと廃止するべき、と主張しました

だが、ロシアと中国がさらに専制主義を強め、G7に取って代わるのが筋と考えられたG20が、自由と民主主義を死守する体制ではないことが明らかになりつつある現在は、やはり存続していくことがふさわしいと考えます。

 

 

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ルツェルンの退屈、ロカルノの陰影

スイスのルツェルンとロカルノを仕事で巡りました。

ルツェルンは大分前にやはり仕事で訪ねていますが、その時の記憶が自分の中にほとんど残っていないと気づきました。

一方、イタリア語圏にあるロカルノには、これまでにも仕事場のあるミラノから息抜きのためによく通いました。

山国のスイスは言うまでもなく美しい国です。だが、地中海や、強い太陽の光や、ローマ、ベニス、フレンツェ、ナポリ、パレルモなどに代表される歴史都市を懐に抱いているイタリアはそれ以上に美しい、と筆者は感じています。

ならばなぜわざわざ外国のスイスに息抜きに行くのかといいますと、ミラノの仕事場から近いという理由もさることながら、「そこがスイスだから」筆者は喜んで気晴らしに向かう、というのが答えです。

スイスは町並が整然としていて小奇麗で清潔な上に、人を含めた全体の雰囲気が穏やかです。

筆者はロカルノの湖畔の街頭カフェやリゾートホテルのバー、またうっそうとした木々の緑におおわれた街はずれのビアガーデンなどでのんびりします。

イタリア語圏ですら、ロカルノではミラノにいる時とまったく変わらない言葉で人々とやりとりをします。

ところがそこには、イタリアにいる時の、人も自分もいつも躁状態で叫び合っているかのような騒々しさや高揚がない。雰囲気が静かで落ち着きます。 

その気分を味わうためだけに、筆者はあえて国境を越えてスイスに行くのです。

要するに筆者は、肉やパスタのようにこってりとしたイタリアの喧騒が大好きですが、時々それに飽きて、漬物やお茶漬けみたいにあっさりとしたスイスの平穏の中に浸るのも好きなのです。

今回訪ねたルツェルンはイタリア語圏ではありません。ドイツ語圏の都会です。だからという訳ではありませんが、ルツェルンはイタリア語圏のロカルノに比較すると少し雰囲気が重い。

言葉を替えればルツェルンは、同じスイスの街でもロカルノよりもっとさらに「スイス的」です。つまり整然として機能的で清潔。人々は今でも山の民の心を持っていて純朴で正直で優しい。

しましまさにそれらの事実が筆者には少し退屈に感じられました。やはり筆者は中世的なイタリアの街々の古色や曖昧や猥雑や紛糾が好きです。

ロカルノの街はスイスの一部でありながら、イタリア文化の息吹が底辺に感じられるために、筆者は心が落ち着くのだと今更ながら知りました。

それでもやっぱりロカルノは骨の髄までスイスです。

そのことを一抹の寂しさと共に最も強烈に感じたのは、レストランで頼んだスパゲティ・アーリオ・オーリオ・エ・ペペロンチーノのパスタが茹ですぎて伸びきっている事実でした。

コシのないパスタ麺を平然と皿に盛るのは、腐りかけた魚肉を刺身と称してテーブルに置くのと同程度の不手際です。

筆者は文字通りひと口だけ食べてフォークを置きました。あまりの不味さにがっかりして写真を撮ることさえ忘れました。

その店は、しかし、一日中食事を提供している観光客相手のレストランだったことは付け加えておきたいと思います。

イタリア的な店は普通、15時までには昼の営業を終えて休憩し19時頃に再び店を開けます。

要するにそこは、イタリアレストランを装った無国籍のスイス料理店だったのです。

 

 

 

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奇跡の正体

萌えたつ新芽や花の盛りに始まる季節の移ろいは奇跡である。

のみならず海の雄大と神秘、川の清清しさなど、自然のあらゆる営みが奇跡だ。

それらを“当たり前”と思うか“奇跡”と思うかで、人生は天と地ほども違うものになる。

奇跡は大仰な姿をしているのではない。奇跡はすぐそこにある。

ありきたりで事もないと見えるものの多くが奇跡なのだ。

わが家の庭のバラは一年に3回咲くものと、2回だけ花開くつるバラに分けられる。つるバラは古い壁を這って上にのびる。

ことしは1回目のバラの開花が4月にあり、5月初めにピークを過ぎた。ちょうどそこに雨が降り続いて一気になえた。

普段はバラの盛りの美しさを愛でるばかりだが、ふとしぼむ花々にスマホのレンズを向けてみた。

するとそこにも花々の鮮烈な生の営みがあった。

命の限りに咲き誇るバラの花は華麗である。

片や盛りを過ぎてしなだれていく同じ花のわびしさもまた艶と知った。

崩れてゆく花が劇的に美しいのは、芽生え花開き朽ちてゆくプロセス、つまり花があるがままにある姿が奇跡だからである。

 

 

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アナクロな儀式は時には演歌のようにとてつもなく面白くないこともない

テレビ中継される英国王戴冠式の模様を少しうんざりしながら最後まで見ました。

うんざりしたのは、儀式の多くが昨年9月に執り行われたエリザベス女王の国葬の二番煎じだったからです。

女王の国葬は見ごたえのある一大ショーでした。

かつての大英帝国の威信と豊穣が顕現されたのでもあるかのような壮大な式典は、エリザベス2世という類まれな名君の足跡を偲ぶにふさわしいと実感できました。

筆者はBBCの生中継をそれなりに感心しつつ最後まで見ました。しかし、荘厳だが虚飾にも満ちた典礼には、半年後に再び見たくなるほどの求心力はありません。

それでも衛星生放送される戴冠式を見続けたのは、祭礼の虚飾と不毛に心をわしづかみにされていたからです。

国王とカミラ王妃が王冠を頭に載せて立ち上がったときは、筆者は心で笑いました。首狩り族の王が骸骨のネックレスを付けて得意がる姿と重なったからです。

民主主義大国と呼ばれる英国に君主が存在するのは奇妙なものですが、象徴的存在の国王が政治に鼻を突っ込むことはないので民主制は担保されます。

だが真の民主主義とは、国家元首を含むあらゆる公職が選挙によって選ばれることだとするならば、立憲君主制の国々は擬似民主主義国家とも規定できます。

民主主義の真髄が国民に深く理解されている英国では、例えば日本などとは違って君主制を悪用して専制政治を行おうとする者はまず出ないでしょう。

英国の民主主義は君主制によって脆弱化することはありません。しかし、むろん同時に、それが民主主義のさらなる躍進をもたらすこともまたありません。

英国の王室は日本の皇室同様に長期的には消滅する宿命です。

暴力によって王や皇帝や君主になった者は、それ以後の時間を同じ身分で過ごした後は、確実に退かなければなりません。なぜなら「始まったものは必ず終わる」のが地上の定めです。

彼ら権力者とて例外ではあり得ません。

また王家や王族に生まれた者が、必然的にその他の家の出身者よりも上位の存在になることはありません。あたかもそうなっているのは、権力機構が編み出した統治のための欺瞞です。

天は人の上に人を作らない。生まれながらにして人の上位にいる者は存在しない。それがこの世界の真理です。

そうはいうものの、しかし、英国王室の存在意義は大きい。

なぜならそれには世界中から観光客を呼び込む人寄せパンダの側面があるからです。イギリス観光の目玉のひとつは王室なのです。

英国政府は王室にまつわる行事、例えば戴冠式や葬儀や結婚式などに莫大な国家予算を使います。

それを税金のムダ使いと批判する者がいますが、それは間違いです。彼らが存在することによる見返りは、金銭面だけでも巨大です。

世界の注目を集め、実際に世界中から観光客を呼び込むほどの魅力を持つ英王室は、いわばイギリスのディズニーランドです。

ディズニーランドも、しかし、たまに行くから面白い。昨年見たばかりの英王室のディズニィランドショーを、半年後にまた見ても先に触れたように感動は薄い。

それが筆者にとってのチャールズ英国王の戴冠式でした。

 

 

 

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マスクを神聖視する羊群の危うさ

5月8日を興味津々に待っています。正確には5月8日以降の日本の光景。

5月8日はいうまでもなくコロナが日本でも季節性インフルエンザとみなされる日です。それに伴って人々がついにマスクを手放すかどうか、筆者は深い関心を抱いて眺めています。

マスク着用が個人裁量にゆだねられても、人々はマスクを外しませんでした。ちょうど帰国中だった筆者はそれを自分の目でつぶさに見ました。

異様な光景を見たままにそう形容すると、ほとんど侮辱されたのでもあるかのように反論する人もいました。しかし異様なものは異様です。

鏡に顔を近づけ過ぎると自分の顔がぼやけて見えなくなります。日本国内にいてあたりの同胞を見回すと同じ作用が起きやすい。距離が近過ぎて客観的な観察ができなくなるのです

政府が3月13日以降マスクの着用は個人の自由、と発表したにもかかわらず日本国民のほとんどはそれを外すことがありませんでした。その事実を軽視するべきではない。

人々がマスクを外さないのは、①周りがそうしているので自分も従ういわゆる同調圧力、②真にコロナ感染が怖い、③花粉症対策のため、などの理由が考えられます。

このうちの花粉症対策という理由はうなずけます。日本人のおよそ4人に1人が花粉症とされます。それどころか国民の約半数が花粉症という統計さえあります。

そうしたことを理由に日本人がマスクを外さないのは花粉症対策のためと主張する人も多い。

だがそれは最大およそ5割の日本人が花粉症としても、残りのほぼ5割もの国民がマスクに固執している理由の説明にはなりません。

また雨の日や夜間は花粉が飛ばない事実なども、マスクに拘泥する現象のミステリー度に拍車をかけます。

日本にはインフルエンザに罹ったときなどに割と気軽にマスクを着ける習慣があります。習慣は文化です。マスク文化がコロナという怖い病気の流行によって極端に強まった、という考え方もできるでしょう。

文化とは地域や民族から派生する、言語や習慣や知恵や哲学や教養や美術や祭礼等々の精神活動と生活全般のことです。

それは一つ一つが特殊なものであり、多くの場合は閉鎖的でもあり、時にはその文化圏外の人間には理解不可能な「化け物」ようなものでさえあります。

文化がなぜ化け物なのかというと、文化がその文化を共有する人々以外の人間にとっては、異(い)なるものであり、不可解なものであり、時には怖いものでさえあるからです。

そして人がある一つの文化を怖いと感じるのは、その人が対象になっている文化を知らないか、理解しようとしないか、あるいは理解できないからです。だから文化は容易に偏見や差別を呼び、その温床にもなります。

ところが文化の価値とはまさに、偏見や恐怖や差別さえ招いてしまう、それぞれの文化の特殊性そのものの中にあります。普遍性が命の文明とは対照的に、特殊であることが文化の命です。

そう考えてみると、日本人がいつまでもマスクにこだわること、つまり日本の文化のひとつを異端視することは当たらない。

ところが筆者は日本人です。日本の文化には親しんでいて理解もしています。その筆者の目にさえいつまでもマスクを外さない人々が多い景色は異様に見えるのです。

異様に見えるのは、その主な原因が花粉症対策というよりも同調圧力にあると疑われるからです。同調圧力そのものも異様ですが、それに屈する国民が多い現実はさらに異様であり危険、というのが筆者の気掛かりです。

同調圧力は多様性の敵対概念です。同調圧力の強い社会は排他性が強く偏見や差別が横行しやすい。またひとたび何かが起こると、人々が雪崩を打って一方向に動く傾向も強い。

片や多様性のある社会では、政治や世論が一方に偏り過ぎて画一主義に陥り全体主義に走ろうとする時、まさに多様な民意や政治力やエネルギーが働いてそれの暴走を回避します。

日本社会の画一性は古くて新しい問題です。日本国民の無個性な大勢順応主義は、間接的に第2次大戦勃発の原因にさえなりました。

いまこの時は、ロシアのウクライナ侵攻によって引き起こされた欧州の危機感が日本にも伝播して、中国を念頭に軍拡が急速に進もうとしています。

そこには正当な理由があります。だが、まかり間違えば政治が暴走し再び軍国主義が勢いを増す事態にもなりかねません。それを阻止するのが社会の多様性です。

おびただしい数のマスクが、人々の動きに伴って中空を舞う駅や通りの光景を目の当たりにして、筆者は少なからぬ不安を覚えていました。

5月8日以降もしっかり見守ろうと思います。

 

 

 

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