5月8日を興味津々に待っています。正確には5月8日以降の日本の光景。
5月8日はいうまでもなくコロナが日本でも季節性インフルエンザとみなされる日です。それに伴って人々がついにマスクを手放すかどうか、筆者は深い関心を抱いて眺めています。
マスク着用が個人裁量にゆだねられても、人々はマスクを外しませんでした。ちょうど帰国中だった筆者はそれを自分の目でつぶさに見ました。
異様な光景を見たままにそう形容すると、ほとんど侮辱されたのでもあるかのように反論する人もいました。しかし異様なものは異様です。
鏡に顔を近づけ過ぎると自分の顔がぼやけて見えなくなります。日本国内にいてあたりの同胞を見回すと同じ作用が起きやすい。距離が近過ぎて客観的な観察ができなくなるのです
政府が3月13日以降マスクの着用は個人の自由、と発表したにもかかわらず日本国民のほとんどはそれを外すことがありませんでした。その事実を軽視するべきではない。
人々がマスクを外さないのは、①周りがそうしているので自分も従ういわゆる同調圧力、②真にコロナ感染が怖い、③花粉症対策のため、などの理由が考えられます。
このうちの花粉症対策という理由はうなずけます。日本人のおよそ4人に1人が花粉症とされます。それどころか国民の約半数が花粉症という統計さえあります。
そうしたことを理由に日本人がマスクを外さないのは花粉症対策のためと主張する人も多い。
だがそれは最大およそ5割の日本人が花粉症としても、残りのほぼ5割もの国民がマスクに固執している理由の説明にはなりません。
また雨の日や夜間は花粉が飛ばない事実なども、マスクに拘泥する現象のミステリー度に拍車をかけます。
日本にはインフルエンザに罹ったときなどに割と気軽にマスクを着ける習慣があります。習慣は文化です。マスク文化がコロナという怖い病気の流行によって極端に強まった、という考え方もできるでしょう。
文化とは地域や民族から派生する、言語や習慣や知恵や哲学や教養や美術や祭礼等々の精神活動と生活全般のことです。
それは一つ一つが特殊なものであり、多くの場合は閉鎖的でもあり、時にはその文化圏外の人間には理解不可能な「化け物」ようなものでさえあります。
文化がなぜ化け物なのかというと、文化がその文化を共有する人々以外の人間にとっては、異(い)なるものであり、不可解なものであり、時には怖いものでさえあるからです。
そして人がある一つの文化を怖いと感じるのは、その人が対象になっている文化を知らないか、理解しようとしないか、あるいは理解できないからです。だから文化は容易に偏見や差別を呼び、その温床にもなります。
ところが文化の価値とはまさに、偏見や恐怖や差別さえ招いてしまう、それぞれの文化の特殊性そのものの中にあります。普遍性が命の文明とは対照的に、特殊であることが文化の命です。
そう考えてみると、日本人がいつまでもマスクにこだわること、つまり日本の文化のひとつを異端視することは当たらない。
ところが筆者は日本人です。日本の文化には親しんでいて理解もしています。その筆者の目にさえいつまでもマスクを外さない人々が多い景色は異様に見えるのです。
異様に見えるのは、その主な原因が花粉症対策というよりも同調圧力にあると疑われるからです。同調圧力そのものも異様ですが、それに屈する国民が多い現実はさらに異様であり危険、というのが筆者の気掛かりです。
同調圧力は多様性の敵対概念です。同調圧力の強い社会は排他性が強く偏見や差別が横行しやすい。またひとたび何かが起こると、人々が雪崩を打って一方向に動く傾向も強い。
片や多様性のある社会では、政治や世論が一方に偏り過ぎて画一主義に陥り全体主義に走ろうとする時、まさに多様な民意や政治力やエネルギーが働いてそれの暴走を回避します。
日本社会の画一性は古くて新しい問題です。日本国民の無個性な大勢順応主義は、間接的に第2次大戦勃発の原因にさえなりました。
いまこの時は、ロシアのウクライナ侵攻によって引き起こされた欧州の危機感が日本にも伝播して、中国を念頭に軍拡が急速に進もうとしています。
そこには正当な理由があります。だが、まかり間違えば政治が暴走し再び軍国主義が勢いを増す事態にもなりかねません。それを阻止するのが社会の多様性です。
おびただしい数のマスクが、人々の動きに伴って中空を舞う駅や通りの光景を目の当たりにして、筆者は少なからぬ不安を覚えていました。
5月8日以降もしっかり見守ろうと思います。
official site:なかそね則のイタリア通信