プーチンを排斥してもトランプが復活すれば世界は元の木阿弥だ

2022年11月15日、トランプ前大統領が2年後の米大統領選に立候補すると宣言しました。それはロシアのウクライナ侵攻に勝るとも劣らない悪い知らせです。

118日の米中間選挙で民主党が勝利したのは、アメリカの民主主義にとって、ひいては世界の民主主義にとっても幸いな結果でした。

上院で僅差の勝利、下院では逆に僅差の負けですから、あるいは民主党の勝利と呼ぶのは当たらないかも知れません。

だが事前予想では、上下院とも共和党が大勝すると見られていました。また歴史的にも中間選挙では野党が勝つのが当たり前、という明確なデータもあります。

従って政権与党の民主党が上院を制し下院でも善戦したのは、やはり同党の勝利と呼んでも構わない結果ではないでしょうか。

下院では共和党が過半数を制したため、バイデン大統領の今後の政権運営が厳しいことには変わりがありません。それでも政権がレームダック化することは避けられました。

民主党の善戦はイコール共和党の不振です。中でも選挙運動で派手に動いたトランプ前大統領の威信が落ちました。

彼は中間選挙で共和党が地すべり的な勝利を収めと予想されていたことを受け、例によってそれを自らの手柄だと吹聴しながら2024年の大統領選挙への立候補宣言をすると見られていました。

ところが中間選挙の結果が思わしくなかったため、立候補をためらうか後回しにするか、極端な場合は断念するとさえ考えられました。

だが嘘や憎悪や不寛容を武器に大衆を扇動するのが得意なトランプ前大統領は、何があっても彼を支持するネトウヨヘイト系の差別主義者らを頼りに早々と立候補を宣言しました。

そこには次の大統領選に向けて共和党内に生まれつつある新勢力、デサンティス・フロリダ州知事やペンス前副大統領などを抑え込もうとするトランプ氏のしたたかな計算があると見られています。

トランプ氏は大統領選に敗れてからも負けを認めず、2021年1月6日には支持者を教唆して米国議会議事堂を襲撃したとされています。その後も彼の岩盤支持者に呼びかけては集会を繰り返してきました。

そこではいつも通りにあることないことを自在に誇張歪曲して叫んでは支持者を焚きつけました。

彼の主張を全て正しいと考えるアメリカ国民は相変わらずに多くいて、トランプ氏を再び大統領に押し上げようとする潮流はほとんど衰えを知りません。

またミーイズムが歩いているようなトランプ氏の唯我独尊主義も変わらず、彼は冒頭で触れたように大急ぎで2024年の大統領選への立候補を表明したのです。

トランプ前大統領は2016年、差別や憎しみや不寛容や偏見を隠さずに、汚い言葉を使って口に出しても構わないと考え、そのように選挙運動を展開して米国民のおよそ半数の共感を得ました。

トランプ大統領を生み出したアメリカは、もはや民主主義国家の理想でもなければ世界をリードする自由の象徴国でもありません。

アメリカは、ネトウヨヘイト系排外差別主義者とそれを否定しない国民が半数近くを占める、「普通の国」なのです。

トランプ大統領の存在は、自由と寛容と人権と民主主義を死守しようとする「理想のアメリカ」の信奉者をくじき、右派ポピュリズムに抱き込まれた人々を勢いづかせました。

そしてトランプ主義が横行する悪のトレンドは、彼の大統領在任中ひたすら加速しました。

アメリカほど暴力的ではありませんが、ネトウヨヘイト系排外差別主義者とそれを否定しない国民が半数を近くを占める「普通の国」は、欧州を始め世界中に多い。

ここイタリアもフランスもイギリスも、そして日本もそんな国です。南米にも多い。

そうではありますが、アメリカ以外の特に欧州の国々には、トランプ登場以前の良識や政治的正義主義(ポリティカルコレクトネス)が一見優位を占めるような空気がまだあります。そのためアメリカで起きている政治的動乱を、対岸の火事のように眺める者も少なくありません。

だがイギリスには保守ポピュリストのBrexit信奉者がいて、フランスには極右のル・ペン支持者がいる。ここイタリアでは、「イタリアの同胞」を筆頭にする極右政党への支持が増え続けています。

イタリアにおける「反EU勢力」を全て合わせると、統計上は国民のほぼ半数に相当します。それらの人々は、あからさまに表明はしなくても心情的にはトランプ支持者に近い。

さらに言えば、「普通の国」のそれらの右派勢力は ― 彼らがいかに否定しようとも ― 中国やロシアや北朝鮮などの独裁勢力とも親和的なリピドーを体中に秘めています。

アメリカに関して言えば、トランプ支持者また共和党支持者に対抗する民主党も、対抗者と同様に危なっかしいと筆者の目には映ります。

民主党が対話と協調路線を追求するのは良いのですが、世界の権威主義的勢力に対抗するだけの力を秘めているとは言いがたい。

トランプ前大統領の立候補によってアメリカ国民の融和と癒しはますます遠ざかることになるでしょう。その上彼が当選する事態になれば、アメリカの民主主義は今度こそ真に危機に瀕する可能性があります。

なぜならトランプ氏の正体は民主主義者などではなく、世界の権威主義的指導者すなわち習近平国家主席、プーチン大統領、金正恩総書記らに近い、ファシスト気質の政治的放火魔に過ぎないからです。

ネトウヨヘイト系差別主義や右派ポピュリズムは、米国のみならず世界のほぼ半数の人々が隠し持つ暗部であることが明らかになりつつあります。いや、明らかになった、と言うほうがより正確でしょう。

それは憂慮するべき現実です。もしもアメリカに第2次トランプ政権が誕生すれば、プーチン大統領が引き起こした世界の混乱は―彼の失脚や生死とは無関係に―収まるどころかますます悪化して行くことになりかねません。

 

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「ちむどんどん」の俳優は皆ど~んと輝いていた

演出の罪

「ちむどんどん」スペシャルを見ました。比嘉家の4兄妹が終わったばかりの番組について素の俳優に戻って語り合う、という趣向でした。

和気あいあいとした彼らの語りはすがすがしく納得できる内容でした。役回りについての4人のそれぞれの思いもきっちりと伝わりました。

進行役を務めた川口春奈の自然でユーモラスで思いやりに富んだ語り口が印象的でした。筆者はたちまち彼女のファンになりました。

4人の俳優のトークは、彼らが人間的にすばらしい若者たちで、且つプロの優秀な役者であることをあらためて示していました。それを確認できたことを筆者は嬉しく思いました。

筆者は「ちむこんどん」については否定的な立場でこれまでに何度もそう書いてきました。筆者のネガティブな見方は、繰り返して述べたように演出をはじめとする制作者へのものでした。

特に演出への批判は尽きませんでした。脚本が悪いという意見も多くあったようですが、そして筆者もそのことを否定はしませんが、脚本は演出によっていくらでもダメ出しができます。

従って脚本にダメ出しをしなかった演出はもっとさらに責められるべきなのです。

筆者は演出家を筆頭にする「ちむどんどん」の制作陣の名前は一切知りません。ドラマの中身だけを見て批評しました。それができたのは番組を録画して、クレジットの部分を飛ばして見続けたからです。

そこには時間節約の意味もありましたが、名前よりも制作のコンセプト、つまり演出の意図と彼の役割のみを重視したいという考えがありました。

日本の制作環境

筆者はドキュメンタリー制作者ですが下手な演出家でもあります。その筆者の数少ない劇作の経験によると、日本では演出の責任が少しあいまいであるように記憶しています。

筆者は劇作をする場合、脚本に注文をつけることを恐れません。といいますか、演出家は自己責任において脚本を管理下に置くべきです。

管理下に置くことはほとんど義務です。なぜなら脚本を含む劇作の全ての責任は演出にあるからです。重ねて言いますが、作品の結果の責任は、成功、失敗の区別なく一切が演出にあるのです。

ところが日本では、ドラマ作りのような極めてクリエイティブな世界でも、和の精神が生きていて演出の絶対的な権威よりもスタッフ全員の合意を重視するように感じました。

そういう環境では作品の核がぼやける危険があります。

そして日本のドラマ制作ではその危険が現実化するケースが多い。「ちむどんどん」はまさにその陥穽にはまったのだと思います。

和の重視は笑いの敵

恐らく制作の現場では出演者や技術系を含む全てのスタッフが、演出側と共ににーにーの演技に笑い、楽しみ、存在を盛り上げたに違いありません。和の精神で全員が高揚する場面が見えるようです。

それは良いのですが、全ての責任を負っている演出は、そこから一歩引いて、現場の笑いが直接に茶の間の笑いになるのではないことを冷静に見極めなければなりません。

スタッフと共に盛り上がる演出はそのことを忘れたフシがあります。和の精神に引きずられて、演出の責任を共有するとまでは言いませんが、演出の実存である「孤独」と「責任」を放棄している。

それでなければ、にーにーが牽引する杜撰なシーンがこれでもかとばかりに提示され続けた理由が分かりません。演出が独りで考え断固として差配していれば起こりにくいことです。

現場でスタッフが大笑いするシーンは、得てして茶の間にシラケを呼び込みます。演出は劇中の笑いが、彼とスタッフが鬼面になり苦しんで作り上げるものであることを軽視している。筆者にはそう感じられます。

そこには「劇作りは演出が全て」という厳しい掟がおざなりになって、スタッフ全員が“共同で”シーンを作り上げていく、という和の精神の横溢が見えます。既述のようにそれは往々にして作品の核を破壊します。

脚本の不備も演出の罪

演出は脚本が提示したにーにーのキャラクターに、それがドラマの大いなる欠陥であることに気づくことなくOKを出し、その結果引き起こされるさまざまなエピソードも良しとしました。

のみならず彼自身も大いに自己投影して、にーにーが視聴者にたくさんの“笑いを届け得るキャラクター”だと信じ切り、劇作りの現場でそのように演出しました。

その結果、映画「男はつらいよ」の寅さんを強く意識した、馬鹿で惚れっぽい愛すべき男の形象がふんだんに詰め込まれました。しかし全て空回りしました。

空回りしたのは同じようなシーンが頻出したからです。たとえに-にーが本物の馬鹿であっても、現実世界でなら必ず歯止めがかかるはずの成り行きが、そうはならずに何度も見過ごされました。

しかも再三提示される(演出が面白いと信じているらしい)にーにーの動きは、ひたすら鬱陶しいだけでした。視聴者が疲れていることに気づけない演出の独りよがりはさらにもっとつまらなかった。

半年にも渡ってほぼ毎日放映される朝ドラは、ドラマツルギー的には全体にゆるい軽いものにならざるを得ません。従ってソープオペラよろしくある意味では批評に値しない。

それでも筆者が批評じみた文章を書いたのは、ドラマの瑕疵が大きく、しかもそれは役者の問題ではなく「演出の問題」であることを指摘したかったからです。

素晴らしい俳優たち

筆者は「ちむどんどん」スペシャルに顔を出した4人の俳優のうち、3人の演技を別番組で見て既に知っていました。

主人公の暢子役の黒島結菜はNHKドラマの「アシガール」、 にーにー役の竜星 涼は日本テレビの「同期のサクラ」、良子の川口春奈はNHK大河ドラマ「麒麟が来る」でそれぞれが好演していました。

彼らはドラマの内容も、それぞれの役のキャラクターも全く違う「ちむどんどん」の世界でも、きちんと仕事をこなしました。彼らはいずれ劣らぬ有能な俳優なのです。

末っ子の歌子を演じた上白石萌歌は「ちむどんどん」で初めて知りましたが、おそらく彼女の場合も同じでしょう。難しい役回りの歌子をしっかりと演じていたのを見ればそれは明らかです。

彼ら4人を含む「ちむどんどん」の多くの出演者は、脚本を支配する(しているはずの)演出の指示のままに彼らの高い能力を十二分に発揮して、それぞれの役を演じました。

その長丁場のドラマは、竜星 涼という役者が彼の優れた演技能力を思い切り示して演じた、にーにーというキャラクターとエピソードがNGだったために、大いに品質を落としました。

それは断じて役者の咎ではなく、これまで繰り返し述べたように演出の責任です。演出は ― くどいようですが― 脚本をコントロールできなかったことも含めて批判されなければならないのです。

一方、役者は脚本と演出が示すキャラクターを十全に演じ切りました。そうやって愚劣なエピソードが積み重ねられ、リアリティのない不出来一辺倒のにーにーという人物像が一人歩きをしました。

にーにーほどの不出来ではありませんが、主人公の暢子の人物像も感心できないものでした。本来なら前向きで明るいはずの主人公の暢子のキャラクターも、にーにーとの絡みで混乱しました。

彼女もまたニーニーに似て、いい加減で鈍感な女性、と英語本来の意味での「ナイーブ」な視聴者に認識されてしまったフシがあります。

再び言いたい。暢子の問題は断じて演者である黒島結菜の問題ではなく、暢子と劇を作り上げた制作者の、もっと具体的に言えば演出の責任です。

リメイク版があるならば

「ちむどんどん」は、にーにーのエピソードを思い切り短縮して、且つ人物像をリアルなものにしない限り、ドラマ全体の救済はできません。

それができれば、にーにーとの関わりで視聴者の不評をかった暢子の場面の改善や削減もできます。そしてその改定場面は連鎖して必ずほかの場面の内容の向上にもつながります。

だがそれは、たとえ番組のリメイクが許されたとしても恐らく実現しません。なぜならスペシャル版では、スピンオフ物語として性懲りもなくにーにーの物語がまた挿入されていたからです。しかも再び長々と。

つまり制作サイドは、にーにーの存在の疎ましさがドラマの最大の瑕疵だと気づいていない。あるいは気づいていても認めたくないようです。

一方で、4人の兄弟を始めとする出演者の全員はそれぞれがキラ星のごとく輝いていました。誰もが胸を張って今後のキャリアに邁進してほしいと思います。

中でも筆者は、特に演出の失態の損害を被ったように見える黒島結菜に大きなエールを送ります。

 

 

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柿とカキ

数年前に庭に植えた柿の木が実をつけています。

柿はイタリア語でも「カキ」と呼ばれます。そのことから分かる通り柿はもともとイタリアにはなく、昔日本から持ち込まれたもので、ほとんどすべてが渋柿です。

そのままでは食べられないので、イタリア人は容器や袋に密封して暗がりに置き、実がヨーグルトのようにとろとろになるまで熟成させてから食べます。そうすると渋みがなくなって甘くなります。

要するにイタリアには、固い渋柿かそれを超完熟させた、とろとろに柔らかい甘柿しかありません。

つまりこの国の人々にとっては、柿とは「液状に柔らかくなった実をスプーンですくって食べる果物」のことなのです。

最近は外国産の固い甘柿も売られていますが、彼らはそれもわざわざ完熟させて極端に柔らかくしてから食べます。

かつて日本から柿をイタリアに持ち込んだのは恐らくキリスト教の宣教師だと思います。

その際彼らがあえて渋柿を選んだとは考えにくい。きっと甘柿と渋柿の苗木を間違えたのでしょう。

あるいは甘柿のなる木が多くの場合、接ぎ木をして作られるものであることを知らなかったのでしょう。

そんなわけで「普通に固い甘柿」が大好きな筆者は秋になるといつも欲求不満になります。

店頭に出回る柔らかい柿はあくまでも「カキ」であって、さくりと歯ごたえのある日本のあの甘い柿とはまるきり別の果物だと感じるのです。

そこで庭に柿の木を植えて甘柿の収穫を目指しました。

植木屋に固い甘柿がほしいのだと繰り返し説明して、柿の木を手に入れ植えました。

数は多くありませんが甘柿の木はあるのです。それには蜘蛛の巣のような模様のある実が生ります。ところが庭の木に生った実は全て渋柿でした。

植木屋が筆者をだましたとは思えません。

彼はきっと筆者にとっての固い甘柿の重要さが理解できなくて、実がとろとろになるまで熟成させて食べれば渋いも甘いも皆同じじゃないか、と内心で軽く見切って木を筆者に売ったと見えます。

少し腹立たしくないこともありませんが、実をつけた柿の木は景色として絵になるので、まあ好し、と考えることにしました。

庭に生る柿は熟成させて家族が食べ、筆者は相変わらず店で固い甘柿を買って食べています。

 

 

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地中海の10月夏を異形の街トリノに遊ぶ

オットブラータ(Ottobrata10月夏)の暖気に促されて繰り返した週末旅で、ピエモンテ州のアルバ(Alba)を訪ねました。

アルバはトリュフで知られた街。ちょうどトリュフ祭り(展示会)が開かれていました。しかし筆者が食べたいのは、トリュフよりもポルチーニ茸でした。

トリュフは嫌いではないが興味もない、というのが筆者の昔からの偽りのない気持ちです。香りも味もいまひとつピンと来ないのです。

トリュフのパスタには簡単に出会いました。だが、ポルチーニ料理にはありつけませんでした。それでもメインで食べた子牛の頬肉煮込みが出色だったので満足しました。

遅くなって帰宅の途に就きましたが、途中で気が変わって一泊することにしました。翌日は日曜日なので成り行き任せの決断でも問題がなかったのです。

ほぼ行きあたりばったりにアスティ(Asti)で宿を取りました。実はアルバほかの街々の宿はどこも満員で全く空きがありませんでした。「仕方なく」アスティに泊まった、というのが真実です。

コロナが終息した、と考える国民が多いイタリアは旅行ブームです。厳しい都市封鎖や規制から開放された人々が、観光地へどっと繰り出しています。ホテルが混んでいるのもそのせいでした。

アスティは殺風景なたわいない街でした。ひとつ良かったのはアスティ産の甘い「アスティ・モスカートワイン」。アルコール度数がビール並みに低いので、1人でほぼ一本を開けました。むろん美味くなければそんなことはしません。

翌日は雨模様でした。

過去に仕事で訪ねた体験からも、地方は期待外れに終わりそうだと判断して、州都のトリノを目指すことにしました。

トリノはイタリアの一部だがイタリアではない、と筆者は少し誇張して考えます。フランスのあるいはパリの下手な写しがトリノという都会です。

物事の多くは模写から始まります。

ところが模写を習いや修行や鍛錬などと称して尊重する日本文化とは違い、西洋のそれはオリジナリティを重視します。のみならず模写を否定します。

その意味ではトリノも否定的に捉えられがちです。しかしトリノがフランスのそしてさらに詳細にはパリの模倣であっても構わない、と筆者は考えます。

なぜならトリノはフランスやパリを真似することで、イタリアの中で異彩を放つ都市になりました。物真似がトリノの独自性なのです。

物真似から誕生したトリノは、そのありのままの形で存在することで、全体が個性的な都市や町や地域の集合体であるイタリア共和国の、多様性の一環を成しています。

そうではあるものの、筆者にとってはトリノは少しも美しくはありません。

その理由はトリノの新しさです。フランス的なものが新しく見えてつまらないのです。また建物が大げさで、そこかしこの広場や街路も無意味に広大です。

イタリアの都市に必ず存在する旧市街あるいは歴史的街並がトリノにはない。気をつけて見ればないことはないのですが、それらは近代の建物に圧倒されてほとんど目につきません。

旧市街を別の言葉で言えば中世の街並み。あるいは中世的な古色に染まる景色。はたまた狭い通りや古い建物、崩れ落ちそうな遺跡などが醸し出す豊かな風情。あるいはワビサビの世界。

そういうシーンがトリノにはありません。繰り返しになりますが全てが比較的新しく、大きく、重厚気味に存在感があり、そしてたまらなく退屈です。

トリノの街並みを思わせる歴史的なスタイルがイタリアにはもう一つあります。それはファシスト時代の建築の構え、つまりリットリア様式の建築物です。

リットリア様式は古代ローマを模倣しようとした表現法で、武骨且つ単純な力強さがあります。尊大なファシストだったムッソーリーニと取り巻きが、自らの力を誇示しようとして編み出しました。

正確に言えばむろんそれとは違います。だが大きく、重々しく、うっとうしい雰囲気は共通しています。

そこには「イタリアを所有している」とまで形容された巨大自動車メーカー、フィアット(FIAT)のイメージも影を落としています。

複合的な心象や写像や現実は、FIATそのものを支配し、果てはトリノという都市まで支配したアニエッリ一族のイメージへとつながります。

古い時代のトリノは、イタリア統一にかかわったサヴォイア王家の拠点でした。フランスの猿真似はサヴィオア家によって完成されました。

後年、アニエッリ一族は自動車産業を介してトリノを支配しました。街伝統の猿真似を踏襲しつつ貴族を気取ったのがアニエッリ一族です。そのうさん臭さ。

アニエッリ一族の中でもっとも著名なジャンニ・アニエッリは、欧州に進出する日本のビジネスに恐れをなして、「黄禍論」を公然と語った不埒な男です。

当時の日本は今の中国と同程度に世界に嫌われ恐れられていました。従ってジャンニ・アニエッリの口吻は理解できないこともありません。

だがイタリアに来たばかりの若い筆者は、その有名人の言動に強い反感を抱きました。時間とともに怒りは収まりましたが、ジャンニ・アニエッリとアニエッリ家への好感は残念ながら未だに芽生えません。

そんな感慨は、しかし、トリノの街並みや雰囲気への筆者のかすかな反感とは無関係です。

なぜなら筆者は、いま述べたように、トリノのみならずピエモンテの各地を巡るとき、他のイタリアの都市や地方とは違い、古色蒼然としたコアな街並みがほとんど存在しない点に、常に物足りなさを感じるからです。

 

 

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ヴェローナでリゾットを食べロメオとジュリエットに会った

10月、季節はずれのぽかぽか陽気と晴天にはしゃいで近場のヴェローナにも出かけました。

一応の旅の目的を立てました。つまりアマローネ・リゾットを食べること。ヴェローナ近辺で生産される高級ワイン、アマローネを使ったリゾットです。

ヴェローナはイタリアのエッセンスが詰まった美しい古都の一つです。

だが晴天と暑気と週末が重なって、街には人出が多く花の都の景観をかなり損なっていました。少し前ならコロナの密が怖くて歩けなかったであろうほどに、街じゅうが混雑していました。

ローマ時代の円形闘技場・アレーナがあるブラ広場、街の中心のエルベ広場またシニョーリ広場とそれらを結ぶ大小の道を歩きました。

そこではときどき路上で立ち尽くさなければならないほどの人出があり、思わず雑踏事故の4文字を思い浮かべることさえありましたたりさえした。

イタリアではコロナがほぼ終息したと考えられていて、旅行また歓楽ブームが起きています。

コロナパンデミックに苦しめられ、ロックダウンで窒息した人々の怨念が解き放たれて、心身が雀躍しているのが分かります。

そこにOttobrata(10月夏)の好天が続いたので、人々の外出への欲求がいよいよ高まりました。

筆者は本職のビデオ取材以外でもヴェローナにはけっこう通いました。

義父が製造販売していたワイン展示の手伝いで、ヴィンイタリー(Vinitaly)会場に出入りしたのです。

ヴィンイタリー(Vinitaly)は毎年4月、ヴェローナ中心部に近い広大な会場で開催されます。

1967年に始まった世界最大のワイン展示会です。

義父は10年ほど前までワインを作っていました。自家のブドウ園の素材を使って生産しVinitaly にも参加していました。

時間が許す限り筆者はワインの展示を手伝うために会場に通いました。

だが手伝うとは名ばかりで、実は筆者はワインの試飲を楽しんだだけでした。展示会場を隈なく回って各種ワインの味見をするのです。そこではずいぶんとワインの勉強をしました。

義父のワイン事業はビジネスとしては厳しいものでした。

ワインは誰にでも作れます。問題は販売です。

貴族家で純粋培養されて育った義父の商才はほぼゼロでした。ワインビジネスはいわば彼の贅沢な道楽でした。

義父が亡くなったとき、筆者がワイン事業を継ぐ話もありました。だが遠慮しました。

筆者はワインを飲むのは好きですが、ワインを「造って売る」商売には興味はありません。その能力もありません。

それでなくても義父の事業は赤字続きでした。

ワイン造りはしなくて済みましたが、筆者は義父の事業の赤字清算のためにひどく苦労をさせられました。

vinitalyに顔を出していた頃は、会場から市内中心部まで足を運ぶこともありませんでした。それ以前にアレーナと周辺のロケをしたことがありますが、記憶があいまいなほどに時間が経ちました。

淡い記憶をたどりながらアレーナ周りを歩き、観察し、前述の広場や路地を訪ね巡りました。

歴史的にはほぼフェイクとされる「ロメオとジュリエット」のジュリエット像と屋敷も見に行きました。

そこの人ごみのすごさにシェイクスピアの物語の強烈な影響を思いましたが、ただそれだけのことで格別に印象に残るものはありませんでした。

 

 

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国際都市ジェノヴァの肥溜めの深奥

10月の陽気に浮かれて旅したジェノヴァでは、下町の港周辺地区を主に歩きました。特にカンポ通り(Via del Campo)です。

ジェノヴァは基本的に2地域に分かれると筆者は考えています。港の周辺とそれ以外の地区です。

ジェノヴァ港は地中海でも1、2を争う規模と取引量を誇ります。ジェノヴァの富の源泉がジェノヴァ港です。

港周り以外のジェノヴァの地域は、割合で言えば8割程度の重みがあります。

そこは街の政治経済文化の中心です。一帯には元々のイタリア人(白人)で、いわば街の支配階級が住みます。

一方、そこからフェッラーリ広場を抜けて入るカンポ通りには、港の荷揚げ作業などの苦役に従事する外国人労働者や移民が多く住みます。

通りは港の一部と形容しても構わないほどに近接しています。

あたりの印象は、外国人に混じってイタリア人あるいはジェノバ人が細々と生きている、という風でさえあります。

イタリアきってのシンガーソングライター、ファブリツィオ・デ・アンドレは

「カンポ通りには木の葉色の瞳を持つ娼婦がいる 

(通りも娼婦も街の肥溜めだ) 

ダイヤモンドからは何も生まれない 

だが肥溜めからは花が生まれる」

と歌いました。

肥溜めのように貧しいカンポ通りに生きる娼婦こそ人生を正直に生きる花だ、と讃えたのです。

哀切を誘うメロディーに乗った寓意的な歌詞が、デ・アンドレの低い艶のある声でなぞられて心にぐさりと突き刺さります。

カンポ通りの一角の壁には、デ・アンドレの数多い名作の中でも最高傑作のひとつである“Via del Campo”の1節を刻んだ表意絵が掛かっています。

通りを歩いた先にあるレストランで食事をしました。

そこには地域の住民はいません。街の8割方に住む豊かなジェノヴァ人と旅人が店の客です。

筆者はその店で散財することができる、特権的な旅人のひとりとなって食事を楽しませてもらいました。

鮮やかな緑色のペスト・ジェノヴェーゼにからませたパスタは、本場でしか味わえない深い風味がありました。

メインで食べたタコ料理に意表を衝かれました。いったいどんな手法なのか、タコが口に含むととろりと溶けるほどにやわらかく煮込まれていました。

タコ料理は今日までにそこかしこの国でずいぶん食べましたが、その一品はふいに筆者の中で、ダントツのタコ料理レシピとして記憶に刻まれてしまいました。

白ワインはリグーリア特産のヴェルメンティーノ(Vermentino)。きんきんに冷えたものを、と頼むと予想を上回るほどに冷えたボトルが出てきました。

味は絶品以外のなにものでもありませんでした。

ところで

ジェノヴァ市民は、多分イタリアでもっとも親切な人々、というのが筆者の持論です。

筆者はロケでイタリアのありとあらゆるところに行きます。その体験から「親切なジェノヴァ人」という結論に行き着いたのです。

情報収集やコンタクトや時間の融通や撮影許可やロケ車の置き場所や始末や・・あるとあらゆる事案にジェノヴァ人は実に懇切、丁寧、に対応してくれます。

それは多分ジェノヴァの人たちが国際的であることと無関係ではありません。

港湾都市のジェノヴァには、常に多くの外国人が出入りし居住しました。埠頭の人夫から豊かな貿易商人まで、様々な境遇の人々です。

ジェノヴァの人々は言葉の通じない外国人を大切にしました。彼らは皆ジェノヴァの重要な貿易相手国の国民だったからです。

そこからジェノヴァ人の親切の伝統が生まれました。

国際都市ジェノヴァには、また、国際都市ゆえの副産物も多くありました。

その一つがサッカー。

世界の強豪国、イタリアサッカーの発祥の地も、実はジェノヴァなのです。

その昔、ジェノヴァに上陸したイギリス人の船乗りが母国からサッカーを持ち込んで、それが街に広まりました。

今でこそトリノやミラノのチームが権勢を誇っていますが、イタリアサッカーの黎明期には、ジェノヴァチームは圧倒的に強かったのです。

さらに

古来、イタリア半島西端のやせた狭い土地で生きなければならなかったジェノヴァ人は、働き者で節約精神も旺盛だと言われます。

そこで生まれた冗談が「ジェノヴァ人はイタリアのユダヤ人」。イギリスにおけるスコットランド人と同じ。

リグーリア州の大半は山が突然海に落ち込むような地形です。平地が少なく地味もやせています。

そのため人々は海に進出し、知恵をしぼって貿易にいそしみ巨万の富を得ました。

それは世界におけるユダヤ人と同じ。

彼らのケチケチ振りを揶揄しながら、人は皆彼らの高い能力をひそかに賞賛してもいます。

「~のユダヤ人」というのは決して侮蔑語ではありません。それは感嘆語です。

親切でこころ優しいイタリアのユダヤ人、ジェノヴァ人に乾杯。

感嘆語のみなもと、ユダヤ人には、もっと、さらに乾杯。

 

 

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地中海の10月夏を遊ぶ

イタリア語にOttobrata(オットブラータ)という言い回しがあります。Ottobre(10月)から派生した言葉で、日本語に訳せば小春日和に近い。

小春日和は初冬のころの暖かい春めいた日のことです。あえて言えば秋のOttobrataとは時期がずれます。しかし、イタリアの秋は日本よりも冷えますから小春日和で間に合うようにも思います。

Ottobrataも小春日和も高気圧が張り出すことで生まれます。ただOttobrataは小春日和のように1日1日を指すのではなく、数週間単位のいわば“時節”を示す印象が強い。

ことしのOttobrataはほぼ10月いっぱい続き、11月にまでずれこみそうです。もっともイタリア語では、11月に入ってからの暖かい日々は「サンマルティーノの夏」と呼びます。

それは英語のインドの夏とほぼ同じニュアンスの言葉です。

ことしのOttobrataは期間が長く気温も高状態が続きました。そこで週末は遠出をしたり1泊程度のプチ旅行をしたりしました。

変わらずに晴天が続けば、「サンマルティーノの夏」にまでなだれこんで、12月まで寒さがやってこないかもしれない、と考えたくなるほどの陽気が続きました。

長すぎるOttobrataはやはり温暖化のせい、というのが専門家の見立てです。もっとも専門家ではなくとも、近年の異常気象を見れば何かがおかしいと推測できます。

イタリアはことしは冬、異様な旱魃に見舞われ大河ポーが歴史始まって以来の低水位にまで下がりました。危険な状況は春には改善しましたが、夏には再び干上がって警戒水準が続きました。

夏の少雨は強烈な日差しを伴いました。記録的な暑さが和らぐと普通に気温が下がるかと見えました。が、それはほんの数日の出来事でした。

真夏の暑さは去ったものの、強い日差しが続いて、Ottobrataに突入したのでした。

近場を巡り、少し足を伸ばしてリグーリア州やピエモンテ州にも出かけました。ほとんどが日帰りの旅でしたが、リグーリアとピエモンテではそれぞれ一泊しました。

車ですぐの距離の小さな湖や、そこより少し遠いヴェローナなども訪ねました。

食べ歩きをイメージした仕事抜きの旅は、夏の休暇を除けば初めての経験です。

最初は10月半ばの週末。リグーリア州に向かいました。そこにはジェノヴァがありチンクエテッレがありサンレモがありポルトフィーノもあります。

筆者はそれらの土地の全てをリサーチやロケなどの仕事で訪れています。

先ずジェノヴァの隣のカモーリを巡りました。

カモーリは崖と海に挟まれた小さなリゾート地。ミニチュアのような漁港があります。

漁港では毎年5月、直径4メートルもの大フライパンで魚を揚げて、人々に振舞う祭りがあります。筆者は以前その様子を取材したこともあります。

レストランやバールが連なる海岸沿いの通りの下には海がありビーチがあります。通りの先にあるのがいま触れた港です。

ほぼそれだけの街ですが、リゾートの魅力がこれでもかと詰め込まれた印象があって、全く飽きがきません。

通りを行き来して不精をたのしみ、美味い魚介のパスタと土地の白ワインを堪能しました。

きんきんに冷えた白ワインと魚介パスタの相性は、依然食べたときも今回も、変わらず至高の味がしました。

 

 

 

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聖人も信徒も等しく死者になる

昨日、つまり11月2日はイタリアの盆でした。

一般には「死者の日」と呼ばれる万霊節。

「死者の日」という呼び名は日本語ではちょっとひっかかるニュアンスですが、その意味は「亡くなった人をしのぶ日」ということです。

やはり霊魂を慰める日本の盆や彼岸に当たると言えます。

ところで

死者の日の前日、すなわち11月1日は「諸聖人の日」でイタリアの祝日でした。

カトリックでは「諸聖人の日」は、文字通り全ての聖人をたたえて祈る日です。

ところがプロテスタントでは、聖人ではなく「亡くなった全ての信徒」をたたえ祈る日、と変化します。

プロテスタントでは周知のように聖人や聖母や聖女を認めず、「聖なるものは神のみ」と考えます。

聖母マリアでさえプロテスタントは懐疑的に見ます。処女懐胎を信じないからです。

その意味ではプロテスタントは科学的であり現実的とも言えます。

聖人を認めないプロテスタントはまた、聖人のいる教会を通して神に祈ることをせず、神と直接に対話をします。

権威主義的ではないのがプロテスタント、と筆者には感じられます。

一方カトリックは教会を通して、つまり神父や聖人などの聖職者を介して神と対話をします。

そこに教会や聖人や聖職者全般の権威が生まれます。

カトリック教会はこの権威を守るために古来、さまざまな工作や策謀や知恵をめぐらしました。

それは宗教改革を呼びプロテスタントが誕生し、カトリックとの対立が顕在化していきました。

カトリックは慈悲深い宗教であり、懐も深く、寛容と博愛主義にも富んでいます。

プロテスタントもそうです。

キリスト教徒ではない筆者は、両教義を等しく尊崇しつつ、聖人よりも一般信徒を第一義に考えるプロテスタントの11月1日により共感を覚えます。

また、教会の権威によるのではなく、自らの意思と責任で神と直接に対話をする、という教義にも魅力を感じます。

それでは筆者は反カトリックの男なのかというと、断じてそうではありません。

筆者は全員がカトリック信者である家族と共に生き、カトリックとプロテスタントがそろって崇めるイエス・キリストを敬慕する、自称「仏教系無心論者」です。

 

 

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