オットブラータ(Ottobrata10月夏)の暖気に促されて繰り返した週末旅で、ピエモンテ州のアルバ(Alba)を訪ねました。
アルバはトリュフで知られた街。ちょうどトリュフ祭り(展示会)が開かれていました。しかし筆者が食べたいのは、トリュフよりもポルチーニ茸でした。
トリュフは嫌いではないが興味もない、というのが筆者の昔からの偽りのない気持ちです。香りも味もいまひとつピンと来ないのです。
トリュフのパスタには簡単に出会いました。だが、ポルチーニ料理にはありつけませんでした。それでもメインで食べた子牛の頬肉煮込みが出色だったので満足しました。
遅くなって帰宅の途に就きましたが、途中で気が変わって一泊することにしました。翌日は日曜日なので成り行き任せの決断でも問題がなかったのです。
ほぼ行きあたりばったりにアスティ(Asti)で宿を取りました。実はアルバほかの街々の宿はどこも満員で全く空きがありませんでした。「仕方なく」アスティに泊まった、というのが真実です。
コロナが終息した、と考える国民が多いイタリアは旅行ブームです。厳しい都市封鎖や規制から開放された人々が、観光地へどっと繰り出しています。ホテルが混んでいるのもそのせいでした。
アスティは殺風景なたわいない街でした。ひとつ良かったのはアスティ産の甘い「アスティ・モスカートワイン」。アルコール度数がビール並みに低いので、1人でほぼ一本を開けました。むろん美味くなければそんなことはしません。
翌日は雨模様でした。
過去に仕事で訪ねた体験からも、地方は期待外れに終わりそうだと判断して、州都のトリノを目指すことにしました。
トリノはイタリアの一部だがイタリアではない、と筆者は少し誇張して考えます。フランスのあるいはパリの下手な写しがトリノという都会です。
物事の多くは模写から始まります。
ところが模写を習いや修行や鍛錬などと称して尊重する日本文化とは違い、西洋のそれはオリジナリティを重視します。のみならず模写を否定します。
その意味ではトリノも否定的に捉えられがちです。しかしトリノがフランスのそしてさらに詳細にはパリの模倣であっても構わない、と筆者は考えます。
なぜならトリノはフランスやパリを真似することで、イタリアの中で異彩を放つ都市になりました。物真似がトリノの独自性なのです。
物真似から誕生したトリノは、そのありのままの形で存在することで、全体が個性的な都市や町や地域の集合体であるイタリア共和国の、多様性の一環を成しています。
そうではあるものの、筆者にとってはトリノは少しも美しくはありません。
その理由はトリノの新しさです。フランス的なものが新しく見えてつまらないのです。また建物が大げさで、そこかしこの広場や街路も無意味に広大です。
イタリアの都市に必ず存在する旧市街あるいは歴史的街並がトリノにはない。気をつけて見ればないことはないのですが、それらは近代の建物に圧倒されてほとんど目につきません。
旧市街を別の言葉で言えば中世の街並み。あるいは中世的な古色に染まる景色。はたまた狭い通りや古い建物、崩れ落ちそうな遺跡などが醸し出す豊かな風情。あるいはワビサビの世界。
そういうシーンがトリノにはありません。繰り返しになりますが全てが比較的新しく、大きく、重厚気味に存在感があり、そしてたまらなく退屈です。
トリノの街並みを思わせる歴史的なスタイルがイタリアにはもう一つあります。それはファシスト時代の建築の構え、つまりリットリア様式の建築物です。
リットリア様式は古代ローマを模倣しようとした表現法で、武骨且つ単純な力強さがあります。尊大なファシストだったムッソーリーニと取り巻きが、自らの力を誇示しようとして編み出しました。
正確に言えばむろんそれとは違います。だが大きく、重々しく、うっとうしい雰囲気は共通しています。
そこには「イタリアを所有している」とまで形容された巨大自動車メーカー、フィアット(FIAT)のイメージも影を落としています。
複合的な心象や写像や現実は、FIATそのものを支配し、果てはトリノという都市まで支配したアニエッリ一族のイメージへとつながります。
古い時代のトリノは、イタリア統一にかかわったサヴォイア王家の拠点でした。フランスの猿真似はサヴィオア家によって完成されました。
後年、アニエッリ一族は自動車産業を介してトリノを支配しました。街伝統の猿真似を踏襲しつつ貴族を気取ったのがアニエッリ一族です。そのうさん臭さ。
アニエッリ一族の中でもっとも著名なジャンニ・アニエッリは、欧州に進出する日本のビジネスに恐れをなして、「黄禍論」を公然と語った不埒な男です。
当時の日本は今の中国と同程度に世界に嫌われ恐れられていました。従ってジャンニ・アニエッリの口吻は理解できないこともありません。
だがイタリアに来たばかりの若い筆者は、その有名人の言動に強い反感を抱きました。時間とともに怒りは収まりましたが、ジャンニ・アニエッリとアニエッリ家への好感は残念ながら未だに芽生えません。
そんな感慨は、しかし、トリノの街並みや雰囲気への筆者のかすかな反感とは無関係です。
なぜなら筆者は、いま述べたように、トリノのみならずピエモンテの各地を巡るとき、他のイタリアの都市や地方とは違い、古色蒼然としたコアな街並みがほとんど存在しない点に、常に物足りなさを感じるからです。
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