日伊さかな料理談義

「世界には3大料理がある。フランス料理、中華料理、そしてイタリア料理である。その3大料理の中で一番おいしいのは日本料理だ」

これは筆者がイタリアの友人たちを相手に良く口にするジョークです。半分は本気でもあるそのジョークのあとには、筆者はかならず少し大げさな次の一言もつけ加えます。

「日本人は魚のことを良く知っているが肉のことはほとんど知らない。逆にイタリア人は肉を誰よりも良く知っているが、魚については日本料理における肉料理程度にしか知らない。つまりゼロだ」

3大料理のジョークには笑っていた友人たちも、イタリア人は魚を知らない、と筆者が断言したとたんに口角沫を飛ばして反論を始めます。でも筆者は引き下がりません。

スパゲティなどのパスタ料理にからめた魚介類のおいしさは間違いなくイタメシが世界一であり、その種類は肉料理の豊富さにも匹敵します。

しかしそれを別にすれば、イタリア料理における魚は肉に比べるとはるかに貧しい。料理法が単純なのでです。

この国の魚料理の基本は、大ざっぱに言って、フライかオーブン焼きかボイルと相場が決まっています。海際の地方に行くと目先を変えた魚料理に出会うこともあります。それでも基本的な作り方は前述の三つの域を出ませんから、やはりどうしても単調な味になります。

一度食べる分にはそれで構いません。素材は日本と同じように新鮮ですから味はとても豊かです。しかし二度三度とつづけて食べると飽きがきます。何しろもっとも活きのいい高級魚はボイルにする、というのがイタリア人の一般的な考え方です。

家庭料理、特に上流階級の伝統的な家庭レシピなどの場合はそうです。ボイルと言えば聞こえはいいが、要するに熱湯でゆでるだけの話です。刺身や煮物やたたきや天ぷらや汁物などにする発想がほとんどないのです。

最近は日本食の影響で、刺身やそれに近いマリネなどの鮮魚料理、またそれらにクリームやヨーグルトやマヨネーズなどを絡ませた珍奇な“造り”系料理も増えてはいます。だがそれらはいわば発展途上のレシピであって、名実ともにイタメシになっているとは言い難い。

筆者は友人らと日伊双方の料理の素材や、調理法や、盛り付けや、味覚などにはじまる様々な要素をよく議論します。そのとき、魚に関してはたいてい筆者に言い負かされる友人らがくやしまぎれに悪態をつきます。

「そうは言っても日本料理における最高の魚料理はサシミというじゃないか。あれは生魚だ。生の魚肉を食べるのは魚を知らないからだ。」

それには筆者はこう反論します。

「日本料理に生魚は存在しない。イタリアのことは知らないが、日本では生魚を食べるのは猫と相場が決まっている。人間が食べるのはサシミだけだ。サシミは漢字で書くと刺身と表記する(筆者はここで実際に漢字を紙に書いて友人らに見せます)。刺身とは刺刀(さしがたな)で身を刺し通したものという意味だ。つまり“包丁(刺刀)で調理された魚”が刺身なのだ。ただの生魚とはわけが違う」

と煙(けむ)に巻いておいて、筆者はさらに言います。

「イタリア人が魚を知らないというのは調理法が単純で刺身やたたきを知らないというだけじゃないね。イタリア料理では魚の頭や皮を全て捨ててしまう。もったいないというよりも僕はあきれて悲しくなる。魚は頭と皮が一番おいしいんだ。特に煮付けなどにすれば最高だ。

たしかに魚の頭は食べづらいし、それを食べるときの人の姿もあまり美しいとは言えない。なにしろ脳ミソとか目玉をずるずるとすすって食べるからね。要するに君らが牛や豚の脳ミソを美味しいおいしい、といって食べまくるのと同じさ。

あ、それからイタリア人は ― というか、西洋人は皆そうだが ― 魚も貝もイカもエビもタコも何もかもひっくるめて、よく“魚”という言い方をするだろう? これも僕に言わせると魚介類との付き合いが浅いことからくる乱暴な言葉だ。魚と貝はまるで違うものだ。イカやエビやタコもそうだ。なんでもかんでもひっくるめて“魚”と言ってしまうようじゃ料理法にもおのずと限界が出てくるというものさ」 

筆者は最後にたたみかけます。

「イタリアには釣り人口が少ない。せいぜい百万人から多く見つもっても2百万人と言われる。日本には逆に少なく見つもっても2千万人の釣り愛好家がいるとされる。この事実も両国民の魚への理解度を知る一つの指標になる。

なぜかというと、釣り愛好家というのは魚料理のグルメである場合が多い。彼らは「スポーツや趣味として釣りを楽しんでいます」という顔をしているが、実は釣った魚を食べたい一心で海や川に繰り出すのだ。釣った魚を自分でさばき、自分の好きなように料理をして食う。この行為によって彼らは魚に対する理解度を深め、理解度が深まるにつれて舌が肥えていく。つまり究極の魚料理のグルメになって行くんだ。

ところが話はそれだけでは済まない。一人ひとりがグルメである釣り師のまわりには、少なくとも 10人の「連れグルメ」の輪ができると考えられる。釣り人の家族はもちろん、友人知人や時には隣近所の人たちが、釣ってきた魚のおすそ分けにあずかって、釣り師と同じグルメになるという寸法さ。

これを単純に計算すると、それだけで日本には2億人の魚料理のグルメがいることになる。これは日本の人口より多い数字だよ。ところがイタリアはたったの1千万から2千万人。人口の1/6から1/3だ。これだけを見ても、魚や魚料理に対する日本人とイタリア人の理解度には、おのずと大差が出てくるというものだ」

友人たちは筆者のはったり交じりの論法にあきれて、皆一様に黙っています。釣りどころか、魚を食べるのも週に一度あるかないかという生活がほとんどである彼らにとっては、「魚料理は日本食が世界一」と思い込んでいる元“釣りキチ”の筆者の主張は、かなり不可解なものに映るようです。

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愛憎・首里城・物語り

首里城が焼け落ちてしまいました。残念で悲しいことです。それが沖縄のシンボルだからではありません。それが日本の数少ない多様性の象徴的な存在だからです。

同城は過去に何度も焼失し、その度に復元されてきました。今回は5度目の被災ですが、近い将来また復元されるであろうことを前提に少し考えてみました。

首里城は1429年から1879年までの450年間、独立国として存在した琉球王国の王家の居城であると同時に、王国統治の行政機関だった「首里王府」の本部があった場所です。

日本国の外にあった琉球王国のシンボルであり、1879年の琉球処分以降は、沖縄県のシンボルとして見なされることが多い建物。筆者はそれを王国消滅後の 沖縄がたどった「数奇な運命 の化身」と規定しています。

だが筆者はまた首里城を、冒頭で言及したように、沖縄一県の表象ではなく日本文化の 数少ない 多様性を体現する重要かつ象徴的な存在だとも考えています。だからこそその焼失がことさらに残念で悲しいのです。

琉球王国は人口17万人程度のミニチュア国家でした。それでいながら東シナ海を縦横に行き交う船団を繰り出して中継貿易を展開。大いに繁栄しました。

ちなみに「琉球王国」というのは、沖縄の本土復帰後の初代県知事だった屋良朝苗が、主に観光誘致を目指して発明・普及させた俗称で、正式名は「琉球国」です。ここでは両者を併用します。

琉球国は、同国から見れば幕藩体制下の大国・日本の鎖国政策と、さらなる巨大国家・中国の海禁政策の間隙を縫って交易範囲を東南アジアにまで広げ、マラッカ王国と深い関係を結んだりもしました。

17世紀に薩摩藩の支配下に入った琉球国は 、同時に中国(清)の冊封下にも組み込まれる体制になりましたが、依然として独立した王国として存在しつづけました。

もとより王国は、取るに足らない小国に過ぎませんでした。しかしそこは、琉球王国から琉球藩となりさらに沖縄県となっても、日本国の中で異彩を放ちつづけました。

異彩の正体は独自の文化です。明治維新後の沖縄は琉球王国というミニ国家が育んだ文化をまとっているために、日本国の中で疎外され差別さえ受けました。

その疎外と差別の残滓は21世紀の今も存在し、特に過重な米軍基地負担の形などになって歴然と生きつづけている、と筆者は考えています。

世界中に文字通り無数にある文化は、その一つ一つが「他とは違う」特殊なものです。そして全ての文化間に優劣はありません。ただ「違い」があるだけです。

同時に文化は多くの場合は閉鎖的でもあり、時にはその文化圏外の人間には理解不可能な怖いものでさえあります。

そして人がある一つの文化を怖いと感じるのは、その人が対象になっている文化を知らないか、理解しようとしないか、あるいは理解できないからです。

つまりこの場合は無知が差別の動機です。ある文化に属する人々は、無知ゆえに他文化に属する人々を差別し、差別する人々は別の機会には同じ動機か、あるいは別の要因で必ず他者に差別されます。

愚かな差別者と被差別者は往々にして目くそ鼻くそです。沖縄を差別する日本人はどこかでその画一性や没個性性を差別され、差別された沖縄の人々もまた必ずどこかで誰かを差別します。

他とは違う、という特殊性こそがそれぞれの文化の侵しがたい価値です。言葉を変えれば特殊であることが文化の命なのです。普遍性が命である文明とはそこが違います。

ところが特殊であること自体が命である文化は、まさにその特殊性ゆえに、既述のように偏見や恐怖や差別さえ招く運命にあります。明治維新後の沖縄の文化がまさにそれでした。

一方、琉球国以外の全国の約260藩は、明治維新政府の誘導の元に天皇の臣民として同一化され没個性的になっていきました。

幕藩体制下では各藩を自国と信じていた人々が、西洋列強に追いつきたい明治政府の思惑に旨く誘導されて、「統一日本人オンリー」へと意識改革をさせられて均質化していったのです。 
統一日本国の一部となった沖縄県ももちろん同じでした。しかし同地はその文化のユニークさゆえに、均等性がレゾンデートルだった明治日本全体の中で異端視されつづけます。

その事実は沖縄の人心の反発を招き、沖縄県では他府県同様の統一日本人意識の確立と共に、琉球国への懐古感覚に基づく「沖縄人」意識も醸成され深く根を張っていくことになります。

日本人意識と沖縄人意識が同居する沖縄県民のあり方は、実は世界ではありふれたことです。特に筆者が住むイタリアなどはその典型です。

イタリア人は自らが生まれ住む街や地域をアイデンティティーの根幹 に置いています。具体的に言えば、イタリア人はイタリア人である前に先ずローマ人であり、ナポリ人であり、ベニス人なのです。

イタリア人の強烈な地域独立(国)意識は、かつてこの国が細かく分断されて、それぞれの地方が独立国家だった歴史の記憶によっています。

日本もかつては各地域が独立国のようなものでした。幕藩体制化でも各藩はそれぞれ独立国とまでは言えなくとも、藩民、特に藩士らの意識は独立国の国民に近いものでした。

それが明治維新政府の強烈な同一化政策によって、各藩の住民は既述のように日本人としてまとまり、「統一日本人」の鋳型にすっぽりとはめ込まれていきました。

沖縄県も間違いなくその一部です。同時に沖縄県は、歴史の屈折と文化の独自性のおかげで、日本国内でほぼ唯一の多様性を体現する地域となり現在に至っています。

日本の多様性を象徴的に体現しているその沖縄県の、さらなる象徴が首里城なのです。その首里城が火事でほぼ完全消滅したのは沖縄県のみならず日本国の大きな損失です。

さて、

歴史的、文化的、そしてなによりも政治的な存在としての首里城を礼讚する筆者は、同時に首里城の芸術的価値という観点からはそれに強い違和感も持っています。

筆者は首里城の芸術的価値に関してはひどく懐疑的なのです。遠景はそれなりに美しいと思いますが、近景から細部は極彩色に塗りこめられた騒々しい装飾の集合体で、あまり洗練されていない、と感じます。

“首里城は巨大な琉球漆器”という形容があります。言い得て妙だと思います。首里城には琉球漆器の泥くささ野暮ったさがふんだんに織り込まれています。

泥くささや野暮ったさが「趣」という考え方ももちろんあります。ただそれは「素朴」の代替語としての泥くささであり野暮ったさです。極彩色の首里城の装飾には当てはまらない、と思うのです。

色は光です。沖縄の強烈な陽光が首里城の破天荒な原色をつくり出す、と考えることもできます。建物の極彩色の意匠は光まぶしい沖縄にあってはごく自然なことです。

しかし、原色はそこにそのまま投げ出されているだけでは、ただ粗陋でうっとうしいだけの原始の色であり、未開の光芒の表出に過ぎません。

美意識と感性を併せ持つ者は、原始の色をそれらの力によって作り変え、向上させ繊細を加えて「表現」しなければなりません。

筆者は今イタリアに住んでいます。イタリアの夏の陽光は鮮烈です。めくるめく地中海の光の下には沖縄によく似た原色があふれています。

ところがここでは原色が原始のままで投げ出されていることはほとんどありません。さまざまな用途に使われる原色は人が手を加えて作り変えた色です。

あるいは作り変えようとする意思がはっきりと見える原色です。その意思をセンスといいます。センスがあるかないかが、沖縄の原色とイタリアの原色の分かれ目です。

沖縄に多い原色には良さもないわけではありません。つまり手が加えられていない感じ、自然な感じ、簡素で大らかな感じが沖縄の地の持つ「癒やし」のイメージにもつながります。

首里城の光輝く朱色の華々しい装飾は、見る者を引き付けて止みません。また見れば見るほどそこには味わい深い情緒が増していくようなおもむきもあります。

だがそれは時として、原色のあまりの目覚ましさゆえに、筆者の目にはまたケバい、ダサい、クドいの三拍子がそろった巨大作品に見えないこともありません。

首里城の名誉のために言っておけば、しかし、そうした印象は首里城に限りません。日本の歴史的建築物には、中国の影響の濃い極彩色で大仰な 装飾を施している物が少なくありません。

いくつか例を挙げれば、日光東照宮の陽明門と壁の極彩色の彫刻群や、伏見稲荷と平安神宮の全体の朱色や細部の過剰な色合いの装飾なども、ともすると筆者の目には彩度が高過ぎるというふうに映ります。

いうまでもなくそれらは、 建物がまとっている歴史的また文化的価値の重要性を損なうものではありません。だが歴史的建造物は、そこに高い芸術的要素が加わった際には、さらに輝きを増すこともまた真実なのです。

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