高市早苗オヤジ型女性政治家はフェイクっぽい

「捏造でなければ辞職」と啖呵を切った、高市早苗経済安全保障担当相の驕りは今に始まったことではありませんが相変わらず見苦しい。

同じ穴のムジナだった安倍元首相に倣ったらしい宣言によって、彼女は思い上がりに思い上がってついに天井にぶつかり墜落す運命を選んだようにも見えます。

ファシスト気質の高市氏は、性根が秘匿ファシストだった彼女のボスの安倍元首相よりもよりファシスト的というのが筆者の見方です。

だがジェンダーギャップの激しい日本で女性政治家が頑張る様子を、筆者は政治的立場をさて置いてずっと応援する気持ちでいたことも告白しておきます。

高市氏はここイタリアのジョルジャ・メローニ首相に似ているところがあります。言うまでもなくファシスト的な気迫の政治スタンスやメンタリティーです。

だが同時にふたりはかけ離れた右翼活動家でもあります。ひとことで言えば、メローニ首相が明の右翼政治家、片や高市氏は陰にこもったキャラクターです。

もっと言えば高市氏は自ら大いに右翼運動を担うのではなく、例えば安倍元首相に庇護されて国会を睥睨したように威光を笠に着て凄むタイプ。一方のメローニ氏は自ら激しく動いて道を切り開くタイプです。

イタリアで初の女性首相となったジョルジャ・メローニ氏は、ファシスト党の流れを汲む「イタリアの同胞」を率いて選挙を勝ち抜きました。

選挙中、彼女は右寄りの政策を声高に叫びつつ一つのスローガンをさらに大声で主張しました。

いわく、「私はジョルジャだ。私は女性だ。私は母親だ。そして私はイタリア人だ」と。

「私はジョルジャだ」は自らが自立自尊の人格であることを、「私は女性だ」は女性であることを誇ると同時にジェンダー差別への抗議を、「私は母親だ 」は愛と寛容を、「私はイタリア人だ」は愛国の精神を象徴していると筆者は見ました。

メローニ氏はそうやって国民の支持を得て首相の座に上り詰めました。

上り詰めると同時に、彼女は激しい言葉を避け、険しい表情をゆるめ、女性また母親の本性があらわになった柔和な物腰にさえなりました。

政治的にも極端な言動は鳴りをひそめ、対立する政治勢力を敵視するのではなく、意見の違う者として会話や説得を試みる姿勢が顕著になりました。

彼女のそうした佇まいは国内の批判者の声をやわらげました。筆者もその批判者のひとりです。

また同氏に懐疑的なEUのリベラルな主勢力は、警戒心を抱きながらもメローニ首相を対話の可能な右派政治家、と規定して協力関係を構築し始めました。

肩書きが人間を作る、というのは真実です。

ジョルジャ・メローニ首相は資質によってイタリア初の女性首相になりましたが、イタリアのトップという肩書きが彼女を大きく成長させているのもまた疑いのない事実です。

高市大臣は、あるいは日本初の女性宰相となり、その肩書きによって人間的にも政治的にも成長するかもしれない、と筆者は秘かに考えていたましたが、少しバカらしくなってきました。

メローニ首相と同じ右翼政治家の高市大臣には、イタリアのトップに備わっている女性としての自立心や明朗な政治姿勢や誇りが感じられません。

その代わりに虎の威を借る狐の驕りや男に遠慮する女性オヤジ政治家の悲哀ばかりが透けて見えます。女性オヤジ政治家は旧態依然とした男性議員を真似るばかりで進取の気性がない。その典型が高市氏です。

日本にはまた男に媚びるブリッコ・オバハン政治家も多い。その典型は稲田朋美元防衛大臣です。それらのブリッコ・オバハン政治家は人間としてのまた政治家としての在り様が不自然で主体性がありません。

ブリッコ・オバハン政治家は女性オヤジ政治家の対極にあるようにも見えます。だが彼女たちは“不自然で主体性がない“というまさにそのことによって、全員が女性オヤジ政治家に分類される存在でもあります。

それらのタイプの政治家は実はイタリアにも多い。つまり「オヤジ型女性政治家」が跋扈する社会現象は、まさにイタリアや日本などの「女性の社会進出が遅れている国」に特有のものです。

女性オヤジ政治家 は恐らく肩書きによっても変えられない存在です。主体性とそこから生まれるぶれない政治姿勢また真実が欠けているからです。

肩書きによって作られる人格とはつまるところ、元々それらの特質を備えている人物が、責任ある地位に着くことでさらに磨かれていくことです。

メローニ首相は頑迷固陋なイタリア政界の壁を突き破って輝いた女性です。

筆者は彼女の政治姿勢には同調しませんが、日本に似た男社会で見事に自己主張を貫き通す姿勢には拍手を送りあす。

拍手するその手を返して、高市早苗大臣の面前にかざしNOとひとこと言えればどんなにか胸がすくことでしょう。

 

 

 

facebook:masanorinakasone

official siteなかそね則のイタリア通信

舞い上がりそうな「舞いあがれ」かも

いつまでも舞い上がらない朝ドラの「舞いあがれ」は、舞い上がらないままに面白くないこともありませんが、ドラマとしての連続性がないのがもどかしい。

だが主人公・舞の親友の久留美が、なぜか長崎の総合医療病院でフライトナースになるらしい展開は、主人公の舞がいよいよ「舞上がる」ための伏線、と読めないこともありません。

つまり舞は、久留美を追いかけて長崎の島々を結ぶ医療関連の飛行機のパイロットになる、という話の流れではないでしょうか。

あるいは五島などの離島に飛んでいる航空会社の飛行機を舞が作って、且つ彼女がそのパイロットになる、という筋書きかもしれません。

そうなれば舞がパイロットとして舞い上がる、というドラマの暗黙の約束が果たされることになります。

だが筆者はそんな経過になっても不満です。なぜなら舞には多くの旅客を運ぶ飛行機のパイロットになってほしいからです。

ドラマは初っ端、夢の中で旅客機の機長となった舞が機内アナウンスをするところから始まりました。

続いて男尊女卑のパイロット界で女性飛行士の舞が奮闘するストーリーが強く示唆され続けました。

それなのに、主人公が町工場の改革者になったり、小型飛行機のパイロットに納まったりするのはちょっと物足りません。

脚本や演出にとっては、舞がジェンダーギャップを乗り越えて男社会で活躍していくストーリーは荷が重すぎたのでしょうか?

ドラマはまだ終わっていないので詰めの展開は分かりません。

筆者はストーリーが最後には舞い上がるのかどうか、という興味もあって朝ドラを見続けています。

 

 

 

facebook:masanorinakasone

official siteなかそね則のイタリア通信

流転変遷は人生の華

流転変遷は人生の華である。

この世の中で変わらない者は、変わりたくても変われない死者があるばかりだ。

変わるのは生きているからである。

ならば流転変遷は、生きている証、ということである。

死ねば変化は起きないのだ。

流転変遷の極みの加齢も変化である。

そして変化するのはやはり生きているからである。

生きているのなら、生きている証の変化を楽しまなければつまらない。

死ねば変化も楽しみも何もないのだから。

変化を楽しむとは言葉を替えれば、あるがままに、ということである。

なぜなら人はあるがままの形で変化していく存在だからである。

あるいは人は、変化するままにしか存在できない存在だからである。

あるがままに存在することを受け入れるとき、人は楽しむ。

楽しまなくとも、心は必ず安まるのである。