島旗=州旗=国旗
イタリア・サルデーニャ島には4人の黒人の横顔をあしらった独特の島旗があります。イタリア語で「Quattro mori(4人のムーア人)」と呼ばれるその旗を、島人は州旗と称し「国旗」とも表現します。
日本の四国よりも少し大きなサルデーニャ島は、付随する離島と共にイタリアの20州のうちの一つの州を形成しています。従って旗が州旗と呼ばれても何ら問題はありません。むしろそれが正しい呼称でしょう。
だがそれを「国旗」と呼ぶと、意図するコンセプトに深刻か否かの違いはあるかもしれませんが、発言した者は明確な動機に基づいてそれを口にしています。
つまりサルデーニャ島民が発言する場合はそれは、イタリア共和国からのサルデ-ニャ島の「独立」を意味する文脈で語られているのです。
島民の独立志向は島の苦難の歴史の中から自然発生的に出てきたもので、一時期は大きなうねりとなってイタリアを揺るがせたこともあります。が、現在は静まっています。しかしそれはサルデーニャ島民の心が静まったことを意味するものではありません。
島がたどってきた複雑な歴史や、当事者たちの複雑な心境、また島人の不満とイタリア本土人の無関心、など、などという世界では割とありふれた現象が、当事者中の当事者である島人の心を鋭く抉らずにはおかないのは、それが彼らのアイデンティティーの根幹に関わる重大事案だからです。
起源
スペインのアラゴン王国、イタリア半島のピエモンテに本拠を置く「大陸の」サルデーニャ王国、そして最後にサルデーニャ島自身のシンボル旗となった4人のムーア人の旗は、ひとことで言えば、キリスト教徒とイスラム教徒の血みどろの長い厳しい闘争によって生み出されたものです。
具体的に言えば、旗の意匠はスペインのアラゴン王国が1096年、侵略者のムーア人つまりアラブ・イスラム教徒を撃退し4人の将軍の首を落として戦勝を祝った、とする伝説に基づいています。それを示す古い絵柄では4人の顔が目隠しされています。捕らえた敗軍の将に目隠しをして首を切り落とすのは、洋の東西を問わず戦国の世の習いでした。日本の戦国時代でも敵の首を切り落として戦利品としました。
アラゴン王国軍は、アルコラスの乱と呼ばれるその大きな戦を、聖ゲオルギウス(英:聖ジョージ)の手助けで勝利した、と言い伝えられています。4人のムーア人の顔と共に聖ゲオルギウスの象徴である白地に赤い十字が旗に描かれているのはそれが理由です。
またムーア人の4つの顔は、アラゴン王国が4つ大きな戦争、即ちサラゴザ、ヴァレンシア、ムルシア、バレアリス諸島での戦いに勝利したことを表す、という説もあります。そこに十字軍のシンボル的な存在でもある前述の聖ゲオルギウスの伝説がからんだ、と主張するものです。
しかし最も多く語られるのは、前述のアラゴン王国がアルコラスの戦いに勝利した際、4人のムーア人将軍の首を切り落として祝ったとするものです。宿敵のイスラム教徒への怨みと怒りがこもったその説の方が信憑性が高い、と筆者も思います。
意匠の変遷
旗のデザインと成り立ちに関しては、伝説と史実が入り乱れた多数の説がほかにも存在します。史実の最も古い証拠としては、1281年に作られたとされる鉛製の封印があります。そこに描かれたムーア人は髭を蓄えていて且つ鉢巻をしていません。
14世紀にサルデーニャ島がアラゴン王国の支配下に入ると、4人のムーア人の絵柄はサルデーニャ島でも、あたかも島独自のもののように使われた始めました。そして1380年頃には4人のムーア人旗はアラゴン王国統治下の島の旗と認定され、サルデーニャ軍は1571年、鉢巻をした4人が右を向いている図柄を記章として採用しました。
以後、ムーア人の図柄は額に鉢巻をしたりしなかったり、頭に王冠が描かれたり、髭を蓄えていたりいなかったり、目隠しをされたり、顔が左に向いたり逆になったり、肌が白く描かれたり等々、様々に変化して伝えられました。アラゴン王国は最終的にオリジナルの絵柄を尊重して、頭に鉢巻を巻いたものが正しい、という触れを出したほどです。
島民の抵抗
1720年、サルデーニャ島はシチリア島との交換でアラゴン王国からサヴォイア公国に譲り渡されました。以後サヴォイア公国は、国名を「サルデーニャ王国」と改名して島を支配しますが、王国の本拠はフランスの一部とイタリア本土のピエモンテが合体した「大陸」でした。王国の首都もそれまでと変わらずピエモンテのトリノに置かれました。そして1800年、4人のムーア人の鉢巻が目隠し姿に変わった図柄の旗が出回るようになります。
これはイタリア本土を本拠地にしていたサヴォイア家が、サルデーニャ島を獲得したことをきっかけに前述のように自らの公国をサルデーニャ王国と称し、支配地の島に圧政を行ったことに対する島民の抵抗の現れだとされています。目隠しの絵は、鉢巻姿だった古い旗の図柄をわざと間違えて伝え残したもの、とも言われています。
さらに旗の原型はアラゴン王国にあるとはいえ、4人のムーア人旗はアラゴン統治以前のサルデーニャ島の歴史を物語るとされる説もあります。その当時サルデーニャ島には ガルーラ、ログドーロ(トーレス)、アルボレア、カリアリという4つの小さな独立国があり、それぞれがイスラム教徒の侵略から頑張って島を守ったとされます。4人のムーア人はその4国を表すというのです。
しかしその主張は、島人たちの希望的憶測あるいは願望に過ぎないと筆者は思います。彼らには侵略者のイスラム教徒を撃破する軍事力はありませんでした。8世紀からイベリア半島を蹂躙し支配したイスラム教徒は、破竹の勢いで地中海の島々も配下に収めていきました。サルデーニャ島の住民は、他の被征服地の住民同様に、 欧州のキリスト教勢力がイスラム教徒を撃破するまで身を縮めるようにして生き延びた、というのが歴史の真相です。
サヴォイア家支配下の1800年頃から島に多く出回るようになった4人のムーア人の目隠しの図柄は、その後も広がり続け、サヴィオア家の支配が終わり、やがて2つの大戦を経て、イタリアが近代化し成熟社会を迎えた20世紀終盤まで続くことになります。
第2次大戦後の1950年、目隠し姿の4人のムーア人旗は、サルデーニャ州(島)の正式フラッグとして認定されました。そこでは4人の顔は目隠しをしたままでした。そして1999年、4人の顔は目隠しではなく額に鉢巻をし且つ旗竿を左に右向きの横顔であること、とこれまた正式に改訂されました。
屈折
何世紀にも渡って物議をかもし続けたムーア人旗の絵柄やコンセプトの変遷を見るにつけ、筆者は大きな感慨を覚えずにはいられません。すなわち、サルデーニャ島民がかつての支配者のエンブレムを自らのそれと認識し、且つ絵柄の中心である4人のムーア人を、あたかも自らの肖像でもあるかのように見做している点が気持ちに引っかかるのです。
そこには2重の心理のごまかしがあります。一つはアラゴン家及びサヴォイア家の紋章を引き継ぐことで、自らも支配者になったような気分を味わっていること。また戦いに負けて首を落とされて以降は、いわば「被害者」である4人のムーア人にも自らを重ね合わせて英雄視している点です。
彼らは支配者であると同時に支配される者、つまり被抑圧者でもあると主張しているようにも見えます。もしもその見方が正しいならば筆者は、前者にサルデーニャ島民の事大主義を、また後者に同じ島民の偽善を感じないではいられません。筆者の目にはそれは、抑圧され続けた民衆が往々にして見せる悲しい性であり、宿命でさえあり、歴史が悪意と共に用意する過酷な陥穽、というふうに見えなくもないのです。
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