コロナ犠牲者追悼記念日

イタリア政府は先日、毎年3月18日をコロナ(犠牲者)追悼記念日と定めました。

4年前の2020年3月18日、おびただしい数の新型コロナの死者の棺を積んだ軍トラックが、隊列を組んで進む劇的な映像が世界を駆けめぐりました。

コロナ禍に苦しむイタリアを象徴する凄惨なシーンでした。

当時世界最悪とも言われたコロナ禍中のイタリアは、全土ロックダウンを導入し最終的には20万人近い犠牲者を出しました。

コロナパンデミックはイタリア人に対する筆者の認識を大きく変えました。

筆者はイタリアが好きでこの国に移り住んでいますが、コロナ禍を介して自身のイタリアへの好情は、いわば愛に変わったと考えています。

イタリアはその頃、どこからの援助もない絶望的な状況の中で、誰を怨むこともなく且つ必死に悪魔のウイルスと格闘していました。

コロナ地獄が最も酷かったころには、医師不足を補うために300人の退職医師のボランティアをつのったところ、25倍以上にもなる8000人が、24時間以内に名乗りを挙げました。

周知のように新型コロナは高齢者を主に攻撃して殺害しました。加えて当時のイタリアの医療の現場は酸鼻を極めていました。

患者が病院中にあふれかえり、医師とスタッフを守る医療器具はもちろんマスクや手袋さえ不足しました。患者と競うように医療従事者がバタバタと斃れました。

8000人もの老医師はそれらを十分に承知のうえで、安穏な年金生活を捨て死の恐怖が渦巻くコロナ戦争の最前線へ行く、と果敢に立ち上がったのです。

退役医師のエピソードはほんの一例に過ぎませんでした。

長い厳しいロックダウン生活の中で、多くのイタリア国民が救命隊員や救難・救護ボランティアを引き受け、困窮家庭への物資配達や救援また介護などでも活躍しました。

イタリア最大の産業はボランティアです。

イタリア国民はボランティア活動に熱心です。猫も杓子もせっせと社会奉仕活動にいそしみます。彼ら善男善女の無償行為を賃金に換算すれば、莫大な額になります。まさにイタリア最大の産業なのです。

そのボランティア精神が、コロナ恐慌の中でも自在に発揮されました。8000人もの老医師が、険しいコロナ戦線に向かう、と決死の覚悟をする心のあり方も、根っこは同じです。

コロナ禍中のイタリア国民は誰もが苦しみ、疲れ果て、倒れ、それでも立ち上がってまたウイルスと闘う、ということを繰り返しました。

パンデミックと向き合う彼らのストイックな奮闘は筆者を深く感動させました。

逆境の中で毅然としているイタリア国民の強さと、犠牲を厭わない気高い精神はいったいどこから来るのか、と筆者はいぶかりました。答えはすぐに見つかりました。

国民の9割近くが信者ともいわれるカトリックの教義に秘密があると考えます。

カトリック教は博愛と寛容と忍耐と勇気を説き、慈善活動を奨励し、他人を思い利他主義に徹しなさいと諭します。だが人は往々にしてそれらの精神とは真逆の行動に走ります。

だからこそ教義はそれを戒めます。戒めて逆の動きをするよう鼓舞します。鼓舞されてその行動をし続けるうちに、そちらのほうが人の真実になっていきます。

いい加減で、時には嘘つきにさえ見えて、いかにも怠け者然としたゆるやかな生活が大好きな多くのイタリア国民は、まさにその通りでありながら、同時に寛容で忍耐強く底知れない胆力を内に秘めていまし。

彼らの芯の強さと、恐れを知らないようにさえ見える腹の据わった態度に接して、筆者はこの国に居を定めて以来はじめて、許されるならイタリア人になってもいい、と思ったりもしました。

周知のように日本人が他国籍を取得したいなら、日本国籍を捨てなければなりません。筆者は今のところは日本国籍を放棄する気は毛頭ありません。従って実現することはありません。

しかし、イタリア人になってもいいと信ずるほどに、イタリア国民をあらためて心底から尊敬するようになったのです。

 

 

 

facebook:masanorinakasone

official siteなかそね則のイタリア通信

多様性信者を装うはねっ返りの痴態

イタリアの有名なストリートアーティスト・ジョリット(Jorit)が、ロシアのソフィで開かれた青少年フォーラム中にプーチン大統領と一緒に撮った写真が物議をかもしています。

ジョリットはフォーラム会場で突然立ち上がり、壇上にいるプーチン大統領に「あなたがわれわれと何も変わらない人間であることをイタリア人に知らせたい。なので一緒に写真を撮らせてほしい」と語りかけました。

プーチン大統領は気軽に要求に応じ、ジョリットの肩を抱いて嬉々としてカメラに収まりました。

写真そのものも、明らかにプーチン大統領に媚びている発言も、人々の肝をつぶしました。イタリア中に大きな反響が起こりました。そのほとんどがジョリットへの怒りの表明でした。

多くの人が、「プーチンのプロパガンダに乗った愚か者」「プーチンの宣伝傭兵」「金に転んでプーチンの役に立つことばかりをするバカ」などとジョリットを激しく指弾しました。

イタリアは多様性に富む国です。カトリックの教義に始まる強い保守性に縛られながらも、さまざまの考えや生き方や行動が認められ千姿万態が躍動します。

それは独立自尊の気風が強烈だったかつての都市国家群の名残です。外から見ると混乱に見えるイタリアの殷賑は、多様性のダイナミズムがもたらすイタリアの至宝なのです。

言うまでもなくそこには過激な思想も行動もパフォーマンスも多く見られます。ジョリットのアクションもそうした風潮のひとつです。

多様性を信じる者はジョリットの行動も認めなければなりません。彼の言動を多様性の一つと明確に認知した上で、自らの思想と情動と言葉によって、それをさらに鮮明に否定すればいい。

イタリアにはジョリットの仲間、つまりプーチン支持者やプーチン愛好家も多くいます。先日死亡したベルルスコーニ元首相がそうですし、イタリア副首相兼インフラ大臣のサルヴィ・ビーニ同盟党首などもそうです。

隠れプーチン支持者を加えれば、イタリアには同盟ほかの政党支持者と同数程度のプーチンサポーターがいると見るべきです。

プーチン大統領は、ジョリットの笑止なパフォーマンスを待つまでもなく人間です。しかし、まともな人間ではなく悪魔的な人間です。

彼と同類の人間にはヒトラーがいます。だがヒトラーはヒトラーを知りませんでした。ヒトラーはまだ歴史ではなかったからです。

一方でプーチン大統領はヒトラーを知っています。それでも彼はヒトラーをも髣髴とさせる悪事を平然とやってのけてきました。

ヒトラーという歴史を知りつつそれを踏襲するとも見える悪事を働く彼は、ヒトラー以上に危険な存在という見方さえできます。

ヒトラーの譬えが誇大妄想的に聞こえるなら、もう一つの大きな命題を持ち出しましょう。

欧州は紛争を軍事力で解決するのが当たり前の、野蛮で長い血みどろの歴史を持っています。そして血で血を洗う凄惨な時間の終わりに起きた、第1次、第2次大戦という巨大な殺戮合戦を経て、ようやく「対話&外交」重視の政治体制を確立しました。

それは欧州が真に民主主義と自由主義を獲得し、「欧州の良心」に目覚める過程でもありました。

筆者が規定する「欧州の良心」とは、欧州の過去の傲慢や偽善や悪行を認め、凝視し、反省してより良き道へ進もうとする“まともな”人々の心のことです。

その心は言論の自由に始まるあらゆる自由と民主主義を標榜し、人権を守り、法の下の平等を追求し、多様性や博愛を尊重する制度を生みました。

良心に目覚めた欧州は、武器は捨てないものの“政治的妥協主義”の真髄に近づいて、武器を抑止力として利用することができるようになりました。できるようになった、と信じました。

欧州はかつて、プーチン大統領の狡猾と攻撃性を警戒しながらも、彼の開明と知略を認め、あまつさえ信用さえしました。

言葉を替えれば欧州は、性善説に基づいてプーチン大統領を判断し規定し続けました。

彼は欧州を始めとする西側の自由主義とは相容れない独裁者だが、西側の民主主義を理解し尊重する男だ、とも見なされたのです。

しかし、欧州のいわば希望的観測に基づくプーチン観はしばしば裏切られました。

その大きなものの一つが、2014年のロシアによるクリミア併合です。それを機会にロシアを加えてG8に拡大していたG7は、ロシアを排除して、元の形に戻りました。

それでもG7が主導する自由主義世界は、プーチン大統領への「好意的な見方」を完全には捨て切れませんでした。

彼の行為を非難しながらも強い制裁や断絶を控えて、結局クリミア併合を「黙認」しました。そうやって自由主義世界はプーチン大統領に蜜の味を味わわせてしまいました。

西側はクリミア以後も、プーチン大統領への強い不信感は抱いたまま、性懲りもなく彼の知性や寛容を期待し続け、何よりも彼の「常識」を信じて疑いませんでした。

「常識」の最たるものは、「欧州に於いては最早ある一国が他の主権国家を侵略するような未開性はあり得ない」ということでした。

プーチン・ロシアも血で血を洗う過去の悲惨な覇権主義とは決別していて、専制主義国家ながら自由と民主主義を旗印にする欧州の基本原則を理解し、たとえ脅しや嘘や化かしは用いても、“殺し合い”は避けるはずだ、と思い込みました。

ところがどっこい、ロシアは2022年2月24日、主権国家のウクライナへの侵略を開始。ロシアはプーチン大統領という魔物に完全支配された、未開国であることが明らかになりました。

プーチン大統領の悪の核心は、彼が歴史を逆回転させて大義の全くない侵略戦争を始め、ウクライナ国民を虐殺し続けていることに尽きます。

日本ではロシアにも一理がある、NATOの脅威がプーチンをウクライナ侵攻に駆り立てた、ウクライナは元々ロシアだった、などなどのこじつけや欺瞞に満ちた風説がまかり通っています。

東大の入学式では以前、名のあるドキュメンタリー制作者がロシアの肩を持つ演説をしたり、ロシアを悪魔視する風潮に疑問を呈する、という論考が新聞に堂々と掲載されたりしました。

それらは日本の恥辱と呼んでもいいほどの低劣な、信じがたい言説です。

そうしたトンデモ意見は、愚蒙な論者が偽善と欺瞞がてんこ盛りになった自らの考えを、“客観的”な立ち位置からの見方、と思い込んで吠え立てているだけのつまらない代物です。

それらと同程度の愚劣な大道芸が、イタリアのストリートアーチスト・ジョリットがやらかしたプーチン礼賛パフォーマンスなのです。

 

 



facebook:masanorinakasone

official siteなかそね則のイタリア通信

名優アラン・ドロンの夢幻泡影

フランス映画の大スターアラン・ドロンが、自宅に隠し持っていた拳銃とライフルあわせて72丁と銃弾3000発余りを警察に押収されました。

彼は無許可で大量の銃器を所有していたのです。自宅には射撃場も密かに設置されていました。

ここイタリアを含む欧州には銃の愛好家が多い。アラン・ドロンはそのうちの一人に過ぎません。

公の射撃場も掃いて捨てるほどあります。プライベートなものはさすがにあまり聞きませんが、人里離れた広大な敷地の屋敷内ならあってもおかしくありません。

スター俳優の住まいはまさしくそういう場所のようです。

少しだけ不審に思ったのは、彼がなぜ銃所有許可を取らなかったのかという点です。

大スターだから許可がなくても許されると考えたのなら、ただのたわけでしょう。88歳の今日まで許可申請をしなかったのですからその可能性は高い。

若いころのアラン・ドロンは、のけぞるほどの美男子というだけのダイコン役者でしたが、年を取るにつれて渋い名優へと変貌しました。知性的でさえありました。

それだけによけいに、銃所有許可証を持たないことが不思議に見えます。

馬鹿げたニュースですが、筆者は個人的に興味を覚えました。筆者自身が最近銃に関わっているからです。

20数年前、筆者は自分の中にある拳銃への強い恐怖心を偶然発見しました。

銃に無知というのが筆者の恐怖心の原因でした。筆者はその恐怖心を克服する決心をして、先ず猟銃の扱いを覚えました。

猟銃を扱えるようになると、拳銃への挑戦を開始しました。

公の射撃場で武器を借りインストラクターの指導で銃撃を習います。その場合は的を射ることよりも、銃をいかに安全に且つ冷静に扱うかが主目的になります。

まだ完全には習熟していませんが、拳銃への筆者の恐怖心はほぼなくなって、かなり冷静に銃器を扱うことができるようになっています。

するとスポーツとしての銃撃の面白さが見えてきました。今後はさらに訓練を重ねた上で、拳銃の取得も考えています。

大スターとは違って筆者は銃保持の許可証はとうに取得しています。

恐怖の克服が進み、次いでなぜ銃撃がスポーツであり得るかが分かりかけた時、筆者はそれまでとは違う2つの目的も意識するようになりました

ひとつは、自衛のための武器保持

筆者は少し特殊な家に住んでいます。家の内実を知らない賊が、金目の物が詰まっていると誤解しかねない、落ちぶれ貴族の巨大なあばら家です。

イタリアにゴマンとあるそれらの家の住人はほぼ常に貧しい、ということを知らない阿呆な賊でも、賊は賊す。彼らは大半が殺人者でもあります。

筆者は臆病な男ですが、不運にもそういう手合いに遭遇した場合は、家族を守るために躊躇なく反撃をするであろうタイプの人間でもあります。銃はそのとき大いに役立つに違いありません。

ふたつ目はほとんど形而上学的な理由です。

つまり将来筆者が老いさらばえた状況で、死の自己決定権が法的にまた状況的に不可能に見えたとき、銃によって自ら生を終わらせる可能性です。

むろんそれは夢物語にも似たコンセプトです。なので形而上学的と言ってみました。

万にひとつも実現する可能性はないと思います。しかし、想像を巡らすことはいくらでもできます。

閑話休題

冒頭で触れたようにヨーロッパには銃器の収集家がたくさんいます。

何人かは筆者の周りにもいますし、古い邸宅に年代物の銃器を多く収蔵している家族もいくつか知っています。

ほとんどの古い銃は今も使用可能状態に保たれ且つ厳しく管理されています。それはどこでもどんな銃でも同じ。

アラン・ドロンの銃器のコレクションは、銃を身近に感じることが少なくない欧米の文化に照らして見るべき、と感じます。

意匠が美しく怖いほど機能的で危険な銃器は人を惹きつけます。

アラン・ドロンが、自身が演じた映画の小道具などを通して銃に惹かれていく過程が目に見えるようです。

不法所持はむろんNGですが、彼には犯罪を犯しているという意識はなかったに違いありません。

殺生をしないアラン・ドロンの銃は、欧州伝統の銃文化の枠内にあるいわば美術品のようなもの。

返す返すもそれらの所有申請を怠った大スターの膚浅が悔やまれます。






facebook:masanorinakasone

official siteなかそね則のイタリア通信

文字のあるとことろには悉く文学がある

もう少し文学にこだわります。

文学論争は数学や物理学とは違って、数式で割り切ったり論理的に答えを導き出せる分野ではありません。「文学」自体の規定や概念さえ曖昧です。それらを探る過程が即ち文学、とも言えます。

曖昧な文学を語る文学論は「何でも可」です。従って論者それぞれの思考や主張や哲学は全てパイオニアとも言えます。そこには白黒が歴然としている理系の平明はない。人間を語るからです。だから結論が出ません。

文学とは要するに「文字の遊び「と考えれば、文字のあるとことろには悉く文学がある、ということもできます。

筆者はここではそのコンセプトでSNSを捉えようとしています。

筆者は文学を紙媒体によって学んできた古い世代の人間です。ところがSNSに接し、自らも投稿するようになり、さらに多くのSNS上の「文字」に出会ううちに、SNSには文学が充満していると気づきました。

その文学は、例えば筆者が卒業論文に選んだ三島由紀夫や再三再四読み返している司馬遼太郎や藤沢周平や山本周五郎、また今このとき胸が騒ぐ桐野夏生や宮本輝、あるいは過去のバルザック、安部公房、ソルジェニーツィン、スタンダール、太宰治、フォーサイスetc,etcの僕が読み耽ってきた多くの「役に立たない本」に詰まっている文学とは毛並みが違います。

だが、巧まざるユーモアや介護の重圧や自分探しの旅や草花を愛でる言葉やペット愛や野菜つくりの悲喜こもごもやといった、尽きない話題が溢れ返るSNS劇場にはまさしく文学があります。

それらの文学は、短いものほど面白い。筆者はツイッター(意味不明なマスク氏のXとはまだ呼べずにいる)をあまり利用しませんが、 ツイッターがこの先、情報交換ツールから「文学遊び」ツールへと変化した場合は、特に日本で大発展するのでないかと思っています。

なぜなら日本には短歌や俳句という偉大な短文文学の伝統があるからです。もしかするともうそうなっているのかもしれませんが、既述のように筆者は ツイッターに登録はしているものの、ほとんど利用していません。

本が筆頭の紙媒体、ブログ、Facebook、テレビ、インターネット全般、とただでも忙しい日常にツイッターの慌しさを加える気が起きないのです。なのでツイッターの今この時の実態を知りません。

ブログもFacebookも短い文章ほど面白い。その点筆者は冗漫な文章書きなので、長い文章を短くしようと日々悩んでいます。

文学論っぽい話は:

https://terebiyainmilano.livedoor.blog/archives/52255786.html

https://terebiyainmilano.livedoor.blog/archives/52255786.html

https://terebiyainmilano.livedoor.blog/archives/52185388.html

等を参照してください。

 

 

 

facebook:masanorinakasone

official siteなかそね則のイタリア通信

等を参照していただきたい。