文字のあるとことろには悉く文学がある

もう少し文学にこだわります。

文学論争は数学や物理学とは違って、数式で割り切ったり論理的に答えを導き出せる分野ではありません。「文学」自体の規定や概念さえ曖昧です。それらを探る過程が即ち文学、とも言えます。

曖昧な文学を語る文学論は「何でも可」です。従って論者それぞれの思考や主張や哲学は全てパイオニアとも言えます。そこには白黒が歴然としている理系の平明はない。人間を語るからです。だから結論が出ません。

文学とは要するに「文字の遊び「と考えれば、文字のあるとことろには悉く文学がある、ということもできます。

筆者はここではそのコンセプトでSNSを捉えようとしています。

筆者は文学を紙媒体によって学んできた古い世代の人間です。ところがSNSに接し、自らも投稿するようになり、さらに多くのSNS上の「文字」に出会ううちに、SNSには文学が充満していると気づきました。

その文学は、例えば筆者が卒業論文に選んだ三島由紀夫や再三再四読み返している司馬遼太郎や藤沢周平や山本周五郎、また今このとき胸が騒ぐ桐野夏生や宮本輝、あるいは過去のバルザック、安部公房、ソルジェニーツィン、スタンダール、太宰治、フォーサイスetc,etcの僕が読み耽ってきた多くの「役に立たない本」に詰まっている文学とは毛並みが違います。

だが、巧まざるユーモアや介護の重圧や自分探しの旅や草花を愛でる言葉やペット愛や野菜つくりの悲喜こもごもやといった、尽きない話題が溢れ返るSNS劇場にはまさしく文学があります。

それらの文学は、短いものほど面白い。筆者はツイッター(意味不明なマスク氏のXとはまだ呼べずにいる)をあまり利用しませんが、 ツイッターがこの先、情報交換ツールから「文学遊び」ツールへと変化した場合は、特に日本で大発展するのでないかと思っています。

なぜなら日本には短歌や俳句という偉大な短文文学の伝統があるからです。もしかするともうそうなっているのかもしれませんが、既述のように筆者は ツイッターに登録はしているものの、ほとんど利用していません。

本が筆頭の紙媒体、ブログ、Facebook、テレビ、インターネット全般、とただでも忙しい日常にツイッターの慌しさを加える気が起きないのです。なのでツイッターの今この時の実態を知りません。

ブログもFacebookも短い文章ほど面白い。その点筆者は冗漫な文章書きなので、長い文章を短くしようと日々悩んでいます。

文学論っぽい話は:

https://terebiyainmilano.livedoor.blog/archives/52255786.html

https://terebiyainmilano.livedoor.blog/archives/52255786.html

https://terebiyainmilano.livedoor.blog/archives/52185388.html

等を参照してください。

 

 

 

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