各種発言に込められたパレスチナ危機のまだら模様の真実

ハマスVSイスラエル闘争に関しては、一方的な思い込みや驕慢に基づく発言が多い。

例えばイスラエルのネタニヤフ首相は、「ホロコーストの犠牲者であるユダヤ人を殺すのは普通よりも罪が重い」という趣旨の発言をしました。

それは取りようによっては、ユダヤ人の命はパレスチナ人の命よりも重い、というふうにも聞こえかねません。

彼が言いたいのは、ホロコーストを経験したユダヤ人は、特別な感慨また無残な思いを胸中深く抱いて生きている、ということなのでしょう。

だが強硬なシオニストの彼は、民間のパレスチナ人を無差別に殺戮することも厭わない、国家テロの首謀者です。それだけに発言は異様な響きを持ちます。

彼らシオニストが不遜にも聞こえる物言いをしていると、ユダヤ人の不幸に同情的な欧米の世論が疲弊して、可愛さ余って憎さ百倍とばかりに暗転しないとも限りません。

いや、欧米各国の政府見解はさておき、人々の間ではその傾向に拍車が掛かりつつあるようにも見えます。

トルコのエルドアン大統領は、「ハマスはテロ組織ではなく、パレスチナ市民と土地を守るために戦う解放グループだ」と発言。

それはムスリムとしての彼の成心が言わせた言葉です。だが筆者はその言いに少しのためらいと共に賛同します。

つまり、ハマスがパレスチナ解放を目指す武闘組織であることは明らかですが、子供の首を切るなどイスラム国をも髣髴とさせる彼らの残虐非道な行為はNOだ、と改めて明確に批判すればもっと良かったと思うのです。

また国連のグテーレス事務総長は、「ハマスが生まれたのは偶然ではない。ハマスは56年間に渡ってパレスチナの人々を抑圧したイスラエルの横暴があってはじめて出現した」と主張。

無力な国連の、無能な事務総長が、珍しくきっぱりと真実を語ったことに筆者は瞠目しました。

だが程なくグテーレス事務総長は、「私がハマスのテロ行為を正当化しているかのように発言の一部が曲解されている。ショックだ。これは誤りだ。真逆だ」と懸命に弁明。事実上発言を撤回してしまいました。

イスラエルのエルダン国連大使とコーヘン外相が、「ハマスはナチスだ。ナチスを弁護する国連事務総長などあり得ない。すぐに辞任しろ」などと激しく指弾したことに恐れをなしたのです。

彼らの居丈高な態度は、イスラエルに味方する欧米列強の威光を笠に着たものでしたから、事務総長は余計にびびってしまいました。

しかしグテーレス事務総長の指摘は正しいものでした。彼は発言をあたかも誤りであったかの如く弁明、撤回するべきではありませんでした。

彼にそうすることを強いたイスラエル側の強弁は、言論テロと呼ぶことさえできる傲岸不遜なものです。

強い危機感がそうさせるのでしょうが、思い上がりにも見えるイスラエルの異様な主張は時とともに増えています。

それはイスラエルとユダヤ人への反感を買い増す危険があるばかりではなく、和平への道を閉ざす過激な行為でもあります。

とても残念なことです。

 

 

 

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ユダヤ人の悲運はイスラエルの横暴の免罪符にはならない。が・・ 

アメリカを筆頭にする欧米列強がイスラエル支持で一つにまとまる中、各国民の中にはイスラエルへの反発心も確実に高まっているように見えます。

筆者もハマスの蛮行に怒りを覚えつつ、イスラエルの横暴に違和感を持ち、そう発言し続けています。

何かが劇的に展開しない限りおそらくそのスタンスは変わりません。

しかし、イスラエルという国家の暴虐によってあるいは忘れ去られるかもしれないユダヤ人の悲しみについては、必ず胸に刻み続けて行きたいと思います。

欧州では、ローマ帝国がユダヤ人をエルサレムから放逐して以降、彼らへの偏見差別が続きました。差別の最も奥深いものは、ユダヤ人がイエス・キリストを殺した、という思い込みです。

固陋で未開な僻見が欧州人の目を曇らせ続けました。ユダヤ人の2000年の苦悩の本質は、そこから発生した差別にほかなりません。

差別ゆえに彼らは当時軽蔑されていた金融業に就くことを余儀なくされました。幸運にもそれは彼らに莫大な富ももたらしました。

金持ちで知的能力が高く、且つキリスト教とは相容れない異質の宗教とそれに付随する生活習慣に固執するユダヤ人は、欧州人による執拗な偏見差別の対象になりました。

パレスチナから追放されて以後、辛酸を舐め続けたユダヤ人の不幸は、20世紀になってヒトラーが先導したホロコーストによって最高潮に達しました。

イスラエルが自身の存続と防衛に死に物狂いで取り組むのは、その国民であるユダヤ人が欧州で差別され殺戮され排除され続けてきた悲惨な過去があるからです。

彼らは国を持つことによって、無残な過去への回帰を避けようとします。彼らの必死の思いはイスラエルに匹敵する数のアメリカのユダヤ人とその他の世界中のユダヤ人に熱烈に支持されます。

イスラエル国民の寄る辺なさと恐怖と悲しみは、欧米を始めとする世界各国のユダヤ人の寄る辺なさと恐怖と悲しみとそっくり同じものです。

差別と抑圧に苦しめられたユダヤ人の国のイスラエルが、弱者であるパレスチナの住民を抑圧し殺戮するのは、見るのも耐え難い歴史の皮肉です。

だが今現在のイスラエルを観察する限り、彼らは自己保身に集中するあまり、イスラエル建国までのユダヤ人と同じ境遇にあるパレスナ民衆の苦しみが見えなくなっているようです。

イスラエルが専制君主とも見えるパレスチナVSイスラエルの抗争に於いて、欧州が米国と共に頑強にイスラエル支持に回るのは、2000年に渡ってユダヤ人を抑圧してきた過去への償いの思いがあるからです。

それは欧州の良心の発露です。

大半がキリスト教徒である欧州人は、ユダヤ人を迫害してきたことへの後ろめたさと、同時に反ムスリムの心情からもユダヤ人国家のイスラエルを強く擁護します。

イスラエル建国は、間接的には欧米の力、特にオスマン帝国に続いて当時パレスチナを支配していたイギリスの暴挙によるものです。

イギリスは当時、アラブVSユダヤの争いに音を上げて卑怯にもパレスチナの混乱から身を引きました。その空白を縫ってユダヤ人がイスラエルの建国を宣言した、というのが史実です。

これに対してアラブ連盟5ヶ国は、イスラエル建国宣言と同じ日に同国に宣戦布告。翌15日にはパレスチナに侵攻して第1次中東戦争が始まりました。

イスラエルはその戦いでアラブ連合を撃破。そこからイスラエルによる過酷なパレスチナ支配が始まります。

歴史に連綿と刻まれたユダヤ人の悲運は、決してイスラエルの横暴の免罪符にはなりません。

だが、われわれは同時に、彼らの巨大な悲しみもまた決して忘れてはならないとも思います。 

 

 

 

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ハマスの攻撃もそれへの報復も同じ穴のムジナの蛮行である

10月7日、ハマスがイスラエルを攻撃。残虐行為を働きました。被害者のイスラエルはすぐに応酬。ハマスに劣らない凶悪さでガザ地区住民を虐殺し続けています。

ところがイスラエルへの非難は、ハマスへのそれに比べると弱い。

ハマスが先に手を出したことと、戦闘員が子供の首を切り落とすなどの残忍非道な行いをしたことが、世界世論の憎しみを誘ったからです。

同時に、繰り返しになりますが、報復したイスラエル側の攻撃も酷いものになりました。それにしては彼らに対する視線は寛容すぎるほど寛容です。

欧米は反ハマス一辺倒です。それはイスラエル支持につながり、イスラエルのガザへの反撃は自衛のためのものだから正当、という議論を呼びます。

その延長で、ここイタリアでは反イスラエルまたパレスチナ擁護の立場の者への、魔女狩り的な動きさえ出ています。

イタリアのユダヤ人喜劇俳優 モニ・オヴァディアは、イスラエルの無差別攻撃を断罪して劇場から締め出されました。

アラブ世界の抑圧的な政治を批判して英雄扱いされたエジプト人青年、パトリック・ザキは、ハマスの攻撃にはそれなりの理由があると発言しただけで、イタリアの名誉市民権を剥奪されようとしています。

またドイツでは、イスラエルに批判的なパレスチナ人女性作家アダニア・シブリが激しい論難にさらされています。

一方的にイスラエルだけを擁護する言説は危険です。

ハマスのイスラエルへの残虐な無差別攻撃は、むろん許しがたいものです。

だがそこに至るまでには、イスラエルによるパレスチナ人民への抑圧、侵略、虐殺行為などが頻発してきたのもまた事実です。

パレスチナ人とユダヤ人は、2000年の長きに渡ってほぼ無縁の時間を過ごした後、イスラエル建国に続いたユダヤ人の一方的なパレスチナ占領によって、抑圧と抵抗が雪だるま式に膨れ上がり、連鎖していく悲劇に陥りました。

血で血を洗う闘争は、ハマスに始まるアラブ強硬派とイスラエル右派またユダヤ原理主義勢力が消滅しない限り終わることはありません。

和平への道は常に彼らが閉ざしてきました。今回の武力衝突もパレスチナの過激派とイスラエルの極右勢力が引き起こしたものです。そして2者は永遠に妥協もしなければ消滅もしないように見えます。

武力衝突を止めさせる力を持つ欧米列強は、イスラエル支持でほぼ一枚岩になっていて、アラブまたパレスチナの敵意を喚起し続け、やはりどうしても虐殺の連鎖を断ち切ることはできません。

それはつまり、病院爆破に象徴されるイスラエルとパレスチナの無残な殺し合いは果てしなく続き、民間人の犠牲は今後も増え続けていくということうを意味しています。

 

 

 

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皇太子を「王太子」と言い換えるバカの大壁

イラスト ©ザ・プランクス

 

 

中東などの皇太子をあえて「王太子」と名づけたがる人がいます。

皇太子を「王太子」と言うのは、野球の早慶戦を「慶早戦」とわざと言い換えるようなものです。

要するに、関係者だけが悦に入っている図が明白な、バカの大壁です。

この場合の関係者とは、ネトウヨヘイト系排外&差別主義者と筆者が規定している日本洞窟内の民族主義系住民です。

彼らは支配者である天皇を他の支配者とは違うと見る欺瞞の心根と、欧米への劣等意識の裏返しである差別感情から、中東域の皇太子のみを敢えて王太子と言い換えたがります。

その証拠に彼らは、例えば英国王室の皇太子を王太子と言い換えようとは夢にも思いません。

決まって欧米外の王室の世子のみをそう呼ぼうとします。それは偏見差別体質の現れ以外のなにものでもありません。

天皇は元々は、世界のあらゆる国の王や帝王や皇帝と同じく、抑圧と殺戮と暴力によって民衆の上に君臨した権力者です。皇太子はその後嗣であり次代頭首です。

つまり天皇も皇太子も共にアナクロな概念であり反民主主義的な存在です。

その後天皇は象徴となり、やがて平成の天皇の如き崇高な人格者も出ました。その源である天皇家は尊敬に値するものです。

だが天皇は、日本洞窟内民族主議者が悪用する可能性を秘めた「天皇制」に守られた存在である限り、あくまでも否定的なコンセプトでもあります。

世界の主要国の中には、未だに王権あるいは王権の残滓にひれ伏す日本や英国のような国もあります。

2国は民主主義国家でありながら、実は未だに王権の呪縛から精神を解放できない後進性を持つ、似非民主主義国家です。

なぜなら真の民主主義国家では、国家元首を含む全ての公職は、主権者である国民の選挙によって選ばれるべきものだからです。

それは「全ての人間は平等に造られている」 という人間存在の真理の上に造られた制度であり哲学です。

人が皆平等である真の民主主義世界では、王権や天皇権があたかも降臨した如くひとりの人間や家族に与えられることはありません。

天は人の上に人を作らず、天は人の下に人を作らない。

人は学び努力をすることで人の上に押し上げられ、身を粉にして世に尽くすという約束をすることで、選挙を介して首班や国家元首になるべきです。

生まれながらにして人の上に立つ人間の存在を認めるのは、愚かであり欺瞞であり恥ずべきことです。

 

 

 

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ステレオタイプたちの真実

イタリア男のイメージの一つに「女好きで怠け者で嘘つきが多く、パスタやピザをたらふく食って、日がな一日カンツォーネにうつつを抜かしているノーテンキな人々」というステレオタイプ像があります。

イタリアに長く住む者として、その真偽についての考察を少し述べておくことにしました。

イタリア人は恋を語ることが好きです。男も女もそうですが、特に男はそうです。恋を語る男は、おしゃべりで軽薄に見える分だけ、恋の実践者よりも恋多き人間に見えます。

ここからイタリア野郎は手が早くて女好き、というウラヤマシー評判が生まれます。しかも彼らは恋を語るのですから当然嘘つきです。嘘の介在しない恋というのは、人類はじまって以来あったためしがありません。

ところで、恋を語る場所はたくさんありますが、大人のそれとしてもっともふさわしいのは、なんと言っても洒落たレストランあたりではないでしょうか。イタリアには日本の各種酒場のような場所がほとんどない代わりに、レストランが掃いて捨てるほどあって、そのすべてが洒落ています。なにしろ一つひとつがイタリアレストランですから・・。
 
イタリア人は昼も夜もしきりにレストランに足を運んで、ぺちゃクチャぐちゃグチャざわザワとしゃべることが好きな国民です。そこで語られるトピックはいろいろありますが、もっとも多いのはセックスを含む恋の話です。

実際の恋の相手に恋を語り、友人知人のだれ彼に恋の自慢話をし、あるいは恋のうわさ話に花を咲かせたりしながら、彼らはスパゲティーやピザに代表されるイタリア料理のフルコースをぺろりと平らげてしまいます。
 
こう書くと単純に聞こえますが、イタリア料理のフルコースというのは実にもってボー大な量です。したがって彼らが普通に食事を終えるころには、2時間や3時間は軽くたっています。そのあいだ彼らは、全身全霊をかけて食事と会話に熱中します。

どちらも決しておろそかにしません。その集中力といいますか、喜びにひたる様といいますか、太っ腹な時間のつぶし方、というのは見ていてほとんどコワイ。
 
そうやって昼日なかからレストランでたっぷりと時間をかけて食事をしながら、止めどもなくしゃべり続けている人間は、どうひいき目に見ても働くことが死ぬほど好きな人種には見えません。

そういうところが原因の一つになって、怠け者のイタリア人のイメージができあがります。
 
さて、次が歌狂いのイタリア人の話です。

この国に長く暮らして見ていると、実は「カンツォーネにうつつを抜かしているイタリア人」というイメージがいちばん良く分かりません。おそらくこれはカンツォーネとかオペラとかいうものが、往々にして絶叫調の歌い方をする音楽であるために、いちど耳にすると強烈に印象に残って、それがやたらと歌いまくるイタリア人、というイメージにつながっていったように思います。

イタリア人は疑いもなく音楽や歌の大好きな国民ではありますが、人前で声高らかに歌を歌いまくって少しも恥じ入らない、という性質(たち)の人々ではありません。むしろそういう意味では、カラオケで歌いまくるのが得意な日本人の方が、よっぽどイタリア人的(!)です。
 
そればかりではなく女好き、つまり有体に言えばスケベさにおいても、実はイタリア人は日本人に一歩譲るのではないか、と筆者は考えています。

イタリア人は確かにしゃあしゃあと女性に言い寄ったり、セックスのあることないことの自慢話や噂話をしたりすることが多いが、日本の風俗産業とか、セックスの氾濫する青少年向けの漫画雑誌、とかいうものを生み出したことは一度もありません。

嘘つきという点でも、恋やセックスを盾に大ボラを吹くイタリア人の嘘より、本音と建て前を巧みに使い分ける日本人の、その「建て前という名の嘘」の方がはるかに始末が悪かったりします。
 
またイタリア人の大食らい伝説は、彼らが普通1日のうちの1食だけをたっぷりと食べるに過ぎない習慣を知れば、それほど驚くには値しません。それは伝統的に昼食になるケースが多いのですが、2時間も3時間もかけてゆっくりと食べてみると、意外にわれわれ日本人でもこなせる量だったりします。
 
さらにもう一つ、イタリア人が怠け者であるかどうかも、少し見方を変えると様相が違ってきます。

イタリアは自由主義社会(こういう表現は死語になったようですがイタリアを語るにはいかにもふさわしい語感です。また自由主義社会ですから中国は排除します)の主要国の中で、米日独仏などにつづく経済力を持ちます。イタリアはイギリスよりも経済の規模が大きいと考える専門家さえいるのです。

言うまでもなくそれには諸説ありますが、正式の統計には出てこないいわゆる「闇経済」の数字を考慮に入れると、イタリアの経済力が見た目よりもはるかに強力なものであることは、周知の事実です。
 
ところで、恋と食事とカンツォーネと遊びにうつつを抜かしているだけの怠け者が、なおかつそれだけの経済力を持つということが本当にできるのでしょうか?
 
何が言いたいのかといいますと・・

要するにイタリア人というのは、結局、日本人やアメリカ人やイギリス人やその他もろもろの国民とどっこいどっこいの、助平で嘘つきで怠け者で大食らいのカンツォーネ野郎に過ぎない、ということです。

それでも、やっぱりイタリア人には、他のどの国民よりももっともっと「助平で嘘つきで怠け者で大食らいのカンツォーネ野郎」でいてほしい。せめて激しくその「振り」をし続けてほしい。それでなければ世界は少し寂しく、つまらなく見えます。

 

 

 

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 生きる奇跡

この世のあらゆるものは「当たり前」と思った瞬間に色あせます。

それを「奇跡」と思ったとたんに輝きます。

たとえば一輪の花を見て、当たり前ジャン、と思ったとたんに花は枯れます。

感動がなくなるからです。

見つめて、その美しさを「奇跡だ・・」と感じた瞬間に花は永遠の命を得ます。

魂の震えが止まなくなるからです。

この世の中のものは全てが奇跡です。

ならば、どうということもない自らの存在も―全てが奇跡なのだから―むろん奇跡です。

奇跡と見なせば、どうでもいい存在の自分も輝いて見える、と信じたいところですが中々そうはいきません。

なので奇跡を求めて、今日も懸命に生きていくしかありません。

 

 

 

 

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移民嫌いのネトウヨの皆さんは彼らを助けて目的を達成すればよい

イタリアのジョルジャ・メローニ首相は、地中海からの大量移民の抑制を公約に掲げてほぼ1年前に政権を握りました。

しかし地中海を介してイタリアに流入する難民・移民の数は増え続けています。

理由はアフリカ、中東地域の政治混乱や貧困、また紛争や迫害などから逃れたい人々が海に向かうからです。

また、そうした人々を密航させる人身売買業者が暗躍して、難民・移民を意図的に作り出し欧州に向けて運んでいるという側面もあります。

難民・移民移送で稼ぐ多くの人身売買業者が、貧しい人々の背中を押して海へ、イタリアへ、ひいては欧州へと向かわせるのです。

イタリア右派政権は「人々を誘い鼓舞して欧州へと密航させる業者を撲滅するのが最重要課題だ。だが同時に、不法移民も厳しく取り締まるべき」と声高に主張します。

その右派の中の強硬な人々、つまり例えば日本のネトウヨ系排外差別主義者の政治・経済・文化人などに似た勢力は、国境を閉ざし鉄条網を巡らせ壁を作ってそれらの移民を排除しろと叫びます。

だがそれは愚かな主張です。なぜなら腹を空かせたそれらの難民・移民は、いくら国境を閉鎖しても壁を乗り越え、金網を破って侵入します。

飢餓に襲われている者を排斥することはできません。彼らは生きるために文字通り「必死」で国境に殺到し、そこを突破します。

飢えは死の恐怖と同義語です。死に直面した人々を止めるものは何もありません。

人類の起源を辿るときにはミッシングリンク、あるいは失われた環(わ)がよく議論されます。謎とされるミッシングリンクですが、飢餓が生んだ現象と考えれば辻褄が合います。

つまりミッシングリンクは、飢えたわれわれの祖先が、自らと同類の原始の民を殺しては食べつくしたことで生じた空白です。

そのことからも分かるように、飢えて切羽詰っている者を抑えるのは不可能なのです。飢餓に瀕した者、という意味では現代の難民・移民も同じです。

ならばどうするのか。

解決策の第一は、難民・移民の故国に政情安定と経済発展がもたらされることです。それは彼らの自己責任によって成されるべきことです。

しかしそれだけでは全く不十分です。不可能と言ってもいいでしょう。そこには先進国の支援がどうしても必要です。

それ故に本気で彼らの流入を阻止したいなら、彼らと彼らの国を支援して人々がそれぞれの国で平穏に生きていけるようにしなければなりません。

従って、難民や移民を遠ざけておきたいと願うイタリアの強硬右派勢力や、日本のネトウヨ系排外差別主義者の皆さんは、その目的達成の為に誰よりも率先して「難民・移民支援」にまい進するべきです。

 

 

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