10月の陽気に浮かれて旅したジェノヴァでは、下町の港周辺地区を主に歩きました。特にカンポ通り(Via del Campo)です。
ジェノヴァは基本的に2地域に分かれると筆者は考えています。港の周辺とそれ以外の地区です。
ジェノヴァ港は地中海でも1、2を争う規模と取引量を誇ります。ジェノヴァの富の源泉がジェノヴァ港です。
港周り以外のジェノヴァの地域は、割合で言えば8割程度の重みがあります。
そこは街の政治経済文化の中心です。一帯には元々のイタリア人(白人)で、いわば街の支配階級が住みます。
一方、そこからフェッラーリ広場を抜けて入るカンポ通りには、港の荷揚げ作業などの苦役に従事する外国人労働者や移民が多く住みます。
通りは港の一部と形容しても構わないほどに近接しています。
あたりの印象は、外国人に混じってイタリア人あるいはジェノバ人が細々と生きている、という風でさえあります。
イタリアきってのシンガーソングライター、ファブリツィオ・デ・アンドレは
「カンポ通りには木の葉色の瞳を持つ娼婦がいる
(通りも娼婦も街の肥溜めだ)
ダイヤモンドからは何も生まれない
だが肥溜めからは花が生まれる」
と歌いました。
肥溜めのように貧しいカンポ通りに生きる娼婦こそ人生を正直に生きる花だ、と讃えたのです。
哀切を誘うメロディーに乗った寓意的な歌詞が、デ・アンドレの低い艶のある声でなぞられて心にぐさりと突き刺さります。
カンポ通りの一角の壁には、デ・アンドレの数多い名作の中でも最高傑作のひとつである“Via del Campo”の1節を刻んだ表意絵が掛かっています。
通りを歩いた先にあるレストランで食事をしました。
そこには地域の住民はいません。街の8割方に住む豊かなジェノヴァ人と旅人が店の客です。
筆者はその店で散財することができる、特権的な旅人のひとりとなって食事を楽しませてもらいました。
鮮やかな緑色のペスト・ジェノヴェーゼにからませたパスタは、本場でしか味わえない深い風味がありました。
メインで食べたタコ料理に意表を衝かれました。いったいどんな手法なのか、タコが口に含むととろりと溶けるほどにやわらかく煮込まれていました。
タコ料理は今日までにそこかしこの国でずいぶん食べましたが、その一品はふいに筆者の中で、ダントツのタコ料理レシピとして記憶に刻まれてしまいました。
白ワインはリグーリア特産のヴェルメンティーノ(Vermentino)。きんきんに冷えたものを、と頼むと予想を上回るほどに冷えたボトルが出てきました。
味は絶品以外のなにものでもありませんでした。
ところで
ジェノヴァ市民は、多分イタリアでもっとも親切な人々、というのが筆者の持論です。
筆者はロケでイタリアのありとあらゆるところに行きます。その体験から「親切なジェノヴァ人」という結論に行き着いたのです。
情報収集やコンタクトや時間の融通や撮影許可やロケ車の置き場所や始末や・・あるとあらゆる事案にジェノヴァ人は実に懇切、丁寧、に対応してくれます。
それは多分ジェノヴァの人たちが国際的であることと無関係ではありません。
港湾都市のジェノヴァには、常に多くの外国人が出入りし居住しました。埠頭の人夫から豊かな貿易商人まで、様々な境遇の人々です。
ジェノヴァの人々は言葉の通じない外国人を大切にしました。彼らは皆ジェノヴァの重要な貿易相手国の国民だったからです。
そこからジェノヴァ人の親切の伝統が生まれました。
国際都市ジェノヴァには、また、国際都市ゆえの副産物も多くありました。
その一つがサッカー。
世界の強豪国、イタリアサッカーの発祥の地も、実はジェノヴァなのです。
その昔、ジェノヴァに上陸したイギリス人の船乗りが母国からサッカーを持ち込んで、それが街に広まりました。
今でこそトリノやミラノのチームが権勢を誇っていますが、イタリアサッカーの黎明期には、ジェノヴァチームは圧倒的に強かったのです。
さらに
古来、イタリア半島西端のやせた狭い土地で生きなければならなかったジェノヴァ人は、働き者で節約精神も旺盛だと言われます。
そこで生まれた冗談が「ジェノヴァ人はイタリアのユダヤ人」。イギリスにおけるスコットランド人と同じ。
リグーリア州の大半は山が突然海に落ち込むような地形です。平地が少なく地味もやせています。
そのため人々は海に進出し、知恵をしぼって貿易にいそしみ巨万の富を得ました。
それは世界におけるユダヤ人と同じ。
彼らのケチケチ振りを揶揄しながら、人は皆彼らの高い能力をひそかに賞賛してもいます。
「~のユダヤ人」というのは決して侮蔑語ではありません。それは感嘆語です。
親切でこころ優しいイタリアのユダヤ人、ジェノヴァ人に乾杯。
感嘆語のみなもと、ユダヤ人には、もっと、さらに乾杯。
official site:なかそね則のイタリア通信