日本のワクチン政策はお粗末のひと言に尽きます。欧米各国のワクチン接種が進む中、日本は医療従事者への十分な接種さえままならず、高齢者への接種も大幅に遅れています。
一般国民への接種など一体いつになるやら分からない、と言い切っても今のところはあながち言い過ぎではないでしょう。
筆者は既に2月、菅政権のワクチン獲得への動きが鈍いと書きました。欧州にいて生き馬の目を抜くワクチン争奪戦を間近に見ている筆者の目には、日本政府の構えがひどく稚拙に見えたのです。
筆者の印象はどうやら正しかったようです。
菅首相は、ワクチンが近く大量に入荷するのでもあるかのような発言を繰り返していますが、真偽のほどは分かりません。たとえ入荷してもべらぼうな値段を支払らう結果になるのではないかと危惧します。
ワクチン政策以外にもコロナ感染防止策全般、経済運営、東京五輪への展望など、など、菅政権の動きはなにもかもが迷走状態に見えます。
経済も感染防止も大事
言うまでもありませんが、コロナ禍の世界では感染拡大を抑え込みつつ経済も回し続けることが正義です。
感染拡大防止のみを重視してロックダウンを導入すれば、経済が破壊され国民はコロナとは別の危険にさらされます。昨年の春、世界一過酷で世界一長いロックダウンを敷いたイタリアの経済が、これでもかというまでに破壊され多くの人々の暮らしが成り立たなくなったのが好例です。
イタリアよりはゆるく、期間も短かいロックダウンを導入した欧州の他の国々も同様の被害を受けました。欧州一の経済大国でビジネスも好調なドイツでさえ、ロックダウンによって経済は大きなダメージを受けました。
だがそれならばということで、経済の推進のみに力を入れて感染拡大を放置すれば、国民の健康と命が危機にさらされます。先頃までのアメリカや現在のブラジルが好例です。また感染抑止策を誤ったり医療体制が脆弱だったりしてもコロナ被害は拡大します。インドほかの世界の貧しい国々がその好例です。
これまた当たり前のことですが感染防止と経済活動は相反します。欧米や日本などの先進国では、経済規模が大きい分、2者が対立することからくる痛みも大きくなります。
押しの妥協と受身の妥協
感染防止と経済推進という二つの正義はぶつかり合う。だが両立させなければならない。その両立は妥協によってのみ可能になります。
妥協は民主主義とほぼ同義語です。民主主義国である欧米各国や日本は、民主主義のプリンシプルに従って感染拡大と経済活動の妥協点を見つけ出さなければなりません。
言葉を変えれば、感染拡大を完全に押さえ込むことはできない。経済活動を完全に止めることもできない。従ってある程度の感染拡大と犠牲者を受け入れる、という苦痛に耐えながら経済も回していかなければならない。
そのことをメッセージにして明確に国民に伝えるのが菅首相の義務です。
言い方を変えればコロナ対策とは、感染と経済を見据えながら妥協を繰り返して行く、ということにほかなりません。
妥協することは、弱腰、優柔不断、敗北など、ネガティブな印象をしばしば国民に与えます。
妥協に際しては、追い詰められて仕方なくそれを受け入れたのではなく、強い意志と不退転の決意また責任感から導き出したポジティブな方向転換である、と国民に思わせなければならない。
それでなければ国民は納得しません。
“ポジティブな妥協”ができるのが有能な政治家です。あるいは常にポジティブな妥協をしている、と国民に語りかけることができるのが優れた指導者です。それはつまり、コミュニケーション能力の優れたリーダーということです。
良かれと思って実行した政策が行き詰まるのはよくあることです。その時に間違いを間違いと認めて、さて今後はどうするのかと国民に直接に、且つただちに語るのです。
正直に、誠実に、飾らずに、がキーワード
例えば昨年のGoToトラベルはそれ自体は悪くない政策です。だが運悪く遂行のタイミングを間違ったために感染拡大を招きました。菅首相はそこでGoToトラベルの人の移動は感染拡大の原因ではない、と愚劣な言い訳や強弁を弄するべきではありませんでした。
そうではなく、間違いを認めた上で「人の動きが活発になる年末年始には一旦停止するが、経済を立て直すためには重要不可欠な策なので時期を見て再開する」と正直に且つ明確に国民に伝えれば良かったのです。
正直に、誠実に、飾らずに、そして真摯に国民に語り掛けること。何も難しい仕事ではありません。なぜそんな当たり前のことができないのでしょうか。秋田の田舎の出の朴訥で真面目で醇正・篤実な人柄の男が管義偉、という触れ込みはもしかすると嘘なのでしょうか?
残念ながら日本の政治家は、菅首相に限らず伝統的にコミュニケーション力が弱い。ゼロと言っても良いかもしれません。
それでも日本の外から見ていると、その政権や人となりへの賛否は別にして、最近では中曽根、小泉両元首相のようにコミュニケーション力の強い人も出ました。だが形成されかけたその伝統は、安倍前首相によって後退し、菅首相によって完全に死に絶えたようにさえ見えます。
日本の政治家は説明責任という成句をナントカの一つ覚えのように口にしますが、彼らには常に言葉が足りない。政治家が説明責任を果たすのは最低限の義務です。政治家にはそれに加えて独自の考えをより明確に国民に伝える能力、すなわちコミュニケーション力がなくてはなりません。
それを「間違いを隠さない正直と勇気」に裏打ちされた能弁、と言い換えても構わないと思います。管首相のように間違いから目を逸らしたり建て前や口上を述べ立てて誤魔化すのはコミュニケーションではありません。
菅首相には、世界の有能な指導者の多くが持っているコミュニケーション力も分かりやすさもありません。それは彼が寡黙だからではなく彼の発する言葉には既述のコンセプト、つまり「間違いを隠さない正直」と「勇気に裏打ちされた能弁」が欠けているからです。だから国民の琴線に触れない。
発信できないなら去るべし
菅首相には的確なコミュニケーション力が欠けているだけではありません。就任直後に起きた日本学術会議問題に始まりコロナ対策などでも露見し続けているように、彼には政策方針の転換の理由を「詳しく説明する言葉」さえないのですから、何をか言わんやです。
いま現在も緊急事態宣言の混乱、オリンピック問題、ワクチン入手難、などと大揺れに揺れています。菅首相は例によって官僚の作文にしがみついて、安心安全に東京五輪を開催する、ワクチンは間もなく入荷するなどと反復していますが、何が根拠になっているのかさえよく分かりません。
それでいながら菅政権はー矛盾するようですがー既述のように感染予防も経済の推進も「政策」としてはまともな内容のものも掲げています。ところがそれが国民に十分に伝わっていません。伝わらなければ政策は無いにも等しい。
コミュニケーション能力が弱い菅首相の施策は、たとえそれが感染防止と経済活動を秤にかけた上での適切な「妥協」であっても、行き当たりばったりの結果にしか見えず、逃げや敗北の色が濃い動きに見えてしまいます。
管首相は追い詰められて「受身の妥協」をするのではなく、常に先手先手と政策を押し進めて、それが間違っていた場合には、即座にそのことを認め「積極的に妥協」して、修正し前進する勇気と誠実と知恵を持つべきです。
それができないのなら、速やかに去ることが、彼の言う国民への最大の奉仕になると考えます。
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