反ワクチン主義者のノバク・ジョコビッチ選手が、オーストラリアオープンから締め出されて以来初めて、英BBCテレビの単独インタビューに応じました。
彼はそこで今後もワクチンを打つつもりはないと示唆し、そのために全仏オープンやウインブルドンなどの世界大会に出場できなくなっても構わない、とも明言しました。
なぜそこまで思いつめるのか、という質問には
「自分の体内に何を入れるかを自分で決めたいからだ。私は常に自分の体に合うことをしている。健康や栄養に気を遣うことでアスリートとしての能力を高めてきた」
という趣旨の説明を返しました。それはつまり、ワクチンは自分の体に合わないから接種しない、という主張にも聞こえます。
だが新型コロナワクチンは、これまでに世界中で100億回以上の接種が行われ、世界人口の約6割が接種を受けました。安全と効果については十分以上の知見があります。
普及している全てのワクチンはごくまれに重い事故が起きたり、それよりも多い頻度で軽い副反応が起きたりもします。
副作用や副反応のない薬というものは世の中には存在しません。コロナワクチンも同様です。
ワクチンの安全性はこれまでのところ驚異的とも呼べるほどに高く、重症化や死亡を防ぐ効力も強力であることが明確になっています。
それにもかかわらずにジョコビッチ選手がワクチンは自分の体に合わない、と主張するのは不合理を通り越してほとんど笑止です。
コロナウイルスも体に合わないものです。だからわれわれの体内に侵入してわれわれを苦しめ重症化させ、最悪の場合は死に至らしめます。
一方、ジョコビッチ選手が体に合わないと主張するワクチンは、われわれの体内に入ってウイルスからわれわれを守りわれわれを救います。
そしてジョコビッチ選手も、天才的なテニスプレイヤーとはいえ、われわれのうちの1人であることは疑いがありません。
ジョコビッチ選手は世界ランク1位の一流中の一流のプレイヤーです。だから彼が自分自身の体を気遣い、食事や栄養など体内に取り込むものに神経質になるのは理解できます。
そういう注意深い、克己心の強い選手だからこそ彼は世界一になった、という見方さえできます。
また、その信念に殉ずるためには、世界規模の大会に参加できなくても構わないという決意も、考え方によってはすばらしいものでしょう。
だが一方でその頑なな考えは、根拠のないデマや陰謀論に影響されて、ワクチン反対を叫ぶ過激派の人々のそれにも酷似しています。
ワクチン接種を拒否する個人の自由は飽くまでも保護されなければなりません。ですから百歩譲ってジョコビッチ選手が正しいとしましょう。
だがコロナパンデミックに支配された社会全体は自由を失っていて、社会全体の自由があってはじめて担保される個人の自由は、それに伴い消滅しています。
社会全体の自由を奪ったパンデミックは、集団免疫によって終息させることができます。そして集団免疫は、社会の構成員の全てがワクチンを接種することで獲得できます。
そうやってワクチンの接種は社会の構成員全員の義務になりました。ワクチン接種は個々人をウイルスから守るだけではなく社会全体を守り、従って社会全体の自由も奪回するのです。
社会に抱かれて個人の自由を享受しながら、その社会がコロナによって自由を奪われている危機的状況下で、個人の自由のみを主張するのは狂気の沙汰です。
社会全体の自由がないところには個人の自由など存在しません。
社会全体の自由が存在しないところとは、ナチズムやファシズムや軍国主義下の世界であり、独裁者や独裁政党が君臨する社会のことであり、今われわれが体験しているコロナに抑圧支配されている社会です。
ワクチン接種は、社会全体の失われた自由を取り返すために、先に触れたように誰もが受けるべき義務と化していると考えられます。
ジョコビッチ選手は自由な社会に存在することで彼個人の自由のみならず、通常よりも多くの経済的、文化的、人間的な恩恵を受けてきました。なぜなら彼は有名人だからです。
それでいながら彼は、受けた恩恵への見返りである社会への責任と義務を履行することなく、利己主義に基づいた個人の自由ばかりを言い立てています。
それは実は、少数ですが世界中に存在する、ワクチン接種を断固として拒否する過激派の人々とそっくり同じ態度です。
反ワクチン過激派の人々の見解はほぼ常に狂信的な動機に基づいています。それは彼らの宗教にも似たカルトなのです。
彼らと同じ根拠を持つジョコビッチ選手の反ワクチン主義は、今後も矯正が不可能であることを示唆しているように思います。
従って彼がテニスの世界大会から締め出されるのは、やはりどうしても仕方がないこと、と見えてしまいます。
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