死の自己決定権をめぐる英国下院の一家言

英国下院は11月29日、遅ればせながら終末期にある成人の幇助自死を認める法案を可決しました。

なぜ遅ればせながらかと言うと、幇助自死つまり医師が患者に致死薬を投与したり、患者の自殺に関与したりする作為を認めている国は、欧州を筆頭に世界に少なからず存在するからです。

幇助自死を認めるとは言葉を替えれば、終末期患者が安楽死を選ぶ権利を認める、ということです。

それについてはスペインやイタリアまた南米のコロンビアなど、自殺を厳しく戒めるカトリック教国でさえ紆余曲折を経て黙認あるいは明確に法制化しています。

プロテスタントの国のイギリスが遅れているのは、敢えて言えば、同国が民主主義国家でありながら王を戴く似非民主主義国家、つまり超保守国家だからという見方もできるかもしれません。

しかし、英国下院の取り組み方にはさすがと思わせる点があります。

それは安楽死をめぐる議題が政治的な問題ではなく道徳的な問題と特定され、採決は各議員が所属政党の党議に縛られない自由投票で行われたことです。

つまり一人ひとりの議員は、それぞれの良心と誠心また価値観等、要するにあるがままの自分の考え方に従って行動することを求められました。

安楽死は、国家権力が決めるものではなく、国民一人ひとりが能動的に関与するべき事案です。なぜならそれは自らの生と死にかかわる生涯最大の課題だからです。

英国下院はそのことをしっかりと認識していました。

だからこそ議員の一人ひとりは、党員あるいは選挙で選ばれた特殊な存在、つまり特権を持つ代議士としてではなく、飽くまでも赤肌の個人として課題に向き合い、熟考した後に投票することを求められたのです。

繰り返しになりますが、安楽死はお上から下賜されるものではなく、必ず個々人が決意し選択し勝ち取るべきものです。

そのあり方は、たとえば安楽死を描いた日本映画、Plan75に提示された日本人や日本的エトスとは大きく違います。

Plan75では、安楽死を「政府が75歳以上の高齢者に死を選ぶ権利を“認め”支援する制度」

「国が生死の選択権を“与える”制度」などと表現されます。

また予告編やキャッチコピー、あるいは映画レビューや解説文等でも「75歳以上の高齢者の「死ぬ権利」を“認めた”日本」「果たして《死ぬ権利》は“認められる”べきなのか?」

などなど、政府が国民に一方的に安楽死また安楽死の制度を押し付けるのが当たり前、というニュアンスの文言が巷にあふれました。

映画そのものも、安楽死を「認められる」つまり強制されても仕方がないもの、として無意識のうちに了解しているのが垣間見える手法で描いていました。

高齢者も若者も健康な者も病人もなにもありません。誰も彼もが政府の押し付けに唯々諾々と従う。日本国民は怒り、立ち上がり、叫び、殺気立って暴動に走ったりはしないのです。

75歳になったら死を選ぶ権利を獲得するとは、年金また社会福祉制度が破綻しつつあると喧伝され、且つ同調圧力が強烈な日本においては「強制」とほぼ同義語です。

日本的安楽死論の怖さは、高齢になれば政府に安楽死を強制されても仕方がないという諦観に基づく感情、言葉を替えれば従順なヒツジ的根性に支配された、飽くまでも受動的な民心の中にこそあります。

片や英国下院の動きに象徴される英国的エトスあるいは民意とは、何よりも先ず個人個人の意思を最重視し、その後でのみ立法を探ることを許すというものであり、日本の民心とは対極にあるコンセプトです。

筆者は安楽死に賛成の立場ですが、これまで「先ず安楽死ありき」で考察を進める傾向がありました。だがそれは危険な態度だと最近は考えるようになっています。

安楽死は厳しい規制を掛けた上で、本人が希望するなら必ず認められるべきものです。

だがその議論の前には、飽くまでも安楽死に反対して生命維持装置を外さず、医療も果ての果てまで続けてほしい、という人々の当たり前の願いが先ず必ずかなえられるべきです。

その後でのみ、ようやく筆者のような安楽死賛成論者の言い分が考慮されるべきです。

つまり患者を徹頭徹尾「生かす」ことが第一義であり、安楽死賛成論は二の次の事案であるべきと考えるのです。

英国下院の思慮深い動きは、筆者の今の心境とも符丁が合う取り組みであり、筆者はそのことをとても心強く感じました。

 

 

 

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