映画「コンクラーベ」と「真正コンクラーベ」を較べて見れば

4月初旬、映画Conclaveを日本からイタリアに飛ぶ便の中で観ました。映画の日本語タイトルが「教皇選挙」であることは後にネットで知りました。

内容は「新しい映画とは何か」という問いに十分に答え得るることが直截に答えるもので、そのことについて書こうと思っていた矢先、フランシスコ教皇が亡くなってリアルな教皇選挙、コンクラーベが開催されることになりました。

筆者はフランシスコ教皇が選出された2013年のコンクラーベの際に少し勉強して、秘密選挙であるコンクラーベについてある程度の知識を得ていました。それなので映画の内容がすんなりと腑に落ちました。

腑に落ちたというのは、リアルなコンクラーベの詳細を知った上で、フィクションである映画Conclaveのメッセージに納得したという意味です。

ローマ教皇は世界におよそ14億人いるカトリック教会の最高指導者です。「イエス・キリストの代理人」とも位置づけられて信者の道徳的規範を体現する大きな存在です。

彼は同時にバチカンの国家元首として司法、立法、行政の全権も行使します。コンクラーベはそのローマ教皇を決める選挙です。選ぶのは教皇を補佐するバチカンの枢機卿団。

選挙人数は80歳以下の枢機卿120人とされます。だが一定ではありません。今回のコンクラーベでは135名の枢機卿が投票資格を持ちますが、うち2人が病気で参加できないため、133人が集って秘密選挙を行うと見られています。

なぜ秘密選挙なのかというと、世界中から結集した枢機卿はバチカンのシスティーナ礼拝堂に籠もって、外界との接触を完全に絶った状況で選挙に臨むからです。

電話やメールを始めとする通信手段はいうまでもなく、外部の人間との接触も一切許されません。メディアや政治家また権力者などの俗界の力が、選挙に影響を及ぼすことを避けるためです。

選挙方法は枢機卿の互選による投票で、誰かが全体の3分の2以上の票を獲得するまで続けられます。第1回目の投票は5月7日の午後に行われ、そこで当選者が出ない場合は翌日から午前2回と午後の2回づつ毎日投票が実施されます。

権力者を決める重大な選挙であるため、枢機卿の間では駆け引きと権謀術数と裏切りと嘘、また陣営間の切り崩しや足の引っ張り合いが展開されるであろうことは想像に難くありません。

そこにはしたたかな選挙戦が進む過程で、最も職責にふさわしい人物が絞り込まれていく、という効用もあります。

映画Conclaveは、現実のコンクラーベでは伺い知ることのできないそうした内実を描いています。もちろんフィクションですが、選挙にまつわる清濁の思惑、特に濁の魂胆が激しく錯綜する極めて世俗的な政治劇を余すところなく見せます。

映画の新しさ、あるいは大衆に受ける映画とは、表現法や視点、またそれを実現するに足る新しいテクニックが発揮されていること、また中身に時代の息吹が塗り込められていることなどです。

例えば1950年に発表された黒澤明の「羅生門」は、複数の人間が同じ事件を自身のエゴに即して全く違う視点で見、語るという表現法が先ず斬新でした。

さらに太陽にカメラのレンズを向けるというタブーを犯して暑さを表現したこと、移動レールに乗ってカメラが藪の中を疾駆するとき、木の枝がレンズにぶつかってはじける臨場感満載のシーン、殺し合う2人の男が怒りと恐怖で疲労困憊しながら獣の如く戦いのたうち回るリアリズムなど、思いつくだけでも数多くあります。

また「用心棒の」冒頭で斬り落とされた人間の腕を咥えた犬が走るカット、ラストで血が爆発的に噴き出す斬撃シーン、「蜘蛛の巣城」で弓矢が銃弾さながら激しく降り突き刺さるシーン、影武者の戦陣シーンで部隊の動きを長回しのカメラが流暢に追いかける計算されつくした構成、などなど数え上げれば切りがありません。

それらは例えばクエンティン・タランティーノの「パルプフィクション」で死者がふいに起き上がるシーンや、「キルビル」で主人公が地中の棺桶から出て地上に這い上がる場面などにも通底する発明であり、発見であり、エンターテイメントです。優れた映画、ヒットした映画、面白い映画には必ずそうした驚きがちりばめられています。

映画Conclaveには撮影テクニックや表現法の新しい発明はありません。むしろその部分では陳腐です。だが今の時代の息吹を取り込んでいるという新しさがあります。それがイスラム過激派のテロとLGBTQ+です。

映画では人間のどろどろした動きが丹念に描かれますが、選挙の結論は中々出ません。行き詰まったかに見えたとき、イスラム過激派による爆破事件が起こり投票所の窓も破壊されます。

すると保守派の有力候補が、イスラム教への憎悪をむき出しにして宗教戦争だ、彼らを殲滅するべきと叫びます。

それに対して1人の候補が「戦争ではキリスト教徒もイスラム教徒も同様に苦しみ、死ぬ。我らと彼らの区別はない。戦争は憎しみの連鎖を呼ぶだけだ」と説きます。

その言葉が切り札となって、次の投票では彼に票が集まり、結局その候補が新教皇に選出されます。

そして実は新教皇に選ばれたその人は「インターセックス」という性を持つ人物であることが、伏線からの流れで無理なく明らかにされます。

イスラム過激派のテロとLGBTQ+という、いま最もホットな事案のひとつをさり気なくドラマに取り込むことで、映画Conclaveは黴臭い古いコンクラーベを描きつつ新しさを提示しています。

映画での新教皇の演説は、亡くなったフランシスコ教皇が、2013年のコンクラーベで「内にこもって権力争いに明け暮れるのではなく、外に出て地理的また心理的辺境にまで布教するべき」という熱いスピーチを行って票を集めた史実を踏襲しています。

またフランシス教皇が保守派の強い抵抗に遭いながらも、LGBTQ+の人々に寄り添う努力をした事実などもドラマの底流を成しています。

2025年4月21日に亡くなったフランシスコ教皇の後継者を決める秘密選挙・コンクラーベは、間もなく蓋を開けます。

そこではフランシスコ教皇の改革路線を継承する人物が選ばれるかどうかが焦点になるでしょう。

世界中に14億人前後いると見られるカトリック教徒のうち、約8割は南米を筆頭に北米やアフリカやオセアニアなど、ヨーロッパ以外の地域に住んでいます。

ところが聖ペドロ以来265人いたローマ教皇の中で、ヨーロッパ人以外の人間がその地位に就いたことはありませんでした。

内訳は254人がヨーロッパ人、残る11人が古代ローマ帝国の版図内にいた地中海域人ですが、彼らも白人なのであり、現在の感覚で言えば全てヨーロッパ人と見なして構わないでしょう。

ところが2013年、ついにその伝統が途絶えます。

南米アルゼンチン出身のフランシスコ教皇が誕生したのです。先日亡くなったフランシス教皇その人が、史上初めて欧州以外の国から出た教皇だったのです。

フランシスコ教皇は、教会の公平と枢機卿の出自の多様化を目指して改革を推し進め、アジア、アフリカを中心に多くの枢機卿を任命しました。

5月7日から始まるコンクラーベで投票権を持つ135人のうち108人は、フランシスコ教皇が任命した枢機卿です。出身国は71カ国に及び、ヨーロッパ中心主義が薄れています。

このうちアジア系とアフリカ系は41人。ラテンアメリカ系は21人いる。ヨーロッパ系は53人いて

依然として最多ではありますが、かつてのようにコンクラーベを支配する勢いはありません。

バチカンの行く末は、信徒の分布の広がりを反映した多様性以外にはあり得ません。それに対応して、将来はヨーロッパ以外の地域が出自の教皇も多く生まれるでしょう。

フランシスコ教皇はアルゼンチンの出身ですが、先祖はイタリア系の移民です。つまり彼もまたヨーロッパの血を引いていました。

だがそうではない純粋のアジア、アフリカ系の教皇の出現も間近いと考えられます。あるいは今回のコンクラーベで実現するかもしれません。

その場合、アジアのフランシスコとも呼ばれるフィリピンのルイス・アントニオ・タグレ枢機卿などが、もっとも可能性があるように見えます。

そうはいうものの、しかし、下馬評の高かった候補が選ばれにくいのが、コンクラーベの特徴でもあります。5月7日が待ち遠しくてなりません。

 

 

 

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死して後もなお民衆とともに生きようとした教皇フランシスコ

2025年4月26日、第266代ローマ教皇フランシスコの葬儀が執り行われました。

キリスト教徒ではない筆者は、教皇の就任式や葬儀、また彼らの普段の在り方等々に接する場合、ほぼ常に天皇と比較して見、考える癖があります。

今回も同じでしたが、偉大な人物だったフランシスコ教皇の前には、彼に勝るとも劣らない先達がいたことを、先ず書いておくことにしました。

教皇と天皇にまつわる感懐については近いうちにまた書ければと思います。

「(移民を拒む)壁を作るな。橋を架けなさい」とトランプ大統領を諭したフランシスコ教皇の葬儀は適度に荘厳なものでした。

適度に荘厳とは、例えば2005年に行われた第264代教皇ヨハネパウロ2世や、3年前に死去したエリザベス英国女王の絢爛豪華な葬儀などに比べれば質素、という意味です。

儀式全体の慎ましさはフランシスコ教皇の遺志によるものでした。筆者はそこに、いかにも清貧を重んじたフランシスコ教皇の弔いの核心を見て心を打たれました。

葬礼はバチカンの伝統に則って執り行われました。従って威風堂々たるものでした。だが参加者の顔ぶれや人数や式次第などは、前述の2人の葬儀に比較すると見劣りがしたのです。

それはフランシス教皇自身が、華美を徹底的に排した式次第を生前に言い渡し、信徒に向けては「私の葬儀に出席するのは止めてその分の費用を貧しい人に与えてください」と遺言していたことなどが影響したと考えられます。

また棺が従来よりも簡素なものになり、葬儀のあり方自体も徹底して絢爛が払拭されました。埋葬そのものでさえ平易化 されました。

埋葬場所がサンピエトロ寺院からより庶民的なサンタマリアマッジョーレ大聖堂に変更され、埋葬自体も教皇の家族のみで行われました。墓には簡潔にFrancescus(フランシスコ)とのみ刻まれました。

それらが全てフランシスコ教皇の遺言によって実行されたものだったのです。

フランシスコ教皇は弱者に寄り添う「貧者の教会」の主として、疎外され虐げられた人々を助け、同性愛者や破綻した信徒夫婦の苦悩を受け留め、勇気を持って普遍的な愛に生きよ、と人々を鼓舞し続けました。

さらに2019年には来日して、「核兵器の保有は倫理に反する」と呼びかけ核抑止論を真っ向から否定しました。

同時に平和を強く希求し、シリア内戦からウクライナ戦争、ガザ紛争などへと広がる終わりのない世界紛争の終結を目指して活動を続けました。

彼はバチカンの改革も積極的に推進。キューバとアメリカの関係改善にも尽力しました。のみならずバチカン自身と中国との和解劇も演出しました。

清貧の象徴であるイタリア・アッシジの聖人フランチェスコの名を史上初めて自らの教皇名とした彼は、「貧しい人々と弱者に寄り添え」と言い続けました。

ただ主張するだけではなく、教皇は実際に清廉のうちに生きて自らを律しました。その名の通り飾らない性格と質素な生活ぶりで、信徒は言うまでもなく異教徒にさえ愛され、尊敬されたのです。

フランシスコ教皇は、宗教的また政治的にも大きな存在でした。だがそれよりも彼は、人間として偉大な人物でした。

ローマ教皇という巨大な肩書きではなく、人格によって人々を平伏させたのがフランシスコ教皇だったのです。

フランシスコ教皇は自らの葬儀さえ質素に行うよう指示しました。死して後も虚飾を否定して、真に民衆と共に歩む姿勢を明確に示したのです。

フランシスコ教皇の人生哲学は独自のものでしたが、同時に先達もいました。

彼の生き様は、歴代の教皇のうち、善良な魂を持つ少なくない数の教皇らの足跡をたどったものでもあたのです。

例えば教皇を含む司祭が持つ素朴な羊飼いの杖は、時間経過と共に変遷進化して十字架の形をした笏杖(しゃくじょう)になり、十字に3本の横棒が付いたものは教皇だけが使用できる特別な用具になりました。

第262代教皇パオロ6世は、それを教皇の権威の象徴であり思い上がりだと非難して、3本の横棒の付いた笏杖を廃止し、代わりに十字架のキリスト像を導入しました。

十字架の笏杖は、着座33日で死去したヨハネ・パウロ1世を経て、パウロ6世を事実上引き継いだヨハネ・パウロ2世によって最大限に活用されました。

ヨハネパウロ2世は26年余に渡って教皇の座に居ました。彼は多くの功績を残しましたが、最も重要な仕事は故国ポーランドの民主化運動を支持し、鼓舞して影響力を行使。ついにはベルリンの壁の崩壊までもたらしたことです。

さらに彼は敵対してきたユダヤ教徒と和解し、イスラム教徒に対話を呼びかけ、アジア・アフリカなどに足を運んでは貧困にあえぐ人々を支えました。同時に自らの出身地の東欧の人々に「勇気を持て」と諭して、いま触れたようにベルリンの壁を倒潰させたと言われています。

ヨハネ・パウロ2世は単なるキリスト教徒の枠を超えて、宗教のみならず、政治的にもまた道徳的にも人道的にも巨大な足跡を残した人物でした。

ヨハネパウロ2世が好んで用いたのが十字架上のキリストをあしらった笏杖です。彼は笏杖を捧げ持ち頭を垂れて沈思黙考し、あるいは憂苦に満ちた面持ちで神に祈る構えの写真を多く撮られています。

要するに「笏杖を手に祈る」彼の姿は「絵になった」のです。優れた宣伝素材でした。

それは彼自身とバチカンが二人三脚で仕組んだ広報戦略であり、同時にメディアが仕組んだ構図だとも考えられます。

人の気をぐいと惹きつけるヨハネパウロ2世の孤影は、彼の功績とぴたりとマッチするものでした。彼は民衆に寄り添うと同時に権威も兼ね備えた完璧な存在だったのです。

人々は彼がひんぱんに捧げ持つ笏杖は、宗教的存在としての彼の手引きであり、人間存在としての彼の誠心の象徴だと捉えました。

今般亡くなったフランシスコ教皇は、ヨハネパウロ2世によって枢機卿に叙任されまた。そのことからも分かるように彼は終生ヨハネパウロ2世を崇敬しその足跡をたどることを厭いませんでした。

同時に彼独自のスタイルも編み出し堅持しました。

ひと言で表せばそれが清貧です。彼は徹底して貧者と弱者に寄り添う道を行きました。彼にとってはヨハネパウロ2世の笏杖でさえ奢侈に見えました。だからめったにそれを手にしなかったのだと筆者は推察します。

フランシスコ教皇は自らをよく「弟子」と形容することがありました。それは言うまでもなくイエス・キリストの弟子であり、民衆に仕える謙虚な僧侶また修道士という意味の弟子であると考えられます。

同時にそこには、自らをヨハネパウロ2世の弟子と規定する意味もあったのではないか、とも筆者考えています。

冒頭で述べたようにフランシスコ教皇の葬儀は、彼の死生観と生前に発意した質素な内容の式次第に沿って進行し、見ていて清々しいものでした。

そこには眼を見張るほどの荘重さはありませんでしたが、故人の生き様を表象する清廉さに満ちていました。

フランシスコ教皇は質朴に生き、弱者に寄り添い、強者に立ち向かう一点において、ついに彼の師であり憧憬でもあったヨハネパオロ2世を超えてはるかな高みに至り、輝いていると思います。

 

 

 

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