サルデーニャ島「4人のムーア人旗」の由来~島民の誇りと屈折

島旗=州旗=国旗

イタリア・サルデーニャ島には4人の黒人の横顔をあしらった独特の島旗があります。イタリア語で「Quattro mori(4人のムーア人)」と呼ばれるその旗を、島人は州旗と称し「国旗」とも表現します。

日本の四国よりも少し大きなサルデーニャ島は、付随する離島と共にイタリアの20州のうちの一つの州を形成しています。従って旗が州旗と呼ばれても何ら問題はありません。むしろそれが正しい呼称でしょう。

だがそれを「国旗」と呼ぶと、意図するコンセプトに深刻か否かの違いはあるかもしれませんが、発言した者は明確な動機に基づいてそれを口にしています。

つまりサルデーニャ島民が発言する場合はそれは、イタリア共和国からのサルデ-ニャ島の「独立」を意味する文脈で語られているのです。

島民の独立志向は島の苦難の歴史の中から自然発生的に出てきたもので、一時期は大きなうねりとなってイタリアを揺るがせたこともあります。が、現在は静まっています。しかしそれはサルデーニャ島民の心が静まったことを意味するものではありません。

島がたどってきた複雑な歴史や、当事者たちの複雑な心境、また島人の不満とイタリア本土人の無関心、など、などという世界では割とありふれた現象が、当事者中の当事者である島人の心を鋭く抉らずにはおかないのは、それが彼らのアイデンティティーの根幹に関わる重大事案だからです。

起源

スペインのアラゴン王国、イタリア半島のピエモンテに本拠を置く「大陸の」サルデーニャ王国、そして最後にサルデーニャ島自身のシンボル旗となった4人のムーア人の旗は、ひとことで言えば、キリスト教徒とイスラム教徒の血みどろの長い厳しい闘争によって生み出されたものです。

具体的に言えば、旗の意匠はスペインのアラゴン王国が1096年、侵略者のムーア人つまりアラブ・イスラム教徒を撃退し4人の将軍の首を落として戦勝を祝った、とする伝説に基づいています。それを示す古い絵柄では4人の顔が目隠しされています。捕らえた敗軍の将に目隠しをして首を切り落とすのは、洋の東西を問わず戦国の世の習いでした。日本の戦国時代でも敵の首を切り落として戦利品としました。

アラゴン王国軍は、アルコラスの乱と呼ばれるその大きな戦を、聖ゲオルギウス(英:聖ジョージ)の手助けで勝利した、と言い伝えられています。4人のムーア人の顔と共に聖ゲオルギウスの象徴である白地に赤い十字が旗に描かれているのはそれが理由です。

またムーア人の4つの顔は、アラゴン王国が4つ大きな戦争、即ちサラゴザ、ヴァレンシア、ムルシア、バレアリス諸島での戦いに勝利したことを表す、という説もあります。そこに十字軍のシンボル的な存在でもある前述の聖ゲオルギウスの伝説がからんだ、と主張するものです。

しかし最も多く語られるのは、前述のアラゴン王国がアルコラスの戦いに勝利した際、4人のムーア人将軍の首を切り落として祝ったとするものです。宿敵のイスラム教徒への怨みと怒りがこもったその説の方が信憑性が高い、と筆者も思います。

意匠の変遷

旗のデザインと成り立ちに関しては、伝説と史実が入り乱れた多数の説がほかにも存在します。史実の最も古い証拠としては、1281年に作られたとされる鉛製の封印があります。そこに描かれたムーア人は髭を蓄えていて且つ鉢巻をしていません。

14世紀にサルデーニャ島がアラゴン王国の支配下に入ると、4人のムーア人の絵柄はサルデーニャ島でも、あたかも島独自のもののように使われた始めました。そして1380年頃には4人のムーア人旗はアラゴン王国統治下の島の旗と認定され、サルデーニャ軍は1571年、鉢巻をした4人が右を向いている図柄を記章として採用しました。

以後、ムーア人の図柄は額に鉢巻をしたりしなかったり、頭に王冠が描かれたり、髭を蓄えていたりいなかったり、目隠しをされたり、顔が左に向いたり逆になったり、肌が白く描かれたり等々、様々に変化して伝えられました。アラゴン王国は最終的にオリジナルの絵柄を尊重して、頭に鉢巻を巻いたものが正しい、という触れを出したほどです。

島民の抵抗

1720年、サルデーニャ島はシチリア島との交換でアラゴン王国からサヴォイア公国に譲り渡されました。以後サヴォイア公国は、国名を「サルデーニャ王国」と改名して島を支配しますが、王国の本拠はフランスの一部とイタリア本土のピエモンテが合体した「大陸」でした。王国の首都もそれまでと変わらずピエモンテのトリノに置かれました。そして1800年、4人のムーア人の鉢巻が目隠し姿に変わった図柄の旗が出回るようになります。

これはイタリア本土を本拠地にしていたサヴォイア家が、サルデーニャ島を獲得したことをきっかけに前述のように自らの公国をサルデーニャ王国と称し、支配地の島に圧政を行ったことに対する島民の抵抗の現れだとされています。目隠しの絵は、鉢巻姿だった古い旗の図柄をわざと間違えて伝え残したもの、とも言われています。

さらに旗の原型はアラゴン王国にあるとはいえ、4人のムーア人旗はアラゴン統治以前のサルデーニャ島の歴史を物語るとされる説もあります。その当時サルデーニャ島には ガルーラ、ログドーロ(トーレス)、アルボレア、カリアリという4つの小さな独立国があり、それぞれがイスラム教徒の侵略から頑張って島を守ったとされます。4人のムーア人はその4国を表すというのです。

しかしその主張は、島人たちの希望的憶測あるいは願望に過ぎないと筆者は思います。彼らには侵略者のイスラム教徒を撃破する軍事力はありませんでした。8世紀からイベリア半島を蹂躙し支配したイスラム教徒は、破竹の勢いで地中海の島々も配下に収めていきました。サルデーニャ島の住民は、他の被征服地の住民同様に、 欧州のキリスト教勢力がイスラム教徒を撃破するまで身を縮めるようにして生き延びた、というのが歴史の真相です。

サヴォイア家支配下の1800年頃から島に多く出回るようになった4人のムーア人の目隠しの図柄は、その後も広がり続け、サヴィオア家の支配が終わり、やがて2つの大戦を経て、イタリアが近代化し成熟社会を迎えた20世紀終盤まで続くことになります。

第2次大戦後の1950年、目隠し姿の4人のムーア人旗は、サルデーニャ州(島)の正式フラッグとして認定されました。そこでは4人の顔は目隠しをしたままでした。そして1999年、4人の顔は目隠しではなく額に鉢巻をし且つ旗竿を左に右向きの横顔であること、とこれまた正式に改訂されました。

屈折

何世紀にも渡って物議をかもし続けたムーア人旗の絵柄やコンセプトの変遷を見るにつけ、筆者は大きな感慨を覚えずにはいられません。すなわち、サルデーニャ島民がかつての支配者のエンブレムを自らのそれと認識し、且つ絵柄の中心である4人のムーア人を、あたかも自らの肖像でもあるかのように見做している点が気持ちに引っかかるのです。

そこには2重の心理のごまかしがあります。一つはアラゴン家及びサヴォイア家の紋章を引き継ぐことで、自らも支配者になったような気分を味わっていること。また戦いに負けて首を落とされて以降は、いわば「被害者」である4人のムーア人にも自らを重ね合わせて英雄視している点です。

彼らは支配者であると同時に支配される者、つまり被抑圧者でもあると主張しているようにも見えます。もしもその見方が正しいならば筆者は、前者にサルデーニャ島民の事大主義を、また後者に同じ島民の偽善を感じないではいられません。筆者の目にはそれは、抑圧され続けた民衆が往々にして見せる悲しい性であり、宿命でさえあり、歴史が悪意と共に用意する過酷な陥穽、というふうに見えなくもないのです。

 

 

 

 

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インスタントラーメンから見える中国の国力

かつては日本製品の猿まねをしただけの、臭くてまずくて多分不健康な中国製ラーメンは、今や日本のそれと見分けがつないほど品質が向上した製品も出ています。

日本製ラーメンのクォリティーをしのぐものもやがて出てくるに違いありません。それとももう出ているのかもしれないが、今日現在は筆者はまだ知りません。

日本に帰国する度に、大量の本とインスタントラーメンを買い込んでイタリアに戻るのが、長い間の筆者の習いです。

本は自分のため。ラーメンは家族と自分のため。息子2人もイタリア人の妻も日本製のインスタントラ-メンが好きです。イタリア人友人らに贈ることもあります。

毎回100食以上を持ち込みますが、けっこう早く食べ切ってしまいます。そういうときに中国で生産されてアメリカ経由でイタリアに入る(らしい)日本製品を買うことも過去にはありました。

どういう仕組みなのか、味噌ラーメンなどの日本オリジナルのものも中国製という触れ込みで出回っていました。ところがこれがほとんど偽物といってもよい品で臭いがきついものでした。

ラーメンを固める油が劣悪であるのが原因らしいのです。しかし乾燥具材や粉末スープは日本で買うものと何も変わりませんでした。。

そこで 揚げ麺だけを別に茹でて水を捨てる方法で臭いを消し、別の鍋で乾燥具材と粉末スープと共に再び調理をする、という迂遠な方法をとりました。それでも臭いがかすかに残りました。

そういう製品は最近は見かけません。その代わり、と言って良いかどうかわかりませんが、中国製や韓国製のインスタントラーメンがアジア食品店などを席巻しています。

最近、日本原産でたぶんライセンス生産をしている「出前一丁」を食べる機会がありました。麺の臭みはほとんど無く、日本製とは風味が違うが、それほど気にならない味がしました。

「出前一丁」は早くから香港や台湾でも大人気になったブランドですが、初めの頃はやっぱり麺の臭みがあった、という話を聞きました。

その体験を踏まえて、完全に中国製(生産)の即席ラーメンを買っておそるおそる食べてみました。こちらも臭みに関する限り日本製品とほとんど遜色のないクォリティでした。味への好悪はむろん別ですが。

ラーメンの品柄の向上は、そのまま中国の経済成長と裕福を反映している、とつくづく思います。貧しい中国国民が豊かになって、ラーメンの味にうるさくなったから麺の臭みがなくなったのです。

当然過ぎるほど当然の成り行きですが、少し前までの中国産物資のお粗末を見ている筆者の目には、まぶしいほどの変化に見えます。

イタリアの市場を席巻していた日本製の家電製品などが、韓国製や中国製に取って代わられてまだ日は浅いのですが、その状況はますます広がっています。

もしかするとインスタントラーメンもそんな運命にあるのかもしれません。もしそうなれば筆者はむしろうれしい。

なぜならそうなった暁には、わざわざ日本まで帰らなくてもイタリアのこの場で日本製と同じおいしいラーメンが手に入る、ということなのですから。。。

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デス・マス調とダ・デアル調のデスマッチ

日本語の敬体と常体、つまり「です。ます。」調と、「だ。である。」調の間にある齟齬についていつも考えています。

筆者はこのサイトでは「です。ます。」調の敬体で記事を書いていますが、実は自分が管理する個人ブログの記事は「だ。である。」調の常体で書いています。自分のこともここで使う「筆者」ではなく「僕」と表現しています。

ここで敬体を用いる理由は、このサイトがいわば公のブログという体裁を取っているので、不特定多数の読者の皆さんに敬意を表して、というつもりでその形を採用しました。

この記事でも同じ手法を用いますが、あるいは途中で「だ。である。」調に変換するかもしれません。そのことも含めた文体の是非について試行するのがこの記事の趣旨です。

書くという行為には、言うまでもなく自分を表現するという意味がありますが、自分を表現するには事前に考えをまとめておく必要があります。それでないと文章の意図が読み手にうまく伝わりません。

ところが同時に書く行為には、矛盾するようですが、「考えをまとめる」、という効能もあります。それは自己表現に勝るとも劣らない「書くことの喜び」の一つです。

しかしここでは喜びのためではなく、あくまでも考えをまとめる目的で先ずは書いてみることにしました。いわば推敲を表沙汰にすることなので、読みづらさや見苦しさがあるかもしれません。

常体と敬体の間にある齟齬は、筆者の感覚では“本音”と“建前”の間にある「落ち着かない感じ」と良く似ています。

両文体ともに書いている内容は同じですが、語尾を常体で締める代わりに敬体で締めると、「だ。である。」の場合よりも一歩後ろに引く感じがします。

常体は世界中にある恐らく全ての言語と同じ意味合いを帯びた文体です。いわば世界基準の表現方式。少なくとも筆者が多少は知っている英語とイタリア語に於いてはそうです。

実は 「だ。である。」調の常体が筆者の本分です。あるいは本分であるように感じます。しっくり来るのです。

「です。ます。」調の敬体はていねいである分、たとえば自分が強く主張したいことなどをオブラートに包んで、少しだけ角を取って丸くする感じがします。

「本音の主張が、突然そこで建前になる」というのは、少し誇張が過ぎるかもしれませんが、そうなりかねないような不安を呼び起こします。

ならば、「です。ます。」調はしっくり来ないのかと言いますとと、これがそうとばかりも断定できないのですから、ますます不思議です。

敬体を採用する時の自分の心が一歩うしろに引く感じ、建前になるような感じ、主張をオブラートに包むような感じ等々は、どちらかと言うと全てネガティブな作用です。

「自らの主張がオブラートに包まれて丸くなる感じ」などは特に、読み手の反応を恐れて弱腰になったり、あらかじめ逃げを打っていたりするようで男らしくない。

男らしくないという表現が滑稽なら、潔(いさぎよ)くない、と言い換えましょう。それでも、なおかつ収まりがつかず、卑怯な印象さえあるのです。その点は気に入りません。しかし、その文体には明らかな利点も存在します。

「です。ます。」調は敬体と規定されていることからも分かるように、また実際に言葉の響からも知覚できるように、読み手を敬うていねいな表現です。

そこには日本語独特の自然な優しさと同時に、自らの主張を是としない読み手もいるであろうことを予想して、その存在を認め、反対論者も是とする、とでもいうような至って寛容で闊達な心意気も隠されているようです。

つまり、断定し決めつけるのではなく、主張を公けに展開してそれに対する議論を待つ、という風なへりくだった態度、謙遜、思い上がりの無さ、慎み深さなどに通じる、ポジティブな様相を隠し秘めているのが「です。ます。」調の敬体なのではないか、と思うのです。

という訳で、筆者は常体と敬体の間でいつもゆれ動いています。実はこの記事を書いておいて、「次回からは常体で書く」と宣言するつもりでしたが、文章がうまくそこに流れませんでした。

今後は、あるいは混乱に見えたり不謹慎に見えたりするかもしれませんが、とらわれずに気の向くまま、常体で書いたり敬体で書いたりしてみようと思います。

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米朝首脳会談の茶番劇が犯した罪の大きさ

どんなに中身のない首脳会談になろうとも、二人は会わないよりは会った方が良い、とそれまで僕は思っていました。6月12日にシンガポールで行われたドナルド・トランプ大統領と金正恩委員長の首脳会談後に、トランプ大統領が発表した、共同声明の内容を聞くまでは。発表された共同声明の内容を詳しく知って、僕は膝から崩れ落ちそうになりました。これでは首脳会談をキャンセルした方がはるかにマシだったではないか!

朝鮮半島の非核化の実現は、大きく後退しました。肝心の北朝鮮が核兵器を廃棄するプロセスや時期、IAEAの査察など、北朝鮮に約束を守らせるために必要な、具体的な手順が何一つ決められていなかったからです。大切なのは北朝鮮に「核兵器廃絶するという約束」を取り付けることではありません。「約束」ならこれまでにも何回も北朝鮮は署名しています。「約束」しておきながら、それを守らない状態が長年続いているわけです。今回期待されたのは、「約束」をすることではなく、約束を「守らせる」こと、すなわち「具体的に実行させる」ことだったのですが、それが何一つ書かれていません。無意味を通り越して、後退させたと言うべきです。

「約束」なら、今年4月に南北首脳会談で発表された、板門店宣言を思い浮かべる人も多いでしょう。宣言では「朝鮮半島の完全非核化を目指す」とされています。それよりも国際的にこれまではどういう状態だったのか。米朝両国に日韓中ロの4か国を加えた6か国協議では、既に2005年9月に共同声明が発表されていて、北朝鮮がすべての核兵器と既存の核計画を放棄するとともに、NPT=核拡散防止条約に早期に復帰してIAEA=国際原子力機関の査察を受け入れることなど、具体的な措置が明記されています。2007年2月には6か国協議で、北朝鮮が60日以内にニョンビョン(寧辺)の再処理施設を含む核施設を停止し、これを確認するためのIAEAの査察官の活動を認める宣言がなされています。

核兵器廃絶の約束? そんなもん、何度でもサインしてやるよ。

ここまで具体的な「約束」を取り付けておきながら、北朝鮮は核実験を繰り返し、長距離弾道ミサイルの開発を続けてきました。すなわち約束など守る気は毛頭無かったのが北朝鮮です。それ故に経済制裁など国際社会から圧力を受けていたのです。ここに来て求められていたのは、アメリカ合衆国のポンペオ国務長官が絶対条件としていたとおり、「CVID=完全検証可能かつ不可逆的な非核化」であり、トランプ氏はその実現に向けた工程表を作成して金正恩氏と合意し、これを守らなかった場合の罰則規定まで盛り込むことだったはずです。しかしトランプ氏は従来通り、単に「核を廃絶するという約束」を繰り返しただけであり、その具体性のなさは過去の6カ国協議よりも大きくステップバックしてしまいました。

おまけに金正恩氏に対しては、現在の政治体制の維持を確約してしまいました。兄を暗殺し、側近を粛正し、国民には自由と人権を認めない、とんでもない北朝鮮の金正恩政権のやり方を、アメリカ合衆国が「是」と認めてしまったのです。かつてのアメリカ合衆国は、国際社会の中で、「自由と基本的人権を尊重する民主主義」を追求するリーダー役を務めてきました。天安門事件などで自国民の言論を弾圧し、少数民族を支配する中国に対しても、「人権上の問題がある」として警笛を鳴らしてきました。時にはお節介とも思えるほどの、このアメリカ流の正義感の押しつけについては、僕は個人的には好感を持ち、敬意さえ感じていました。

トランプ政権になって以来、この「自由、博愛、平等」といった人権尊重の倫理観を世界に広めるリーダーシップに、アメリカ合衆国はまるでこだわらなくなりました。ビジネスさえできる相手なら、どんな倫理観を持ったどんな政治体制の国であっても、平気で付き合う、金銭だけを重視する価値観の国に成り果ててしまったかのようです。僕がかつて好きだったハリウッド映画、アメリカの音楽、米文学。それらに込められた自由と人権を訴えるメッセージが、今のアメリカからは失われてしまったのでしょうか。今回のトランプ氏による、北朝鮮に対する体制維持の保証は、その意味でも僕をガッカリさせるものでした。

北朝鮮が完全な非核化を果たすには、最低でも2年とか10年かかると言われています。非核化に必要なお金も、戦後補償と言われる1兆円どころではすまないでしょう。なんと220兆円とも言われています。その費用を誰が負担するのか。それについてもトランプ氏は明言しています。

「日本と韓国が費用を負担することになるだろう」

え?我々の納税した税金が、注ぎ込まれるのか? 日本国民としては、今回の米朝首脳会談を、歴史的快挙などと持ち上げている場合ではありません。北朝鮮としては喉から手が出るほどほしい日本からの莫大な経済援助。これについては拉致被害者の解放に向けた努力と引き換えに、日本が経済援助をするという約束を、小泉純一郎氏が首相だった時に平壌を訪れてやらかしてしまっています。太平洋戦争の戦後補償という名目ですが、実質的には日本人の拉致被害者を解放する、身代金ではないかと考えられます。それに加えて、核兵器廃絶に必要な費用、という名目まで北朝鮮に与えてしまったのです。

かつての経済大国だった頃の日本ならいざ知らず、今の財政難にあえぐ日本から、まだ経済援助をしなくてはならないのかと、憂鬱な気持ちになります。トランプ大統領自身は、11月に行われる中間選挙に向けて、支持率アップを図る派手なパフォーマンスのつもりでご機嫌でしょうが、この軽はずみな行動が東アジアの安全保障に与えた悪影響は、計り知れないものがあります。

おまけに8月に行われる予定だった米韓合同軍事演習も中止するという、金正恩氏にとって笑いが止まらないサービスまでプレゼントしました。定期的な米韓の共同軍事演習は、朝鮮半島の安全保障において欠かせない、日米韓サイドの実戦配備の要です。国際安全保障は、微妙なミリタリーバランスの上に、拮抗して成り立つものです。米韓軍の「Fight Tonight」の実力は高く、中国、ロシアに対しても一定の脅威を与える役割がありました。それをポッカリ開けるということは、開けられた穴を防ぐために、何らかの軍事力増強が必要になります。それは在日米軍かも知れないし、自衛隊かも知れません。予算は当然のごとく日本に求められるでしょう。

トランプ大統領にとって、在日在韓米軍の駐留経費は、もともと削減したくて仕方がなかったのです。ですから今回は渡りに船とばかりに、合同演習の中止を決断したのでしょう。大局的な東アジアの軍事バランスというものが、まったく彼には見えていないように思えます。笑いが止まらないのは金正恩氏だけではなく、中国の習近平国家主席もにんまりしていると思われます。南沙諸島での軍事基地建設が、このまま進むことが、認められたも同然だからです。これによって中国は東南アジアにおける制海権を得ることができます。

ギブアンドテイクではなく、ギブアンドギブ。アメリカ側が北朝鮮の要求を丸呑みし、一方的に金正恩氏の勝利に終わった米朝首脳会談は、たしかに歴史に名を残すかも知れませんが、トランプ氏の罪深い大失態として名を残すでしょう。そして日本にとっては将来にわたって莫大な財政支出を求められる、危機的状況を作り出したのだと言えるでしょう。

今後開かれるであろう日朝首脳会談で、拉致被害者を無償で返還させることができるかどうか。アメリカに言われたからといって、ふざけた経済援助を引き受けることなく、毅然とした態度で交渉に臨めるかどうか。そして核廃絶への確実な履行能力を担保できるかどうか、これからの安倍政権の手腕に注目していきたいと思います。

花火のように炸裂し消滅したイタリア新首相の学歴詐称問題と日本人

イタリアの2大ポピュリスト政党である五つ星運動と同盟の連立政権が発足し、五つ星運動に近い大学教授のジュゼッペ・コンテ氏が第65代イタリア首相に就任しました。政治経験が一切ないコンテ氏の首相就任までには紆余曲折がありました。

議会第1党の五つ星運動と第2党の同盟が、長い連立政権協議を経てコンテ氏を首相候補としてマタレッラ大統領に推薦したのは5月21日。その6日後にコンテ氏は憲法の規定に則って閣僚名簿をマタレッラ大統領に提出しました。

ところが、閣僚認否権を持つマタレッラ大統領は、財務相候補者が反ユーロ、反EU主義者であることを理由にこれを否認。その瞬間にコンテ内閣の成立が不可能になりました。しかし、五つ星運動と同盟はあきらめずに別の財務相候補を立てて大統領に打診。マタレッラ大統領は新財務相候補を受け入れて、コンテ氏に再び組閣要請を出しようやくコンテ内閣の誕生となりました。

実は五つ星運動と同盟がコンテ氏を首相候補としてマタレッラ大統領に推薦した直後にも、コンテ内閣が不成立になっても不思議ではない「事件」がありました。コンテ首相候補が学歴を詐称しているという疑惑が飛び出して、イタリア中が騒然となったのです。

学歴詐称の真相

コンテ首相候補の学歴詐称疑惑は、彼が政治的に全く無名の存在だったことも手伝ってメディアの興味を掻き立て、マタレッラ大統領が「連立合意をした2政党の推薦に基づいてコンテ氏を首班に指名する」というシナリオも即座に白紙に戻った、と誰もが考えたほどの騒ぎに発展しました。

しかしマタレッラ大統領は、マスコミの騒ぎに便乗することはなく、コンテ首相候補と面会して長い会談を持ちました。その上で彼に予定通り組閣要請を出したのです。そうやって学歴詐称問題はメディアが騒ぐほどの案件ではない、との大統領の判断が下される形で自然消滅しました。

大統領は実際にコンテ氏の学歴について本人に質し、それに嘘があるという一部マスコミの主張の方こそ嘘だ、とは言わないまでも大げさすぎると判定したのでしょう。コンテ首相の学歴詐称問題は、コンテ氏が短期に学んだというニューヨーク大学の記録にその記述がない、という報道から火が点いて一気に燃え上がりました。

コンテ氏の学歴にはニューヨーク大学のほかに英ケンブリッジ大学、仏ソルボンヌ大学、米イェール大学でそれぞれ短期に学び、オーストリアやマルタの大学での短期受講なども含まれています。結局それらは、勉強熱心だった若かりし頃のコンテ首相が、休暇や空き時間を利用してせっせと世界中の大学に通い、交流し、体験を積み重ねた過去を書き連ねたものだったのです。

陰謀説

ニューヨーク大学の反応の速さと、直後の騒ぎの広がり方の激しさに驚いた人々は当初、五つ星運動と同盟の連立政権構想に恐怖感を抱く「体制」側の陰謀ではないか、との疑問も呈していました。そこでいう体制側とは、まず誰もが思い浮かべるのがベルルスコーニ元首相とその周辺です。

元首相は五つ星運動とほとんど「陰惨な」と形容してもいいような政治衝突を続けています。そこに朋友だった同盟が五つ星運動と連立を組み、元首相と同盟党首のサルヴィーニ氏との間にも齟齬が生まれ始めました。元首相はいま「恨み骨髄に徹する」心境であろうことは容易に推察できます。

また元首相は、彼に科されていた公職追放処分をミラノ地裁が破棄したことを受けて、選挙に立候補し再び首相職を目指すこともあり得る、と公言しています。元首相は、2013年に脱税容疑で有罪判決を受け、議員資格を剥奪されました。同時に6年間の公職追放処分も科されました。ところがミラノ地裁は、彼の行動が模範的であるとして先日、刑期を前倒しして免責処分としたのです。

それに気を良くしたベルルスコーニ元首相は、五つ星運動と同盟が共に推薦する首相候補が誰になるのか判明しなかった時期には「我こそ首相にふさわしい」と臆面もなく発言したほどです。

そんな元首相が、自らが所有するメディア王国の情報収集力を縦横に使って、「どこの馬の骨ともしれない」コンテ氏の首相昇格を阻むために動いた、と想像するのは荒唐無稽とは言えません。

もっともその意味では、五つ星運動および同盟と犬猿の仲にあるレンツィ元首相と、彼が支配する民主党主流派にも、同じ嫌疑がかかって然るべきです。選挙で大敗を喫した前政権与党の民主党は、これまた「恨み骨髄に徹する」気持ちを新政権にぶつけて憂さばらしをしようと躍起になっていますから。

元妻の証言

突然脚光を浴びたジュゼッペ・コンテ氏は、人柄の良い生真面目な人物であるらしいことが分かりました。風貌にもそれが現れているように思いますが、筆者は一つのエピソードを知ってさらにその感を強くしました。

コンテ氏は10歳の男児の父親ですが妻とは離婚しています。その別れた妻、ヴァレンティーナさんが次のように発言したのです。
私の元夫に対する誹謗中傷は馬鹿げている。ジュセッペはすばらしいイタリア首相になるでしょう。彼の履歴には嘘はありませんと。

離婚は世の中のありふれた不運です。しかし別れた相手を尊敬し、また尊敬される関係でいるのは、決して「ありふれた」ことではありません。筆者はコンテ氏の元妻の発言に、彼の人柄の良さがにじみ出ていると感じて、少し心が温かくなったような気がしたほどでした。

日本人vsイタリア人

コンテ氏の学歴詐称は、世界中の各大学での短期の受講や研究や交流などをこれでもかと、とばかりに書き連ねたことにあります。休暇などを利用して授業に出る外部の学生の記録が、大学に残らないことは珍しくありません。ニューヨーク大学の受講生記録にコンテ首相の名がなかったのは、そういういきさつなのでしょう。

それにしても、有能な弁護士であり大学教授でもあるコンテ氏は、多くの「どうでもよい」学歴など無視して「フィレンツェ大学法学部卒業」と記せば済むことでした。実をいえば学歴や履歴を必要以上にごちゃごちゃ書き込んだり、時には誇張とさえ見られかねない書き方をするのはイタリア人の特徴なのです。

そして実は、これが一番言いたいことなのですが、日本人も同じ性癖を持っている、と諸外国では見なされているのです。欧米の大学などでは、イタリアと日本からの留学生が携えてくる彼らの大学や担当教授の推薦文はよく似ている、という評価があります。どちらも言わずもがなのことを多く記載しているというのです。

学生に対する大学の推薦文は、普通は卒業証明と成績を簡潔に述べるだけですが、イタリアと日本からの推薦文は卒業証明と成績に加えて、身体頑健で活動的で明るいとか、外交的で思いやりがあり協調的などなど、「余計なこと」を書き連ねたものが多い、とされます。

イタリア人はほめまくることが好きな国民です。人々は顔を合わせるとお互いに相手の様子を持ち上げ、装いの趣味の良さに言及し、これでもかとばかりに相手の美点を探し出して賞賛し合います。それが対人関係の全般にわたって見られるイタリア人の基本的な態度です。

ほめ殺しとさえ言いたくなるポジティブ志向の人間関係の流れの延長で、大学や大学の恩師は学生をほめあげる推薦文を書き、一般的な履歴書や学歴紹介書でも、人々はこまごまと「自らと他人をほめる」 言葉を連ねます。コンテ氏の学歴紹介もそうした習わしの一環なのでしょう。

さて、ほめたり自慢することよりも、謙遜や慎み や韜晦が好きな日本人は、そうした態度が世界ではあまり理解されないことを知って、「外国向け」の履歴書や推薦文などを書くときに「正直」を期そうと懸命に意識します。

意識し過ぎるあまり、日本人は常軌を逸して思わず余計なことまで記載するのではないか、と思います。そうやっていわば明と暗、動と静、顕示と韜晦、のように違うイタリア人と日本人の文章が似たものになるのです。

実体験

実は筆者はそのことを身をもって体験したことがあります。筆者は日本で大学を卒業した直後に、映画を学ぶ目的で英国に留学しました。ロンドンの映画学校に入学しようとするとき、筆者も東京の大学の卒業証明書と恩師の手書きの推薦書を持っていたのです。

映画制作の実践を教えるその学校は、入学の条件として学生が大学卒業資格を持っているか、または2年以上の映画実作の助監督経験があること、としていました。その上でオリジナルの英文のシナリオを提出させて考査するのでした。

筆者の恩師の推薦文には、まさしく日本人の性癖・慣習が顕著にあらわれていて「彼(筆者)は成績優秀で、健康で社交的でかつ協調性も強く云々」という趣旨のことがえんえんと書かれていました。

筆者は全く優秀な生徒ではなかったので、「成績優秀で」のくだりはあからさまな嘘と言っても構いません。しかし、それに続く健康で社交的で云々、という記述は、ま、あたらずとも遠からずというところだったろうと思います。

そうした感傷的な推薦文は、何度も言うように日本人とイタリア人に特徴的なものなのですが、筆者はそのときはそれが当たり前だと考えて何の感慨も抱きませんでした。それがちょっと普通ではない推薦文だと知ったのは、何年か後にアメリカでドキュメンタリー制作の仕事しているときでした。ある大学関係者が笑いながらそういう事情を話してくれたのです。

あれからずいぶん時間が経って今の状況は分かりません。分かりませんが、ある意味でメンタリティーが水と油ほども違う日本人とイタリア人の、外国向けの履歴書や推薦文が良く似ているのはとても面白いことだと考えています。

極論者は皆似ている

それぞれの国内向けの履歴書や推薦文は、イタリアと日本では違う部分もきっとあることでしょう。いずれにしても双方共にあまり合理的ではなく、どちらかといえばやはり情に訴えたい気持ちがあらわな、感傷的で大げさなものである場合が多いのではないか、と思うのです。

履歴書や推薦文の世界でイタリアと日本が似ているのは、あるいは例えが突然かもしれませんが、本来は違う道を行くはずの左翼と右翼が、過激に走って「極左」と「極右」になったとたんに瓜二つになる、ということにも似ています。

嘘ではないものの、本来は書くべきではない些細な勉学の体験をいちいち書き連ねたために、まるで世界のトップ大学を幾つも卒業したのでもあるかのような印象を与えてしまった、コンテ・イタリア新首相の学歴詐称物語には、意外にも日伊共通の顔が隠されていると気づいて筆者は少し愉快になったのでした。

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ついにイタリア・ポピュリスト政権が船出する

過半数を制する政党がなかった3月4日の総選挙を受けて、イタリアでは政権不在の異常事態が88日間にわたってつづいてきました。だが5月31日、ついに五つ星運動と同盟による連立内閣が成立する見通しになり、ジュゼッペ・コンテ氏を首班とするコンテ内閣が6月1日に就任宣誓を行います。

左右のポピュリスト(大衆迎合主義)勢力である五つ星運動と同盟は 5月21日、首相候補としてジュゼッペ・コンテ氏を推薦。5月27日、コンテ首相候補は閣僚名簿を提出したものの、拒否権を持つマタレッラ大統領がユーロ懐疑派の財務相候補に反発。組閣が見送られました

マタレッラ大統領は直後、彼独自の首相候補を指名して組閣要請。これには逆に五つ星運動と同盟が激しく反発。再選挙の可能性が高まりました。しかし、両党のディマイオ、サルヴィーニ党首が改めて連立を目指すとして、大統領が拒否した財務相候補パオロ・サヴォナ氏の起用を断念。あらたにローマの大学のジョバンニ・トリア教授を財務相に起用することで大統領も了承しました。

トリア教授はサヴォナ氏のようにユーロ離脱を説くほどの過激派ではありませんが、だからといって全面的なユーロ服従派でもなく、単一通貨政策の見直しとドイツの膨大な財政黒字削減を主張する改革派。意外にもベルルスコーニ元首相に近い人物です。物議をかもしたパオロ・サヴォナ氏は、いずれにしても欧州担当大臣として入閣します。

議会第1党の五つ星運動のディマイオ党首は産業労働大臣に、また第2党同盟のサルヴィーニ党首は内務大臣に就任します。同時に両氏はそれぞれ副首相職も兼任します。2人はお互いに相手が首相になることをけん制しあってきた仲です。

ディマイオ産業労働大臣は、五つ星運動の看板政策「ベーシックインカム(最低所得保障)」制度を確実に実施するために全力をつくすでしょう。それはバラマキ政策以外のなにものでもない、という根強い批判にさらされています。

また移民政策を管轄する内務省のトップに座るサルヴィーニ氏は、国内に多く存在する不法滞在者の難民・移民を排斥しようとしてしゃかりきになるでしょう。それが同盟の看板策だからです。地中海から流入する膨大な数の難民・移民には、声には出さなくとも多くのイタリア国民がいら立っています。

同盟はまた財政策でも独自の主張をしています。それが個人、法人一律の所得税15%策。実施されれば政府歳入が大幅に減ることは確実です。それは五つ星運動のベーシックインカム策同様、バラマキというレッテルを貼られています。

両党はほかに年金給付年齢の引き下げ、また消費税値上げ見送りなども主張し政権合意していて、ただちに実施される可能性が高い。両党が多くの相違点を持ちながら、「ポピュリスト」と十把ひとからげに規定されるゆえんの一つです。

それらの政策は、EU圏内最大の約300兆円もの累積債務を抱えるイタリアの財政をさらに悪化させるものとして、国内外から強い懸念が出ています。EUはイタリア発の「欧州財政危機の再来」になりかねない、として警鐘を鳴らしているほどです。

また反移民を声高に叫ぶ同盟主体の難民・移民策に関しても、EUは大きな懸念を表明しています。だが多くのイタリア国民は、地中海を渡って怒涛の勢いで同国に押し寄せる難民・移民の保護・受け入れを押し付けられた、と感じてEUを怨んでいます。イタリアで反EU感情が高ぶり続ける一因です。

より厳しい難民・移民政策を実施することが確実なイタリア新政権は、米トランプ政権に通底する政治潮流の所産です。借金を減らせ、緊縮財政を続けろ、と迫るEUに対峙する形でバラマキ政策を主張するのも同様でです。トランプ政権のアメリカ・ファーストならぬ「イタリア・ファースト」の叫びが支持されたのです。

2大ポピュリスト勢力が結びついたイタリアのコンテ新政権は、EUが強く怖れる前述のイタリア発のユーロ危機、また政治危機を誘発する可能性があります。同時に新政権は、独仏、特にドイツが支配するEUの権力構造に風穴を開けて、新たな秩序を構築する「きっかけ」になるかもしれません。

そのキーワードは、「イタリアの多様性」です。今日現在も都市国家の息吹に満たされているイタリアの政治地図は複雑です。言葉を換えればイタリアの政治勢力は分断され細分化されているのです。

イタリアの内閣がころころ変わり物事がうまく決まらないのは、第一に政治制度の不備という問題があるからです。同時にイタリア独特の都市国家メンタリティーが社会を支配しているからでもあります。独立自尊の気風が生み出す政治の多様性は、外からみると混乱に見えます。だがイタリア政治に混乱はありません。それは「混乱」という名のイタリア政治の秩序なのです。

四分五裂している政治土壌では、過激勢力は他勢力を取り込もうとして、主義主張を先鋭化させるよりも穏健化させる傾向があります。極論主義者あるいはポピュリストと呼ばれる、極左の五つ星運動と極右の同盟も例外ではありません。

彼らは元々反ユーロ、反EUの急先鋒です。ところが国内の風向きまた国外、特にEUからの懸念や批判の声を受けて徐々にトーンダウン。五つ星運動は選挙期間中にユーロからの離脱はしない、と言明。同盟も五つ星運動との政権合意を目指す協議の途中に同じことを表明しました。

彼らは同盟が主導するもう一つの過激政策、移民排撃ポリシーも徐々に穏健な形に換えていく可能性が高いと考えられます。根が優しいイタリア国民が、同盟の無慈悲な反移民策を無批判に受け入れるとは考えにくい。だがそれにも限界があります。

イタリアの新政権に懐疑的なEUが、今後もひたすら同じ姿勢でイタリアの財政策と移民政策を批判し続けるだけなら、イタリアの世論は五つ星運動と同盟の元々の過激論に傾倒していくかもしれません。

EUはイタリアの変貌に驚きうろたえることをやめて、その主張に耳を傾け自らの改革の必要性の是非にも目を向けるべきです。同時にイタリア新政権との対話を強く推し進め、信頼関係の構築に努めるべきです。それが普通に実行されれば、イタリアの過激政権もより「普通に」なっていく、と考えられます。

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イタリアは大統領独裁国家なのか

権力乱用?

イタリアのマタレッラ大統領は、五つ星運動と同盟の「ポピュリスト連合」が推薦したコンテ首相候補を否認しました。もっと正確にいえば、首相候補を介して五つ星運動と同盟が提出した閣僚名簿のうち、財務相候補のパオロ・サヴォナ氏を拒否することで、コンテ内閣の成立を阻止したのです。

そしてほぼ同時に、と形容しても過言ではない素早さで、国際通貨基金(IMF)の元財務局長でエコノミストのカルロ・コッタレッリ氏を、大統領独自の首相候補に指名し組閣要請を出しました。コッタレッリ氏はガチガチのEU信奉者で緊縮財政にも積極的。「ミスター・予算カット」のあだ名さえあります。

イタリアでは過去に何度も実務者(テクノクラート)による中立政権が樹立された歴史があります。政府予算や次の選挙法などを成立させるのが主な目的で結成されるのです。コッタレッリ内閣も成立すれば2019年予算案の通過と、再選挙に向けた選挙法の制定が主な役割になるでしょう。

マタレッラ大統領の一連の動きは全て憲法に合致したものです。イタリア共和国大統領は、首相指名権と閣僚認否権を有し、理論的には彼の一存で政権樹立を阻止して解散総選挙を行うこともできるのです。

大統領が議会と対峙したり、上下両院が全く同じ権限を持つなど、しばしば政治混乱を引き起こす原因にもなるシステムをイタリア共和国が採用しているのは、ムッソリーニとファシスト党に多大な権力が集中した過去の苦い体験を踏まえて、権力が一箇所に集中するのを防ぐ意味があります。

そうはいうものの、しかし、選挙で第1党と第2党に躍進した五つ星運動と同盟が、提携して過半数を制し連立合意に達した民主主義の成果を、民主主義を強く支持する大統領があっさりと否定する、というのはきわめて異例の出来事です。

道義的責任

マタレッラ大統領は、憲法に沿って「制度としての大統領の権限」を行使した形ですが、連立とはいえ過半数に達した政党が政権を樹立する、というこれまた「民主主義の正統な制度」に真っ向から挑むというジレンマに陥り、敢えてそれを犯しました。

なぜそれが可能になったのかというと、大統領には道義的な理由で時の政権や議会に物申す権限も託されているからです。彼は自身の良心に基づいて政治的なアクションを起こすことができるのです。それはドイツ大統領などにも共通する欧州発祥の基本原理です。

マタレッラ大統領は、財務相候補のサヴォナ氏が強烈な反ユーロ・反EU主義者であることから、彼が財務相に就任すれば政府支出を大幅に増やし、あまつさえユーロ圏からの離脱も画策しかねない、と憂慮しました。

イタリアはEU圏内最大の約300兆円もの累積債務を抱えて呻吟し、借金を減らすための緊縮財政をEUに迫られてこれに合意しています。五つ星運動と同盟が主張しているバラマキ政策が実施されれば、イタリア経済はさらなる打撃を受け国民が不幸になり、EUとの約束も守れなくなります。

五つ星運動と同盟は、先ずユーロ圏からの離脱、そして将来はEUからの離脱も目指すという主張を引っ込めていますが、それは恐らく選挙対策上の欺瞞です。彼らが政権を奪取すれば、いつでもその主張を蒸し返すことができます。それが彼らの狙いだ、という見方は根強くあります。

マタレッラ大統領は、EUへの信義や国民生活を守るという「道義的責任」に基づいて、反EU且つ反緊縮財政の立場を採るサヴォナ氏を否認し、それによってコンテ内閣全体も否定しました。結果、五つ星運動と同盟の2大ポピュリスト勢力による政権樹立を阻んだのです。

問題点

いわば欧州の良心、あるいは民主主義国家の道徳意識の体現ともいえる理由での大統領の政治介入は、前述のごとく制度上の権力行使と並んで受容されるものです。しかし、今回のマタレッラ大統領のように政権樹立へのあからさまな妨害、とも形容できる仕方で実践されることはほぼ皆無です。

マタレッラ大統領が、制度的権限と道義的権限を行使してポピュリスト政権の成立を阻んだのは、2つの意味で問題です。一つは単純に、民主主義国家のイタリアで、選挙の洗礼を受けた2政党が連立を組み過半数制覇を成し遂げて、政権樹立を図った真っ当な行為を妨害したこと。

もう一つは、マタレッラ大統領が元々左派の民主党に属し、民主党と同様の「親EU主義者」である点です。彼は成立しかけている連立政権が、自らの政治信条に合わない「反EU・反体制のポピュリスト政権」だからこれを潰した、という見方もできます。

それは権限の乱用と指弾されても仕方のない動きです。

筆者はEU信奉者であり、五つ星運動と同盟のほとんどの政策には違和感を覚える者です。それでも長い連立協議を経て政権合意に至った両党が、政権を樹立する権利は認められなければならない、と考えます。民主主義の重要原理の一つは主義主張の違う者を認め尊重することです。

イタリア国民の大半は、五つ星運動と同盟の連立政権に一度チャンスを与えたほうが良い、と考えているように見えます。それが選挙を介してあきらかになった民意です。マタレッラ大統領の「良心」は理解できますが、拒否権発動は行き過ぎではないか、というのが筆者の率直な思いです。

トランプ主義政権

一度政権が走り出せば、現在は異様に見える五つ星運動と同盟の主義主張は「普通」になります。それは米国で証明済みです。つまり異様に見えたトランプ主義が、トランプ大統領の就任によって多くの問題を内包しながらも「普通の光景」になっていったように。

そして両党はトランプ主義信奉者です。

トランプ主義の是非については歴史が判断するでしょう。それでもトランプ主義はこれまでのところ、排外差別主義を「当たり前のこと」と人々に思い込ませた一点だけを見ても、明確な不正義だと筆者は考えます。

イタリアで成立するかもしれないポピュリスト政権ももちろん同様です。

だがそれらは選挙を介した民意によって誕生した魔物です。ただ頭ごなしに否定するのではなく、歴史の試行錯誤の一環として受け入れ考察するべきる時期に来ています。そして試行は一度行き着くところまで行くべきです。

行き着くところが地獄でも、それは国民が選んだ結果です。

イタリア国民は地獄に至れば必ず真の目覚めを獲得する、と筆者は考えます。彼らは賢明な国民です。大統領という一個人が、元を正せば彼も民意によって選出された存在とはいえ、「今の民意」を反映した政権の樹立を阻止するのは、やはり誤謬なのではないか、と考えざるを得ません。

イタリア人好みの大統領とは

最後に付け加えておこうと思います。大統領が制度として議会に対抗できる力を持つと同時に、議会や時の政権に道義的勧告もできる仕組みは、前述したようにイタリアの専売特許ではありません。それはドイツなどを含む欧州の国々に共通の体制です。

例えば昨年のドイツ総選挙後に政治空白が発生した際、ドイツのシュタインマイヤー大統領は連立政権に参加するように、と社会民主党に強く働きかけました。その行為は制度上の合法的な動きであると同時に、EUの結束を希求し且つドイツの極右勢力を抑制する、という「道義的」心情も強く反映したものでした。

イタリアの場合には制度に加えて、大統領自身の人気やコミュニケーション力や人柄によって、「制度以上の力」を持つ場合がままあるのが特徴と言えます。過去にはペルティーニやチャンピ大統領などがいます。

またナポリターノ前大統領も個人的な人気の高さを利用して、議会に物申してきた強い大統領の1人でした。

だがマタレッラ大統領は、イタリア人好みの明朗や雄弁やコミュンケーション力に欠けるきらいがあります。つまり彼は絶大な人気を誇る大統領とは呼べないのです。権力乱用にも見える今回の彼の政治介入は、大統領自身の存在感を高める可能性もあります。

だが、逆に反感を買って大きく失墜する恐れもある、と思います。

現に五つ星運動のディマイオ党首は、マタレッラ大統領の介入を違法と見なし「大統領の弾劾」を議会に提案する構えです。過去には例のない反応であり動きです。それもこれもマタレッラ大統領がこれまでのところ、前述の3大統領に共通のいわば「国父」的な尊敬を集めている存在、とは言いがたいところにあるようです。

 

 

 

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報道に不偏不党はあり得ない

マスメディアあるいは報道機関は、よく不偏不党の報道姿勢を前面に打ち出します。だが、不偏不党の報道など元よりあり得ません。

報道には必ずそれを行う者のバイアスがかかっています。事実を切り取ること自体が、すでに偏りや思い込みの所産なのです。

なぜなら事実を切り取るとは、「ある事実を取り上げてほかの事実を捨てる」つまり報道する事案としない事案を切り分けること、だからです。それは偏向以外のなにものでもありません。

少し具体的に言います。例えば日本の大手メディアはアメリカの火山噴火や地震情報はふんだんに報道しますが、南米などのそれには熱心ではありません。

あるいはパリやロンドンでのテロについてはこれでもか、というほどに豊富に雄弁に語りますが、中東やアフリカなどでのテロの情報はおざなりに流す。そんな例はほかにも無数にあります。

そこには何が重要で何が重要ではないか、という報道機関の独善と偏向に基づく価値判断がはたらいています。その時点ですでに不偏不党ではないのです。

だからこそ報道者は自らを戒めて不偏不党を目指さなければならない。「不偏不党は不可能だから初めからこれをあきらめる」というのは、自らの怠慢を隠ぺいしようとする欺瞞です。

報道機関は不偏不党であろうとする努力を怠ってはならない。「不偏不党は不可能」だからこそ、不偏不党の報道を追求する姿勢を持ちつづけるべきです。

そして資金や人的資本が豊富な大手メディアのうちの「まともな」報道者は実は、不偏不党を目標に事実に裏付けられた報道をしようと努力している場合がほとんどです。

一方ブログなどの個人報道ツールを用いる者には、自己以外には人材もなく金もないために、足と労力を使って得た独自情報やニュースは少ない。せいぜい身の回りの出来事が精一杯です。

そこで彼らは大手メディアが発信する情報を基に記事を書く場合が多くなります。そしてそこには、偏向や偏見や思い込みに基づく記述があふれています。それはそれでかまいません。

なぜならブログをはじめとするSNSは、事実や事件の正確な報告よりも「自分の意見を吐露する場」であるべきだからです。あるいは事実や事件を「考察する」ツールであるべきだからです。

そこでの最も重要なことは、報道者が自らの報道はバイアスのかかった偏向報道であり、独断と偏見による「物の見方や意見」であることをしっかりと認識することです。

自らの偏向独善を意識するとはつまり、「他者の持つ違う見解の存在を認めること」です。他者の見解を認めてそれに耳を貸す者は、やがて独善と偏向から抜け出せるようになるでしょう。

個人の報道者はそうやって自らの不偏不党を目指すべきです。ブログなど個人の情報発信者が、大手メディアを真似てニュースを発信しようとするのは間違っています。

独自の記事として書いても、また「シェア」という形で他者の記事を紹介しても事情は変わらない。自身の足と金と労力を注ぎ込んで集めた情報ではないからです。

このサイトでは報道ではなく、「報道に基づく」書き手の意見や哲学や思考を発信して行ければ、と思っています。それは筆者が個人ブログなどでも一貫して努めてきた姿勢です。

同時に将来的には、読者からの声も縦横に取り入れたインタラクティブなサイトを目指したい。「ピアッザ(広場)の声」とは、広場から発せられる声であり、広場に向かって発せられる声でもありたい、と考えます。

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