ついにイタリア・ポピュリスト政権が船出する

過半数を制する政党がなかった3月4日の総選挙を受けて、イタリアでは政権不在の異常事態が88日間にわたってつづいてきました。だが5月31日、ついに五つ星運動と同盟による連立内閣が成立する見通しになり、ジュゼッペ・コンテ氏を首班とするコンテ内閣が6月1日に就任宣誓を行います。

左右のポピュリスト(大衆迎合主義)勢力である五つ星運動と同盟は 5月21日、首相候補としてジュゼッペ・コンテ氏を推薦。5月27日、コンテ首相候補は閣僚名簿を提出したものの、拒否権を持つマタレッラ大統領がユーロ懐疑派の財務相候補に反発。組閣が見送られました

マタレッラ大統領は直後、彼独自の首相候補を指名して組閣要請。これには逆に五つ星運動と同盟が激しく反発。再選挙の可能性が高まりました。しかし、両党のディマイオ、サルヴィーニ党首が改めて連立を目指すとして、大統領が拒否した財務相候補パオロ・サヴォナ氏の起用を断念。あらたにローマの大学のジョバンニ・トリア教授を財務相に起用することで大統領も了承しました。

トリア教授はサヴォナ氏のようにユーロ離脱を説くほどの過激派ではありませんが、だからといって全面的なユーロ服従派でもなく、単一通貨政策の見直しとドイツの膨大な財政黒字削減を主張する改革派。意外にもベルルスコーニ元首相に近い人物です。物議をかもしたパオロ・サヴォナ氏は、いずれにしても欧州担当大臣として入閣します。

議会第1党の五つ星運動のディマイオ党首は産業労働大臣に、また第2党同盟のサルヴィーニ党首は内務大臣に就任します。同時に両氏はそれぞれ副首相職も兼任します。2人はお互いに相手が首相になることをけん制しあってきた仲です。

ディマイオ産業労働大臣は、五つ星運動の看板政策「ベーシックインカム(最低所得保障)」制度を確実に実施するために全力をつくすでしょう。それはバラマキ政策以外のなにものでもない、という根強い批判にさらされています。

また移民政策を管轄する内務省のトップに座るサルヴィーニ氏は、国内に多く存在する不法滞在者の難民・移民を排斥しようとしてしゃかりきになるでしょう。それが同盟の看板策だからです。地中海から流入する膨大な数の難民・移民には、声には出さなくとも多くのイタリア国民がいら立っています。

同盟はまた財政策でも独自の主張をしています。それが個人、法人一律の所得税15%策。実施されれば政府歳入が大幅に減ることは確実です。それは五つ星運動のベーシックインカム策同様、バラマキというレッテルを貼られています。

両党はほかに年金給付年齢の引き下げ、また消費税値上げ見送りなども主張し政権合意していて、ただちに実施される可能性が高い。両党が多くの相違点を持ちながら、「ポピュリスト」と十把ひとからげに規定されるゆえんの一つです。

それらの政策は、EU圏内最大の約300兆円もの累積債務を抱えるイタリアの財政をさらに悪化させるものとして、国内外から強い懸念が出ています。EUはイタリア発の「欧州財政危機の再来」になりかねない、として警鐘を鳴らしているほどです。

また反移民を声高に叫ぶ同盟主体の難民・移民策に関しても、EUは大きな懸念を表明しています。だが多くのイタリア国民は、地中海を渡って怒涛の勢いで同国に押し寄せる難民・移民の保護・受け入れを押し付けられた、と感じてEUを怨んでいます。イタリアで反EU感情が高ぶり続ける一因です。

より厳しい難民・移民政策を実施することが確実なイタリア新政権は、米トランプ政権に通底する政治潮流の所産です。借金を減らせ、緊縮財政を続けろ、と迫るEUに対峙する形でバラマキ政策を主張するのも同様でです。トランプ政権のアメリカ・ファーストならぬ「イタリア・ファースト」の叫びが支持されたのです。

2大ポピュリスト勢力が結びついたイタリアのコンテ新政権は、EUが強く怖れる前述のイタリア発のユーロ危機、また政治危機を誘発する可能性があります。同時に新政権は、独仏、特にドイツが支配するEUの権力構造に風穴を開けて、新たな秩序を構築する「きっかけ」になるかもしれません。

そのキーワードは、「イタリアの多様性」です。今日現在も都市国家の息吹に満たされているイタリアの政治地図は複雑です。言葉を換えればイタリアの政治勢力は分断され細分化されているのです。

イタリアの内閣がころころ変わり物事がうまく決まらないのは、第一に政治制度の不備という問題があるからです。同時にイタリア独特の都市国家メンタリティーが社会を支配しているからでもあります。独立自尊の気風が生み出す政治の多様性は、外からみると混乱に見えます。だがイタリア政治に混乱はありません。それは「混乱」という名のイタリア政治の秩序なのです。

四分五裂している政治土壌では、過激勢力は他勢力を取り込もうとして、主義主張を先鋭化させるよりも穏健化させる傾向があります。極論主義者あるいはポピュリストと呼ばれる、極左の五つ星運動と極右の同盟も例外ではありません。

彼らは元々反ユーロ、反EUの急先鋒です。ところが国内の風向きまた国外、特にEUからの懸念や批判の声を受けて徐々にトーンダウン。五つ星運動は選挙期間中にユーロからの離脱はしない、と言明。同盟も五つ星運動との政権合意を目指す協議の途中に同じことを表明しました。

彼らは同盟が主導するもう一つの過激政策、移民排撃ポリシーも徐々に穏健な形に換えていく可能性が高いと考えられます。根が優しいイタリア国民が、同盟の無慈悲な反移民策を無批判に受け入れるとは考えにくい。だがそれにも限界があります。

イタリアの新政権に懐疑的なEUが、今後もひたすら同じ姿勢でイタリアの財政策と移民政策を批判し続けるだけなら、イタリアの世論は五つ星運動と同盟の元々の過激論に傾倒していくかもしれません。

EUはイタリアの変貌に驚きうろたえることをやめて、その主張に耳を傾け自らの改革の必要性の是非にも目を向けるべきです。同時にイタリア新政権との対話を強く推し進め、信頼関係の構築に努めるべきです。それが普通に実行されれば、イタリアの過激政権もより「普通に」なっていく、と考えられます。

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イタリアは大統領独裁国家なのか

権力乱用?

イタリアのマタレッラ大統領は、五つ星運動と同盟の「ポピュリスト連合」が推薦したコンテ首相候補を否認しました。もっと正確にいえば、首相候補を介して五つ星運動と同盟が提出した閣僚名簿のうち、財務相候補のパオロ・サヴォナ氏を拒否することで、コンテ内閣の成立を阻止したのです。

そしてほぼ同時に、と形容しても過言ではない素早さで、国際通貨基金(IMF)の元財務局長でエコノミストのカルロ・コッタレッリ氏を、大統領独自の首相候補に指名し組閣要請を出しました。コッタレッリ氏はガチガチのEU信奉者で緊縮財政にも積極的。「ミスター・予算カット」のあだ名さえあります。

イタリアでは過去に何度も実務者(テクノクラート)による中立政権が樹立された歴史があります。政府予算や次の選挙法などを成立させるのが主な目的で結成されるのです。コッタレッリ内閣も成立すれば2019年予算案の通過と、再選挙に向けた選挙法の制定が主な役割になるでしょう。

マタレッラ大統領の一連の動きは全て憲法に合致したものです。イタリア共和国大統領は、首相指名権と閣僚認否権を有し、理論的には彼の一存で政権樹立を阻止して解散総選挙を行うこともできるのです。

大統領が議会と対峙したり、上下両院が全く同じ権限を持つなど、しばしば政治混乱を引き起こす原因にもなるシステムをイタリア共和国が採用しているのは、ムッソリーニとファシスト党に多大な権力が集中した過去の苦い体験を踏まえて、権力が一箇所に集中するのを防ぐ意味があります。

そうはいうものの、しかし、選挙で第1党と第2党に躍進した五つ星運動と同盟が、提携して過半数を制し連立合意に達した民主主義の成果を、民主主義を強く支持する大統領があっさりと否定する、というのはきわめて異例の出来事です。

道義的責任

マタレッラ大統領は、憲法に沿って「制度としての大統領の権限」を行使した形ですが、連立とはいえ過半数に達した政党が政権を樹立する、というこれまた「民主主義の正統な制度」に真っ向から挑むというジレンマに陥り、敢えてそれを犯しました。

なぜそれが可能になったのかというと、大統領には道義的な理由で時の政権や議会に物申す権限も託されているからです。彼は自身の良心に基づいて政治的なアクションを起こすことができるのです。それはドイツ大統領などにも共通する欧州発祥の基本原理です。

マタレッラ大統領は、財務相候補のサヴォナ氏が強烈な反ユーロ・反EU主義者であることから、彼が財務相に就任すれば政府支出を大幅に増やし、あまつさえユーロ圏からの離脱も画策しかねない、と憂慮しました。

イタリアはEU圏内最大の約300兆円もの累積債務を抱えて呻吟し、借金を減らすための緊縮財政をEUに迫られてこれに合意しています。五つ星運動と同盟が主張しているバラマキ政策が実施されれば、イタリア経済はさらなる打撃を受け国民が不幸になり、EUとの約束も守れなくなります。

五つ星運動と同盟は、先ずユーロ圏からの離脱、そして将来はEUからの離脱も目指すという主張を引っ込めていますが、それは恐らく選挙対策上の欺瞞です。彼らが政権を奪取すれば、いつでもその主張を蒸し返すことができます。それが彼らの狙いだ、という見方は根強くあります。

マタレッラ大統領は、EUへの信義や国民生活を守るという「道義的責任」に基づいて、反EU且つ反緊縮財政の立場を採るサヴォナ氏を否認し、それによってコンテ内閣全体も否定しました。結果、五つ星運動と同盟の2大ポピュリスト勢力による政権樹立を阻んだのです。

問題点

いわば欧州の良心、あるいは民主主義国家の道徳意識の体現ともいえる理由での大統領の政治介入は、前述のごとく制度上の権力行使と並んで受容されるものです。しかし、今回のマタレッラ大統領のように政権樹立へのあからさまな妨害、とも形容できる仕方で実践されることはほぼ皆無です。

マタレッラ大統領が、制度的権限と道義的権限を行使してポピュリスト政権の成立を阻んだのは、2つの意味で問題です。一つは単純に、民主主義国家のイタリアで、選挙の洗礼を受けた2政党が連立を組み過半数制覇を成し遂げて、政権樹立を図った真っ当な行為を妨害したこと。

もう一つは、マタレッラ大統領が元々左派の民主党に属し、民主党と同様の「親EU主義者」である点です。彼は成立しかけている連立政権が、自らの政治信条に合わない「反EU・反体制のポピュリスト政権」だからこれを潰した、という見方もできます。

それは権限の乱用と指弾されても仕方のない動きです。

筆者はEU信奉者であり、五つ星運動と同盟のほとんどの政策には違和感を覚える者です。それでも長い連立協議を経て政権合意に至った両党が、政権を樹立する権利は認められなければならない、と考えます。民主主義の重要原理の一つは主義主張の違う者を認め尊重することです。

イタリア国民の大半は、五つ星運動と同盟の連立政権に一度チャンスを与えたほうが良い、と考えているように見えます。それが選挙を介してあきらかになった民意です。マタレッラ大統領の「良心」は理解できますが、拒否権発動は行き過ぎではないか、というのが筆者の率直な思いです。

トランプ主義政権

一度政権が走り出せば、現在は異様に見える五つ星運動と同盟の主義主張は「普通」になります。それは米国で証明済みです。つまり異様に見えたトランプ主義が、トランプ大統領の就任によって多くの問題を内包しながらも「普通の光景」になっていったように。

そして両党はトランプ主義信奉者です。

トランプ主義の是非については歴史が判断するでしょう。それでもトランプ主義はこれまでのところ、排外差別主義を「当たり前のこと」と人々に思い込ませた一点だけを見ても、明確な不正義だと筆者は考えます。

イタリアで成立するかもしれないポピュリスト政権ももちろん同様です。

だがそれらは選挙を介した民意によって誕生した魔物です。ただ頭ごなしに否定するのではなく、歴史の試行錯誤の一環として受け入れ考察するべきる時期に来ています。そして試行は一度行き着くところまで行くべきです。

行き着くところが地獄でも、それは国民が選んだ結果です。

イタリア国民は地獄に至れば必ず真の目覚めを獲得する、と筆者は考えます。彼らは賢明な国民です。大統領という一個人が、元を正せば彼も民意によって選出された存在とはいえ、「今の民意」を反映した政権の樹立を阻止するのは、やはり誤謬なのではないか、と考えざるを得ません。

イタリア人好みの大統領とは

最後に付け加えておこうと思います。大統領が制度として議会に対抗できる力を持つと同時に、議会や時の政権に道義的勧告もできる仕組みは、前述したようにイタリアの専売特許ではありません。それはドイツなどを含む欧州の国々に共通の体制です。

例えば昨年のドイツ総選挙後に政治空白が発生した際、ドイツのシュタインマイヤー大統領は連立政権に参加するように、と社会民主党に強く働きかけました。その行為は制度上の合法的な動きであると同時に、EUの結束を希求し且つドイツの極右勢力を抑制する、という「道義的」心情も強く反映したものでした。

イタリアの場合には制度に加えて、大統領自身の人気やコミュニケーション力や人柄によって、「制度以上の力」を持つ場合がままあるのが特徴と言えます。過去にはペルティーニやチャンピ大統領などがいます。

またナポリターノ前大統領も個人的な人気の高さを利用して、議会に物申してきた強い大統領の1人でした。

だがマタレッラ大統領は、イタリア人好みの明朗や雄弁やコミュンケーション力に欠けるきらいがあります。つまり彼は絶大な人気を誇る大統領とは呼べないのです。権力乱用にも見える今回の彼の政治介入は、大統領自身の存在感を高める可能性もあります。

だが、逆に反感を買って大きく失墜する恐れもある、と思います。

現に五つ星運動のディマイオ党首は、マタレッラ大統領の介入を違法と見なし「大統領の弾劾」を議会に提案する構えです。過去には例のない反応であり動きです。それもこれもマタレッラ大統領がこれまでのところ、前述の3大統領に共通のいわば「国父」的な尊敬を集めている存在、とは言いがたいところにあるようです。

 

 

 

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報道に不偏不党はあり得ない

マスメディアあるいは報道機関は、よく不偏不党の報道姿勢を前面に打ち出します。だが、不偏不党の報道など元よりあり得ません。

報道には必ずそれを行う者のバイアスがかかっています。事実を切り取ること自体が、すでに偏りや思い込みの所産なのです。

なぜなら事実を切り取るとは、「ある事実を取り上げてほかの事実を捨てる」つまり報道する事案としない事案を切り分けること、だからです。それは偏向以外のなにものでもありません。

少し具体的に言います。例えば日本の大手メディアはアメリカの火山噴火や地震情報はふんだんに報道しますが、南米などのそれには熱心ではありません。

あるいはパリやロンドンでのテロについてはこれでもか、というほどに豊富に雄弁に語りますが、中東やアフリカなどでのテロの情報はおざなりに流す。そんな例はほかにも無数にあります。

そこには何が重要で何が重要ではないか、という報道機関の独善と偏向に基づく価値判断がはたらいています。その時点ですでに不偏不党ではないのです。

だからこそ報道者は自らを戒めて不偏不党を目指さなければならない。「不偏不党は不可能だから初めからこれをあきらめる」というのは、自らの怠慢を隠ぺいしようとする欺瞞です。

報道機関は不偏不党であろうとする努力を怠ってはならない。「不偏不党は不可能」だからこそ、不偏不党の報道を追求する姿勢を持ちつづけるべきです。

そして資金や人的資本が豊富な大手メディアのうちの「まともな」報道者は実は、不偏不党を目標に事実に裏付けられた報道をしようと努力している場合がほとんどです。

一方ブログなどの個人報道ツールを用いる者には、自己以外には人材もなく金もないために、足と労力を使って得た独自情報やニュースは少ない。せいぜい身の回りの出来事が精一杯です。

そこで彼らは大手メディアが発信する情報を基に記事を書く場合が多くなります。そしてそこには、偏向や偏見や思い込みに基づく記述があふれています。それはそれでかまいません。

なぜならブログをはじめとするSNSは、事実や事件の正確な報告よりも「自分の意見を吐露する場」であるべきだからです。あるいは事実や事件を「考察する」ツールであるべきだからです。

そこでの最も重要なことは、報道者が自らの報道はバイアスのかかった偏向報道であり、独断と偏見による「物の見方や意見」であることをしっかりと認識することです。

自らの偏向独善を意識するとはつまり、「他者の持つ違う見解の存在を認めること」です。他者の見解を認めてそれに耳を貸す者は、やがて独善と偏向から抜け出せるようになるでしょう。

個人の報道者はそうやって自らの不偏不党を目指すべきです。ブログなど個人の情報発信者が、大手メディアを真似てニュースを発信しようとするのは間違っています。

独自の記事として書いても、また「シェア」という形で他者の記事を紹介しても事情は変わらない。自身の足と金と労力を注ぎ込んで集めた情報ではないからです。

このサイトでは報道ではなく、「報道に基づく」書き手の意見や哲学や思考を発信して行ければ、と思っています。それは筆者が個人ブログなどでも一貫して努めてきた姿勢です。

同時に将来的には、読者からの声も縦横に取り入れたインタラクティブなサイトを目指したい。「ピアッザ(広場)の声」とは、広場から発せられる声であり、広場に向かって発せられる声でもありたい、と考えます。

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