「表現の不自由展」中止事件が物語るもの

「あいちトリエンナーレ2019」の「表現の不自由展・その後」が開始3日後に中止になった事件は、様々な表現者団体が次々と抗議声明を出すなど、大きな波紋となっています。

僕は今回の展示がこのまま中止となると、「脅せば表現は封印できる」という前例となり、同様の事件が急増する恐れがあると考えています。またそれを恐れて公的セクターやマスコミの間に萎縮が広がるとしたら、それこそ非常に問題ではないでしょうか。

ちまたでは従軍慰安婦問題に関する韓国側の主張を象徴する「平和の少女像」を展示したことの是非が、最も大きな問題点であるかのように論じられているようです。

当然のことながら、こういった展示を行った芸術監督の津田大介氏の見識に批判的な声が上がり、その一方では展示に反発した保守系政治家の言動が、言論・表現の自由に対する政治の圧力だと批判されています。

河村たかし名古屋市長は、「どう考えても日本人の、国民の心を踏みにじるもの。いかんと思う」などと述べて、少女像の撤去を求め、企画展の中止が決まった後も、「やめれば済む問題ではない」として、謝罪を要求しました。少女像の展示は「『数十万人も強制的に収容した』という韓国側の主張を認めたことになる」とも語りました。

自民党の保守系議員らの集まりが、この少女像について「事実上の政治プロパガンダだ」として、「公金を投じるべきでなく、国や関係自治体に適切な対応を求める」との意見表明を行いました。さらに、代表者が首相官邸で西村康稔官房副長官と面会。西村氏は「自民党愛知県議団を中心に対応を始めている」と応じたというから、政治家の反応にちまたの注目が集まるのも無理はありません。

しかし僕はちまたで飛び交うこういった議論に興味はありません。興味は無いというか、こういった論点で盛り上がること自体が、「真犯人」の姿を見えにくくし、「真犯人」の思うつぼにはまっていると感じています。

こういった論点のすり替えは、残念ながらしばしば起こります。先日の吉本興業で、所属芸人が直営業で反社会的勢力のイベントに参加していた件で、謝罪会見をめぐり、芸人本人である宮迫博之さんと、会見を封じた吉本興行側の岡本昭彦社長のどっちが悪いか、という論点でワイドショーは賑わっていました。

たまたまテレビを観ていた妻は、「バカじゃないの。いちばん悪いのは振り込め詐欺をした犯人グループに決まっているじゃない。その話をしないで、宮迫さんや岡本社長を批判しても意味がない」と言ってテレビを消しました。マスコミは声の大きい有名人の言動を元に、ストーリーを作って議論したがりますが、それは時に事件の本質をミスリードしてしまいます。

今回の「表現の不自由展」中止事件の場合も、誰が「真犯人」なのか、何がいちばん悪いのか、という点にキチンと注目して議論しないと、論点がすり替わってしまう危険性があると僕は思いました。

「真犯人」は言うまでもなく、少女像について「大至急撤去しろや、さもなくば、うちらネットワーク民がガソリン携行缶持って館へおじゃますんで」と、京都アニメーションの事件を思わせるFAXを送りつけて脅迫した人物であり、その背後で「電凸」と呼ばれる電話暴力で主催者を脅し続けた多くの卑怯な人間たちであります。

当然のことながら、ガソリン携行缶で主催者を脅したテロリスト稲沢市稲沢町の会社員堀田修司容疑者は、威力業務妨害で警察に逮捕されました。テロに屈した芸術祭の実行委員会の会長を務める大村秀章・愛知県知事の弱腰を批判する意見ももちろんありますが、県知事はあくまでも被害者だと言うべきでしょう。

気に食わない表現活動を、脅しによって封殺しようとするのは、同企画展に対する威力業務妨害というにとどまらず、表現の自由を掲げるわが国に対する重大なテロ行為であります。また、このような脅し文句は、京アニの事件で奪われた35人の命や、それを悲しむ多くの人たちに対する冒涜でもあって、断じて許しがたいものです。

「電凸」については後に述べますが、私達はどんな良い意見を主張するためであっても、「ガソリン携行缶を持ってお邪魔」などしてはいけない。ましてや意見の分かれる案件に関して、暴力をもって相手側の言論・表現行為を封じることは、絶対にあってはならないことなのです。

今回の「真犯人」の思惑は、少女像などの展示を撤去させることであり、こういった自分たちの気に入らない表現活動を、日本で今後やりにくい風潮を作ることでした。主催者、マスコミを含めて私達は、まんまと「真犯人」の思惑に乗せられているような気がしてなりません。

決して少女像の展示の是非などに、論点をすり替えてはいけません。事件は暴力による言論封殺のテロリズムなのです。従軍慰安婦問題については私はまた別の観点から記事を書いていますから、読んで頂ければ幸いです。

何がいちばん悪いのか、と言うとガソリン携行缶FAXで脅迫した堀田容疑者はもちろんのこと、この男と五十歩百歩というべき「電凸」を実行した、数多くの卑怯な「名無しさん」たちの存在です。

「電凸」という名前の組織的な電話暴力があることを、僕は今回の津田大介氏の会見で初めて知りました。

「事務局の電話が常に鳴っている状況。一昼夜続いた。そこがパンクし、つながらないとなると、県立美術館や文化センターにかける。(そこの職員は)そういう電話が回されることも知らない。待たされてさらに激高している状態の人が、事情を知らないオペレーターの方に思いをぶつけてしまう。それがひっきりなしに続く状況を目の当たりにし、続けられないと判断した」(津田氏)

ネット上で炎上したテーマに関して、クレーム電話を公的セクターの窓口などに一斉にかけて回線をパンクさせてしまう手口の、最近のネット社会ならではの陰湿な組織的暴力です。通常は公的機関は代表電話やお問合せ窓口の番号を公開していますが、その番号に一度に大量の電話をかけると、電話回線が足りなくなりクレーム処理ができなくなります。そこを狙ったのが「電凸」に参加するネット民たちというわけです。

マスコミなどでは多大な反響が予想される、賛否の分かれそうな内容の生放送をする時、事前に数100回線ほどの電話を用意し、対応する要員を配置する作戦をとります。僕もNHKで働いていた頃、視聴者参加型の政治討論生放送にかり出された経験がありますが、広いスタジオに組まれたひな壇にずらりと並んだ電話が一斉に鳴る光景は凄みのあるものでした。

そういう時でなくとも視聴者ふれあいセンターには、それなりのクレーム対応を訓練されたオペレーターが常時配備されていて、デリケートな内容の番組を放送した直後には、右からも左からも押し寄せる、様々な怒れる視聴者の声を受け止める業務をこなします。

しかし日頃から激しいクレーム処理に長けた要員を擁するマスコミ組織とは違って、県立美術館などの受付窓口に座っているのは、平和な美術展などの問い合わせに対応するだけの事務員さんたちです。いきなり政治的な議論を吹きかけられたって、返答もしどろもどろになり、パニックになるでしょう。

そもそも県立美術館などで電話対応に当たる職員は、通常は日常業務を抱えていて、その合間に問い合わせの電話にも出る、というのが実情です。突然クレーム電話が殺到したら、誰もが電話に出るだけで精一杯になり、日常業務がストップしてしまいます。

そんな事務局の事情を知っていながら、わざとネット上で示し合わせて、集団で一斉にクレーム電話をかける「電凸」はもはや現代の組織暴力です。憎むべきテロのひとつと位置づけて良いと思います。

今回の「表現の不自由展」中止事件は、この「電凸」にも成功体験を与えてしまった、というのが非常に残念なところです。卑怯な「名無しさん」たちに、気に入らない言論を封じ込める手口があることを教えてしまった、重い責任を津田氏には感じてもらいたいです。

津田氏お得意の炎上商法を試みたつもりでしょうが、リアルな世界で炎上を起こすからには、それを受け止めるクレーム対応要員なり電話回線なりを準備し、リアルな会場で整然とシンポジウムを開催できるような場を提供する仕掛けが必要だったことは間違いありません。

芸術家が政治活動をやってもいいし、政治家が芸術活動をやるのももちろんかまわないことです。でも芸術と政治を混同してはいけません。政治をそのまま芸術として表に出すことは、プラクティカル・アートとしても認められないし、そもそも真の芸術家に対して失礼だと僕は考えています。

その意味で僕は個人的に、今回の企画展に出品された少女像を始めとする問題の作品群に対して、芸術的に価値が高いとは感じていません。感動するかと言われれば感動しないし、むしろ不快感さえあります。それでも、です。それでも表現行為を封殺してはならないのです。展示したうえで、駄目な作品だと評価すれば良いことだと思います。

今回の企画展中止が悪しき前例となって、自治体や公的組織が萎縮し、表現活動に対して自粛、忖度をするようになることだけは避けて欲しいです。そして反骨精神ある芸術家が、さらに洗練された表現活動をのびのびと行える社会であって欲しい、と強く願っています。

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NHKは矜持を失ったか

私がNHKに対して批判的な記事を書くのは、おそらく今回が始めてではないかと思います。これまでも自分のOFFICIALサイトで度々NHKについて書いてきましたし、お仕事として依頼された原稿を提供している産経デジタル社のサイト、「iRONNA」にも会長問題、受信料問題など書いてきました。

私の論調は一貫してNHK擁護の立場でありました。NHKには時の政権からのいかなる圧力にも屈することなく、不偏不党で中立公正にジャーナリズムの王道を走って欲しい。そのための受信料だから、当然支払うべきだと昔から主張してきました。

かくいう私も長年にわたってNHK内部の人間であり、NHKで働いて禄を食み、子供のミルク代を得てきたという恩義もあります。このサイトを共同で主宰している仲宗根さんと30年前にローマで出会った時、私は株式会社NHKクリエイティブという、今はなきNHKの関連企業に籍を置いていました。自らの社名にクリエイティブと名付けるとは、ずいぶん気負った会社だなと思いましたが、まあいいでしょう。とにかくNHKについて私は知り尽くしています。

時代は令和になって、そこここからNHKの報道姿勢に疑問を持つ声が、急速に高まってきました。「みなさまのNHK」ではなく「安倍様のNHK」に成り果てているのではないかという指摘です。これについては、さすがの私も擁護しきれません。ハッキリ言いましょう。ここ数年間でNHKは80年の伝統で培ってきた中立公正なNHKの矜持をかなぐり捨て、安倍政権の広報機関へと大きく舵を切りました。変貌してしまったのです。もはや長年私がお世話になった古き良きNHKは、どこかへ消え去ってしまったかのようです。

何がNHKを変えてしまったのでしょうか。1万2千人の職員と数万人の外部スタッフが、そう簡単に考え方を変えるでしょうか。NHKの体質に何か根本的な変容があったのでしょうか。

組織の体質などというものはそう簡単に変わるものではありません。私が思うには、体質、などという漠然としたものについて語ってもあまり意味がないのではないでしょうか。あえてNHKの組織としての体質は、と問われるなら、それは役人と職人を融合したような体質だ、とお答えしておきましょう。役人ですから上司の命令には忠実です。一方では「いかなる圧力にも屈せず自らの良心のみに基づいて判断する」という崇高な理念があり、職員は常にその狭間で揺れ動いています。それは今も昔も変わっていないでしょう。

体質ではなく何が変わったのか。それは極めてわかりやすくシンプルです。ズバリ会長人事です。役人組織ですからトップの意向でいかようにも変貌します。NHKの会長は経営委員会で選任されますが、長年にわたってNHK内部からのたたき上げの職員が就任したら、次の会長は外部から選ぶ、その次はまた内部から、と交互に就任してきました。少なくとも私の現役時代はそうでした。

私がNHKにいた頃は内部からのたたき上げの人物が、歴代の会長を務めていました。1989年からの島桂次会長、1991年からの川口幹夫会長、1997年からの海老沢勝二会長と20年にわたって内部からの人選でしたが、内部で派閥を構成する報道局政治部出身と番組制作局出身から交互に選ぶことによって、局内のバランスも取れていました。

それが2008年以降、外部から招聘された会長の代が続くのです。アサヒビールから来た福地茂雄会長、JRから来た松本正之会長、三井物産から籾井勝人会長、現在の上田良一会長と既に10年あまりにわたって、異例の外部出身会長が続いています。会長の人選は経営委員会が行いますが、その経営委員たちは内閣総理大臣によって直接指名されます。

この10年は、安倍晋三の政権期間と見事に一致しています。籾井勝人氏はNHK会長就任の際に「政府が右と言っている時に左とは言えない」と発言して物議をかもしましたが、そういった発言を口に出すか出さないかの違いこそあれ、安倍首相に直接選任された会長がNHKを牛耳っている限り、「みなさまのNHK」ではなく「安倍様のNHK」になるのは当然のことだと私は思います。

画面上のことで言うと、かつて硬派のジャーナリストであった国谷裕子さんがクローズアップ現代から降ろされた頃、その変化は多くの人に感じ取られたと思います。変わって安倍首相にずっと密着して取材を続けてきた報道局政治部の岩田明子記者が、今やメインの解説者として度々ニュースの画面に登場しますが、話す内容はまさに政府広報です。

NHKの経営委員会をここまで指揮下に収めることができたのは、安倍首相の長期政権によるものだと言ってよいでしょう。日本の議院内閣制はたてまえは三権分立ですが、実際には立法、行政、司法の三権が内閣総理大臣に集まりやすくなっています。特に長期政権が続くとその傾向は強まります。三権に続いて四番目の権力と言われるマスコミまで手中に収めた安倍政権は、もはや怖いものなしの独裁者になっているようです。

国民から選挙で選ばれた代議士であり、その代議士から選挙で選ばれた総理大臣なのだから、最も国民の意思を代弁しているはず、という民主主義の原則に基づいていることは間違いないでしょう。だからといって総理大臣は何をしてもよい、というわけではないはずです。

ファシズムは民主主義から生まれます。ヒトラーは公正な選挙によって選ばれ独裁者になったわけで、クーデターでも犯罪を犯したわけでもなかったのです。私はこの日本でもマスコミが政府に牛耳られ、言論が封殺されるようになったなら、それは十分国家の危機だと言うべきだと思います。

NHKにはまだ希望を捨てていません。役人としてだけではなく職人としての資質も持ち合わせているのだから、職員一人ひとりが己の信念に基づいて行動する勇気を持てば、独裁者に屈することなくジャーナリズムを貫徹できるはずだと信じています。信じさせてください。

Stand Up!Wake Up!

米朝首脳会談の茶番劇が犯した罪の大きさ

どんなに中身のない首脳会談になろうとも、二人は会わないよりは会った方が良い、とそれまで僕は思っていました。6月12日にシンガポールで行われたドナルド・トランプ大統領と金正恩委員長の首脳会談後に、トランプ大統領が発表した、共同声明の内容を聞くまでは。発表された共同声明の内容を詳しく知って、僕は膝から崩れ落ちそうになりました。これでは首脳会談をキャンセルした方がはるかにマシだったではないか!

朝鮮半島の非核化の実現は、大きく後退しました。肝心の北朝鮮が核兵器を廃棄するプロセスや時期、IAEAの査察など、北朝鮮に約束を守らせるために必要な、具体的な手順が何一つ決められていなかったからです。大切なのは北朝鮮に「核兵器廃絶するという約束」を取り付けることではありません。「約束」ならこれまでにも何回も北朝鮮は署名しています。「約束」しておきながら、それを守らない状態が長年続いているわけです。今回期待されたのは、「約束」をすることではなく、約束を「守らせる」こと、すなわち「具体的に実行させる」ことだったのですが、それが何一つ書かれていません。無意味を通り越して、後退させたと言うべきです。

「約束」なら、今年4月に南北首脳会談で発表された、板門店宣言を思い浮かべる人も多いでしょう。宣言では「朝鮮半島の完全非核化を目指す」とされています。それよりも国際的にこれまではどういう状態だったのか。米朝両国に日韓中ロの4か国を加えた6か国協議では、既に2005年9月に共同声明が発表されていて、北朝鮮がすべての核兵器と既存の核計画を放棄するとともに、NPT=核拡散防止条約に早期に復帰してIAEA=国際原子力機関の査察を受け入れることなど、具体的な措置が明記されています。2007年2月には6か国協議で、北朝鮮が60日以内にニョンビョン(寧辺)の再処理施設を含む核施設を停止し、これを確認するためのIAEAの査察官の活動を認める宣言がなされています。

核兵器廃絶の約束? そんなもん、何度でもサインしてやるよ。

ここまで具体的な「約束」を取り付けておきながら、北朝鮮は核実験を繰り返し、長距離弾道ミサイルの開発を続けてきました。すなわち約束など守る気は毛頭無かったのが北朝鮮です。それ故に経済制裁など国際社会から圧力を受けていたのです。ここに来て求められていたのは、アメリカ合衆国のポンペオ国務長官が絶対条件としていたとおり、「CVID=完全検証可能かつ不可逆的な非核化」であり、トランプ氏はその実現に向けた工程表を作成して金正恩氏と合意し、これを守らなかった場合の罰則規定まで盛り込むことだったはずです。しかしトランプ氏は従来通り、単に「核を廃絶するという約束」を繰り返しただけであり、その具体性のなさは過去の6カ国協議よりも大きくステップバックしてしまいました。

おまけに金正恩氏に対しては、現在の政治体制の維持を確約してしまいました。兄を暗殺し、側近を粛正し、国民には自由と人権を認めない、とんでもない北朝鮮の金正恩政権のやり方を、アメリカ合衆国が「是」と認めてしまったのです。かつてのアメリカ合衆国は、国際社会の中で、「自由と基本的人権を尊重する民主主義」を追求するリーダー役を務めてきました。天安門事件などで自国民の言論を弾圧し、少数民族を支配する中国に対しても、「人権上の問題がある」として警笛を鳴らしてきました。時にはお節介とも思えるほどの、このアメリカ流の正義感の押しつけについては、僕は個人的には好感を持ち、敬意さえ感じていました。

トランプ政権になって以来、この「自由、博愛、平等」といった人権尊重の倫理観を世界に広めるリーダーシップに、アメリカ合衆国はまるでこだわらなくなりました。ビジネスさえできる相手なら、どんな倫理観を持ったどんな政治体制の国であっても、平気で付き合う、金銭だけを重視する価値観の国に成り果ててしまったかのようです。僕がかつて好きだったハリウッド映画、アメリカの音楽、米文学。それらに込められた自由と人権を訴えるメッセージが、今のアメリカからは失われてしまったのでしょうか。今回のトランプ氏による、北朝鮮に対する体制維持の保証は、その意味でも僕をガッカリさせるものでした。

北朝鮮が完全な非核化を果たすには、最低でも2年とか10年かかると言われています。非核化に必要なお金も、戦後補償と言われる1兆円どころではすまないでしょう。なんと220兆円とも言われています。その費用を誰が負担するのか。それについてもトランプ氏は明言しています。

「日本と韓国が費用を負担することになるだろう」

え?我々の納税した税金が、注ぎ込まれるのか? 日本国民としては、今回の米朝首脳会談を、歴史的快挙などと持ち上げている場合ではありません。北朝鮮としては喉から手が出るほどほしい日本からの莫大な経済援助。これについては拉致被害者の解放に向けた努力と引き換えに、日本が経済援助をするという約束を、小泉純一郎氏が首相だった時に平壌を訪れてやらかしてしまっています。太平洋戦争の戦後補償という名目ですが、実質的には日本人の拉致被害者を解放する、身代金ではないかと考えられます。それに加えて、核兵器廃絶に必要な費用、という名目まで北朝鮮に与えてしまったのです。

かつての経済大国だった頃の日本ならいざ知らず、今の財政難にあえぐ日本から、まだ経済援助をしなくてはならないのかと、憂鬱な気持ちになります。トランプ大統領自身は、11月に行われる中間選挙に向けて、支持率アップを図る派手なパフォーマンスのつもりでご機嫌でしょうが、この軽はずみな行動が東アジアの安全保障に与えた悪影響は、計り知れないものがあります。

おまけに8月に行われる予定だった米韓合同軍事演習も中止するという、金正恩氏にとって笑いが止まらないサービスまでプレゼントしました。定期的な米韓の共同軍事演習は、朝鮮半島の安全保障において欠かせない、日米韓サイドの実戦配備の要です。国際安全保障は、微妙なミリタリーバランスの上に、拮抗して成り立つものです。米韓軍の「Fight Tonight」の実力は高く、中国、ロシアに対しても一定の脅威を与える役割がありました。それをポッカリ開けるということは、開けられた穴を防ぐために、何らかの軍事力増強が必要になります。それは在日米軍かも知れないし、自衛隊かも知れません。予算は当然のごとく日本に求められるでしょう。

トランプ大統領にとって、在日在韓米軍の駐留経費は、もともと削減したくて仕方がなかったのです。ですから今回は渡りに船とばかりに、合同演習の中止を決断したのでしょう。大局的な東アジアの軍事バランスというものが、まったく彼には見えていないように思えます。笑いが止まらないのは金正恩氏だけではなく、中国の習近平国家主席もにんまりしていると思われます。南沙諸島での軍事基地建設が、このまま進むことが、認められたも同然だからです。これによって中国は東南アジアにおける制海権を得ることができます。

ギブアンドテイクではなく、ギブアンドギブ。アメリカ側が北朝鮮の要求を丸呑みし、一方的に金正恩氏の勝利に終わった米朝首脳会談は、たしかに歴史に名を残すかも知れませんが、トランプ氏の罪深い大失態として名を残すでしょう。そして日本にとっては将来にわたって莫大な財政支出を求められる、危機的状況を作り出したのだと言えるでしょう。

今後開かれるであろう日朝首脳会談で、拉致被害者を無償で返還させることができるかどうか。アメリカに言われたからといって、ふざけた経済援助を引き受けることなく、毅然とした態度で交渉に臨めるかどうか。そして核廃絶への確実な履行能力を担保できるかどうか、これからの安倍政権の手腕に注目していきたいと思います。