日本司法はゴーン審問のブザマを反省して再生へと立ち上がるべき

カルロス・ゴーン逃亡者(:容疑者、日産元会長、被告などの呼称もあるが逃亡者で統一する)のレバノンでの記者会見映像を逐一観ました。それは中東人や西洋人が、自らを正当化するために口角泡を飛ばしてわめく性癖があらわになった、典型的な絵でした。見ていて少し気が重くなりました。

だが、そうはいうものの、日本の「人質司法」の在り方と、ゴーン逃亡者の逮捕拘留から逃走までのいきさつに思いを馳せてみた場合には、ゴーン逃亡者はおそらく犠牲者でもあるのだろう、とも筆者は考えることを告白しなければなりません。

弁護士の立会いなしで容疑者を取り調べたり、自白を引き出すために好き勝手にさえ見える手法で長期間勾留したり、拷問とは言わないまでも、逮捕したとたんに「推定有罪」の思惑に縛られて、容疑者を容赦なく窮追するという印象が強い日本の司法の実態は、極めて深刻な問題です。

取調べでの弁護人立ち会い制度は、米国やEU(欧州連合)各国はもちろん、韓国、台湾などでも確立しています。日本でそれが否定されるのは、密室での自白強要によって「真実」が明らかになる、と愚にもつかない偏執を抱く警察が、人権無視もはなはだしい異様な自白追及手法に固執するからです。

そうしたことへの疑問などもあって、筆者はゴーン逃亡者が「容疑者」でもあった頃の日本での扱われ方に、少なからず同情もしていました。だが彼のレバノンでの記者会見の立ち居振る舞いを観て、今度は筆者の中に違和感もムクリと湧き上がりました。言い分があまりにも一方的過ぎるように感じたのです。

だが再び、そうはいうものの、ゴーン逃亡者のみならず日本司法も、直ちには信用できないやっかいな代物だという真実に、日本国民はそろそろ気づくべきです。日本の司法制度では、逮捕された時には例え誰であろうとも長期間勾留されて、弁護人の立ち会いも認められないまま毎日何時間も尋問され続ける可能性が高い。

容疑者は罪を認めて自白しない限り、果てしもなくと形容しても過言ではない期間とやり方で勾留される。そんな日本の司法の実態はうすら寒いものです。密室の中で行われる警察の 取調べは、戦前の特高のメンタリティーさえ思い起こさせます。まるで警察国家でもあるかのような非民主的で閉鎖的且つ陰湿な印象が絶えず付きまとっています。

日本国民のうちの特にネトウヨ・ヘイト系の排外差別主義者らは、例えば韓国の司法や政治や国体や人心をあざ笑い優越感にひたるのが好きです。そこには自らをアジア人ではなく「準欧米人」と無意識に見なす「中は白いが表は黄色い“バナナ”日本人」の思い込みもついて回っています。だが日本の司法制度やそれにまつわる人心や民意や文明レベルや文化の実相は、まさしくアジア、それも韓国や北朝鮮や中国に近いことを彼らは知るべきです。

さらに言えば、北朝鮮のテレビアナウンサーの叫ぶような醜悪滑稽なアナウンスの形は、戦時中の大本営のアナウンスに酷似しています。北朝鮮の狂気は、軍国主義がはびこっていたつい最近までの日本の姿でもあるのです。そんなアジアの後進性が詰まっているのが日本の刑事司法制度であり、ゴーン事件の背景にうごめく日本社会の一面の真実です。その暗黒地帯の住民の一派がバナナ的日本人、即ちネトウヨ・ヘイト系の排外差別主義者です。

そのことに思いをめぐらせると、カルロス・ゴーン逃亡者と彼にまつわる一連の出来事は、日本司法の課題を抉り出しそれを世界に向けて暴露したという意味で、ゴーン逃亡者が日産の救世主の地位から日本国全体の救世主へと格上げされた、と将来あるいは歴史は語りかけるかもしれない、という感慨さえ覚えます。

ゴーン逃亡者は、日本の刑事司法制度を「有罪を前提として、差別が横行する、且つ基本的人権の否定されたシステムであり、国際法や国際条約に違反している」などと厳しく指弾しました。そのうちの「有罪を前提」や「差別が横行」などという非難は、彼の主観的な見解、と断じて無視することもできます。が、国際法や国際条約に違反している、という批判はあまりにも重大であり看過されるべきものではありません。

ではゴーン逃亡者が言う、日本が違反している国際法や国際条約とはなにか。それは第一に「世界人権宣言」であり、それを改定して法的に拘束力のある条約とした自由権規約(国際人権B規約)だと考えられます。世界人権宣言は1948年に国連で採択されました。そこでは全ての国の全ての人民が享受するべき基本的な社会的、政治的、経済的、文化的権利などが詳細に規定され、規約の第9条には「何人も、ほしいままに逮捕、拘禁、または追放されることはない」と明記されています。

さらに自由権規約の同じく第9条3項では、容疑者及び被告は「妥当な期間内に裁判を受ける権利」「釈放(保釈)される権利」を有するほか「裁判にかけられる者を抑留することが原則であってはならない」とも規定しています。また第10条には「自由を奪われた全ての者は、人道的にかつ人間の固有の尊厳を重んじて取り扱われなければならない」とも記されています。

ゴーン逃亡者は日本では、4度逮捕された上に起訴後の保釈請求を2回退けられました。加えて拘置所に130日間も勾留されました。また逮捕から1年以上が過ぎても公判日程は決まっていませんでした。そうした状況は国際慣例から著しく逸脱していて、国際法の一つである自由権規約に反していると言われても仕方がない奇天烈な事態です。

ゴーン事件に先立つ2013年、国連の拷問禁止委員会が、容疑者の取り調べの改善を求める対日審査を開いたことがあります。その際「日本の刑事司法は自白に頼りすぎていて、中世のようだ」との指摘が委員から出ました。日本の司法は未だに封建社会のメンタリティーにとらわれていて、時として極めて後進的で野蛮だと国際的には見られているのです。

言葉を変えれば日本の司法は「お上」の息のかかった権威で、かつての「オイコラ巡査」よろしく「オイコラ容疑者、さっさと白状しろ」と高圧的な態度で自白を強要する、とも言えます。それは、繰り返しになりますが、日本の刑事司法が封建時代的なメンタリティーに支配されていることの証し、ととらえられても仕方がありません。欧米の猿真似をしているだけの日本国の底の浅い民主主義の全体が、その状態を育んでいる、という見方もできます。

一方カルロス・ゴーン逃亡者も、大企業を率いたりっぱな経営者で品高い目覚しい紳士などではなく、自己保身に汲々とするしたたかで胡散臭い食わせ物である、という印象を世界に向けて発信しました。ゴーン逃亡者も日本の司法制度も、もしも救われる道があるのならば、一度とことんまで検証されけん責された後でのみ再生を許されるべき、と筆者は考えます。

ゴーン逃亡者の一方的な言い分や遁走行為が、無条件に正当化されることはあり得ません。しかし、「人質司法」とまで呼ばれる日本の刑事司法制度の醜悪で危険な在り方や、グローバルスタンダードである「弁護人の取調べへの立ち会い」制度さえ存在しない実態が、世界に知れ渡ったのは極めて良いことです。なぜなら恐らくそこから改善に向けてのエネルギーが噴出する、と考えられるからです。ぜひ噴出してほしい、と切に願います。

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「ボヘミアン・ラプソディ」批判者は映画殺害犯に似ている

 

ことしに入って早々(1月3日)に、イギリス娯楽小売業者協会(ERA)が、2019年に英国民が自宅で観た映画のランク付けを発表しました。

それによると2018年に大ヒットした映画「ボヘミアン・ラプソディ」がDVDやブルーレイまたダウンロードなどで170万部売れトップなりました。

「ボヘミアン・ラプソディ」は2019年1月6日、第76回ゴールデングローブ賞の作品賞に輝き、その約2ヶ月にはアカデミー賞の主演男優賞なども受賞しました。

大ヒットした「ボヘミアン・ラプソディ」に関しては、日本を含む世界中で多くの評者や論者がケンケンガクガクの言い合いを演じました。

また欧米、特に映画の主題であるクイーンの母国イギリスや、制作国のアメリカのメディアなども盛んに評しましたが、それらは概ね批判的で、観客の好感度とは大きく異なる奇妙なねじれ現象が起こりました。

筆者も当時「ボヘミアン・ラプソディ」を観ました。結論を先に言えば、文句なしに大いに楽しみました。映画の王道を行っていると思いました。王道とは「エンターテインメント(娯楽)に徹している」という意味です。

メディアや批評家や文化人やジャーナリストなどの評論は、“面白ければそれが良い映画”というエンターテインメント映画の真実に、上から目線でケチをつけるつまらないものが多かったように思います。

そのことへの反論も含めて筆者は当時記事を書くつもりでした。が、いつもの伝で多忙のうちに時間が過ぎてしまい機会を逃しました。当時筆者はブログ記事の下書きを兼ねた覚え書きに次のような趣旨を記しています。

映画の歴史を作ったのは、米英仏伊独日の6ヵ国である。6ヵ国を力関係や影響力や面白さでランク付けをすると、米仏英伊日独の順になる。個人的には面白さの順に米日伊仏英、遠く離れて独というところ。それら6ヵ国のうち、英仏伊独日の映画は没落した。娯楽を求める大衆の意に反して、深刻で独りよがりの“ゲージュツ”映画に固執したからだ。

ゲージュツ映画とは、台頭するテレビのパワーに圧倒された映画人が、テレビを見下しつつテレビとは対極の内容の映画を目指して作った、頭でっかちの小難しい作品群だ。作った映画人らはそうした映画を「芸術」作品と密かに自負し、芸術の対極にある(と彼らが考える)テレビ番組に対抗しようとした。彼らはそうやって大衆に圧倒的に支持されるテレビを否定することで、大衆にそっぽを向き映画を失陥させた。

「ボヘミアン・ラプソディ」を批判する評者の論は、映画を零落させた映画人の論によく似ている。大衆を見下し独りよがりの「知性まがいの知性」を駆使して、純粋娯楽を論難する心理も瓜二つだ。

一方で大衆の歓楽志向を尊重し、それに合わせて娯楽映画を提供し続けた米国のハリウッド映画は繁栄を極めた。ハリウッドの映画人は、テレビが囲い込んだ大衆の重要性を片時も忘れることなく、テレビの娯楽性を超える「娯楽」を目指して映画を作り続けた。「ボヘミアン・ラプソディ」はその典型の一つだ。

*6ヵ国以外の国々の優れた監督もいる。一部の例を挙げればスウェーデンのイングマール・ベルイマン 戦艦ポチョムキンを作ったロシアのセルゲイ・エイゼンシュテイン とアンドレイ・タルコフスキー、スペイン のルイス・ブニュエル 、インドの サタジット・レイ 、 ポーランド のアンジェイ・ワイダ など、など。彼らはそれぞれが映画の歴史に一石を投じたが、彼らの国の映画がいわば一つの勢力となって映画の歴史に影響を与えたとは言い難い。

*インドは映画の制作数では、中国やアメリカのそれさえ上回ってダントツの一位だが、中身が伴わないために世界はほとんど同国の映画を知らない。

映画「ボヘミアン・ラプソディ」の批判者はこう主張します。いわく、主人公フレディの内面を掘り下げる心理劇を見たかった。いわく、リアリィティーが欠如している。いわく、社会性・政治性、特に同性愛者を巡る政治状況を掘り下げていない、など、など。それらはまるで映画を徹底して退屈に仕上げろ、とでも言わんばかりの愚論です。

それらの要素はむろん重要です。だがひたすら娯楽性を追及している映画に「深刻性」を求めるのは筋違いだし笑止です。それは別の映画が追求するべきテーマなのです。なによりも一つの作品にあらゆる主張を詰め込むのは、学生や素人が犯したがる誤謬です。

「ボヘミアン・ラプソディ」の制作者は音楽を中心に据えて、麻薬、セックス、裏切り、喧嘩、エイズなど、など、の「非日常」だが今日性もあるシーンを、これでもかと盛り込んで観客の歓楽志向を思い切り満足させました。それこそエンターテインメントの真髄です。

そこに盛り込まれたドラマあるいは問題の一つひとつは確かに皮相です。他人の不幸や悲しみを密かに喜んだり、逆に他人の幸福や成功には嫉妬し憎みさえする、大衆の卑怯と覗き趣味を満足させる目的が透けて見えます。だが同時に、薄っぺらだが大衆の心の闇をスクリーンに投影した、という意味では逆説的ながら「ボヘミアン・ラプソディ」は深刻でさえあるのです。

批判者は大衆のゲスぶりを指弾し、それに媚びる映画制作者らの手法もまた糾弾します。だが大衆の心の闇にこそ人生のエッセンスが詰まっています。それが涙であり、笑いであり、怒りであり、憎しみであり、喜びなのです。そこを突く映画こそ優れた映画です。

「ボヘミアン・ラプソディ」はクイーンや主人公のフレディのドキュメンタリーではなく、飽くまでもフィクションです。実際のグループや歌手と比較して似ていないとか、嘘だとか、リアリティーに欠ける、などと批判するのは馬鹿げています。

それほど事実がほしいのなら批判者らは、「ボヘミアン・ラプソディ」ではなくクイーンのドキュメンタリー映像を見ればいいのです。またどうしても社会問題や心理描写がほしいのなら、映画など観ずに本を読めばいいのです。

映画館に出向いて、暗い顔で眉をひそめつつ考えに浸りたい者などいません。エンターテインメント映画を観て主人公の内面の深さに感動したい者などいません。「ボヘミアン・ラプソディ」にはそうした切実なテーマがないから楽しいのです。

それでも、先に言及したように、主人公と父親の間の相克や、エイズや、麻薬などの社会問題や背景などの「痛切」も、実は映画の中には提示されてはいます。だがそれらは映画の「娯楽性」に幅を持たせるために挿入された要素なのであって、メインのテーマではありません。

深刻なそれらの要素をメインに取り上げるならば、それは別の映画でなされなければなりません。そしてそれらがメインテーマになるような映画は、もはや「ボヘミアン・ラプソディ」ではありません。誰も観ない、重い退屈な作品になるのがオチです。

主人公の内面を掘り下げろとか、政治状況を扱えとか、人物のリアリティーやドラマの緻密な展開を見たい、などと陳腐きわまる難癖をつける評論家は悲しい。そうした評論がもたらしたのが、映画の凋落です。言葉を替えれば映画は、大衆を置き去りにするそれらの馬鹿げた理論を追いかけたせいで、衰退し崩落していきました。

2018年、「ボヘミアン・ラプソディ」は世界中の映画ファンを熱狂させました。観客の圧倒的な支持とは裏腹の反「ボヘミアン・ラプソディ」評論は、映画を知的営為の産物とのみ捉える俗物らの咆哮でした。映画は知的営為の産物ではありますが、それを娯楽に仕立て上げることこそが創造でありアートです。大衆がそっぽを向く映画には感性も創造性も芸術性もありません。

そこには芸術を装った退屈で傲岸で無内容の「ゲージュツ」があるのみです。「ボヘミアン・ラプソディ」が2018年には映画館で、また翌年の2019年には英国の家庭で圧倒的な支持を受けたのは、それが観客を楽しませ感動させる優れた映画であることの何よりの証しなのです。

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英国解体のシナリオ

英国下院は12月20日、欧州連合(EU)からの離脱協定法案を賛成多数で可決しました。法案はクリスマス休暇後の2020年1月7日から3日間にわたって審議される予定です。ボリス・ジョンソン首相は「法案は離脱に関するあらゆる遅れも容認しない。英国は2020年1月31日に確実にEUから去る」と表明しました。

去った12月月12日、Brexit(英国のEU離脱 )を争点にして行われた英総選挙で、離脱を主張するジョンソン首相率いる保守党が圧勝し同国のEU離脱がほぼ確定しました。周知のようにBrexitは2016年、その是非を問う国民投票によって決定していましたが、議会の承認が得られないために実行できず、紆余曲折を繰り返しました。

国民投票で民意を離脱へと先導したのは、「英国のEUからの独立」を旗じるしの一つにして愛国心に訴えるナショナリストやポピュリスト、あるいは排外差別主義者らでした。折しもそれは米大統領選でドナルド・トランプ共和党候補が、差別や憎しみや不寛容や偏見を隠さずに、汚い言葉を使って口に出しても構わないと考え、そのように選挙運動を展開して米国民のおよそ半数の共感を獲得しつつある時期に重なっていました。

トランプ候補は英国世論の右傾化の援護風も少なからず受けて当選。その出来事は、ひるがえって、台頭しつつあった欧州の極右勢力を活気づけました。翌2017年にはフランス極右のマリーヌ・ルペン氏があわやフランス大統領に当選かというところまで躍進しました。それを受けるようにドイツでも同年、極右政党の「ドイツのための選択肢」が飛躍して一気に議会第3党になりました。そうした風潮の中でオランダ、オーストリア、ギリシャ等々でも極右勢力が支持を伸ばし続けました。

そして2018年、ついにここイタリアで極右政党の同盟が左派ポピュリストの五つ星運動と共に政権を掌握しました。欧米におけるそれらの政治潮流は、目に見える形でもまた水面下でも、全てつながっています。あえて言えば、世界から極右に近いナショナリストで歴史修正主義者、と見られている安倍首相率いる日本の現政権もその流れの中にあります。

かつて欧州は各国間で血まみれの闘争や戦争を繰り返しました。だが加盟各国が経済的な利害を共有するEUという仕組みを構築することで、対話と開明と寛容に裏打ちされた平和主義と民主主義を獲得しました。経済共同体として出発したEUは、今や加盟国間の経済のみならず政治、社会、文化などの面でも密接に絡み合って、究極の「戦争回避装置」という役割まで担うようになっています。

しかしながらEUの結束は、2009年に始まった欧州ソブリン(債務)危機、2015年にピークを迎えた難民問題、2016年のBrexit国民投票騒動等々で大幅に乱れてきました。同時にEU域内には前述のように極右勢力が台頭して、欧州の核である民主主義や自由や寛容や平和主義の精神が貶められかねない状況が生まれました。

EUは自らの内に巣食う極右勢力と対峙しつつ米トランプ政権に対抗し、ロシアと中国の勢力拡大にも目を配っていかなければなりません。内外に難問を抱えて呻吟 しているEUの最大の課題はしかし、失われつつある加盟国間の連帯意識の再構築です。それがあればこそ難問の数々にも対応できます。そのEUにとっては連合内の主要国である英国が抜けるBrexitは大きな痛手です。

英国自身はBrexitでEUから去っても、政治・経済・社会・文化の成熟した世界一の「民主主義大国」として、あらゆる面でうまくやっていくでしょう。離脱後しばらくの間は、自由貿易協定を巡ってのEUとの厳しい交渉や、混乱や不利益や停滞も必ずあるでしょうが、それらは英国の自主独立を妨げることはありません。

EU域内の人々の目には、英国の自主独立の精神がかつての大英帝国の夢の残滓がからみついた驕(おご)り、と映ってしまうことがよくあります。そこには真実のかけらがあります。だが、その負のレガシーはさて置き、英国民の「我が道を行く」という自恃の精神は本物でありすばらしい。その英国民の選択は尊重されるべきものです。

そうはいうものの独立独歩の英国には、力強さと共に不安で心もとない側面もあります。その最たるものが連合王国としての国の結束の行く末です。英国は周知のようにイングランド、ウェールズ、スコットランド、北アイルランド から成る連合王国ですが、Brexitによって連合の堅実性が怪しくなってきました。スコットランドと北アイルランドに確執の火種がくすぶっているのです。

特にスコットランドは、かねてから独立志向が強いところへもってきて、住民の多くがBrexitに激しく反発しています。スコットランドは今後は、EUへの独自参加を模索すると同時に、独立へ向けての運動を活発化させる可能性があります。北アイルランドも同じです。英国はもしかすると、EUからの離脱を機に分裂崩壊へと向かい、2地域が独立国としてEUに加盟する日が来るかもしれません。

Brexitを主導したボリス・ジョンソン首相が、連合王国をまとめていけるかどうかは大いなる疑問です。総選挙のキャンペーンで明らかになったように、彼はどちらかと言えば分断を煽ることで政治力を発揮する独断専行型の政治家です。Brexitのように2分化された民意が正面からぶつかる政治状況では、独断専行が図に当たれば今回の総選挙のように大きな勝ちを収めることができます。

言葉を変えれば、2分化した民意の一方をけしかけて、さらに分断を鼓舞して勝ち馬に乗るのです。その手法は融和団結とは真逆のコンセプトです。総選挙前までのそうしたジョンソン首相の在り方のままなら、彼の求心力は長くはもたないと考えるのが常識的ではないでしょうか。彼が今後、連合王国を束ねることができる、と見るのは難しいと思います。

英連合王国はもしかすると、繰り返しになりますが、Brexitを機に分裂解体へと向かい、ジョンソン首相は英連合王国を崩壊させた同国最後の総理大臣として歴史に名を刻まれるかもしれません。だが逆に彼は、Brexitを熱狂的に援護するコアな支持者を基盤に連合王国の結束を守りきるのかもしれない。米トランプ大統領が、多くの 瑕疵 をさらしながらも岩盤支持者に後押しされてうまく政権を運営し、弾劾裁判さえ乗り越えようとしているように。

もしも英連合王国が崩壊するならば、大局的な見地からは歓迎するべきことです。なぜなら少なくともスコットランドと北アイルランドが、将来は独立国としてEUに加盟する可能性が高いからです。2国の参加はEUを強くします。それはEUの体制強化につながります。世界の民主主義にとっては、EU外にある英国よりもEUそのもののの結束と強化の方がはるかに重要ですから、それはブレグジットとは逆に、大いに慶賀するべき未来だと言えるのではないでしょうか。

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教皇さまも「いわんや悪人をや」 とおっしゃったようでメデタイ

ことし11月、ローマ教皇として38年ぶりに日本を訪問したフランシスコ教皇は、恒例のクリスマスイブのミサで「神(つまりイエス・キリスト)は人類のうちの最悪人でさえも愛する」と人々に語りかけました。全世界13億人の信者に向けて開かれるクリスマスのミサは、カトリックの総本山ヴァチカンにあるサン・ピエトロ大聖堂で執り行われます。

その言葉は「全ての人を愛せ」と説いたイエス・キリストの言葉を踏襲し、あらためて確認したものと受け止めるのが普通だろうと思います。ところがイギリスのBBC放送の記者は「このメッセージは、性的虐待などのカトリック教会のスキャンダルに言及したと受け止められる可能性がある」と少し遠回しの言い方で批判しました。

その解釈は多分に政治的なものだと筆者は感じます。BBCの記者は恐らくプロテスタントなんだろうと思います。少なくともカトリックの信者ではない、と断言してもいいのではないでしょうか。彼は教皇のメッセージをカトリック教徒以外の立場から見て、その内容が自己保身的だと感じたのでしょうが、ほとんどこじつけに近い論評です。

ローマ・カトリック教会が、聖職者による性的虐待問題で激震に襲われているのは事実です。またフランシスコ教皇がその問題を深刻に受け止め「断固とした対応をとる」と公言しながらも、世界を十分に納得させるだけの抜本的な改革には未だ至っていないのもまた事実です。しかし彼がローマ教会内の保守派の抵抗に遭いながらも、決然として問題の解決に取り組んでいるのもこれまた否定できません。クリスマスのミサで保身や隠蔽を示唆する法話をした、と捉えるのは余りにも政治的に過ぎる偏狭な見方に思えます。

筆者はキリスト教徒ではありません。キリスト教徒ではないのでむろん教会や教皇を無条件に受容し跪(ひざまず)くカトリック信者でもありません。また、いうまでもなくBBC記者に寄り添うプロテスタントでもありません。それでいながら筆者は、フランシスコ教皇を真摯で愛にあふれた指導者だと考え尊崇しています。しかしそれは彼の地位やローマ教会の権威に恐れをなすからではありません。

筆者はフランシスコ教皇の人となりを敬慕し親しむのです。そしてそこから生まれ出る彼の思想や行動を支持します。筆者のその立場は、例えば先日退位して上皇となった平成の天皇への景仰の心と同じものです。筆者は天皇時代の上皇の、国民への真摯な愛と行動と言葉を敬慕し支持します。それは天皇を天皇であることのみで盲目的に敬う、胡乱蒙昧な情動とは無縁の信条に基づく判断です。

フランシスコ教皇の「最悪人も神に愛される」というメッセージは、先に書いたようにイエス・キリストの教えを踏襲すると同時に、浄土真宗の親鸞聖人が説いた「善人なおもて往生をとぐ、 いわんや悪人をや」の悪人正機説にもよく似ています。もっとも親鸞聖人の言う悪人とは、犯罪者や道徳的悪人などの今の感覚での悪人のことではありません。そこが普通に極悪人を意味する教皇の「悪人」とは違います。

親鸞聖人が言及した悪人とは仏の教えを知らない衆生のことであり、善人とは自らの力で自らを救おうとするいわゆる「自力作善の人」のことです。だが真実は、実は善人も仏の教えを知らない。彼らがそのことを悟るとき、つまり名実ともに悪人になるとき、彼らもまた救われる。だから悪人とはつまり「全ての人」のこと、という解釈もできるような込み入ったコンセプトです。

だがそのような深読みや理屈はさておき、親鸞聖人の教えの根本にあるのは愛と赦しの構えです。全ての人が仏の功徳で救われる。だから仏の教えを信じなさい、と聖人は主張するのです。それはイエスキリストの言う全ての人を愛しなさい、とそっくり同じ概念です。愛があれば憎しみがなくなる、憎しみがなくなるとは「赦し、赦される」ということです。フランシスコ教皇の「最悪人も神に愛される」とは、つまりそういうことではないか。

そのこととは別に、恐らくプロテスタントであろうBBC記者の政治的な解釈には、イギリス的な慢心も混じっているようで興味深いものがあります。筆者は英国の民主主義と、英国民の寛容の精神と開明を愛する者です。だが同時に、同じ英国人の持つ唯我独尊的な思想行動に辟易することがある、とも告白しなければなりません。そこには「赦し」の心が芽生えにくい窮屈があるように思います。

たとえばこういことがありました。2015年、筆者はイベリア半島の英国領・ジブラルタルを旅しました。スペイン領からジブラルタルに入るとき、車列がえんえんと続く渋滞に行き合いました。ところが一車線がはるか向こうまでクリアになっています。一台の車も見えず完全に空き道なのです。状況が分からない筆者はその車線に入って車を走らせました。

ところがしばらく走った先が閉鎖されていて通れません。結局大渋滞中の車線に入らなければならなくなりました。そこでウインカーを出して渋滞車線に割り込もうとすると、各車が一斉にクラクションを鳴らして拒否しました。少し空いた隙間に入ろうとすると車をぶつけるほどの荒々しい動きで空間を詰め、クラクションをさらに激しく鳴らしながらドライバーが窓を開けて罵声を浴びせたりするのです。

筆者の気持ちも顔もマッサオなそんな状態が10分以上も続きました。筆者はついに車を停めて道路に降り立ち「申し訳ない。状況が分からなかった。間違ったのだ。どうか割り込ませて欲しい」などと英語で叫び、頼み込みました。ところがそれにも大ブーイングが起こります。お前は悪いことをした。みんな渋滞の中でじっと待っている。バカヤロー!ルールを守れ!などなどすさまじい非難の嵐です。

筆者はひたすら謝りました。今来た道は戻るに戻れないのですから謝るしかありません。それでも彼らは赦しませんでした。筆者はついに諦めて、反対車線に入るために無理やり車を中央ラインの盛り上がりに乗せました。車はその動きで下部が損傷しました。それでもなんとか車を乗り上げて反対車線に入り、逆走することができました。その間も渋滞車線のドライバーたちは、クラクションを咆哮させて筆者を責め続けていました。

その経験は筆者の気持ちをひどく萎えさせました。学生時代に足掛け5年間住んだこともある英国への筆者の賞賛の思いは、その後も決して変わりません。だが時として原理・原則にこだわりすぎるきらいがある英国人のメンタリティーは、少々つらいものがあると思います。筆者は神かけて誓いますが、ジブラルタルではズルをするつもりで空き車線を走ったのではありません。状況を見極めようとしてそこを行ってみたのです。

いま考えれば、全ての車が渋滞車線にいて空き車線には入ろうとしないのですから、そこを行くのはマズイのだろうという意識が働かなければならない。ところが筆者は旅先にいるという興奮や、ジブラルタルという特殊な邦への強い興味などで頭がいっぱいになっていて、少しもそこに気が回りませんでした。それやこれやで思わず空き車線に入り先を急いでしまったのです。つまり筆者は「間違った」のです。だが苛烈な厳粛主義者の英国人はそれを決して赦そうとはしませんでした。筆者はそこに英国的リゴリズムの危うさを見ます。

「人間は間違いを犯す。間違いを犯したものはその代償を支払うべきであり、また間違いを決して忘れてはならない。だがそれは赦されるべきである」というのが絶対愛と並び立つカトリックの巨大な教義です。9割以上の国民がカトリック教徒とされるイタリア社会が、時としていい加減でだらしないように見えるのは、人々の心と社会の底流にその思想・哲学が滔々と流れているからです。彼らは厳罰よりも慈悲を好み、峻烈な指弾よりも逃げ道を備えたゆるめの罰則を重視します。イタリア社会が時として散漫に見え且つイタリア国民が優しいのはまさにそれが理由です。

筆者は確信を持って言えますが、もしもジブラルタルのようなエピソードがイタリアで発生したなら、筆者は間違いなく人々に赦されていました。先に走って割り込もうとする筆者をイタリア人ドライバーももちろん非難します。だが彼らは「しょうがないな」「Furbo(フルボ:悪賢い)め」などと悪態をつきながらも、車を止めて割り込みをさせてやります。ズルイ奴や悪い奴は腹立たしい。が、その人はもしかすると間違ったのかもしれない、という赦しの気持ちが無意識のうちに彼らの行動を律するのです。英国人にはその柔軟さがない、と筆者は昔からよく感じます。

いや、それは少し違う。英国の国民性と哲学の中にも赦しの要素はもちろんあります。たとえば英国人が好んで言う「There is no law without exception :例外のない法(規則)はない」などがその典型です。だが赦すことに関しては彼らは、例えば未だに武家社会の固陋な厳罰主義の影響下にある、日本人などに比較するとゆるやかではあるものの、全ったき愛や赦しを説くカトリックの教義や哲学に染められているイタリア人に較べた場合には、はるかに狭量だと言わざる得ません。

そのひとつの現われがジブラルタルで筆者が体験したエピソードであり、フランシスコ教皇のクリスマスのメッセージを曲解したBBC記者の言い分だと思います。だがそれは、フランシスコ教皇を支持し敬愛する筆者の、自らの立場に拠るバイアスのかかったポジショントークである可能性ももちろんあります。筆者はそれを否定しませんが、なにごとにつけ剛よりは柔のほうが生きやすく優しい、という考えは誰になにを言われようが今のところは曲げるつもりはありません。

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「クリスマスもどき」もまたクリスマスである

さて、またクリスマスが巡り来て、当たり前の話ながら年末年始がそこまで迫っています。烏兎匆匆。しかしながら一日一生の思いを新たにすれば溜息は出ません。あるいは溜息などに使う時間はありません。

昨年は25年ぶりにクリスマスを含む年末年始を日本で過ごしました。年末年始は日本で日本ふうの形で過ごしたので、こころ穏やかな充実した時間になりました。だが、クリスマスには大きな発見がありました。

つまり、クリスマスを実際に日本で過ごして状況を見聞し雰囲気を感じて、これまで筆者が抱いていた日本のクリスマスに関する思いをあらためて見極め追認した、という意味で結構な驚きであり喜びでもあったのです。

それまでの25年間、イタリアで過ごしたクリスマスでは宗教や信仰や神について考えることがよくありました。考えることが筆者の言動を慎重にし、気分が宗教的な色合いに染められていくように感じました。

それは決して筆者が宗教的な人間だったり信心深い者であることを意味しません。それどころか、筆者はむしろ自らを「仏教系無神論者」と規定するほど俗で不信心な人間です。

しかし筆者は仏陀やキリストや自然を信じています。それらを畏怖すると同時に強い親和も覚えます。ここにイスラム教のムハンマド を入れないのは筆者がイスラム教の教義に無知だからです。

それでも筆者は、イスラム教の教祖のムハンマドは仏陀やキリストや自然(神道&アニミズム)と同格であり、一体の存在であり、ほぼ同じコンセプトだと信じています。

いや、信じているというよりも、一体あるいは同格・同様の存在であることが真実、という類の概念であることを知っています。

ところが、そうやって真剣に思いを巡らし、ある時は懊悩さえするクリスマスが、まさにクリスマスを日本で過ごすことによって、それが極々軽いコンセプトに過ぎないということが分かるのです。

言わずもがなの話ですが、クリスマスは日本人にとって、西洋の祭り以外の何ものでもありません。つまり、それは決して「宗教儀式」ではないのです。従ってそこにはクリスマスに付随する荘厳も真摯もスタイルもありません。

なぜそうなのかといえば、それは日本には一神教の主張する神はいないからです。日本にいるのは八百万の神々であり、キリスト教やイスラム教、あるいはユダヤ教などの「神」は日本に到着すると同時に八百万の神々の一つになります。

言葉を変えれば、一神教の「神」を含むあらゆる”神々”は、全て同級あるいは同等の神としてあまねく存在します。唯一神として他者を否定してそびえたつ「神」は存在しません。

一神教の主張するる「神」、つまり唯一絶対の神は日本にはいない、とはそういう意味です。「神」は神々の一、としてのみ日本での存在を許されるのです。

自らが帰依する神のみならず、他者が崇敬する神々も認め尊重する大半の日本人の宗教心の在り方は、きわめて清高なものです。

だがそれを、「日本人ってすごい」「日本って素晴らし過ぎる」などと 日本人自身が自画自賛する、昨今流行りのコッケイな「集団陶酔シンドローム」に組み込んで語ってはなりません。

それというのも他者を否定するように見える一神教は、その立場をとることによって、他の宗教が獲得できなかった哲学や真理や概念―たとえば絶対の善とか道徳とか愛など―に到達する場合があることもまた真実だからです。

また一神教の立ち位置からは、他宗教もゆるやかに受容する日本人の在り方は無節操且つ精神の欠落を意味するように見え、それは必ずしも誤謬ばかりとは言えないからです。

あらゆる宗教と教義には良し悪しがあり一長一短があります。宗教はその意味で全て同格でありそれぞれの間に優劣は存在しません。自らの神の優位を説く一神教はそこで大きく間違っています。

それでもなお、自らの「神」のみが正しいと主張する一神教も、あらゆる宗教や神々を認め尊重する他の宗教も、そうすることで生き苦しみ悩み恐れる人々を救う限り、全て善であり真理です。

日本人は他者を否定しない仏教や神道やアニミズムを崇めることで自から救われようとします。一神教の信者は、唯一絶対の彼らの「神」を信奉することで「神」に救われ、苦しみから逃れようとします。

日本には一神教の「神」は存在しない。従ってそこから生まれるクリスマスの儀式も実は存在しません。日本人がクリスマスと信じているものは、西洋文明への憧憬と共にわれわれが獲得した「ショーとしてのクリスマス」でありクリスマス祭なのです。

それはきわめて論理的な帰結です。なぜなら宗教としての定式や教義や規律や哲学や典儀を伴わない「宗教儀式」は宗教ではなく、単なる遊びであり祭りでありショーでありエンターテインメントだからです。

それは少しも不愉快なものではありません。日本人はキリスト教の「神」も認めつつ、それに附帯するクリスマスの「娯楽部分」もまた大いに受容して楽しみます。実にしなやかで痛快な心意気ではないでしょうか。

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いまさら聞けないベニス水没の常識

可動式モーゼ堤防

100メートル近い高さがあるベニスのサンマルコ広場の鐘楼の足元には、高潮の潮位を示す掲示版メーターが備えられています。2019年11月12日、メーターは187センチを示しました。史上最悪だった1966年の194センチに次ぐワースト記録です。 

ベニスの高潮は秋から春にかけて起こります。12月の今のこの時期も真っ盛りです。アフリカ・サハラ砂漠生まれの風「シロッコ」がアドリア海に吹き込んで、海面の潮を吹き集めて北のベニス湾に押し込みます。それによって街が浮かぶラグーナと呼ばれる遠浅の海の海面が急上昇して、ベニスを水浸しにするのです。

サハラ砂漠が起源のシロッコは元々は乾いた熱い風ですが、地中海を吹き渡る間に水気を吸って湿ります。熱く湿った風となったシロッコは、アドリア海のみならずイタリア中に吹きまくって環境に多大な影響を与えます。それはヒマラヤ起源の大気流が影響して、日本に梅雨がもたらされるのにも似た自然の大いなるドラマです。

シロッコが高潮をもたらす気象状況は、ベニスの街が誕生した5世紀半ば以来えんえんとつづいてきました。しかし近年は高潮は、洪水と呼ぶほうがふさわしいほど悪化して、被害の拡大がつづいています。災害は一年の半分近い期間に渡って起きますが、特に雨が降りやすい晩秋から冬の初め頃に多発します。

シロッコの被害を別にしてもベニスは水没しつつあります。周知のようにベニスは、遠浅の海に人間が杭を打ち込み石を積みあげて、土地を構築・造成して建物を作っていった街です。そこは海抜1メートルほどの高さしかありません。それにもかかわらずに地下のプレートが毎年数ミリづつ沈下しています。放っておいても数百年もたてば海抜0メートルになる計算です。

それに加えて、地域の工業化に伴って地下水を汲み上げ過ぎたために、人工造成された街の地盤が沈下する悲劇も起きました。現在は少し良くなりましたが、危機的な状況に人々が気づかなかった1950年から70年にかけての20年間だけでも、地盤は12センチも沈降したのです。

元からあるそれらの悪条件に加えて、最近は温暖化による水位の上昇という危難も重なりました。そのためにベニスでは、天為と人為の害悪が重層的に影響し合って地盤沈下が進行し、そこに低気圧や季節風による高潮が襲う、という最悪の構図が固定化してしまったのです。

課題の多いベニスには、ここ数年は中国人観光客が大量に押し寄せて、これまた元からあるオーバーツーリズム問題に拍車がかかりました。そのため彼らのマナーの悪さなどへの批判も重なって、中国人の重さでベニスの沈下速度が加速している、といったデマが流れたりもするほどです。

街では年々悪化する浸水被害を食い止めようとして、多くの対策 が編み出され試行錯誤が繰り返されてきました。その中で究極の解決策と見られたのが、ベニスの周囲に可動式の巨大な堤防を設置して高潮をブロックする計画、いわゆる「モーゼ・プロジェクト」です。

モーゼがヘブライ人を率いてエジプトから脱出した際、海が割れて道ができた、という旧約聖書の一節を模してそう名づけられました。壮大なその計画は、アドリア海からラグーナに入る海流の入り口となる海中の3箇所の自然道に、防潮ゲートを設置するというものです。

堤防は固定式の水門にするとと海流を止めて生態系を壊してしまう危険が高いため、可動式のアイデアが採用されました。1980年代に着想されたプロジェクトは2003年から工事が始まりました。現在までにおよそ7000億円もの巨費が投入されてきています。

計画は国を挙げて進められていますが一向に完成せず、推定されていた16億ユーロの初期費用が膨らみつづけて、55億ユーロ以上(約7000億円)にまで達したのです。この先も予算は際限なく膨張するに違いないという批判も多くあります。

無責任にも見える不手際はそれだけにとどまりません。なんと55億ユーロのうちの20億ユーロが、汚職に使われたと見られているのです。それに関連して、2014年にはベネチア市長を含む35人が贈収賄で逮捕されました。政財界を巻きこんだ醜聞は後を絶ちません。

「モーゼ・プロジェクト」の完成は当初2014年とされていましたが、それは2016年に延び、さらにほぼ2年ごとに延長されつづけています。現在は2021~22年の完成予定とされていますが、それを信じる者は文字通り誰もいません。

「モーゼ・プロジェクト」の混乱と、年々悪化する高潮被害を受けて、ベニス救済へ向けたあらたなアイデアも生まれています。その中でもっとも注目されているのが、「水には水を」のコンセプトで推進されている「地盤への海水注入作戦」です。

作戦ではベニスに直径10キロの円を描く12本の井戸を掘って、何年もかけて膨大な量の海水を地下に注入します。すると海水を注ぎ込まれた地層が膨張し隆起して、地盤沈下の進行が止まる、というものです。

ベニス近くのパドバ大学の教授が提案したそのアイデアは、「モーゼ・プロジェクト」よりもはるかに低いコストで実行することができ、成功した場合は「モーゼ・プロジェクト」と併用するか、あるいは「モーゼ・プロジェクト」そのものが不要になる可能性も秘めています。

そうなれば7000億円以上もの無駄が生じることになります。しかし、人類の宝である唯一無二の美しい街ベニスを本当に救うことができるならば、海水注入計画にさらなる費用がかかっても、十分におつりがくるのではないでしょうか。


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英総選挙、ドンデン返しの読み方

選挙結果を予測するのは、(立候補した)当事者か投資家でもない限り無意味です。なぜなら、選挙はフタをあけてみるまで分からない、という古すぎると言うさえばかばかしいほどの箴言が常に正しいからです。投資家だけはボロ儲けを狙って、魑魅魍魎が横行する選挙後の金融投機市場に資金を注ぎ込もうとしますから死に物狂いで結果予測を試みます。

しかし、机上論者の経済学者らが、現実の市場経済の動向や実体を「理路整然と」間違うことが多いように、投資家たちも選挙という魔物の正体に惑わされてしばしば大損をこうむります。要するに選挙とは、結果を測ることが至難の、だが結果を予測することが選挙自体よりも得てして魅力的な、人間の不思議な発明の一つです。

筆者はそこかしこで表白しているように、Brexitの行方を十中八九決定するであろうイギリスの総選挙の様子を真剣に見守っている「反Brexit主義者で英国ファン」の男です。Brexitを巡る自身の政治的立ち位置については前回エントリーでも既に述べました。

世論調査によれば、Brexitの実行、というよりも「強行」を叫ぶジョンソン首相率いる保守党が、最大野党の労働党を10%前後リードしていて、もはや選挙戦の勝敗は決したという状況です。筆者はこの直前記事ではそのことを踏まえて、投票日までに情勢が劇的に変わらなければ 、英国は離脱期限である1月31日さえ待たずにEUから離脱する可能性もある、と書きました。

白状すれば実はそれは、強い反Brexit 主義者である筆者の願いとゲンかつぎに基づく表現でした。つまり、Brexitはもはや成った、と信じる振りで書くほうが逆の結果をもたらす、と姑息に考えたのです。だがそれはあまりにも子供じみた願いだと気づきました。そこで選挙結果が出る前に、下手な評者 としての少しの論理的思い、また惑いなどを表明しておくことにしました。

Brexit強行派のジョンソン首相率いる保守党の優位は変わらず、投票2日前の12月10日現在、もはや勝敗の行方ではなく保守党がどれくらいの差で勝利するかが焦点、とさえ考えられています。保守党が大勝した場合は問題なくBrexitに向かい、僅差での勝利の場合のみBrexit見直し論が沸き起こる可能性がある、というのが世論調査に基づく一般的な見方です。

ところがその状況は実際には落とし穴である可能性もあります。2017年、当時のテリーザ・メイ首相はBrexit論争の膠着状態を打開しようとして、世論調査が伝える高い保守党支持率を頼りに解散総選挙に打って出ました。ところが結果は惨敗。彼女は失脚と形容しても過言ではない形で権力の座から去りました。

彼女の前にはデヴィッド・キャメロン首相が、やはり世論調査での高い支持率に裏切られる格好で、Brexitの是非を問う国民投票を敢えて実施し敗北。政権の座を追われました。いや、実のところはキャメロン首相は、無責任にも政権の座を投げ出した、というほうが正確だと思います。

キャメロン元首相の行為は、2016年のイタリアのマテオ・レンツィ元首相の思い上がり国民投票実施や石原慎太郎元東京都知事の尖閣諸島購入計画、あるいは仲井眞弘多元沖縄県知事の辺野古移転容認策などと同様に、後世まで語り継がれ指弾され続けられるべき事案です。

英国の各世論調査は近年、選挙や国民投票の予測で失敗を繰り返し全く信頼に値しない、という見方もあります。だがその傾向はイギリスだけにとどまりません。世論調査が2016年、米大統領選挙でのトランプ氏勝利についても、大失策を演じたのは記憶に新しいところです。

世界中で同様のことが起きていますが、民主主義大国である英国の場合は特に、有権者の動向を予測するのがきわめて難しくなっています。今回の総選挙でもほぼ全ての世論調査が保守党の勝利を見込んでいるものの、実は有権者の半数が投票日まで誰に票を入れるかを決めていない可能性があり、誰がどの程度の差で勝利するかは分からないのが実情です。

英国では投資家などを中心とする人々が、世論調査の不手際をおそれて、人工知能による分析やWEBによる選挙民のムード分析、あるいは既存のブックメーカーの分析予想法などを駆使して、選挙結果を推測しようとする動きまであります。かつては選挙結果を予想する時に参考になったのは、85%までが世論調査の数字だったのですが、現在では30%以下だとさえ言われます。

つまり、ジョンソン首相と保守党の勝利を一様に予測している各種世論調査の結果は、間違っている可能性があるということです。首相と保守党の敗北とまではいかなくとも、僅差での勝利にとどまるケースも考えられるのです。つまり筆者のポジショントークではなく、選挙後にBrexit見直し論が起こり、ひいてはBrexitが反故になることも依然としてあり得るということです。

Brexitはこの直前の論考で述べた通り、大局的に見て世界のためにならないと思いますが、地域的に見ても、特にジョンソン首相が政権を維持し続けるようなら、英国のために全く良くないと思います。彼は権力の亡者だとされます。自らが首相になりたい一心でBrexitを推進してきたという批判もあります。

しかしながら、政治家である以上は、政界の最高の地位である総理大臣を目指すのは当たり前だと筆者は考えます。そうではない政治家なんてどうせたいしたことはない。それは政権掌握を目指さない政党がフェイクであるのと同様の大いなる欺瞞です。

ジョンソン首相の政治家としての野心は良しとするべきだと思います。しかし彼は人間的に信用できない男、という評価が敵味方にかかわりなくつきまとっています。政治家としては勿論、彼がジャーナリストだった時代でも同じです。宰相になりたいという彼の野心よりもこの悪評のほうがよっぽど深刻ではないでしょうか。

そこを捉えて、BBCの著名なジャーナリストが「信頼」をテーマに、ジョンソン首相への公開質問状をテレビ画面を通して公表しました。そこにはジョンソン首相の嘘で塗り固められた政治主張や言動や行状がこれでもか、とばかりに語られています。

BBCは公開質問状をこう説明しています。「これはわれわれが視聴者の代わりに、政権を握るかもしれない人を詰問し、責任を問うものです。それが民主主義です」」と。その説明通り詰問状は、ジョンション首相が所属する保守党以外の全ての党の党首にも投げかけられ回答を得ました。ところがジョンソン首相だけはそれに答えずに逃げ回っているのです。

ジョンソン首相は、Brexitを推進した「Brexit党」党首のナイジェルファラージ氏と同じトランプ主義者です。トランプ主義者とは反移民、人種差別、宗教差別などを旗印にして、「差別や憎しみや不寛容や偏見を隠さずに、汚い言葉を使って口に出しても構わない」と考え、そのように行動する人々ことです。また言葉や行動にはしなくてもその思いを秘めている人々も同じです。

ジョンソン氏は従って、誇り高き民主主義大国・英国の首相にはふさわしくない、と筆者は考えます。Brexitが帳消しになればジョンソン氏の首相職も同じ道をたどることになるでしょう。その意味でもやはり筆者は、英国の総選挙の結果がサプライズになることを願わずにはいられないのです。

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何度でも、繰り返し、なぜBREXITは NGかを語ろう

来たる12月12日のイギリスの総選挙を経て、同国のEU(欧州連合)離脱つまりBrexitが完遂されそうな状況です。それはとても残念なことだと腹から思います。

BrexitでイギリスがEUを離脱しても、EU加盟国の国民ではない筆者は直接の不利益は受けません。なぜなら筆者はEU在住者ではありますが、イタリア人ではなく日本人だからです。

イタリア人の場合、英国へ渡航するのにパスポートが必要になったり、同国で自由に職に就けなくなったり、保険が使えなくなったり、税金が高くなったり等々のさまざまな不都合が生じます。

イタリアの永住権はあるもののイタリア国籍を持たない筆者は、英国がEUから離脱しても「EU国民」であるイタリア人のような実害はこうむらないのです。

ただし恩恵も一切受けません。筆者と英国との関係は、筆者が日本に住んでいてもイタリアにいても何も変わりません。彼の国に渡るには常にパスポートが必要ですし就職は「EU外人」として大きく制限されます。

その他のすべてのケースでも、筆者は日本在住の日本人が英国に旅する場合とそっくり同じ待遇しか受けられません。離脱しなくても同様です。その意味ではBrexitなんて筆者にとってはどうでもいいことです。

それでも筆者はBrexitに強く反対します。なぜでしょうか。それは強いEUが世界の民主主義と平和と自由と人権等々にとってきわめて重要だからです。英国が離脱すればEUの力が弱くなります。それがBrexitに反対する第一の理由です。

世界には現在、排外差別主義者のトランプ米大統領と彼に追従するミニ・トランプ主義者が権力を持つ国々が跋扈しています。当の米国を筆頭に、中国、ロシア、ブラジル、中東各国、南米、また英国内の急進Brexit勢力、日本の安倍政権などもどちらかといえば残念ながらそうです。

反移民、人種差別、宗教差別などを旗印にして、「差別や憎しみや不寛容や偏見を隠さずに、汚い言葉を使って口に出しても構わない」と考え、そのように行動するトランプ大統領以下の反動勢力に対抗できる最大の力がEUです。

EUの結束は、2009年に始まった欧州ソブリン危機、2015年にピークを迎えた難民問題、2016年のBrexit決定などで、大幅に乱れてきました。同時にEU参加国の間には極右政党や極左勢力が台頭して、欧州の核である民主主義や自由や寛容や平和主義の精神が貶められかねない状況が生まれました。

そうした中でEUは、トランプ政権に対抗しながらロシアと中国の勢力拡大にも目を配らなければなりません。独裁者のプーチンと習近平が率いる変形共産主義の2大国は、EUおよび欧州にとっては、ほぼ永遠に警戒監視しながら同時に協調の道も探らなければならない厄介な相手です。

内外に難問を抱えて正念場に立たされているEUは、連帯意識を再構築し団結して、事態に対面していかなければなりません。 そのEUにとっては連合内の主要国である英国が抜けるBrexit騒動は、大きなマイナスにこそなれ決してプラスではあり得ません。

EUは強い戦争抑止力を持つメカニズムでもあります。かつて欧州は、各国家間で血まみれの闘争やいがみ合いや戦争を繰り返してきました。しかし参加各国が経済的な利害を共有する「EUという仕組み」を構築することで、対話と開明と寛容に裏打ちされた平和主義と民主主義を獲得しました。

EUは経済共同体として出発しました。しかし、いまや加盟国間の経済の結びつきだけではなく、社会、政治、文化の面でも密接に絡み合って、究極の戦争回避装置という役割を担うまでになったのです。英国がその枠組みからはずれるのは将来に禍根を残す可能性が高い。

将来への禍根という意味では、Brexitは当の英国を含むEUの若者にも大きな損害を与えることが確実です。最大最悪の損失は、英国の若者がEU域内の若者と自由に行き来して、意見交換をし刺激し合い共に成長することがほぼ不可能になることです。

大学をはじめとする教育機関のあいだの闊達な交流もなくなり、仕事環境もEU全体から狭い英国内へと極端に萎縮するでしょう。それはEU域の若者にとっても大きな損失です。彼らも英国に自由に渡れなくなり視野の拡大や成長や協力ができなくなるからです。

3年前の国民投票でBrexitに賛成票を入れたのは、若者ではなく大人、それもより高齢の国民が多かったことが知られています。Brexitには、ジコチュー且つ視野狭窄のジジババらが極右勢力やトランプ主義者に加担して、英国のひいてはEUの若者の未来を奪った、という側面もあるのです。

それやこれやで、Brexitの行方をおそらく9割方決定するであろう12月12日のイギリス総選挙の動きをとても気にしています。EU信奉者で英国ファンの筆者は、Brexitが反故になることを依然として期待していますが見通しは暗い、といわざるを得ません。

Brexitを主導したナイジェル・ファラージ氏率いるその名も「Brexit党」が、与党・保守党が議席を持つ300余の選挙区に立候補者を立てないと決めたからです。

保守党は選挙戦の初めから世論調査で大きくリードしていますが、「Brexit党」の決定で同党の優勢がますます固まり、選挙後にBrexitが実行される可能性が高まりました。

保守党の候補者のほとんどは、ジョンソン首相がEUとのあいだでまとめた離脱案を支持しています。投票日までに情勢が劇的に変わらなければ、新たに成立する議会で離脱案が承認され、英国は離脱期限である1月31日さえ待たずにEUから離脱するかもしれません。

ナイジェル・ファラージ氏は、米トランプ大統領やマテオ・サルヴィーニ・イタリア同盟党首またマリーヌ・ルペン・フランス連合党首などと親和的な政治信条を抱く、政治的臭覚の鋭いハゲタカ・ポピュリストです。

彼は2016年の国民投票の際、架空数字や過大表現また故意の間違いなど、捏造にも近い情報を拡散する手法をふんだんに使って、人々をミスリードしたと非難されることも多々あります。

だが筆者は、Brexitの是非を問う国民投票を攪乱して、僅差ながら離脱賛成の結果を招き寄せた彼の政治手腕には脱帽した、と告白せざるを得ません。

国民投票では、事態の真の意味を理解しないまま、多くの国民がファラージ氏に代表されるポピュリストらに乗せられて離脱賛成票を投じてしまった、とされます。

だが彼らが離脱賛成に回ったのは、増え続ける移民への怒り、あらゆるものに規制をかけるEU官僚への反感、EUへの拠出金が多過ぎるという不公平感なども理由に挙げることができます。

そればかりではありません。英国民の多くが、EUに奪われた主権を取り戻す、という高揚感に我を忘れたこともまた事実でした。そこには大英帝国の亡霊に幻惑されて、いつもかすかに 驕傲に流れてしまう民心、という英国独特の悲劇があります。

EU離脱による英国の利益は、ファラージ氏やジョンソン首相など離脱急進派が主張するほどの規模にはならないないでしょう。なぜなら離脱でこうむる損失のほうがあまりにも大きすぎるからだです。

筆者個人への直接的な損害はもたらさないものの、英国のためにならず、EUのためにも、また決して世界のためにもならないBrexitに筆者は反対します。

なぜならつまるところそれは、巡りめぐって結局筆者個人にもまた故国日本にも大きな不利益をもたらす、きわめて重大な政治的動乱だと考えるからです。



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日伊さかな料理談義

「世界には3大料理がある。フランス料理、中華料理、そしてイタリア料理である。その3大料理の中で一番おいしいのは日本料理だ」

これは筆者がイタリアの友人たちを相手に良く口にするジョークです。半分は本気でもあるそのジョークのあとには、筆者はかならず少し大げさな次の一言もつけ加えます。

「日本人は魚のことを良く知っているが肉のことはほとんど知らない。逆にイタリア人は肉を誰よりも良く知っているが、魚については日本料理における肉料理程度にしか知らない。つまりゼロだ」

3大料理のジョークには笑っていた友人たちも、イタリア人は魚を知らない、と筆者が断言したとたんに口角沫を飛ばして反論を始めます。でも筆者は引き下がりません。

スパゲティなどのパスタ料理にからめた魚介類のおいしさは間違いなくイタメシが世界一であり、その種類は肉料理の豊富さにも匹敵します。

しかしそれを別にすれば、イタリア料理における魚は肉に比べるとはるかに貧しい。料理法が単純なのでです。

この国の魚料理の基本は、大ざっぱに言って、フライかオーブン焼きかボイルと相場が決まっています。海際の地方に行くと目先を変えた魚料理に出会うこともあります。それでも基本的な作り方は前述の三つの域を出ませんから、やはりどうしても単調な味になります。

一度食べる分にはそれで構いません。素材は日本と同じように新鮮ですから味はとても豊かです。しかし二度三度とつづけて食べると飽きがきます。何しろもっとも活きのいい高級魚はボイルにする、というのがイタリア人の一般的な考え方です。

家庭料理、特に上流階級の伝統的な家庭レシピなどの場合はそうです。ボイルと言えば聞こえはいいが、要するに熱湯でゆでるだけの話です。刺身や煮物やたたきや天ぷらや汁物などにする発想がほとんどないのです。

最近は日本食の影響で、刺身やそれに近いマリネなどの鮮魚料理、またそれらにクリームやヨーグルトやマヨネーズなどを絡ませた珍奇な“造り”系料理も増えてはいます。だがそれらはいわば発展途上のレシピであって、名実ともにイタメシになっているとは言い難い。

筆者は友人らと日伊双方の料理の素材や、調理法や、盛り付けや、味覚などにはじまる様々な要素をよく議論します。そのとき、魚に関してはたいてい筆者に言い負かされる友人らがくやしまぎれに悪態をつきます。

「そうは言っても日本料理における最高の魚料理はサシミというじゃないか。あれは生魚だ。生の魚肉を食べるのは魚を知らないからだ。」

それには筆者はこう反論します。

「日本料理に生魚は存在しない。イタリアのことは知らないが、日本では生魚を食べるのは猫と相場が決まっている。人間が食べるのはサシミだけだ。サシミは漢字で書くと刺身と表記する(筆者はここで実際に漢字を紙に書いて友人らに見せます)。刺身とは刺刀(さしがたな)で身を刺し通したものという意味だ。つまり“包丁(刺刀)で調理された魚”が刺身なのだ。ただの生魚とはわけが違う」

と煙(けむ)に巻いておいて、筆者はさらに言います。

「イタリア人が魚を知らないというのは調理法が単純で刺身やたたきを知らないというだけじゃないね。イタリア料理では魚の頭や皮を全て捨ててしまう。もったいないというよりも僕はあきれて悲しくなる。魚は頭と皮が一番おいしいんだ。特に煮付けなどにすれば最高だ。

たしかに魚の頭は食べづらいし、それを食べるときの人の姿もあまり美しいとは言えない。なにしろ脳ミソとか目玉をずるずるとすすって食べるからね。要するに君らが牛や豚の脳ミソを美味しいおいしい、といって食べまくるのと同じさ。

あ、それからイタリア人は ― というか、西洋人は皆そうだが ― 魚も貝もイカもエビもタコも何もかもひっくるめて、よく“魚”という言い方をするだろう? これも僕に言わせると魚介類との付き合いが浅いことからくる乱暴な言葉だ。魚と貝はまるで違うものだ。イカやエビやタコもそうだ。なんでもかんでもひっくるめて“魚”と言ってしまうようじゃ料理法にもおのずと限界が出てくるというものさ」 

筆者は最後にたたみかけます。

「イタリアには釣り人口が少ない。せいぜい百万人から多く見つもっても2百万人と言われる。日本には逆に少なく見つもっても2千万人の釣り愛好家がいるとされる。この事実も両国民の魚への理解度を知る一つの指標になる。

なぜかというと、釣り愛好家というのは魚料理のグルメである場合が多い。彼らは「スポーツや趣味として釣りを楽しんでいます」という顔をしているが、実は釣った魚を食べたい一心で海や川に繰り出すのだ。釣った魚を自分でさばき、自分の好きなように料理をして食う。この行為によって彼らは魚に対する理解度を深め、理解度が深まるにつれて舌が肥えていく。つまり究極の魚料理のグルメになって行くんだ。

ところが話はそれだけでは済まない。一人ひとりがグルメである釣り師のまわりには、少なくとも 10人の「連れグルメ」の輪ができると考えられる。釣り人の家族はもちろん、友人知人や時には隣近所の人たちが、釣ってきた魚のおすそ分けにあずかって、釣り師と同じグルメになるという寸法さ。

これを単純に計算すると、それだけで日本には2億人の魚料理のグルメがいることになる。これは日本の人口より多い数字だよ。ところがイタリアはたったの1千万から2千万人。人口の1/6から1/3だ。これだけを見ても、魚や魚料理に対する日本人とイタリア人の理解度には、おのずと大差が出てくるというものだ」

友人たちは筆者のはったり交じりの論法にあきれて、皆一様に黙っています。釣りどころか、魚を食べるのも週に一度あるかないかという生活がほとんどである彼らにとっては、「魚料理は日本食が世界一」と思い込んでいる元“釣りキチ”の筆者の主張は、かなり不可解なものに映るようです。

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愛憎・首里城・物語り

首里城が焼け落ちてしまいました。残念で悲しいことです。それが沖縄のシンボルだからではありません。それが日本の数少ない多様性の象徴的な存在だからです。

同城は過去に何度も焼失し、その度に復元されてきました。今回は5度目の被災ですが、近い将来また復元されるであろうことを前提に少し考えてみました。

首里城は1429年から1879年までの450年間、独立国として存在した琉球王国の王家の居城であると同時に、王国統治の行政機関だった「首里王府」の本部があった場所です。

日本国の外にあった琉球王国のシンボルであり、1879年の琉球処分以降は、沖縄県のシンボルとして見なされることが多い建物。筆者はそれを王国消滅後の 沖縄がたどった「数奇な運命 の化身」と規定しています。

だが筆者はまた首里城を、冒頭で言及したように、沖縄一県の表象ではなく日本文化の 数少ない 多様性を体現する重要かつ象徴的な存在だとも考えています。だからこそその焼失がことさらに残念で悲しいのです。

琉球王国は人口17万人程度のミニチュア国家でした。それでいながら東シナ海を縦横に行き交う船団を繰り出して中継貿易を展開。大いに繁栄しました。

ちなみに「琉球王国」というのは、沖縄の本土復帰後の初代県知事だった屋良朝苗が、主に観光誘致を目指して発明・普及させた俗称で、正式名は「琉球国」です。ここでは両者を併用します。

琉球国は、同国から見れば幕藩体制下の大国・日本の鎖国政策と、さらなる巨大国家・中国の海禁政策の間隙を縫って交易範囲を東南アジアにまで広げ、マラッカ王国と深い関係を結んだりもしました。

17世紀に薩摩藩の支配下に入った琉球国は 、同時に中国(清)の冊封下にも組み込まれる体制になりましたが、依然として独立した王国として存在しつづけました。

もとより王国は、取るに足らない小国に過ぎませんでした。しかしそこは、琉球王国から琉球藩となりさらに沖縄県となっても、日本国の中で異彩を放ちつづけました。

異彩の正体は独自の文化です。明治維新後の沖縄は琉球王国というミニ国家が育んだ文化をまとっているために、日本国の中で疎外され差別さえ受けました。

その疎外と差別の残滓は21世紀の今も存在し、特に過重な米軍基地負担の形などになって歴然と生きつづけている、と筆者は考えています。

世界中に文字通り無数にある文化は、その一つ一つが「他とは違う」特殊なものです。そして全ての文化間に優劣はありません。ただ「違い」があるだけです。

同時に文化は多くの場合は閉鎖的でもあり、時にはその文化圏外の人間には理解不可能な怖いものでさえあります。

そして人がある一つの文化を怖いと感じるのは、その人が対象になっている文化を知らないか、理解しようとしないか、あるいは理解できないからです。

つまりこの場合は無知が差別の動機です。ある文化に属する人々は、無知ゆえに他文化に属する人々を差別し、差別する人々は別の機会には同じ動機か、あるいは別の要因で必ず他者に差別されます。

愚かな差別者と被差別者は往々にして目くそ鼻くそです。沖縄を差別する日本人はどこかでその画一性や没個性性を差別され、差別された沖縄の人々もまた必ずどこかで誰かを差別します。

他とは違う、という特殊性こそがそれぞれの文化の侵しがたい価値です。言葉を変えれば特殊であることが文化の命なのです。普遍性が命である文明とはそこが違います。

ところが特殊であること自体が命である文化は、まさにその特殊性ゆえに、既述のように偏見や恐怖や差別さえ招く運命にあります。明治維新後の沖縄の文化がまさにそれでした。

一方、琉球国以外の全国の約260藩は、明治維新政府の誘導の元に天皇の臣民として同一化され没個性的になっていきました。

幕藩体制下では各藩を自国と信じていた人々が、西洋列強に追いつきたい明治政府の思惑に旨く誘導されて、「統一日本人オンリー」へと意識改革をさせられて均質化していったのです。 
統一日本国の一部となった沖縄県ももちろん同じでした。しかし同地はその文化のユニークさゆえに、均等性がレゾンデートルだった明治日本全体の中で異端視されつづけます。

その事実は沖縄の人心の反発を招き、沖縄県では他府県同様の統一日本人意識の確立と共に、琉球国への懐古感覚に基づく「沖縄人」意識も醸成され深く根を張っていくことになります。

日本人意識と沖縄人意識が同居する沖縄県民のあり方は、実は世界ではありふれたことです。特に筆者が住むイタリアなどはその典型です。

イタリア人は自らが生まれ住む街や地域をアイデンティティーの根幹 に置いています。具体的に言えば、イタリア人はイタリア人である前に先ずローマ人であり、ナポリ人であり、ベニス人なのです。

イタリア人の強烈な地域独立(国)意識は、かつてこの国が細かく分断されて、それぞれの地方が独立国家だった歴史の記憶によっています。

日本もかつては各地域が独立国のようなものでした。幕藩体制化でも各藩はそれぞれ独立国とまでは言えなくとも、藩民、特に藩士らの意識は独立国の国民に近いものでした。

それが明治維新政府の強烈な同一化政策によって、各藩の住民は既述のように日本人としてまとまり、「統一日本人」の鋳型にすっぽりとはめ込まれていきました。

沖縄県も間違いなくその一部です。同時に沖縄県は、歴史の屈折と文化の独自性のおかげで、日本国内でほぼ唯一の多様性を体現する地域となり現在に至っています。

日本の多様性を象徴的に体現しているその沖縄県の、さらなる象徴が首里城なのです。その首里城が火事でほぼ完全消滅したのは沖縄県のみならず日本国の大きな損失です。

さて、

歴史的、文化的、そしてなによりも政治的な存在としての首里城を礼讚する筆者は、同時に首里城の芸術的価値という観点からはそれに強い違和感も持っています。

筆者は首里城の芸術的価値に関してはひどく懐疑的なのです。遠景はそれなりに美しいと思いますが、近景から細部は極彩色に塗りこめられた騒々しい装飾の集合体で、あまり洗練されていない、と感じます。

“首里城は巨大な琉球漆器”という形容があります。言い得て妙だと思います。首里城には琉球漆器の泥くささ野暮ったさがふんだんに織り込まれています。

泥くささや野暮ったさが「趣」という考え方ももちろんあります。ただそれは「素朴」の代替語としての泥くささであり野暮ったさです。極彩色の首里城の装飾には当てはまらない、と思うのです。

色は光です。沖縄の強烈な陽光が首里城の破天荒な原色をつくり出す、と考えることもできます。建物の極彩色の意匠は光まぶしい沖縄にあってはごく自然なことです。

しかし、原色はそこにそのまま投げ出されているだけでは、ただ粗陋でうっとうしいだけの原始の色であり、未開の光芒の表出に過ぎません。

美意識と感性を併せ持つ者は、原始の色をそれらの力によって作り変え、向上させ繊細を加えて「表現」しなければなりません。

筆者は今イタリアに住んでいます。イタリアの夏の陽光は鮮烈です。めくるめく地中海の光の下には沖縄によく似た原色があふれています。

ところがここでは原色が原始のままで投げ出されていることはほとんどありません。さまざまな用途に使われる原色は人が手を加えて作り変えた色です。

あるいは作り変えようとする意思がはっきりと見える原色です。その意思をセンスといいます。センスがあるかないかが、沖縄の原色とイタリアの原色の分かれ目です。

沖縄に多い原色には良さもないわけではありません。つまり手が加えられていない感じ、自然な感じ、簡素で大らかな感じが沖縄の地の持つ「癒やし」のイメージにもつながります。

首里城の光輝く朱色の華々しい装飾は、見る者を引き付けて止みません。また見れば見るほどそこには味わい深い情緒が増していくようなおもむきもあります。

だがそれは時として、原色のあまりの目覚ましさゆえに、筆者の目にはまたケバい、ダサい、クドいの三拍子がそろった巨大作品に見えないこともありません。

首里城の名誉のために言っておけば、しかし、そうした印象は首里城に限りません。日本の歴史的建築物には、中国の影響の濃い極彩色で大仰な 装飾を施している物が少なくありません。

いくつか例を挙げれば、日光東照宮の陽明門と壁の極彩色の彫刻群や、伏見稲荷と平安神宮の全体の朱色や細部の過剰な色合いの装飾なども、ともすると筆者の目には彩度が高過ぎるというふうに映ります。

いうまでもなくそれらは、 建物がまとっている歴史的また文化的価値の重要性を損なうものではありません。だが歴史的建造物は、そこに高い芸術的要素が加わった際には、さらに輝きを増すこともまた真実なのです。

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