牙を剥かないトランプさんもやっぱり消えてほしい役者に見える

先日、イタリア時間の午前3時に始まったトランプvsハリスの討論会を生中継で観ました。

トランプ候補は、相手や司会者の質問をはぐらかしながら自らの岩盤支持者が聴きたいことだけを集中してわめく、という自身が2016年の大統領選挙で発明した手法にこだわっていました。

だが、ハリス候補がそこに小さな風穴を開けて、トランプ候補を討論の本筋に引っ張りこむ場面があった分だけ、討論はハリス候補の勝ち、というふうに筆者の目には映りました。

トランプ候補は司会者が提示するほぼ全てのテーマで、当初はテーマに沿って話し出すものの、途中で脱線して移民問題を声高に論じることを繰り返しました。

バイデン政権がメキシコ国境から入る多数の移民を受け入れ、それがアメリカを危険に陥れているという、 一貫した主張です。

トランプ候補は排外差別主義者も多い彼の岩盤支持者層が、移民問題をもっとも重要なイシューと捉えることから、話をしつこくそこに持っていこうとするのでした。

彼は反移民感情に支配されるあまり、移民はペットの犬や猫を食べているとさえ発言し、司会者がそれは真実ではないとたしなめる場面もありました。

トランプ候補は移民を憎む彼の支持者の受けを狙って、平気でそうした下劣な発言をすることがしばしばです。

2016年の選挙戦以来続く憎しみを煽る彼のレトリックは、アメリカ国民の半数にとってはもはや恥ずべきことなどではなく、ごく当たり前の手法になってしまいました。

程度が低いと形容することさえはばかられるような、醜い主張を平然と口にできる男が、かつてアメリカ大統領であり、かつ再び大統領になろうとやっきになっている現実は見苦しい。

筆者は、日本で同時進行している自民党の総裁選挙において、高市早苗氏だけは断じて総裁に選ばれてはならないと考える者です。それと同様にトランプ候補もけっして再び大統領にしてはならない、と腹から思います。

しかしアメリカ国民の少なくとも3割強は、トランプ候補と同じことを信じ込み、選挙になると彼らに同調する者が増えて、結果投票者のおよそ半分がトランプ主義者へと変貌することが明らかになっています。

そういう状況を踏まえれば、討論会でやや優勢だったハリス候補が最終的に勝利を収めるがどうかは、全く予断を許しません。

その根拠となるもう一つの要素を指摘しておきます。

トランプ候補は過去の討論会では、相手への憎悪や怒りや悪口を狂犬のように吼えたてることも辞さなかった。

むしろその方法で隠れトランプ支持者とも呼ばれたネトウヨヘイト系差別排外主義者に近い人々を鼓舞して、彼らが闇から出て名乗りを上げるように仕向けました。

それは社会現象となり、彼らが団結してトランプ候補を第45代アメリカ合衆国大統領に押し上げた、と表現しても過言ではない状況になりました。

それらのいわゆる岩盤支持者は今も変わらずにそこにいます。だが一方で、差別や憎しみや怒りを露わに他者を攻撃しても構わないという彼の行動規範は、多くの人々の反感も買っています。

トランプ候補は無党派層を始めとするそれらの反トランプ派の票を意識して、今回の討論会では汚い言葉や激しい表現で相手を罵倒するのを控えて「紳士」を装ったふしもあります。

そして反トランプとまではいかなくとも、トランプ候補を支持するかどうか迷っている人々が、彼の「少しまともな」言動に好感を抱いて支持に回ることも十分にあり得ます。

それは少数の有権者かもしれませんが、あらゆる統計で僅差のレースが確実視されている厳しい戦いでは、そのわずかな数の票が決定的な影響を持つこともまた十分に考えられます。

結果11月の選挙の行方は、やはり五里霧中の探し物、と言うにもふさわしい極めて微妙なものになると思います。

 

 

 

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私、演歌の味方で、クラシックの下手の横好き愛好家です

筆者のSNS記事を読んだ方から「イタリア在なのによく演歌を聴いたり歌ったりしているんですね」という便りが届きました。最近ファドにからめて演歌に言及することが多かったせいです。

「記事にも書いたとおり演歌はそれほど聴きません。ほぼ全てNHKの歌番組で聞き、目にしたシーンです。またイタリアでは歌は唄いません。帰国する際に時たま行き合うカラオケの場で唄うだけです」と筆者は正直に答えました。

すると「それではタリアでお聞きになる音楽は何ですか」と問われました。そこでこれまた正直に「そうですね、クラシックが多いですね」と答えると、がっかりしたような「あ、そうなんですね」という返信が来て、それっきりになりました。

質問された方は演歌ファンなんだろうな、とこちらは推測しています。

クラシック音楽を聞くことが多いのは事実ですが、筆者はそれを「積極的に」聴きに行くのではありません。ここイタリアの筆者の生活の中でより多く耳にし、また「聞かされる」音楽がクラシックなのです。

そして筆者はクラシック音楽が演歌程度に好きであり、演歌程度に無関心です。あるいはクラシック音楽が結構周りにあふれているので、時々うるさく感じることがないでもない、というふうです。

筆者の周囲にはクラシックのコンサートやライブやリサイタルが多い。それは古い貴族家である妻の実家から漏れ出る趣味、あるいは文化の流れの一端です。

妻の実家の伯爵家は、歴史的に音楽を含む多くの芸術にかかわってきました。プッチーニの後援者としても知られています。そこに知る人ぞ知るエピソードがあります。

プッチーニの「蝶々夫人」はミラノのスカラ座の初演で大ブーイングを受けました。挫折感に打ちのめされていた彼に、伯爵家の人々は手直しをしてブレッシャの大劇場(Teatro Grande)で再演するよう強く後押ししました。

伯爵家の当主のフェデリコ伯は当時、ブレシャの市長であり、大劇場の制作管理委員会(Deputazione)の重要メンバーでもありました。

プッチーニはもう2度とオペラは書かないと周囲に宣言するほどの失意の底にありましたが、鼓舞されて作品を修正しブレッシャの大劇場に掛けました。それは成功し歓喜の喝采に包まれました。

そうやってわれわれがいま知る名作「蝶々夫人」が誕生し、確定されました。

プッチーニは感謝の手紙を伯爵家に送りました。だがその直筆の書簡は、研究者が借り受けたまま行方知れずになってしまいました。24、5年前の話です。

筆者はその歴史的なエピソードをドキュメンタリーにしたく、手紙の行方を追っていますが2024年現在、文書はまだ見つかっていません。

音楽好きの伯爵家の伝統に加えて、あらゆる方面からの慈善コンサートの誘いもわれわれの元には来ます。妻自身が主催者としてかかわるチャリティコンサートなどもあります。

いうまでもなく筆者はそれらの音楽会と無縁ではいられません。妻と連れ立って音楽会に顔を出したり、チャリティコンサートの手伝いなどもします。

クラシックの多くの傑作のうち、誰でも知っているような楽曲は筆者も少しは知っていて、とても好きです。だがそれだけのことです。

学生時代に夢中になったロックやフォークやジャズやシャンソンなどのように、筆者自身が「積極的に」聴こうとすることはあまりありません。

つまり筆者とクラシックの関係は、筆者と演歌の関係とほぼ同じです。いや、それどころか全てのジャンルの音楽と筆者は同じ関係にあります。

だが、クラシック音楽だけは、他のジャンルのそれとは違い筆者の周りに満ち満ちていて、時には「無理やり聞かされる」こともある、という状況です。

むろん無理やりではない場合も少なくありません。特に夏になると、休暇を兼ねて滞在する北イタリアのガルダ湖畔で開催される音楽会に接する機会が増えます。

つい先日も、有名ピアニスト、サンドロ=イヴォ・バルトリのコンサートに招待されて顔を出しました。

小劇場でバルトリのピアノに合わせて歌うソプラノの素晴らしさに驚かされました。その歌手は、なんと日本人の岡田昌子さんでした。

音楽会直前に出演者の変更があり、パンフレットには彼女の紹介がありませんでした。そのためわれわれは開演まで岡田さんの出演を知らなかったのです。

相手のテノールを圧倒する岡田さんの伸びのある歌声に会場中が興奮しました。

クラシックの音楽会では、時にそんな美しい体験もします。

残念ながら演歌の場合は、歌手と近づきになるどころかライブで歌を聴く機会さえありません。

 

 

 

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スパレッティ監督の猛省がイタリアサッカーを救うかも、かい?

欧州ネーションズリーグで、イタリアは強豪フランスを3-1で下しました。

親善試合ではないガチの勝負での勝利。

しかも試合開始直後の13秒で1失点という大逆風を押し返して、確実に得点を重ねました。

対仏戦でのイタリアの勝利は2008年以来16年ぶり、敵地内(アウェー)での勝利はなんと1954年以来、70年ぶりです。

イタリアサッカーは4度目のワールドカップを制した2006年以降、ずっと不調続きでいます。

イタリアは2012年、落ちた偶像の天才プレーヤー、マルオ・バロテッリがまだ輝いていた頃に欧州カップの決勝戦まで進みましたが、圧倒的強さを誇っていたスペインに4-0とコテンパンにやられました。

屈辱的な敗北を喫したのは、負のスパイラルに入っていたイタリアが「まぐれ」で決勝まで進んだからだ、と筆者は勝手に解釈しました。

不調の波は寄せ続け、イタリアは2018年、2022年と2大会連続でワールドカップの出場権さえを逃しました。

2021年にはコロナ禍で開催が1年遅れた欧州選手権を制しました。だが、直後に同じ監督がほぼ似た布陣で戦ったワールドカップ予選でモタつきました。

それはイタリアが、やはり絶不調の泥沼から抜け出していないことを示していました。

ことし6月のビッグイベント、再びの欧州選手権でイタリアがまたもや空中分解したことを受けて、スパレッティ新監督は厳しい自責の念を繰り返し口にし自己総括を続けました。

そして最後には選手は戦術の型に嵌められることなく自由でなければならない、とイタリアの伝統的なスキーム絶対論まで否定して昨晩の試合に臨みました。そして見事に勝利しました。

それがイタリアの復活の兆しなのかどうかは、ネーションズリーグでのイタリアの今後の戦いぶりを見なければなりません。

だが誠実な言葉と行動でイタリアサッカーの歪み を指摘して、果敢に改造に乗り出そうとするスパレッティ監督の姿勢は大いに評価できます。

2020年(2021年開催)欧州カップで優勝したマンチーニ前監督も、精力的にチームの改造を進めました。だがそれは、いわば目の前の試合を制するためだけの改造に過ぎませんでした。

片やスパレッティ監督は、大局的な立場でイタリアサッカーの抜本的な改革を目指しているように見えます。頼もしい限りです。

今後も紆余曲折はあるでしょうが、イタリアサッカーは、かつての強豪チームに戻るべく確実な道を歩みだしているようにも見えます。




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ワタシ演歌の味方です

リスボンで聴いたファドは味わい深いものでした。それを聴きつつ演歌を思ったのは、両者には通底するものがある、と感じたからです。

さて、ならば演歌は好きかと誰かに問われたなら、筆者は「好きだが嫌い」というふうに答えるでしょう。

嫌いというのは、積極的に嫌いというよりも、いわば「無関心である」ということです。演歌はあまり聴くほうではありません。聴きもしないのに嫌いにはなれません。

ところが、帰国した際に行合うカラオケの場では、どちらかと言えば演歌を多く歌います。なので、「じゃ、演歌好きじゃん」と言われても返す言葉はありません。

演歌に接するときの筆者の気持ちは複雑で態度はいつも煮え切らない。その屈折した心理は、かつてシャンソンの淡谷のり子とその仲間が唱えた、演歌見下し論にも似た心象風景のようです。

淡谷のり子ほかの歌手が戦後、演歌の歌唱技術が西洋音楽のそれではないからといって毛嫌いし、「演歌撲滅運動」まで言い立てたのは行き過ぎでした。

歌は心が全てです。歌唱技術を含むあらゆる方法論は、歌の心を支える道具に過ぎません。演歌の心を無視して技術論のみでこれを否定しようとするのは笑止です。

筆者は演歌も「(自分が感じる)良い歌」は好きです。むしろ大好きです。

しかしそれはロックやジャズやポップスは言うまでもなく、クラシックや島唄や民謡に至るまでの全ての音楽に対する自分の立ち位置です。

筆者はあらゆるジャンルの音楽を聴きます。そこには常に筆者にとってのほんの一握りの面白い歌と膨大な数の退屈な楽曲が存在します。演歌の大半がつまらないのもそういう現実の一環です。

日本の今の音楽シーンに疎い筆者は、大晦日のNHK紅白歌合戦を見てその年のヒット曲や流行歌を知る、ということがほとんどです。

ほんの一例を挙げれば、Perfume、いきものがかり、ゴルデンボンバー、きゃりーぱみゅぱみゅ、混成(?)AKB48やRADIO FISHや桐谷健太、斉藤和義など。

筆者は彼らを紅白歌合戦で初めて見て聴き、「ほう、いいね」と思いそれ以後も機会があると気をつけて見たり聞いたりしたくなるアーティストになりました。

その流れの中でこんなこともありました。たまたま録画しておいた紅白での斉藤和義「やさしくなりたい」を、筆者の2人の息子(ほぼ100%イタリア人だが日本人でもある)に見せました。

すると日本の歌にはほとんど興味のない2人が聴くや否や「すごい」と感心し、イタリア人の妻も「面白い」と喜びました。それもこれも紅白歌合戦のおかげです。

最近の紅白でも印象的な歌手と歌に出会いました。列挙すると:ミレイ、あいみょん、Yoasobi、藤井風などです。

Yoasobiは何か新しい楽曲を発表していないかとネットを訪ねたりもするほどです。

筆者は何の気取りも意気込みもなく、Yoasobi という2人組みの音楽を面白いと感じます。Shakiraの歌に心を揺さぶられるように彼らの楽曲をひどく心地好いと感じるのです。

ちなみに演歌を含む日本の歌にも関心がある妻は、Yoasobiには無反応です。

話がそれました。

膨大な量の演歌と演歌歌手のうち、数少ない筆者の好みは何かと言えば、先ず鳥羽一郎です。

筆者が演歌を初めてしっかりと聴いたのは、鳥羽一郎が歌う「別れの一本杉」でした。少し大げさに言えば筆者はその体験で演歌に目覚めました。

1992年、NHKが欧州で日本語放送JSTVを開始。それから数年後にJSTVで観た歌番組においてのことでした。

初恋らしい娘の思い出を抱いて上京した男が、寒い空を見上げて娘と故郷を思う。歌は思い出の淡い喜びと同時に悲哀をからめて描破しています。

「別れの一本杉」のメロディーはなんとなく聞き知っていました。タイトルもうろ覚えに分かっていたようです。

それは船村徹作曲、春日八郎が歌う名作ですが、そこで披露された鳥羽一郎の唄いは、完全に「鳥羽節」に昇華していて筆者の心の琴線に触れました。軽い衝撃を覚えたほどです。

筆者は時間節約のために歌番組を含むJSTVの多くの番組を録画して早回しで見たりします。たまたまその場面も録画していたので、クラシック音楽が好きなイタリア人の妻に聞かせました。

妻も良い歌だと太鼓判を押しました。以来彼女は、鳥羽一郎という名前はいつまでたっても覚えないのに、彼を「Il Pescatore(ザ漁師)」と呼んで面白がっています。

歌唱中は顔つきから心まで男一匹漁師になりきって、その純朴な心意気であらゆる歌を鳥羽節に染め抜く鳥羽一郎は、筆者たち夫婦のアイドルなのです。

筆者は、お、と感じた演歌をよく妻にも聞かせます。

妻と筆者は同い年です。1970年代の終わりに初めてロンドンで出会った際、遠いイタリアと日本生まれながら、思春期には2人とも米英が中心の同じ音楽も聞いて育っていたことを知りました。

そのせいかどうか、筆者と妻は割と似たような音楽を好む傾向があります。共に生きるようになると、妻は日本の歌にも興味を持つようになりました。

妻は演歌に関しては、初めは引くという感じで嫌っていました。その妻が、鳥羽一郎の「別れの一本杉」を聴いて心を惹かれる様子は感慨深いものでした。

筆者の好みでは鳥羽一郎のほかには北国の春 望郷酒場 の千昌夫、雪国 酒よ 酔歌などの吉幾三がいい。

少し若手では、恋の手本 スポットライト 唇スカーレットなどの山内惠介が好みです。

亡くなった歌手では、天才で大御所の美空ひばりと、泣き節の島倉千代子、舟唄の八代亜紀がいい。

筆者は東京ロマンチカの三条正人も好きです。彼の絶叫調の泣き唱法は味わい深い三条節になっていると思います。だが残念ながら妻は、三条の歌声はキモイという意見です。

この際ですから知っているだけの演歌や演歌歌手についても思うところを述べておきます。興味のない歌手はひとことで言えば全員が「類型的」ということですが、それぞれの類型の印象は:

石川さゆり:見どころは津軽海峡冬景色だけ。だが津軽海峡冬景色は誰が歌っても感動的です。「天城越え」の最後に見せる泣き、追いすがるかのような下手な演技は噴飯もの。演技ではなく歌でよろめき、よろめかせてほしいものです。 

丘みどり:最初のころは八代亜紀の後継者現る、と期待しましたが力み過ぎて失速しました。歌は上手いのですから自然体になるのを期待したいと思います。 

大月みやこ:大月節は泣かせます。抜群の表現力。しかし年齢と共に大げさになっていった語尾のビブラートが全てを台無しにします。

五木ひろし:ただ一言。歌が上手すぎてつまらない。 

坂本冬美:「夜桜お七」以外は月並みが歩いているように見えます。 

前川清&クールファイブ:グループ時代の前川の絶叫節は面白かった。が、1人になってからは平均以下の歌い手になりました。 

美川憲一:キャラは抜群に面白い。歌も「お金をちょうだい」のように滑稽感あふれるシリアスな人生歌がすばらしい。唱法も味わいがありますが、残念ながら美川節と呼べるほどの上手さはなく従って凄さもない。

島津亜矢:圧倒的な歌唱力。もっと軽い流行歌がほしい。 

小林幸子:美空ひばり系ですが美空ひばりには足元にも及ばない。ひばりの爪の垢を煎じて飲んでも器が違いますから無意味でしょう。 

伍代夏子:体系容姿は筆者の好み。お近づきになってみたいものですが、歌を聴きたいとは思いません。無個性で退屈な歌唱。 

藤あや子:美人ぶって、またある種の人々の目には実際に美人なんでしょうが、美人を意識した踊りっぽいパファーマンスが白けます。少しも色っぽくない。それどころか美しくさえない。歌唱力も並以下。 

市川由紀乃:大女ながらやさしい声、また性格も良いようですが、歌手なんですから雑音ではなく歌を聞かせてくれと言いたい。 

都はるみ:古いなぁ。 

天童よしみ:美空ひばりが憧れで目標らしい。しかし、逆立ちしても無理。陳腐。 

長山洋子:老アイドル歌手として再デビューしたほうがまだいい。  

香西かおり:美人でさえないのになぜかいい女のつもりで自分だけが気持ちよがって唄うところがキモイ。歌は歌詞の端、あるいは語尾を飲み込んで発音さえよく聞こえません。その意味では素人以下の歌唱力。 

田川寿美:香西かおりに比較すると1000倍も歌は上手く抒情も憂いも深みもありますが、それは飽くまでも香西に較べたら、であって凡下の部類。しかし「哀愁港」などを聴くと味があるので要チェック。

三山ひろし:若い老人。上手い歌うたいだが、なにしろ古くさい。スタイルがうざい。 

山川豊:ソフトに歌いたがるが似合わない。つまらない。 

細川たかし:絶叫魔  

石原詢子:ホントに歌手?

藤圭子:真の歌姫だが、頭の中は空っぽであることが所作で分かる。歌もたまたま上手いだけで人間の深みが無い、と知れるとがっかり。歌まで浅薄に聞こえるようです。  

山崎ハコ:暗さは演歌に通じるので気になりませんが、多くの歌が似通って聞こえるのが落第。  

松原健之:筆者の好きな声ですが、妻が気持ち悪がっているからきっとキモイのでしょう。 

これらの印象や悪口は、全てJSTVが放送したNHKの音楽番組を見、聞いた体験に基づいています。

筆者は冒頭で演歌はあまり聴かない、とことわりました。だがこうして見ると演歌三昧です。

しかもいま言及したように全てNHKの音楽番組を通しての知見ですから、NHKには大いに感謝しなければならない、と改めて思います。

 

 

 

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