「ちむどんどん」の俳優は皆ど~んと輝いていた

演出の罪

「ちむどんどん」スペシャルを見ました。比嘉家の4兄妹が終わったばかりの番組について素の俳優に戻って語り合う、という趣向でした。

和気あいあいとした彼らの語りはすがすがしく納得できる内容でした。役回りについての4人のそれぞれの思いもきっちりと伝わりました。

進行役を務めた川口春奈の自然でユーモラスで思いやりに富んだ語り口が印象的でした。筆者はたちまち彼女のファンになりました。

4人の俳優のトークは、彼らが人間的にすばらしい若者たちで、且つプロの優秀な役者であることをあらためて示していました。それを確認できたことを筆者は嬉しく思いました。

筆者は「ちむこんどん」については否定的な立場でこれまでに何度もそう書いてきました。筆者のネガティブな見方は、繰り返して述べたように演出をはじめとする制作者へのものでした。

特に演出への批判は尽きませんでした。脚本が悪いという意見も多くあったようですが、そして筆者もそのことを否定はしませんが、脚本は演出によっていくらでもダメ出しができます。

従って脚本にダメ出しをしなかった演出はもっとさらに責められるべきなのです。

筆者は演出家を筆頭にする「ちむどんどん」の制作陣の名前は一切知りません。ドラマの中身だけを見て批評しました。それができたのは番組を録画して、クレジットの部分を飛ばして見続けたからです。

そこには時間節約の意味もありましたが、名前よりも制作のコンセプト、つまり演出の意図と彼の役割のみを重視したいという考えがありました。

日本の制作環境

筆者はドキュメンタリー制作者ですが下手な演出家でもあります。その筆者の数少ない劇作の経験によると、日本では演出の責任が少しあいまいであるように記憶しています。

筆者は劇作をする場合、脚本に注文をつけることを恐れません。といいますか、演出家は自己責任において脚本を管理下に置くべきです。

管理下に置くことはほとんど義務です。なぜなら脚本を含む劇作の全ての責任は演出にあるからです。重ねて言いますが、作品の結果の責任は、成功、失敗の区別なく一切が演出にあるのです。

ところが日本では、ドラマ作りのような極めてクリエイティブな世界でも、和の精神が生きていて演出の絶対的な権威よりもスタッフ全員の合意を重視するように感じました。

そういう環境では作品の核がぼやける危険があります。

そして日本のドラマ制作ではその危険が現実化するケースが多い。「ちむどんどん」はまさにその陥穽にはまったのだと思います。

和の重視は笑いの敵

恐らく制作の現場では出演者や技術系を含む全てのスタッフが、演出側と共ににーにーの演技に笑い、楽しみ、存在を盛り上げたに違いありません。和の精神で全員が高揚する場面が見えるようです。

それは良いのですが、全ての責任を負っている演出は、そこから一歩引いて、現場の笑いが直接に茶の間の笑いになるのではないことを冷静に見極めなければなりません。

スタッフと共に盛り上がる演出はそのことを忘れたフシがあります。和の精神に引きずられて、演出の責任を共有するとまでは言いませんが、演出の実存である「孤独」と「責任」を放棄している。

それでなければ、にーにーが牽引する杜撰なシーンがこれでもかとばかりに提示され続けた理由が分かりません。演出が独りで考え断固として差配していれば起こりにくいことです。

現場でスタッフが大笑いするシーンは、得てして茶の間にシラケを呼び込みます。演出は劇中の笑いが、彼とスタッフが鬼面になり苦しんで作り上げるものであることを軽視している。筆者にはそう感じられます。

そこには「劇作りは演出が全て」という厳しい掟がおざなりになって、スタッフ全員が“共同で”シーンを作り上げていく、という和の精神の横溢が見えます。既述のようにそれは往々にして作品の核を破壊します。

脚本の不備も演出の罪

演出は脚本が提示したにーにーのキャラクターに、それがドラマの大いなる欠陥であることに気づくことなくOKを出し、その結果引き起こされるさまざまなエピソードも良しとしました。

のみならず彼自身も大いに自己投影して、にーにーが視聴者にたくさんの“笑いを届け得るキャラクター”だと信じ切り、劇作りの現場でそのように演出しました。

その結果、映画「男はつらいよ」の寅さんを強く意識した、馬鹿で惚れっぽい愛すべき男の形象がふんだんに詰め込まれました。しかし全て空回りしました。

空回りしたのは同じようなシーンが頻出したからです。たとえに-にーが本物の馬鹿であっても、現実世界でなら必ず歯止めがかかるはずの成り行きが、そうはならずに何度も見過ごされました。

しかも再三提示される(演出が面白いと信じているらしい)にーにーの動きは、ひたすら鬱陶しいだけでした。視聴者が疲れていることに気づけない演出の独りよがりはさらにもっとつまらなかった。

半年にも渡ってほぼ毎日放映される朝ドラは、ドラマツルギー的には全体にゆるい軽いものにならざるを得ません。従ってソープオペラよろしくある意味では批評に値しない。

それでも筆者が批評じみた文章を書いたのは、ドラマの瑕疵が大きく、しかもそれは役者の問題ではなく「演出の問題」であることを指摘したかったからです。

素晴らしい俳優たち

筆者は「ちむどんどん」スペシャルに顔を出した4人の俳優のうち、3人の演技を別番組で見て既に知っていました。

主人公の暢子役の黒島結菜はNHKドラマの「アシガール」、 にーにー役の竜星 涼は日本テレビの「同期のサクラ」、良子の川口春奈はNHK大河ドラマ「麒麟が来る」でそれぞれが好演していました。

彼らはドラマの内容も、それぞれの役のキャラクターも全く違う「ちむどんどん」の世界でも、きちんと仕事をこなしました。彼らはいずれ劣らぬ有能な俳優なのです。

末っ子の歌子を演じた上白石萌歌は「ちむどんどん」で初めて知りましたが、おそらく彼女の場合も同じでしょう。難しい役回りの歌子をしっかりと演じていたのを見ればそれは明らかです。

彼ら4人を含む「ちむどんどん」の多くの出演者は、脚本を支配する(しているはずの)演出の指示のままに彼らの高い能力を十二分に発揮して、それぞれの役を演じました。

その長丁場のドラマは、竜星 涼という役者が彼の優れた演技能力を思い切り示して演じた、にーにーというキャラクターとエピソードがNGだったために、大いに品質を落としました。

それは断じて役者の咎ではなく、これまで繰り返し述べたように演出の責任です。演出は ― くどいようですが― 脚本をコントロールできなかったことも含めて批判されなければならないのです。

一方、役者は脚本と演出が示すキャラクターを十全に演じ切りました。そうやって愚劣なエピソードが積み重ねられ、リアリティのない不出来一辺倒のにーにーという人物像が一人歩きをしました。

にーにーほどの不出来ではありませんが、主人公の暢子の人物像も感心できないものでした。本来なら前向きで明るいはずの主人公の暢子のキャラクターも、にーにーとの絡みで混乱しました。

彼女もまたニーニーに似て、いい加減で鈍感な女性、と英語本来の意味での「ナイーブ」な視聴者に認識されてしまったフシがあります。

再び言いたい。暢子の問題は断じて演者である黒島結菜の問題ではなく、暢子と劇を作り上げた制作者の、もっと具体的に言えば演出の責任です。

リメイク版があるならば

「ちむどんどん」は、にーにーのエピソードを思い切り短縮して、且つ人物像をリアルなものにしない限り、ドラマ全体の救済はできません。

それができれば、にーにーとの関わりで視聴者の不評をかった暢子の場面の改善や削減もできます。そしてその改定場面は連鎖して必ずほかの場面の内容の向上にもつながります。

だがそれは、たとえ番組のリメイクが許されたとしても恐らく実現しません。なぜならスペシャル版では、スピンオフ物語として性懲りもなくにーにーの物語がまた挿入されていたからです。しかも再び長々と。

つまり制作サイドは、にーにーの存在の疎ましさがドラマの最大の瑕疵だと気づいていない。あるいは気づいていても認めたくないようです。

一方で、4人の兄弟を始めとする出演者の全員はそれぞれがキラ星のごとく輝いていました。誰もが胸を張って今後のキャリアに邁進してほしいと思います。

中でも筆者は、特に演出の失態の損害を被ったように見える黒島結菜に大きなエールを送ります。

 

 

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柿とカキ

数年前に庭に植えた柿の木が実をつけています。

柿はイタリア語でも「カキ」と呼ばれます。そのことから分かる通り柿はもともとイタリアにはなく、昔日本から持ち込まれたもので、ほとんどすべてが渋柿です。

そのままでは食べられないので、イタリア人は容器や袋に密封して暗がりに置き、実がヨーグルトのようにとろとろになるまで熟成させてから食べます。そうすると渋みがなくなって甘くなります。

要するにイタリアには、固い渋柿かそれを超完熟させた、とろとろに柔らかい甘柿しかありません。

つまりこの国の人々にとっては、柿とは「液状に柔らかくなった実をスプーンですくって食べる果物」のことなのです。

最近は外国産の固い甘柿も売られていますが、彼らはそれもわざわざ完熟させて極端に柔らかくしてから食べます。

かつて日本から柿をイタリアに持ち込んだのは恐らくキリスト教の宣教師だと思います。

その際彼らがあえて渋柿を選んだとは考えにくい。きっと甘柿と渋柿の苗木を間違えたのでしょう。

あるいは甘柿のなる木が多くの場合、接ぎ木をして作られるものであることを知らなかったのでしょう。

そんなわけで「普通に固い甘柿」が大好きな筆者は秋になるといつも欲求不満になります。

店頭に出回る柔らかい柿はあくまでも「カキ」であって、さくりと歯ごたえのある日本のあの甘い柿とはまるきり別の果物だと感じるのです。

そこで庭に柿の木を植えて甘柿の収穫を目指しました。

植木屋に固い甘柿がほしいのだと繰り返し説明して、柿の木を手に入れ植えました。

数は多くありませんが甘柿の木はあるのです。それには蜘蛛の巣のような模様のある実が生ります。ところが庭の木に生った実は全て渋柿でした。

植木屋が筆者をだましたとは思えません。

彼はきっと筆者にとっての固い甘柿の重要さが理解できなくて、実がとろとろになるまで熟成させて食べれば渋いも甘いも皆同じじゃないか、と内心で軽く見切って木を筆者に売ったと見えます。

少し腹立たしくないこともありませんが、実をつけた柿の木は景色として絵になるので、まあ好し、と考えることにしました。

庭に生る柿は熟成させて家族が食べ、筆者は相変わらず店で固い甘柿を買って食べています。

 

 

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地中海の10月夏を異形の街トリノに遊ぶ

オットブラータ(Ottobrata10月夏)の暖気に促されて繰り返した週末旅で、ピエモンテ州のアルバ(Alba)を訪ねました。

アルバはトリュフで知られた街。ちょうどトリュフ祭り(展示会)が開かれていました。しかし筆者が食べたいのは、トリュフよりもポルチーニ茸でした。

トリュフは嫌いではないが興味もない、というのが筆者の昔からの偽りのない気持ちです。香りも味もいまひとつピンと来ないのです。

トリュフのパスタには簡単に出会いました。だが、ポルチーニ料理にはありつけませんでした。それでもメインで食べた子牛の頬肉煮込みが出色だったので満足しました。

遅くなって帰宅の途に就きましたが、途中で気が変わって一泊することにしました。翌日は日曜日なので成り行き任せの決断でも問題がなかったのです。

ほぼ行きあたりばったりにアスティ(Asti)で宿を取りました。実はアルバほかの街々の宿はどこも満員で全く空きがありませんでした。「仕方なく」アスティに泊まった、というのが真実です。

コロナが終息した、と考える国民が多いイタリアは旅行ブームです。厳しい都市封鎖や規制から開放された人々が、観光地へどっと繰り出しています。ホテルが混んでいるのもそのせいでした。

アスティは殺風景なたわいない街でした。ひとつ良かったのはアスティ産の甘い「アスティ・モスカートワイン」。アルコール度数がビール並みに低いので、1人でほぼ一本を開けました。むろん美味くなければそんなことはしません。

翌日は雨模様でした。

過去に仕事で訪ねた体験からも、地方は期待外れに終わりそうだと判断して、州都のトリノを目指すことにしました。

トリノはイタリアの一部だがイタリアではない、と筆者は少し誇張して考えます。フランスのあるいはパリの下手な写しがトリノという都会です。

物事の多くは模写から始まります。

ところが模写を習いや修行や鍛錬などと称して尊重する日本文化とは違い、西洋のそれはオリジナリティを重視します。のみならず模写を否定します。

その意味ではトリノも否定的に捉えられがちです。しかしトリノがフランスのそしてさらに詳細にはパリの模倣であっても構わない、と筆者は考えます。

なぜならトリノはフランスやパリを真似することで、イタリアの中で異彩を放つ都市になりました。物真似がトリノの独自性なのです。

物真似から誕生したトリノは、そのありのままの形で存在することで、全体が個性的な都市や町や地域の集合体であるイタリア共和国の、多様性の一環を成しています。

そうではあるものの、筆者にとってはトリノは少しも美しくはありません。

その理由はトリノの新しさです。フランス的なものが新しく見えてつまらないのです。また建物が大げさで、そこかしこの広場や街路も無意味に広大です。

イタリアの都市に必ず存在する旧市街あるいは歴史的街並がトリノにはない。気をつけて見ればないことはないのですが、それらは近代の建物に圧倒されてほとんど目につきません。

旧市街を別の言葉で言えば中世の街並み。あるいは中世的な古色に染まる景色。はたまた狭い通りや古い建物、崩れ落ちそうな遺跡などが醸し出す豊かな風情。あるいはワビサビの世界。

そういうシーンがトリノにはありません。繰り返しになりますが全てが比較的新しく、大きく、重厚気味に存在感があり、そしてたまらなく退屈です。

トリノの街並みを思わせる歴史的なスタイルがイタリアにはもう一つあります。それはファシスト時代の建築の構え、つまりリットリア様式の建築物です。

リットリア様式は古代ローマを模倣しようとした表現法で、武骨且つ単純な力強さがあります。尊大なファシストだったムッソーリーニと取り巻きが、自らの力を誇示しようとして編み出しました。

正確に言えばむろんそれとは違います。だが大きく、重々しく、うっとうしい雰囲気は共通しています。

そこには「イタリアを所有している」とまで形容された巨大自動車メーカー、フィアット(FIAT)のイメージも影を落としています。

複合的な心象や写像や現実は、FIATそのものを支配し、果てはトリノという都市まで支配したアニエッリ一族のイメージへとつながります。

古い時代のトリノは、イタリア統一にかかわったサヴォイア王家の拠点でした。フランスの猿真似はサヴィオア家によって完成されました。

後年、アニエッリ一族は自動車産業を介してトリノを支配しました。街伝統の猿真似を踏襲しつつ貴族を気取ったのがアニエッリ一族です。そのうさん臭さ。

アニエッリ一族の中でもっとも著名なジャンニ・アニエッリは、欧州に進出する日本のビジネスに恐れをなして、「黄禍論」を公然と語った不埒な男です。

当時の日本は今の中国と同程度に世界に嫌われ恐れられていました。従ってジャンニ・アニエッリの口吻は理解できないこともありません。

だがイタリアに来たばかりの若い筆者は、その有名人の言動に強い反感を抱きました。時間とともに怒りは収まりましたが、ジャンニ・アニエッリとアニエッリ家への好感は残念ながら未だに芽生えません。

そんな感慨は、しかし、トリノの街並みや雰囲気への筆者のかすかな反感とは無関係です。

なぜなら筆者は、いま述べたように、トリノのみならずピエモンテの各地を巡るとき、他のイタリアの都市や地方とは違い、古色蒼然としたコアな街並みがほとんど存在しない点に、常に物足りなさを感じるからです。

 

 

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ヴェローナでリゾットを食べロメオとジュリエットに会った

10月、季節はずれのぽかぽか陽気と晴天にはしゃいで近場のヴェローナにも出かけました。

一応の旅の目的を立てました。つまりアマローネ・リゾットを食べること。ヴェローナ近辺で生産される高級ワイン、アマローネを使ったリゾットです。

ヴェローナはイタリアのエッセンスが詰まった美しい古都の一つです。

だが晴天と暑気と週末が重なって、街には人出が多く花の都の景観をかなり損なっていました。少し前ならコロナの密が怖くて歩けなかったであろうほどに、街じゅうが混雑していました。

ローマ時代の円形闘技場・アレーナがあるブラ広場、街の中心のエルベ広場またシニョーリ広場とそれらを結ぶ大小の道を歩きました。

そこではときどき路上で立ち尽くさなければならないほどの人出があり、思わず雑踏事故の4文字を思い浮かべることさえありましたたりさえした。

イタリアではコロナがほぼ終息したと考えられていて、旅行また歓楽ブームが起きています。

コロナパンデミックに苦しめられ、ロックダウンで窒息した人々の怨念が解き放たれて、心身が雀躍しているのが分かります。

そこにOttobrata(10月夏)の好天が続いたので、人々の外出への欲求がいよいよ高まりました。

筆者は本職のビデオ取材以外でもヴェローナにはけっこう通いました。

義父が製造販売していたワイン展示の手伝いで、ヴィンイタリー(Vinitaly)会場に出入りしたのです。

ヴィンイタリー(Vinitaly)は毎年4月、ヴェローナ中心部に近い広大な会場で開催されます。

1967年に始まった世界最大のワイン展示会です。

義父は10年ほど前までワインを作っていました。自家のブドウ園の素材を使って生産しVinitaly にも参加していました。

時間が許す限り筆者はワインの展示を手伝うために会場に通いました。

だが手伝うとは名ばかりで、実は筆者はワインの試飲を楽しんだだけでした。展示会場を隈なく回って各種ワインの味見をするのです。そこではずいぶんとワインの勉強をしました。

義父のワイン事業はビジネスとしては厳しいものでした。

ワインは誰にでも作れます。問題は販売です。

貴族家で純粋培養されて育った義父の商才はほぼゼロでした。ワインビジネスはいわば彼の贅沢な道楽でした。

義父が亡くなったとき、筆者がワイン事業を継ぐ話もありました。だが遠慮しました。

筆者はワインを飲むのは好きですが、ワインを「造って売る」商売には興味はありません。その能力もありません。

それでなくても義父の事業は赤字続きでした。

ワイン造りはしなくて済みましたが、筆者は義父の事業の赤字清算のためにひどく苦労をさせられました。

vinitalyに顔を出していた頃は、会場から市内中心部まで足を運ぶこともありませんでした。それ以前にアレーナと周辺のロケをしたことがありますが、記憶があいまいなほどに時間が経ちました。

淡い記憶をたどりながらアレーナ周りを歩き、観察し、前述の広場や路地を訪ね巡りました。

歴史的にはほぼフェイクとされる「ロメオとジュリエット」のジュリエット像と屋敷も見に行きました。

そこの人ごみのすごさにシェイクスピアの物語の強烈な影響を思いましたが、ただそれだけのことで格別に印象に残るものはありませんでした。

 

 

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国際都市ジェノヴァの肥溜めの深奥

10月の陽気に浮かれて旅したジェノヴァでは、下町の港周辺地区を主に歩きました。特にカンポ通り(Via del Campo)です。

ジェノヴァは基本的に2地域に分かれると筆者は考えています。港の周辺とそれ以外の地区です。

ジェノヴァ港は地中海でも1、2を争う規模と取引量を誇ります。ジェノヴァの富の源泉がジェノヴァ港です。

港周り以外のジェノヴァの地域は、割合で言えば8割程度の重みがあります。

そこは街の政治経済文化の中心です。一帯には元々のイタリア人(白人)で、いわば街の支配階級が住みます。

一方、そこからフェッラーリ広場を抜けて入るカンポ通りには、港の荷揚げ作業などの苦役に従事する外国人労働者や移民が多く住みます。

通りは港の一部と形容しても構わないほどに近接しています。

あたりの印象は、外国人に混じってイタリア人あるいはジェノバ人が細々と生きている、という風でさえあります。

イタリアきってのシンガーソングライター、ファブリツィオ・デ・アンドレは

「カンポ通りには木の葉色の瞳を持つ娼婦がいる 

(通りも娼婦も街の肥溜めだ) 

ダイヤモンドからは何も生まれない 

だが肥溜めからは花が生まれる」

と歌いました。

肥溜めのように貧しいカンポ通りに生きる娼婦こそ人生を正直に生きる花だ、と讃えたのです。

哀切を誘うメロディーに乗った寓意的な歌詞が、デ・アンドレの低い艶のある声でなぞられて心にぐさりと突き刺さります。

カンポ通りの一角の壁には、デ・アンドレの数多い名作の中でも最高傑作のひとつである“Via del Campo”の1節を刻んだ表意絵が掛かっています。

通りを歩いた先にあるレストランで食事をしました。

そこには地域の住民はいません。街の8割方に住む豊かなジェノヴァ人と旅人が店の客です。

筆者はその店で散財することができる、特権的な旅人のひとりとなって食事を楽しませてもらいました。

鮮やかな緑色のペスト・ジェノヴェーゼにからませたパスタは、本場でしか味わえない深い風味がありました。

メインで食べたタコ料理に意表を衝かれました。いったいどんな手法なのか、タコが口に含むととろりと溶けるほどにやわらかく煮込まれていました。

タコ料理は今日までにそこかしこの国でずいぶん食べましたが、その一品はふいに筆者の中で、ダントツのタコ料理レシピとして記憶に刻まれてしまいました。

白ワインはリグーリア特産のヴェルメンティーノ(Vermentino)。きんきんに冷えたものを、と頼むと予想を上回るほどに冷えたボトルが出てきました。

味は絶品以外のなにものでもありませんでした。

ところで

ジェノヴァ市民は、多分イタリアでもっとも親切な人々、というのが筆者の持論です。

筆者はロケでイタリアのありとあらゆるところに行きます。その体験から「親切なジェノヴァ人」という結論に行き着いたのです。

情報収集やコンタクトや時間の融通や撮影許可やロケ車の置き場所や始末や・・あるとあらゆる事案にジェノヴァ人は実に懇切、丁寧、に対応してくれます。

それは多分ジェノヴァの人たちが国際的であることと無関係ではありません。

港湾都市のジェノヴァには、常に多くの外国人が出入りし居住しました。埠頭の人夫から豊かな貿易商人まで、様々な境遇の人々です。

ジェノヴァの人々は言葉の通じない外国人を大切にしました。彼らは皆ジェノヴァの重要な貿易相手国の国民だったからです。

そこからジェノヴァ人の親切の伝統が生まれました。

国際都市ジェノヴァには、また、国際都市ゆえの副産物も多くありました。

その一つがサッカー。

世界の強豪国、イタリアサッカーの発祥の地も、実はジェノヴァなのです。

その昔、ジェノヴァに上陸したイギリス人の船乗りが母国からサッカーを持ち込んで、それが街に広まりました。

今でこそトリノやミラノのチームが権勢を誇っていますが、イタリアサッカーの黎明期には、ジェノヴァチームは圧倒的に強かったのです。

さらに

古来、イタリア半島西端のやせた狭い土地で生きなければならなかったジェノヴァ人は、働き者で節約精神も旺盛だと言われます。

そこで生まれた冗談が「ジェノヴァ人はイタリアのユダヤ人」。イギリスにおけるスコットランド人と同じ。

リグーリア州の大半は山が突然海に落ち込むような地形です。平地が少なく地味もやせています。

そのため人々は海に進出し、知恵をしぼって貿易にいそしみ巨万の富を得ました。

それは世界におけるユダヤ人と同じ。

彼らのケチケチ振りを揶揄しながら、人は皆彼らの高い能力をひそかに賞賛してもいます。

「~のユダヤ人」というのは決して侮蔑語ではありません。それは感嘆語です。

親切でこころ優しいイタリアのユダヤ人、ジェノヴァ人に乾杯。

感嘆語のみなもと、ユダヤ人には、もっと、さらに乾杯。

 

 

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地中海の10月夏を遊ぶ

イタリア語にOttobrata(オットブラータ)という言い回しがあります。Ottobre(10月)から派生した言葉で、日本語に訳せば小春日和に近い。

小春日和は初冬のころの暖かい春めいた日のことです。あえて言えば秋のOttobrataとは時期がずれます。しかし、イタリアの秋は日本よりも冷えますから小春日和で間に合うようにも思います。

Ottobrataも小春日和も高気圧が張り出すことで生まれます。ただOttobrataは小春日和のように1日1日を指すのではなく、数週間単位のいわば“時節”を示す印象が強い。

ことしのOttobrataはほぼ10月いっぱい続き、11月にまでずれこみそうです。もっともイタリア語では、11月に入ってからの暖かい日々は「サンマルティーノの夏」と呼びます。

それは英語のインドの夏とほぼ同じニュアンスの言葉です。

ことしのOttobrataは期間が長く気温も高状態が続きました。そこで週末は遠出をしたり1泊程度のプチ旅行をしたりしました。

変わらずに晴天が続けば、「サンマルティーノの夏」にまでなだれこんで、12月まで寒さがやってこないかもしれない、と考えたくなるほどの陽気が続きました。

長すぎるOttobrataはやはり温暖化のせい、というのが専門家の見立てです。もっとも専門家ではなくとも、近年の異常気象を見れば何かがおかしいと推測できます。

イタリアはことしは冬、異様な旱魃に見舞われ大河ポーが歴史始まって以来の低水位にまで下がりました。危険な状況は春には改善しましたが、夏には再び干上がって警戒水準が続きました。

夏の少雨は強烈な日差しを伴いました。記録的な暑さが和らぐと普通に気温が下がるかと見えました。が、それはほんの数日の出来事でした。

真夏の暑さは去ったものの、強い日差しが続いて、Ottobrataに突入したのでした。

近場を巡り、少し足を伸ばしてリグーリア州やピエモンテ州にも出かけました。ほとんどが日帰りの旅でしたが、リグーリアとピエモンテではそれぞれ一泊しました。

車ですぐの距離の小さな湖や、そこより少し遠いヴェローナなども訪ねました。

食べ歩きをイメージした仕事抜きの旅は、夏の休暇を除けば初めての経験です。

最初は10月半ばの週末。リグーリア州に向かいました。そこにはジェノヴァがありチンクエテッレがありサンレモがありポルトフィーノもあります。

筆者はそれらの土地の全てをリサーチやロケなどの仕事で訪れています。

先ずジェノヴァの隣のカモーリを巡りました。

カモーリは崖と海に挟まれた小さなリゾート地。ミニチュアのような漁港があります。

漁港では毎年5月、直径4メートルもの大フライパンで魚を揚げて、人々に振舞う祭りがあります。筆者は以前その様子を取材したこともあります。

レストランやバールが連なる海岸沿いの通りの下には海がありビーチがあります。通りの先にあるのがいま触れた港です。

ほぼそれだけの街ですが、リゾートの魅力がこれでもかと詰め込まれた印象があって、全く飽きがきません。

通りを行き来して不精をたのしみ、美味い魚介のパスタと土地の白ワインを堪能しました。

きんきんに冷えた白ワインと魚介パスタの相性は、依然食べたときも今回も、変わらず至高の味がしました。

 

 

 

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聖人も信徒も等しく死者になる

昨日、つまり11月2日はイタリアの盆でした。

一般には「死者の日」と呼ばれる万霊節。

「死者の日」という呼び名は日本語ではちょっとひっかかるニュアンスですが、その意味は「亡くなった人をしのぶ日」ということです。

やはり霊魂を慰める日本の盆や彼岸に当たると言えます。

ところで

死者の日の前日、すなわち11月1日は「諸聖人の日」でイタリアの祝日でした。

カトリックでは「諸聖人の日」は、文字通り全ての聖人をたたえて祈る日です。

ところがプロテスタントでは、聖人ではなく「亡くなった全ての信徒」をたたえ祈る日、と変化します。

プロテスタントでは周知のように聖人や聖母や聖女を認めず、「聖なるものは神のみ」と考えます。

聖母マリアでさえプロテスタントは懐疑的に見ます。処女懐胎を信じないからです。

その意味ではプロテスタントは科学的であり現実的とも言えます。

聖人を認めないプロテスタントはまた、聖人のいる教会を通して神に祈ることをせず、神と直接に対話をします。

権威主義的ではないのがプロテスタント、と筆者には感じられます。

一方カトリックは教会を通して、つまり神父や聖人などの聖職者を介して神と対話をします。

そこに教会や聖人や聖職者全般の権威が生まれます。

カトリック教会はこの権威を守るために古来、さまざまな工作や策謀や知恵をめぐらしました。

それは宗教改革を呼びプロテスタントが誕生し、カトリックとの対立が顕在化していきました。

カトリックは慈悲深い宗教であり、懐も深く、寛容と博愛主義にも富んでいます。

プロテスタントもそうです。

キリスト教徒ではない筆者は、両教義を等しく尊崇しつつ、聖人よりも一般信徒を第一義に考えるプロテスタントの11月1日により共感を覚えます。

また、教会の権威によるのではなく、自らの意思と責任で神と直接に対話をする、という教義にも魅力を感じます。

それでは筆者は反カトリックの男なのかというと、断じてそうではありません。

筆者は全員がカトリック信者である家族と共に生き、カトリックとプロテスタントがそろって崇めるイエス・キリストを敬慕する、自称「仏教系無心論者」です。

 

 

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イタリア初の女性首相と極右の因縁

極右と規定されることも多い右派「イタリアの同胞」のジョルジャ・メローニ党首が、イタリア初の女性首相となって1週間が経過しました。

連立政権とはいえ、ついに極右政党が政権を握る事態に欧州は驚愕した、と言いたいところですが現実は違います。欧州は警戒心を強めながらもイタリアの状況を静観してきた、というのが真実です。

メローニ政権は、少しの反抗を繰り返しながらも、基本的にはEU(欧州連合)と協調路線を取ると見られています。

近年、欧州には極右政党が多く台頭しました。それは米トランプ政権や英国のBrexit(EU離脱)勢力などに通底した潮流です。

フランスの「国民連合」、イタリアの「同盟」と「イタリアの同胞」、スペインの「VOX」ほかの極右勢力が躍進して、EUは強い懸念を抱き続けてきました。

2017年には極右興隆の連鎖は、ついにドイツにまで及びました。極右の「ドイツのための選択肢」が総選挙で躍進して、初めての国政進出ながら94議席もの勢力になりました。

それはEUを最も不安にしました。ナチズムの亡霊を徹底封印してきたドイツには、極右の隆盛はあり得ないと考えられてきたからです。

それらの極右勢力は、決まって反EU主義を旗印にしています。EUの危機感は日増しに募りました。

そしてとうとう2018年、極右の同盟と極左の五つ星運動の連立政権がイタリアに誕生しました。

ポピュリストの両党はいずれも強いEU懐疑派です。英国のBrexit騒動に揺れるEUに過去最大級の激震が走りました。

だが極右と極左が野合した政権は、反EU的な政策を掲げつつもEUからの離脱はおろか、決定的な反目を招く動きにも出ませんでした。

イタリアでは政治制度として、対抗権力のバランスが最優先され憲法で保障されています。そのため権力が一箇所に集中しない、あるいはしにくい。

その制度は、かつてフムッソリーニとァシスト党に権力が集中した苦しい体験から導き出されたものです。同時にそれは次々に政治混乱をもたらす仕組みでもあります。

一方で、たとえ極左や極右が政権を担っても、彼らの思惑通りには事が運ばれない、という効果も生みます。

過激勢力が一党で過半数を握れば危険ですが、イタリアではそれはほとんど起こりえません。再び政治制度が単独政党の突出を抑える力を持つからです。

イタリアが過激論者に乗っ取られにくいのは、いま触れた政治制度そのものの効用のほかに、イタリア社会がかつての都市国家メンタリティーを強く残しながら存在しているのも理由の一つです。

イタリアが統一国家となったのは今からおよそ160年前のことに過ぎません。

それまでは海にへだてられたサルデーニャ島とシチリア島は言 うまでもなく、半島の各地域が細かく分断されて、それぞれが共和国や公国や王国や自由都市などの独立国家として勝手に存在を主張していました。

国土面積が日本よりも少し小さいこの国の中には、周知のようにバチカン市国とサンマリノ共和国という2つのれっきとした独立国家があり、形だけの独立国セボルガ公国等もあります。

だが、実際のところはそれ以外の街や地域もほぼ似たようなものです。

ミラノはミラノ、ヴェネツィアはヴェネツィア、フィレンツェはフィレンツェ、ナポリはナポリ、シチリアはシチリア…と各地はそれぞれ旧独立小国家のメンタリティを色濃く残しています。

統一国家のイタリア共和国は、それらの旧独立小国家群の国土と精神を内包して一つの国を作っているのです。だから政府は常に強い中央集権体制に固執します。

もしもそうしなければ、イタリア共和国が明日にでもバラバラに崩壊しかねない危険性を秘めているからです。

各都市国家の末裔たちは、それぞれの存在を尊重し盛り立てつつ、常にライバルとして覇を競う存在でもあります。

イタリア共和国は精神的にもまた実態も、かつての自由都市国家メンタリティーの集合体なのである。そこに強い多様性が生まれます。

そして多様性は政治の過激化を抑制します。多様性が息づくイタリアのような社会では政治勢力が四分五裂して存在しますそこでは、極論者や過激派が生まれやすい。

ところがそれらの極論者や過激派は、多くの対抗勢力を取り込もうとして、より過激に走るのではなくより穏健になる傾向が強い。跋扈する極論者や過激思想家でさえ心底では多様性を重んじるからです。

2018年に船出した前述の極右同盟と極左五つ星運動による連立政権は、政治的過激派が政権を握っても、彼らの日頃の主張がただちに国の行く末を決定付けることはない、ということを示しました。

多様性の効能です。

今回のイタリアの同胞が主導する右派政権もおそらく同じ運命を辿るでしょう。

メローニ首相率いるイタリアの同胞は、元々はEUに懐疑的でロシアのクリミア併合を支持するなど、欧州の民主主義勢力と相いれない側面を持ちます。

「イタリアの同胞」はファシスト党の流れも汲んでいます。だがイタリア国民の多くが支持したのは右派であって極右ではありません。ファシズムにいたっては論外です。

メローニ新首相はそのことを知り過ぎるほどに知っています。彼女は選挙戦を通して反民主主義や親ロシア寄りのスタンスが、欧州でもまたイタリア国内でも支持されないことをしっかりと学んだように見えます。

メローニ「右派」政権は、明確に右寄りの政策を打ち出すものの、中道寄りへの軌道修正も行うというスタンスで進むでしょう。

それでなければ、彼女の政権はイタリアと欧州全体の世論を敵に回すことになり、すぐにでも行き詰まる可能性が高い。

 

 

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タナボタ英新首相の正体

リシ・スナク氏が英国の新首相に就任しました

ジョンソン元首相、トラス前首相に続く3人目の負け犬首相です。前代未聞の事態が次々に起きる英国は、あるいは存続の危機にあるのではないか、と本気で懸念します。

ジョンソン元首相は追い詰められて辞任しました。トラス前首相は失脚しました。そしてスナク新首相は保守党の党首選でトラス前首相に敗れたばかり。彼もやはり負け犬なのです。

負け犬が3連続で首相を務める英国はきわめて異様に見えます。

何よりも先ずそのことを指摘しておきたいと思います。

負け犬から突然、タナボタで英国最強の権力者になった、スナク首相の就任演説をBBCの実況放送で聴きました。

辞職したばかりのトラス前首相のミスをさりげなく、だが明確に指摘しながら、そのミスを是正し英国経済を立て直す、と宣言する様子は傲岸なふうではなく、むしろ頼もしいものでした。

しかしそれはまだ単なる彼の言葉に過ぎません。

コロナパンデミックに続くロシアのウクライナへの侵攻によって、英国に限らず世界中の経済は危機にさらされています。巨大な危難は英国一国だけで解決できる問題ではないと見えます。

世界経済は複雑に絡み合い利害を交錯させながら回っています。

有名金融関連企業で働いた後、ジョンソン政権で財務大臣も務めたスナク首相は、実体経済にも詳しいに違いありません。それでも単独で英国経済を立て直せるかどうかは未知数です。

経済政策でコケれば彼もまた早期退陣に追い込まれる可能性が高い。そうなるとスナク氏は再び落伍者となって、負け犬指導者が4代続く事態になり英国存続の危機はいよいよ深化するばかりです。

閑話休題

スナク首相は経済政策を成功させるか否かに関わらず、既に歴史に残る一大事業を成し遂げました。筆者の目にはそちらのほうがはるかに重要トピックと映ります。

いうまでもなくスナク首相が、英国初の非白人の首班、という事実です。

彼は宗教もキリスト教ではなくヒンドゥー教に帰依する正真正銘のインド系イギリス人です。人種差別が根深いイギリスでは、画期的な出来事、といっても過言ではありません。

2009年、世界はアメリカ初の黒人大統領バラク・オバマの誕生に沸きました。それは歴史の転換点となる大きな出来事でした。

だが同時にそれは、公民権運動が激しく且つ「人種差別が世界で最も少ない国アメリカ」に、いつかは起きる僥倖と予見できました。

アメリカが世界で最も人種差別の強い国、というのは錯覚です。アメリカは逆に地球上でもっとも人種差別が少ない国です。

これは皮肉や言葉の遊びではありません。奇を衒(てら)おうとしているのでもありません。これまで多くの国に住み仕事をし旅も見聞もしてきた、筆者自身の実体験から導き出した結論です。

米国の人種差別が世界で一番ひどいように見えるのは、米国民が人種差別と激しく闘っているからです。問題を隠さずに話し合い、悩み、解決しようと努力をしているからです。

断固として差別に立ち向かう彼らの姿は、日々ニュースになって世界中を駆け巡り非常に目立ちます。そのためにあたかも米国が人種差別の巣窟のように見えます。

だがそうではありません。自由と平等と機会の均等を求めて人種差別と闘い、ひたすら前進しようと努力しているのがアメリカという国です。

長い苦しい闘争の末に勝ち取った、米国の進歩と希望の象徴が、黒人のバラック・オバマ大統領の誕生だったことは言うまでもありません。

物事を隠さず直截に扱う傾向が強いアメリカ社会に比べると、英国社会は少し陰険です。人々は遠回しに物を言い、扱います。言葉を替えれば大人のずるさに満ちています。

人種差別でさえしばしば婉曲になされます。そのため差別の実態が米国ほどには見えやすくありません。微妙なタッチで進行するのが英国の人種差別です。

差別があからさまには見えにくい分、それの解消へ向けての動きは鈍ります。だが人種差別そのものの強さは米国に勝るとも劣りません。

それはここイタリアを含む欧州の全ての国に当てはまる真実です。

その意味では、アメリカに遅れること10年少々で英国に非白人のスナク首相が誕生したのは、あるいはオバマ大統領の出現以上に大きな歴史的な事件かもしれません。

筆者はスナク首相と同じアジア人として、彼の出世を心から喜びます。

その上でここでは、政治的存在としての彼を客観的に批評しようと試みています。

スナク首相は莫大な資産家でイギリスの支配階級が多く所属する保守党員です。彼はBrexit推進派でもあります。

個人的に筆者は、彼がBrexitを主導した1人である点に不快感を持ちます。Brexitは徹頭徹尾NGだと考えるからです。

白人支配の欧州に生きるアジア人でありながら、まるで排外差別主義のナショナリストのような彼の境遇と経歴と思想はひどく気になります。

ジョンソン首相の派手さとパフォーマンス好きと傲慢さはないものの、彼の正体は「褐色のボリス・ジョンソン」という印象です。

それゆえ筆者は英国の、そして欧州の、ひいては世界に好影響を与えるであろう指導者としての彼にはあまり期待しません。

期待するのはむしろ彼が、ジョンソン前首相と同様に「英国解体」をもたらすかもしれない男であってほしいということです。

つまりスナク首相がイギリスにとっては悪夢の、欧州にとっては都合の良い、従って世界の民主主義にとっても僥倖以外の何ものでもない、英連合王国の解体に資する動きをしてくれることです。

 

 

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トラス首相とともに沈み行く英国が見える

トラス英首相が辞任を表明しました。

就任からわずか6週間での辞任。

驚きですが、予定調和のような。

不謹慎ですが、何かが喜ばしいような。

何が喜ばしいのかと考えてみると、ボリス・ジョンソン前首相の鳥の巣ドタマが見えてきました。

ジョンソン前首相はいやいやながら辞任し、虎視眈々と首相職への返り咲きを狙っています。

トラスさんのすぐ後ではなくとも、将来彼は必ず首相の座を目指すことでしょう。

彼の首相就任は英国解体への助走、あるいは英国解体の序章。。。

なるほど。喜ばしさの正体はこれです。筆者は英国の解体を見てみたいのです。

英国解体は荒唐無稽な話ではありません。

英国はBrexitによって見た目よりもはるかに深刻な変容に見舞われています。

その最たるものは連合王国としての結束の乱れです。

イングランド、ウェールズ、スコットランド、北アイルランド から成る連合王国は、Brexitによって連合の堅実性が怪しくなりました。

スコットランドと北アイルランドに確執の火種がくすぶっています。

スコットランドはかねてから独立志向が強い。そこにBrexitが見舞いました。住民の多くがBrexitに反発しています。

スコットランドは独立とEUへの独自参加を模索し続けるでしょう。

北アイルランドも同じです。

Brexitを主導したのはジョンソン前首相でした。彼は分断を煽ることで政治力を発揮する独断専行型の政治家です。

Brexitのように2分化された民意が正面からぶつかる政治状況では、独断専行が図に当たればあらゆる局面で政治的に大きな勝ちを収めることができます。

言葉を変えれば、2分化した民意の一方をけしかけて、さらに分断を鼓舞して勝ち馬に乗るのです。

彼はそうやって選挙を勝ち抜きBrexitも実現させました。だが彼の政治手法は融和団結とは真逆のコンセプトに満ちたものです。

彼の在任中には英国の分断は癒されず、むしろ密かに拡大し進行しました。

だが国の揺らぎは、エリザベス女王という稀代の名君主の存在もあって、あまり目立つことはありませんでした。

そんな折、ジョンソン首相がコロナ政策でつまずいて退陣しました。

国の結束という意味ではそれは歓迎するべきことでした。

ところが間もなくエリザベス女王が死去してしまいました。

代わってチャールズ3世が即位しました。新国王は国民に絶大な人気があるとは言えません。国の統合に影が差しました。

そこへもってきて就任したばかりのトラス首相が辞めることになりました。

彼女の辞任によって、退陣したばかりのジョンソン前首相がすぐにも権力の座をうかがう可能性が出てきまshじた。

ジョンソン前首相は英国民の分断を糧に政治目標を達成し続けたトランプ主義者であり、自らの栄達のためなら恐らく英国自体の解体さえ受け入れる男です。

彼が首相に返り咲くのは、先述したように英国の解体へ向けての助走また序章になる可能性がありあす。

それは悪い話ではありません。

理由はこうです:

英連合王国が崩壊した暁には、独立したスコットランドと北アイルランドがEUに加盟する可能性が高い。2国の参加はEUの体制強化につながります。

世界の民主主義にとっては、EU外に去った英国の安定よりも、EUそのもののの結束と強化の方がはるかに重要です。

トランプ統治時代、アメリカは民主主義に逆行するような政策や外交や言動に終始しました。横暴なトランプ主義勢力に対抗できたのは、辛うじてEUだけでした。

EUはロシアと中国の圧力を押し返しながら、トランプ主義の暴政にも立ち向かいました。

そうやってEUは、多くの問題を内包しながらも世界の民主主義の番人たり得ることを証明しました。

そのEUはBrexitによって弱体化しました。EUの削弱は、それ自体の存続や世界の民主主義にとって大きなマイナス要因です。

英連合王国が瓦解してスコットランドと北アイルランドがEUに加盟すれば、EUはより強くなって中国とロシアに対抗し、将来再び生まれるであろう米トランプ主義的政権をけん制する力でのあり続けることができます。

大局的な見地からは英国の解体は、ブレグジットとは逆にEUにとっても世界にとっても、大いに慶賀するべき未来です。

《エリザベス女王死去⇒チャールズ国王即位⇒トラス首相辞任⇒ジョンソン前首相返り咲き》

という流れは、歴史が用意した英国解体への黄金比であり方程式です。

というのはむろん筆者の希望的観測ではありますが。。。

 

 

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