令和5年8月15日にも聞く「東京だョおっ母さん」~兵士偶像化の危うさ

                             ©ザ・プランクス

島倉千代子が歌う、母を連れて戦死した兄を靖国神社に偲ぶ名歌、「東京だョおっ母さん」を聞くたびに筆者は泣きます。言葉の遊びではなく、お千代さんの泣き節の切ない優しさに包まれながら、東京での学生時代の出来事を思い出し、筆者は文字通り涙ぐむのです。

筆者は20歳を過ぎたばかりの学生時代に、今は亡き母と2人で靖国神社に参拝しました。筆者の靖国とは第一に母の記憶だ。そして母の靖国神社とは、ごく普通に「国に殉じた人々の霊魂が眠る神聖な場所」です。母の心の中には、戦犯も分祀も合祀も長州独裁も明治政府の欺瞞も、つまり靖国神社の成り立ちとその後の歴史や汚れた政治に関わる一切の知識も、従って感情もありませんでした。母は純粋に靖国神社を尊崇していました。

「東京だョおっ母さん」では戦死した兄が

♫優しかった兄さんが 桜の下でさぞかし待つだろうおっ母さん あれが あれが九段坂 逢ったら泣くでしょ 兄さんも♫

と切なく讃えられます。

歌を聞くたびに筆者は泣かされます。靖国に祭られている優しい兄さんに、同じ神社に付き添って行った、温和で情け深い母の記憶が重なるからです。

だが涙をぬぐったあとでは、筆者の理性がいつもハタと目覚めます。戦死した優しい兄さんは間違いなく優しい。だが同時に彼は凶暴な兵士でもあったのです。

優しかった兄さんは、戦場では殺人鬼であり征服地の人々を苦しめる大凶でした。彼らは戦場で壊れて悪魔になりました。歌からはその暗い真実がきれいさっぱり抜け落ちています。

日本人は自分の家族や友人である兵士は、自分の家族や友人であるが故に、慈悲や優しさや豊かな人間性を持つ兵士だと思い込みがちです。

だが筆者は歌を聞いて涙すると同時に、「壊れた日本人」の残虐性をも思わずにはいられません。

不幸中の幸いとも呼べる真実は、彼らが実は「壊れた」のではないということです。彼らは国によって「壊された」のでした。

優しい心を壊された彼らは、戦場で悪鬼になりました。敵を殺すだけではなく戦場や征服地の住民を殺し蹂躙し貶めました。

兵士の本質を語るとムキになって反論する人々がいます。

兵士を美化したり感傷的に捉えたりするのは、日本人に特有の、危険な精神作用です。多くの場合それは、日本が先の大戦を「自らで」徹底的に総括しなかったことの悪影響です。

兵士を賛美し正当化する人々はネトウヨ・ヘイト系排外差別主義者である可能性が高い。そうでないない場合は、先の大戦で兵士として死んだ父や祖父がいる者や、特攻隊員など国のために壮烈な死を遂げた若者を敬愛する者などが主体です。

つまり言葉を替えれば、兵士の悲壮な側面に気を取られることが多い人々です。その気分は往々にして被害者意識を呼び込みます。

兵士も兵士を思う自分も弱者であり犠牲者である。だから批判されるいわれはない。そこで彼らはこう主張します:

兵士は命令で泣く泣く出征していった。彼らは普通の優しい父や兄だった。ウクライナで無辜な市民を殺すロシア兵も国に強制されてそうしている可哀そうな若者だ、云々。

そこには兵士に殺される被害者への思いが完全に欠落しています。旧日本軍の兵士を称揚する者が危なっかしいのはそれが理由です。

兵士の実態を見ずに彼の善良だけに固執する、感傷に満ちた歌が島倉千代子が歌う名曲「東京だョおっ母さん」なのです。

凶暴であることは兵士の義務です。戦場では相手を殺す残虐な人間でなければ殺されます。殺されたら負けです。従って勝つために全ての兵士は凶暴にならなければなりません。だが旧日本軍の兵士は、義務ではなく体質的本能的に凶暴残虐な者が多かったフシがあります。彼らは戦場で狂おしく走って鬼になりました。「人間として壊れた」彼らは、そのことを総括せずに戦後を生き続け多くが死んでいきました。

日本人の中にある極めて優しい穏やかな性格と、それとは正反対の獣性むき出しの荒々しい体質。どちらも日本人の本性です。凶暴、残虐、勇猛等々はツワモノの、つまりサムライの性質。だがサムライは同時に「慎み」も持ち合わせていました。それを履き違えて、「慎み」をきれいさっぱり忘れたのが、無知で残忍な旧日本帝国の百姓兵士でした。

百姓兵の勇猛は、ヤクザの蛮勇や国粋主義者の排他差別思想や極右の野蛮な咆哮などと同根の、いつまでも残る戦争の負の遺産であり、アジア、特に中国韓国北朝鮮の人々が繰り返し糾弾する日本の過去そのものです。アジアだけではありません。日本と戦った欧米の人々の記憶の中にもなまなましく残る歴史事実。それを忘れて日本人が歴史修正主義に向かう時、人々は古くて常に新しいその記憶を刺激されて憤るのです。

百姓兵に欠如していた日本人のもう一つの真実、つまり温厚さは、侍の「慎み」に通ずるものであり、優しい兄さんを育む土壌です。それは世界の普遍的なコンセプトでもあります。戦場での残虐非道な兵士が、家庭では優しい兄であり父であることは、どこの国のどんな民族にも当てはまるありふれた図式です。しかし日本人の場合はその落差が激し過ぎる。「うち」と「そと」の顔があまりにも違い過ぎるのです。

その落差は日本人が日本国内だけに留まっている間は問題ではありませんでした。凶暴さも温厚さも同じ日本人に向かって表出されるものだったからです。ところが戦争を通してそこに外国人が入ったときに問題が起こりました。土着思想しか持ち合わせない多くの旧帝国軍人は、他民族を「同じ人間と見なす人間性」に欠け、他民族を殺戮することだけに全身全霊を傾ける非人間的な暴徒集団の構成員でした。

そしてもっと重大な問題は、戦後日本がそのことを総括し子供達に過ちを充分に教えてこなかった点です。かつては兄や父であった彼らの祖父や大叔父たちが、壊れた人間でもあったことを若者達が知らずにいることが重大なのです。なぜなら知らない者たちはまた同じ過ちを犯す可能性が高まるからです。

日本の豊かさに包まれて、今は「草食系男子」などと呼ばれる優しい若者達の中にも、日本人である限り日本人の獣性が密かに宿っています。時間の流れが変わり、日本が難しい局面に陥った時に、隠されていた獣性が噴出するかもしれません。いや、噴出しようとする日が必ずやって来ます。

その時に理性を持って行動するためには、自らの中にある荒々しいものを知っておかなければなりません。知っていればそれを抑制することが可能になります。われわれの父や祖父たちが、戦争で犯した過ちや犯罪を次世代の子供達にしっかりと教えることの意味は、まさにそこにあります。

真の悪は、言うまでもなく兵士ではありません。戦争を始める国家権力です。

先の大戦で多くの若い兵士を壊して、戦場で悪魔に仕立て上げた国家権力の内訳は、先ず昭和天皇であり、軍部でありそれを支える全ての国家機関でした。

兵士の悪の根源は天皇とその周辺に巣食う権力機構だったのです。

彼らは、天皇を神と崇める古代精神の虜だった未熟な国民を、情報統制と恐怖政治で化かして縛り上げ、ついには破壊しました。

それらの事実は敗戦によって白日の下にさらされ、勝者の連合国側は彼らを処罰しました。だが天皇は処罰されず多くの戦犯も難を逃れました。

そして最も重大な瑕疵は、日本国家とその主権者である国民が、大戦までの歴史と大戦そのものを、とことんまで総括する作業を怠ったことです。

それが理由の一つになって、たとえば銃撃されて亡くなった安倍元首相のような歴史修正主義者が跋扈する社会が誕生しました。

歴史修正主義者は兵士を礼賛します。兵士をひたすら被害者と見る感傷的な国民も彼らを称えます。そこには兵士によって殺戮され蹂躙された被害者がいません。

彼らは軍国主義日本が近隣諸国や世界に対して振るった暴力を認めず、従ってそのことを謝罪もしません。あるいは口先だけの謝罪をして心中でペロリと舌を出しています。

そのことを知っている世界の人々は「謝れ」と日本に迫ります。良識ある日本人も、謝らない国や同胞に「謝れ」と怒ります。

すると謝らない人々、つまり歴史修正主義者や民族主義者、またネトウヨ・ヘイト系排外差別主義者らが即座に反論します。

曰く、もう何度も謝った。曰く、謝ればまた金を要求される。曰く、反日の自虐史観だ。曰く、当時は誰もが侵略し殺戮した、日本だけが悪いのではない云々。

「謝れ!」「謝らない!」という声だけが強調される喧々諤々の不毛な罵り合いは、実は事態の本質を見えなくして結局「謝らない人々」を利しています。

なぜなら謝罪しないことが問題なのではありません。日本がかつて犯した過ちを過ちとして認識できないそれらの人々の悲惨なまでの不識と傲岸が、真の問題なのです。

ところが罵り合いは、あたかも「謝らないこと」そのものが問題の本質であり錯誤の全てでもあるかのような錯覚をもたらしてしまいます。

謝らない或いは謝るべきではない、と確信犯的に決めている人間性の皮相な輩が、かつて国を誤りました。そして彼らは今また国を誤るかもしれない道を辿ろうとしています。

その懸念を体現するもののひとつが、国民の批判も反論も憂慮も無視し法の支配さえ否定して、安倍元首相を国葬にした岸田政権のあり方です。

歴史修正主義者だった安倍元首相を国葬にするとは、その汚点をなかったことにしその他多くの彼の罪や疑惑にも蓋をしようとする悪行です。

戦争でさえ美化し、あったことをなかったことにしようとする歴史修正主義者が、否定されても罵倒されても雲霞の如く次々に湧き出すのは、繰り返し何度でも言いますが、日本が戦争を徹底総括していないからです。

総括をして国家権力の間違いや悪を徹底して抉り出せば、日本の過去の過ちへの「真の反省」が生まれ民主主義が確固たるものになります。

そうなれば民主主義を愚弄するかのような安倍元首相の国葬などあり得ず、犠牲者だが同時に加害者でもある兵士を、一方的に称えるような国民の感傷的な物思いや謬見もなくなるでしょう。

今のままでは、日本がいつか来た道をたどらないとは決して言えません。

拙速に安倍元首相の国葬を行った政府の存在や、兵士を感傷的に捉えたがる国民の多い社会は、78回目の終戦記念日を迎えても依然として平穏な戦後とはほど遠い、と筆者の目には映ります。

 

 

 

 

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