火葬と埋葬

イタリア人の筆者の妻は、埋葬を葬儀の基本とするカトリック教徒です。ところが、彼女はいつか訪れる死に際しては、それを避けて火葬にされたいと考えています。

しかし、カトリック教徒が火葬を望む場合には、生前にその旨を書いて署名しておかない限り、自動的に埋葬されるのが習わしです。

妻は以前から埋葬という形に抵抗感を持っていましたが、筆者と結婚し日本では火葬が当たり前だと知ってからは、さらにその思いを強くしました。日本人の筆者はもちろん火葬派です。

筆者は先年、亡くなった母が荼毘に付された際、火葬によって肉体が精神に昇華する様をはっきりと見ました。

母の亡きがらがそこにある間は苦しかった。が、儀式が終わって骨を拾うとき、ふっきれてほとんど清々しい気分さえ覚えました。

それは母が、肉体を持つ苦しい存在から精神存在へと変わった瞬間でした。

以来、死に臨んでは、妻も自分も埋葬ではなく火葬という潔い形で終わりたいと、いよいよ切に願うようになっています。

葬礼はどんな形であれ生者の問題です。生き残る者が苦しい思いをする弔事は間違っています。

筆者は将来、妻が自分よりも先立った場合、もしかすると彼女が埋葬されることには耐えられないかもしれません。

土の中で妻がゆっくりと崩れていく様を想うのは、筆者には決してたやすいことではない。キリスト教徒ではない分、遺体に執着して苦しむという事態もないとは言えません。

将来、十中八九は男の筆者が先にいくのでしょうが、万が一ということもあります。念のために、一刻も早く火葬願いの書類を作ってくれ、と筆者は彼女に言い続けてます。

普通なら妻も筆者もまだ死ぬような年齢ではありませんが、それぞれの親を見送り、時々自らの死を他人事ではないと思ったりする年代にはなりました。

何かが起こってからでは遅いのです。

 

 

 

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