インターネットが好きな人々の中にはテレビを全く見ない、あるいはそれを信用しないという者が多くいます。
人それぞれの考え方がありますからそれはそれで構わないと思います。だが同時にそうした人々は、インターネットにも同様の警戒心を抱きつつ進むほうが良いでしょう。
テレビをはじめとする大手メディアは資金や人的資源を豊富に持っています。彼らはそれを縦横無尽に使って情報を収集します。大手メディアの報道や番組は一次情報の宝庫です。
いうまでもなく一時情報は、それがありのままに正直に提示されたものなら、客観的な事実であり真実である場合がほとんどです。
テレビが嫌いなネット住人もそれを利用しない手はありません。受信料を要求されるNHKを除けば、テレビに流れるそれらの一次情報は全てタダなのです。
同じ無料の情報でも、大手メディアのそれとネット上のそれは違います。
SNSで情報を発信している個人には、自分以外には人材も金もないため、足と時間と労力を使って得る独自情報や見聞は少ない。せいぜい身の回りの出来事が精一杯です。
そこで彼らは大手メディアが発信する一次情報を基に記事を書いたり報道したりすることになります。そしてそこには必ず彼らの解釈や意見や感じ方が盛り込まれます。
その結果ネット空間には偏向や偏見や思い込みに基づく表現もあふれることになります。
筆者はテレビ番組を作ったり紙媒体に記事を書く以外にSNSでも発信しています。その場合には今述べた現実をしっかり意識しながら動いています。
つまり、自分の足で集めた情報以外は、あらゆるメディアやツテや友人知己からの一次情報を自分なりに解釈し考察して、その結果を発信するということです。
そこでは事実や事件の正確な報告よりも「自分の意見を吐露」することが優先されます。換言すれば、他から得た情報や事実や見聞に対して自らの意見を述べるつもりで記事を書くのです。
そこでの最も重要なことは、報道者が自らの報道はバイアスのかかった偏向報道であり、独断と偏見による「物の見方や意見」であることをしっかりと認識することです。
自らの偏向独善を意識するとはつまり、他者の持つ違う見解の存在を認めること、と同義です。他者の見解を認めてそれに耳を貸す者は、やがて独善と偏向から抜け出せるようになります。
SNSでの「発信」を目指す者は、あくまでも情報や事実や「報道」等に基づく、書き手の意見や哲学や思考を述べる努力をするべきです。個人が情報を発信する意味はそこにあると思います。
客観的な情報やニュースは大手メディア上にあふれています。あふれているばかりではなく、それらは正確で内容も優れている場合が多い。個人の発信者の比ではないのです。
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