お気楽な茹でガエル論の危うさ

この直前のエントリー“「緊急事態宣言」という名の日本式ロックダウン”に関して安倍首相ファンの読者から「ロックダウンでも日本には日本のやり方がある。海外の真似をする必要はない」とのいつものご立腹コメントをいただきました。

もっともな主張です。この方はいつもきちんと名前を名乗って筆者の記事への反論を寄せてくれます。安倍首相の熱烈な支持者なので、たいてい“安倍最高”バイアスのかかった意見です。が、それはそれで全く構わない。むしろそうあるべきです。

筆者は筆者で、安倍首相の全てに反対ではありませんが、政治的には彼を支持しません。従って-公に意見を開陳する以上必ず客観的であろうと努力はしているつもりですが-筆者の見方にも筆者のスタンスに立ったバイアスがかかっている可能性がある。いや、必ずバイアスはかかっているでしょう。

筆者はたいていの場合、反論やお叱りをいただくその読者の方にも以上のような前置きを伝えた後で、さらに自分なりの反論をさせていただきます。だが今回は、ブログ上に反論を書かせていただく、と伝えただけでご本人への直接の便りは控えました。理由は単純。申し訳ないが時間がありません。

さて、

4月7日に発せられた緊急事態宣言は、刑罰の伴わない一部地域のロックダウンです、と筆者は規定しました。なぜそう規定するのかといえば、法律や条令による罰則はないものの、そこには罰則に値するかあるいはそれ以上の強い刑罰が科されていると考えるからです。それは日本社会特有の同調圧力による社会的制裁、いわば村八分です。

日本政府や都道府県は、その気になればここイタリアを始めとする多くの欧米諸国がやっているように、刑罰の伴う法律や条例を定めて、緊急事態宣言即ちロックダウンを実行に移すこともできます。だがそれをしない。いま触れたようそれに匹敵するかそれ以上に厳しい制裁ルールが日本社会にはあるからです。

それは政権や都道府県や官憲にとっては、幾重にも都合のいい日本社会のあり方です。法律や条令を持ち出せば、権力側に責任が生じます。外出や仕事や営業を禁止すれば補償もしなければならない。国民から訴えられる可能性だってあります。

現に緊急事態宣言発令後にテレビのインタビューを受けたある居酒屋のオーナーは、補償があるなら自粛して店を閉めるが、補償がなければ生活していけないから店を開け続ける、と宣言しました。それは多くの自営業者や飲食業者、事業者や中小企業や小規模ビジネスオーナーらの偽らざる心境でしょう。

政府の正式規制による閉店や閉鎖なら、お上は責任を負って彼らを補償しなければなりません。だが、それらの人々の自発的な自己規制つまり「自粛」なら、人々の自発的な仕事停止や閉店や工場閉鎖ですから、政府は法律的な責任を負いません。

責任は負わないが慈悲深い権力は、彼ら困窮民に救いの手を差し伸べる。それが今行われようとしている経済政策です。30万円を配り、百万円単位の援助を事業者に施す。政府の法的義務としてではなくいわば「慈悲」として、または「情け」として。法による罰則を伴なうロックダウンと言わずに、飽くまでも国民の自粛を期待する「緊急事態宣言」だと言い張る背景には、そういう思惑も透けて見えます。

一方、ここイタリアを含む欧米各国が行っているロックダウンは、国家の責任と明確な意志によって国民の移動を制限あるいは禁止し、食料生産とその搬送と販売、またライフラインを維持するのに必須な業種以外の営業を規制または禁止する措置です。それは国民への抑圧ではなく、国民の安全保障のための国家の責任としての行為です。だから確固とした法律や条令で国家の責任を明らかにして、これを国民に守らせるのです。

一方日本政府のやっていることは、相も変わらず、未開社会にも似た人々の同調圧力を利用しての既述の姑息な手段です。法律や条令によって自らの責任を明らかにした上で、国民の利益のために必死に動くべきなのに、責任を放棄したままで責任を取る施策と同じ効果が挙がる、日本社会の旧弊を利用しようとしています。

権力が利用している同調圧力、ムラ社会メンタリティーは、近代国家ならむしろ法律によって規制するべき醜悪な文化です。それは差別や偏見や排外主義の温床にもなる悪弊です。それを利用するとはつまり差別や偏見や不寛容や排外主義を鼓舞し標榜するにも等しい、許しがたい行為です。

国民の自由意志を尊重することは、民主主義国家の規範の一丁目一番地です。またそれを持つ国家の縄墨に答えるだけの民度がある国民もすばらしい。だが、国家が責任を逃れるために、たとえそのつもりはなくとも、結果として責任逃れになるような行動を起こすようでは、Covid19の類の未曾有の危機の前では、あまりにも危険が多すぎます。

今日も日本から入るリアルタイムの衛星放送では、政府の側の専門家と称される人々が、国民に8割の人的接触を減らしてほしい、とテレビ画面を通して訴えています。だがそうではないのです。人々の8割の人的接触を減らすために、政府は責任をもって法的な禁止措置を取り、そのうえでさらに国民に「お願い」をするのが筋です。

まるで他人事でもあるかのような様態で国民に「頑張ろう」「成否はわれわれの覚悟にかかっている」等々と呼びかけるのは、この期に及んで全家庭にマスク2枚づつを配布する政策と同じ程度に、いやそれ以上に無責任で無意味でほとんど噴飯ものにも見える愚策です。

7都道府県が自主規制要請の対象になったことを受けて、長野県の軽井沢、伊豆諸島や小笠原など東京都の島嶼部、沖縄県の離島などに避難民が押し寄せているとも聞きます。そうしたことも罰則を伴なう移動禁止令などを出してブレーキをかけないと、やがて制御不能に陥ります。

ロックダウンとは、住民が住まう自治体からの出入を完全に禁止すること。従ってたとえば東京や大阪の住民が、軽井沢や伊豆諸島や沖縄などの「今のところの安全地帯」への避難、逃亡ができなくなります。また封鎖ラインをうまく抜けて目的地に着いたとしても、今度はそこから出られなくなるため、人々の逃亡・移動意欲が殺がれる、という仕組みでもあります。

むろん事は観光地やリゾート地だけの問題ではありません。国民の自主的な規制や禁止のみに任せておけば、新型コロナウイルスを身内に宿した人々が全国を動き回って、思いのままにそれをばら撒くという悪夢のような事態がやって来るかもしれません。

もう既に遅い懸念さえあります。国はやはり可及的速やかに緊急事態宣言を日本全土に適用し、罰則も含むロックダウンなり非常事態宣言なりに切り替え、断乎とした態度で人の移動を規制また禁止してウイルスの拡散を抑制するべきではないか、と考えます。

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