中国とアベノボーレイ&アベの忠犬政権が軍拡の暴走を招く

欧米の多くの心ある人々が呆気に取られた岸田首相の5ヶ国パフォーマンス歴訪は、5月のG7へ向けての日本式の根回しという思惑があったのでしょうが、他者の都合を顧みない無神経と滑稽感がてんこ盛りで見苦しかった。

G7会議に向けて根回しをするとは“会議についての会議をする“ということであり、その間抜け振りは噴飯を通り越して見ている者が恥ずかしくなるほどでした。

日本の情勢に詳しい人々は、岸田首相が国民多数の反対を無視して強行した安倍国葬や統一教会問題など、多くの内患の煩わしさを癒そうとして外遊に逃げた、と喝破しました。

岸田首相は、外遊の目的を「各国首脳と法の支配やルールに基づく国際秩序を守り抜く基本姿勢を確認し、(中露北朝鮮がかく乱する)東アジアの安全保障環境への協力を取り付ける」などと語りました。

だがそれらはこれまでに繰り返し話し合われ、確認し合い、同意されてきた事案です。のみならずG7でもまた文書や口頭で傍証する作業が行われるのがは確実です。会議前に論証する意味はありません。

多忙な折に、敢えて戸別訪問をして「サミットをよろしく」と触れ回るKYな岸田首相は、5ヶ国の首脳の皆さんにとってはさぞ迷惑なことだったでしょう。

だが人笑わせな5ヶ国歴訪にはひとつだけシリアスな動機があり、岸田首相はそのことを隠すために無体な外遊をした、ということも考えられないではありません。

それはつまりロシアによるウクライナ侵略(侵攻ではない)をきっかけに、日本が中露北朝鮮からの軍事的脅威に対抗して軍拡を進めることを、アメリカに認めてもらうよう交渉する、ということである。

岸田首相がその重大なプロセスをカムフラージュするために、アメリカ訪問の前に英仏伊カナダを歴訪したとしたらどうでしょうか。

ロシアの脅威を目の当たりにした欧州では、EU加盟国を筆頭に軍事費を急速に拡大する流れが起きました。中でも、戦後は平和主義に徹してきたドイツの軍事費が、一挙に増大したことが注目されました。

のみならずナチスドイツにアレルギーを持つ欧州が、将来彼らの脅威となるかもしれないドイツの変貌を実に易々と黙認したのです。

ドイツは第2次大戦を徹底総括し、過去のナチスドイツの犯罪を自らのものとして認め、 反省に反省を重ねて謝罪し、果ては「ナチスドイツの犯罪の記憶と反省はドイツ国家のアイデンティティの一部」とさえ認定しました。

日本は欧州の情勢も見つめつつ、中露北朝鮮のうち特に中国の覇権主義に対抗するため、という大義名分を掲げて防衛費の大幅増額を決めました。

加えて米韓インドなどと提携して三国の封じ込めを画策。そこに欧州の協力も取り付けようとしています。

核兵器の製造・保有とまではいかないでしょうが、日本への持ち込みの容認、さらにはアメリカとの核の共有などを含めた抜本的な政策転換を目指していても不思議ではありません。

結果、アジアには軍拡が軍拡を呼ぶ制御不能な状況が訪れようとしています。

日本はこれまでのところ戦争を徹底総括せず、直接にも間接的にも過去の侵略戦争を否認しようと躍起になっています。

それはネトウヨ・ヘイト系俳外差別主義者の一般国民、また同種の政治家や財界人や文化人また芸能人などに支持されて、近隣諸国との摩擦や軋轢を招き続けています。

その意味では、日本が軍拡を進めるのはドイツのそれよりもはるかに危険な事態です。アメリカはそのことを十分に認識しつつ、中国・ロシアへの対抗軸として日本を活用しようとしています。

それは過去に学ぼうとしないアメリカの独善的な態度であり、将来に大きな禍根を残す可能性も高い。

そうではあるものの、しかし、欧州の状況と東アジアの安全保障環境に鑑みて、日本が防衛力強化に踏み切るのはやむを得ない成り行きとも見えます。

日本は自由と民主主義を死守しようとするアメリカほかの友好国と連携しながら、慎重に防衛力を維持するべきです。

その際に日本が強く意識しなければならないのは、今でも多大な基地負担に苦しんでいる沖縄の島々を安全保障の名の元に再び犠牲にしないことです。

南西諸島の西南端の島々では既に、狭い土地に自衛隊基地や部隊がひしめく自然・環境破壊が着々と進められています。次は戦闘による人的破壊があるのみです。

沖縄の人々は、抑圧と差別と一方的な犠牲を再び受け入れてはなりません。

中央政府の対応を監視しつつ、今こそ自己決定権を行使するための決死のアクションを含めた、強い真剣な生き方を模索していくべきです。

 

 

 

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G7への“地ならし歴訪“ってなに?

岸田首相がG7へ向けての“地ならし“に5ヶ国を訪ね歩くとは、いったいどういう意味だったのでしょう?

話したいことがあるなら、それこそG7で話し合えばいいだけの話ではなかったのか。

そのためのG7ではないのでしょうか?

首相の欧米5ヶ国歴訪は、統一教会や安倍国葬や軍拡やコロナ第8波etcの都合の悪い事案から、国民の目をそらしたい一心でのこじつけ外遊に見えないこともありません。

内政危機の場合には国民の目を外に向けさせろ、というのが権力機構の常套手段でもあることですし。

安全保障その他の重要な分野で、日本が米英仏伊カナダと連携するというのは、これまでに幾度となく確認されてきたことです。G7に向けて敢えて“地ならし“をする必要などありません。

それにもかかわらずに、政権の噴飯ものの動きをNHKなどが無批判且つ盛んに報道するものですから、外事にナイーブな国民は首相が何か重大な行動を起こしている、と勘違いしてしまいます。

それって忖度てんこ盛りで、ほとんど詐欺まがいにさえ見えます。

ここイタリアのメローニ首相は岸田首相を暖かく迎えました。日本は大切な友人だし、岸田首相は無能とはいえ友人国の代表だから当然です。

それはマクロン、バイデンの両大統領もスナク、トルドー両首相も同じでしょう。

彼らが岸田首相の意味不明なパフォーマンス訪問をせせら笑うことはありえません。

一方で欧米の冷静な人々は、岸田首相の子供じみた無意味なアクションをぽかんと口を開けて見つめました。

子供じみているその度合いが法外なので、彼らは嘲笑することさえ忘れて呆然としてしまったのです。

岸田首相はもしかすると、安倍元首相の手法を真似て外国訪問を繰り返したいのかも知れません

それならば彼はその前に、安倍元首相の盛んな外遊が、ネトウヨヘイト系差別主義者らが考えたがるほど諸外国に評価されていたものではないことを、しっかりと確認するべきです。

安倍国葬熱烈支持派などの人士は、元首相の無闇な外遊がもたらした結果とも言える彼自身とトランプ前大統領との蜜月、という重篤な問題さえノーテンキに誇り、語りたがります。

そんな彼らには世界世界情勢など読めるわけがありません。

岸田首相は外遊を売りものにしたいのなら、それの是と非をいくえにも沈思黙考した上で、世界の笑いものにならないように慎重に行動するべき、と腹から思います。

 

 

 

 

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ベネディクト16世の置き土産

ほぼ10年前、719年ぶりに自由意志によって生前退位し名誉教皇となったベネディクト16世が、12月31日に死去しました。

厳しいようですが筆者は彼に対しては、安倍晋三元首相と同様に「死ねばみな仏、悪口を言うな」という美徳を適用してはならないと考えています。

なぜならベネディクト16世は聖職者でありながら大いなる権力者でもあったからです。

筆者はベネディクト16世の死に際しては、彼が隠遁生活から突然ゾンビのようによみがえった時に覚えた違和感と同質の感慨しか抱けませんでした。

ベネディクト16世は2020年、隠棲地からふいに表舞台に姿をあらわして、世迷い言にも見える主張をして多くの人々の顰蹙を買ったのです。

世迷い言とは、「カトリック教会は聖職者の独身制を守り通すべき」というものでしだ。カトリック教会の司祭の独身制は、未成年者への性的虐待の元凶ともいうべき悪しき習慣として、今世紀初頭から世界中で厳しく批判されています。

そんな折に、ブラジルのアマゾンに代表される世界中の僻地での司祭不足がクローズアップされました。地球上の辺縁地ではカトリックの司祭の成り手がなく、ミサが開けないために信者への接触もままなりません。それは地域の信者のカトリック離れにつながります。

カトリック教はただでもプロテスタント他の宗派に信者を奪われ続けていて、バチカンは危機感を抱いています。フランシスコ教皇は、既婚者の男性も司祭になる道を開くことで、その問題に風穴を開けようとしました。それは聖職者による性的虐待問題の解決の糸口とも見られた動きでした。

そこに突然反対を表明したのが、この世にほとんど存在しないようにさえ見えた名誉教皇、ベネディクト16世でした。彼は現役の教皇時代からバチカン守旧派のラスボス的存在でした。どうやら死んだ振り隠棲をしていたようです。

ベネディクト16世は自らの退位の理由として高齢を挙げました。しかし歴代教皇はほぼ誰もが死ぬまで職務を全うしてきました。その事実も影響するのか、ベネディクト16世の言動には違和感を覚える、という人が少なくありませんでした。筆者もその一人です。

違和感の理由はいろいろあります。最大のものはベネディクト16世が、聖職者による性的虐待問題から逃げるために退位した、という疑惑また批判です。問題は2002年に明らかになり、2010年には教皇の退位を要求する抗議デモが起きるなど、ベネディクト16世への風当たりが強まりました。

「教義の番犬」とも陰口されたベネディクト16世は、ガチガチの保守派で在位中にはほかにも少なくない問題を起こしました。例えば不用意なイスラム教のジハード批判や、ホロコースト否定者への安易な接近、あるいは「聖職者による性的虐待は“ アメリカの物質偏重文化 ”にも一因がある」というトンチンカン発言などです。

重篤なHIV問題を抱えるアフリカの地で、感染予防に用いられるコンドームの使用に反対する、とやはり無神経に発言したこともありまする。産児制限、同性愛、人工妊娠中絶などにも断固反対の立場でした。またバチカンで横行するマネーロンダリングと周辺問題への対応でも彼は強く批判されました。

さらに言えば教皇ベネディクト16世は、聖職者による未成年者性虐待の元凶とされる、司祭の独身制の維持にも固執していました。そして3年前、あたかもゾンビの出現にも似た唐突さで表舞台に現れて、十年一日のごとく「独身制を維持するべき」と発言したのでした。

その主張への反発と共に、勝手に引退をしておきながらふいにまかり出たさらなる身勝手に、信者の間ではおどろきと反駁の嵐がひそかに起こりました。彼の言動はただでも抵抗の強いバチカン保守派を勢いづけて、フランシスコ教皇の改革を停滞させ、バチカン内に分裂をもたらす恐れもあると批判されました。

教皇の突然の声明は、ローマ教会内の守旧派が名誉教皇を焚きつけて出させたもの、という見方もありました。むしろその方が真相に近かったかもしれません。それでなければ名誉教皇が、友好的な関係にあったフランシスコ教皇に、出しぬけに正面から刀で切りつけるような発言をした真意が判りづらい、と筆者は思います。

世界13億の信者の心の拠り所であるバチカンの威儀は、2005年のヨハネ・パウロ2世の死後、まさしく今ここで言及しているベネディクト16世の在位中に後退しました。少なくとも停滞しました。 しかし2013年に第266代フランシスコ現教皇が就任すると同時に、再び前進を始めました。

清貧と謙虚と克己を武器に、保守派の強い抵抗の中バチカンの改革を推し進めようともがいている現教皇フランシスコは、聖人ヨハネ・パウロ2世に似た優れた聖職者です。少なくともベネディクト16世とは似ても似つかない存在、というふう見えます。

ローマ教皇はカトリック教徒の精神的支柱です。その意味では、日本教という宗教の信者である日本国民の精神的支柱、と形容することもできる天皇によく似ていまする。両者にいわば性霊の廉潔が求められることも共通しています。

その例にならえば、自らの意思で退位したベネディクト名誉教皇は、同じく平成の天皇の地位から自発的に退位した明仁上皇のケースとそっくりです。退位の動機が高齢と健康不安からくる職務遂行への憂慮、というのも同じです。

だが、双方の信者の捉え方は全く違います。明仁上皇の人となりや真摯や誠実を疑う日本国民はほとんどいないでしょう。一方ベネディクト名誉教皇の場合には、明仁上皇のケースとは正反対の意見を抱いている信者が多くいます。「不誠実で身勝手な存在」と声を潜めて言う信者を筆者も多数知っています。

それでも彼らは、名誉教皇が隠棲所・地に引っ込んで、この世にほとんど存在しないような状況が続いていた頃には、彼への反感を覚えることなどありませんでした。存在しないのですから反感の覚えようがありません。そして2013年以降はそれが常態でした。彼の存在の兆候はそれほどに希薄だったのです。

そんな人物がにわかに姿をあらわして、自らの持論をゴリ押しする態度に出たものですから人々が驚かないわけがありません。ましてやその主張が時流に真っ向から対峙する「聖職者の独身制を維持しろ」というものでしたから、反発する信者や関係者が多いのもうなずけます。

司祭の独身制はカトリックの教義ではありません。 単なる慣習です。12世紀以前には聖職者も普通に結婚していました。イエスキリストの一番弟子で初代教皇とされる聖ペテロが結婚していたことは明らかですし、イエスキリスト自身が既婚者だった可能性さえあります。少なくとも彼が独身であることが重要、という宗教的規範はありません。

カトリック教会が司祭の独身制を導入した直接の動機は、聖職者が家庭を持ち子供が生まれた暁に生じる遺産相続問題だったとされます。教会は子供を持つ聖職者に財産を分与しなければならなくなる事態を恐れたのです。そのことに加えて、精神を称えて肉体を貶める二元論の考え方も重要な役割を果たしました。

元々キリスト教は子を産む生殖つまり婚姻と性交を称揚します。そんな宗教が司祭の結婚を否定する奇天烈な因習にとらわれるようになったのは、肉体と精神のあり方を対比して説く二言論の影響があったからです。そこでは肉体に対する精神の優位が主張され、肉体の営為であるセックスが否定されます。だから聖職者の独身が奨励されるのです。

その論法には婚姻をあたかも肉体の行為のためだけのメカニズム、と捉える粗陋があります。婚姻は夫婦の性の営みと共に夫婦の精神的なつながりや行動ももたらす仕組みです。それなのに夫婦の性愛だけを問題にするのは、教会こそが男女のセックスのみを重視する色情狂である、と自ら告白しているようなものです。

聖職者が独身であることが、性的虐待行為の「引き金」の全て、という証拠はありません。また既婚者であることが虐待行為の完全抑止になる訳でもありません。しかし、相当の効力はあると考えられます。それだけでも独身制を破棄する意味があります。性欲を無理やり抑え込むから聖職者がいびつな性衝動に囚われるのです。

だがそうしたことよりも何よりも、聖職者の結婚を不浄とみなす馬鹿げた考えを捨てる意味で、カトリック教会は独身制の継続を諦めるべきと思います。独身(制)の強要は不誠実で、偽善的で、卑猥でさえある教会の偏執に過ぎない、という真実に教会自身がそろそろ気づくべきです。

名誉教皇の突然の寝ボケた声明は、世界中で湧き起こっている聖職者の性的虐待問題の火にひそかに油を注ぎました。燃え上がったのは反感の炎と共に保守派の気炎です。対立する二つの火焔はさらに燃え上がって、ローマ教会を焼き尽くし大きく分裂させる可能性もゼロではありません。

突然のようですが、しかし、最後に付け加えておきたいと思います。

名誉教皇ことベネディクト16世は、教皇在位の頃から時流や世間に合わないずれた言動をすることがよくありました。そんな彼の真の問題は実は、コミュニケーション能力の欠落にあった、と筆者は考えます。

教義と理論のみを愛する無味乾燥な神学者、と見えなくもなかった教皇ベネディクト16世は、温かく豊かな情感と信義と慈悲を教会に求める大部分の信者には不人気でした。

ベネディクト16世はコミュニケーションが絶望的に下手だったのです。

コミュニケーション能力のない者が教皇になるのは禁物です。ローマ教皇は神学の押し売りではなく、愛と寛容と慈悲と救済の喧伝に長けた者、つまりコミュニケーションの達人が就くべき地位なのです。

 

 

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サッカーには人心の写し絵という深刻な一面もある

2022年W 杯決勝戦を戦ったアルゼンチンとフランスのどちらを応援するか、という世論調査がイタリアで行われました。

そこではおよそ7割がアルゼンチン、2割がフランス、1割は両方あるいはどちらでもない、と回答しました。

いくつかの統計がありましたが、いずれも圧倒的にアルゼンチン支持が多い結果でした。

アルゼンチンにはイタリア移民が多い。

その影響もあるのでしょうが、イタリアのプロサッカーリーグのセリエAでプレーするアルゼンチン人選手も少なくありません。

付け加えれば、アルゼンチンのスーパースター・メッシもイタリア系(祖父)です。メッシという名前もイタリアの姓です。

その統計は、しかし、イタリア人がフランスを好いていないという意味ではないと思います。

なぜなら例えばフランスとドイツが対決したならば、ほぼ間違いなくフランス支持が7割、ドイツ支持が2割というような数字になるからです。

W杯の優勝回数だけを見れば、イタリアとドイツは南米のブラジルとともに世界サッカーのトップご3家を形成します。

イタリアにとってはブラジルもドイツもライバルですが、ブラジルは同じラテン系なのでより親近感を覚えます。

片やドイツはライバルであると同時に、歴史と欧州の先進民主主義国の理念を共有する国としてやはり強い愛着を感じます。

ところがドイツはかつてヒトラーを持った国です。ドイツ国民は必死でヒトラーの悪を清算し謝罪し否定して、国民一丸となって過去を総括・清算しました。結果彼らの罪は大目にみられるようになりました。

だがドイツに対する欧州人の警戒心が全て消えたわけではありません。何かのネジがゆるむとドイツはまたぞろ暴虐の奔流に支配され我を忘れるのではないか、と誰もがそっと憂慮しながら見つめています。

欧州の人々が密かにだが断固として抱えているドイツ人への不信感は、彼らが国際政治の舞台で民主主義の旗手となって前進する今この時でも変わりません。

イタリア国民はW杯で日本がドイツを破ったとき狂喜しました。

彼らが普段から日本びいきという事実に加えて、ドイツがサッカーではライバル、政治的にはナチスの亡霊に囚われた国、としての反感がどうしてもくすぶるからです。

戦争を徹底総括したドイツに反感を持つのなら、それさえしてこなかった日本にはもっと嫌悪感を持ってもいいはずですが、何しろ日本は遠い。直接の脅威とは感じ難いのです。

先の大戦中、日独伊三国同盟で結ばれていたドイツとイタリアは、1943年に仲たがいが決定的になりました。同年10月3日、イタリアはドイツに宣戦布告。

イタリアは開戦後しばらくはナチスと同じ穴のムジナでしたが、途中でナチスの圧迫に苦しむ被害者になっていきました。ドイツ軍によるイタリア国民虐殺事件も多く発生しました。

戦後、イタリアがドイツに対して、ナチスに蹂躙され抑圧された他の欧州諸国と同じ警戒感や不信感を秘めて対することが多いのは、第2次大戦におけるそういういきさつがあるからです。

イタリア人を含めた全てのヨーロッパ人は、ドイツの経済力に感服しています。同時にドイツ以外の全てのヨーロッパ人は、心の奥で常にドイツ人を警戒し監視し続けています。

彼らはヨーロッパという先進文明地域の住人らしく、ドイツ人とむつまじく付き合い、彼らの科学哲学経済その他の分野での高い能力を認め、尊敬し、評価し、喜びます。

しかし、ドイツ人は彼らにとっては同時に、残念ながら未だにナチズムの影をひきずる呪われた国民なのです。

いや、ヨーロッパ人だけではありません。米国や豪州や中南米など、あらゆる西洋文明域またキリスト教圏の人々が、同じ思いをドイツ人に対して秘匿しています。

欧米諸国のほとんどの人々は、前述したようにドイツ国民の戦後の努力を評価し、ナチズムやアウシュヴィッツに代表される彼らの凄惨な過去を許そうとしています。あるいは許しました。

しかし、それは断じて忘れることを意味するのではありません。

「加害者は己の不法行為をすぐに忘れるが被害者は逆に決して忘れない」という理(ことわり)を持ち出すまでもなく、ナチスの犠牲者だった人々はそのことに永遠にこだわります。

それは欧米に住んでみれば誰でも肌身に感じて理解できる、人々の良心の疼きです。「許すが決して忘れない」執念の深さは、忘れっぽいに日本人には中々理解できないことですが―。

既述のようにイタリアは、第2次対戦ではドイツと袂を分かち、あまつさえ敵対してナチスの被害を受けまし。だが、初めのうちはナチスと同じ穴のムジナでした。

イタリアにはそのことへの負い目があります。だからイタリア国民は他の欧米諸国民よりもドイツ人を見る目が寛大です。

しかし、ことサッカーに関する限り彼らのやさしい心はどこかに吹き飛びます。

そこに歴史の深い因縁があると気づけば、筆者は自分の口癖である「たかがサッカー。されど、たかがサッカー」などとふざけてばかりもいられないのです。

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神の手と神の足

2022年ワールドカップ・カタール大会決勝戦の翌日、イタリアの新聞(写真)にはメッシを「神の足」を持つ男と称える見出しが躍りました。

「神の足」という形容は、1986年のワールドカップ・メキシコ大会の準々決勝戦で、マラドーナがイングランドを相手にボールを手で触ってゴールに押し込んだ、いわゆる「神の手」ゴールのエピソードになぞらえたものです。

大物議をかもしたその事件は、マラドーナの偉大さが呼んだ審判の誤審という見方と、スポーツマンにあるまじき彼の狡猾なアクション、という考え方があります。

どちらも正しく、どちらも間違っていて、どうでもいいじゃん、サッカーが面白ければ、というのが筆者の意見です。

へてからに

サッカーは手ではなく足が主体のスポーツですから、「神の足」を持つ選手が正当であり、その意味でもマラドーナとメッシのふたりの神のうちでは、やっぱりメッシが上なのかな、と思ったりするのです。

メッシがマラドーナを超えた日

深い悲しみ、怒り、喜びなどの感情の奔流の前には言葉は存在しません。

そのとき人はただ泣き、叫び、哄笑するだけです。つまり感情の激流は言葉を拒絶する。

感情が落ち着いたとき初めて人は言葉を探し言葉によって自らの感情を理解しようとし、他者にも伝えようとします。

それが表現であり文学です。

W杯決勝戦のフランスVSアルゼンチンを、人の深い感情になぞらえて言葉が存在し得ないほどの劇的なせめぎあいだったと言えば、それは少し言葉が過ぎるかもしれません。

しかし、試合はそんな言い方をしても構わないのではないか、と思えるほどの驚きと興奮と歓喜にあふれた世紀のショーでした。

人が書くドラマには伏線とどんでん返しがあります。だがそれは筋書に沿った紆余曲折です。

サッカーのゲームには筋書がない。それは世界トップクラスの選手たちが、彼ら自身も知らない因縁に導かれて走り、飛び、蹴り、躍動する舞台です。

その因縁はしかし、神によって描かれた予定調和ではありません。一流のアスリートたちが汗と泥にまみれて精進し、鍛え、苦しみ、闘い抜いた結果生まれる展開です。

つまりそれは、選手たちの努力によっていくらでも変えることができるいわば疑似宿命。

だから人は彼らの躍動を追いかけ、なぞり、復唱し自らの自由意志にも重ね見て感動するのです。

2022W杯の決勝戦におけるドラマのほとんどは、両チームのスーパースターによって生み出されました。

アルゼンチンはメッシ、フランスは若きエースのエンバペです。

2人はゴールをアシストし、ゲームを構築しつつ相手ディフェンダーたちを引きつけて味方のためにスペースを作り、パスを送りパスを受けて攻撃の起点となって躍動しました。

そして何よりも重要なのは、彼ら自身が次々とゴールを決めたことです。それは眼を見張るような劇的な働きでした。

特にアルゼンチンのメッシの活躍は世界サッカーの歴史を書き換える重要なものになりました。

彼はここまでに数々の記録を打ち立ててきた途方もない名手ですが、自国の天才マラドーナと比較すると格落ちがすると批判され続けました。

それはひとえにメッシがナショナルチームにおいてマラドーナほどの貢献をしてこなかったからでした。

中でもワールドカップでの活躍、とりわけ優勝の経験がないのが致命的とされてきました。

そのメッシが今回大会では見違えるような動きをしました。彼はマラドーナが1986年のW杯をほとんどひとりで勝ち進んだ雄姿をも髣髴とさせるプレイを見せました。

人によって多少の評価の違いはあるでしょうが、メッシはW杯前の時点で数字的には既にマラドーナを凌駕していました。

だが彼のキャラクターはマラドーナほどには民衆に愛されません。

それは例えばかつて日本のプロ野球で、2大スターの長嶋と王のうち、成績では王が断然勝っているものの、人気では長嶋が王を圧倒してきた事例によく似ています。

民衆は完璧主義者の王よりも、明るくハチャメチャな雰囲気を持つ長嶋に心を惹かれてきました。マラドーナはアルゼンチンの長嶋でメッシは王なのです。

だが歴史が進行し、選手たちの生の人間性への興味が失われたときには、彼らが残した数字がクローズアップされるようになります。

そのときに真に偉大と見なされるのは成績の勝る選手です。

メッシはその意味で将来、文字通りマラドーナもペレをも凌ぐ史上最高のサッカー選手と規定されることが確実です。

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W杯3,4位決定戦の是非とスパースター

2022W杯の3~4位決定戦はクロアチアが勝って、2度目の3位タイトル獲得となりました。

W杯に3~4位決定戦は必要か否か、という論争があります。筆者は賛成でもあり反対でもあるという中途半端な立場です。

反対の理由は、W杯の大舞台で4強に入ったチーム、つまり準決勝まで戦ったチームには、3、4位の順番付けなど要らないのではないか、と思うからです。

例えば夏の高校野球など多くの大大会でも順位付けは優勝と準優勝だけです。それ以外は4強、8強、16強などとまとめます。

その方が勝ち進んだチームの全てを讃える感じがあって良いように思います。3、4位があるなら、5位も6位もそれ以下も順位付けをしなければ理屈に合わない。

また優勝を目指して全力を尽くした準決勝敗退の2チームに、果たして3~4位決定戦を戦う十分な動機付けがあるか、という疑問もあります。W杯の頂点を目指すことと3位を目指すことの間には、意欲という意味では大きな落差があるのではないでしょうか。

逆に3位決定戦もあった方が良いと考えるのは、純粋に1人のサッカー・ファンとして、W杯4強にまで残ったチームの試合を1つでも多く見ていたいから。

出場する選手には決勝戦に臨むほどの熱い気持ちは無くても、ピッチに立てば相手のあることですから彼らはやはりそれなりに燃えて、勝ちに行こうとして面白い試合展開になる。過去の例がそれを証明しています。

準決勝で苦杯をなめたチームに敗者復活戦にも似たチャンスを与える、という意味合いからも3~4位決定戦に賛成したいとも考えてきました。

クロアチアVSモロッコは、いわばサッカー新興国同士の対戦と言っても構わない試合でした。

クロアチアは過去にも同じ試合を経験し、前回ロシア大会ではそこを超えて決勝戦まで駒を進めました。従って新興国と呼ぶのはあたらないかもしれない。

だがクロアチアは、もうひとつのビッグイベント欧州杯ではベスト8が最高でそれほどパッとしません。世界の強豪国に比較するとほぼ常にダークホース的存在に留まっています。

今回大会でのモロッコの進撃は驚異的でした。アフリカ勢として初めて準決勝まで進み歴史に大きな足跡を残しました。彼らは歴史の刻印をさらに鮮明にするために3、4位決定戦も死にもの狂いに戦うだろう、と筆者は予想しました。

片やクロアチアには、もしかするとモロッコほどの強烈な動機づけはないかもしれない、と筆者は密かに考えました。既述のように彼らは過去に既に3、4位戦を経験し、前回大会では準優勝さえしています。

従って今回の試合で必死に戦う動機付けがやや弱いのではないか、と危惧したのです。

筆者の思いはすべて杞憂に終わりました。モロッコもクロアチアも全力で試合を戦い抜きました。見甲斐のあるすばらしい展開でした。

モロッコは今大会における彼らの快進撃が“まぐれ”ではないことを明確に示しました。敗れはしましたが、全試合を通してクロアチアとほぼ互角に渡り合ったのがその証拠でした。

またクロアチアは、彼らの強さが欧州強豪国にも肉薄するものであることを強く示唆しました。

筆者は次の欧州杯まで待たなくても、もはやクロアチアを欧州のサッカー強国のひとつ、とスンナリ認めるべきではないかと考えるようになりました。

そのこととは別に、筆者はクロアチアを特別の思い入れとともに見ていました。

クロアチアの至宝ルカ・モドリッチの動向が気になっていたのです。37歳のモドリッチは、W杯での3、4位決定戦を最後にクロアチア代表から去ると見られています。

ところが同時に、2024年の欧州杯までは代表に留まる、という見方もあります。筆者は彼が2年後の欧州杯でも躍動するのを見たい。

社会の多くの分野と同じようにプロサッカーの世界でも選手寿命が伸び続けています。イタリアのACミランに所属するイブラヒモビッチは41歳にしてまだ同チームの中心的存在です。

間もなく38歳になるポルトガルのロナウドも、全盛期を過ぎたものの未だに1人でゲームをひっくり返す力を持つスーパースターです。

モドリッチはそれらのビッグネームにも匹敵する優れたファンタジスタです。2024年の欧州杯でも、39歳のモドリッチが、若いだけが取り柄の凡手の選手たち率いて暴れ回る勇姿を見てみたい。

ひとりの純粋のサッカーファンの願いです。

 

 

 

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イギリスの密かな自恃の痛恨

また負けたイングランド、なぜだ?

W杯準々決勝でフランスに敗れたイングランド地元は喪に服したように暗い、とイギリス人の友人から連絡がありました。

それはジョーク交じりの彼の落胆の表明でしたが、筆者はその前にBBCの次の表現を見てくすくす笑う気分でいましたので、彼のコメントを聞いて今度は本気で大笑しました。

BBCはこう嘆いています:

why England cannot force their way past elite opposition at major tournaments

~イングランドはなぜ大きな国際大会で強豪国を打ち破ることができないんだろう。。~と。

筆者はロンドンに足掛け5年住んだ経験があります。そこではたまにプレミアリーグの試合も観戦しました。その後はプロのテレビ屋として、イタリアサッカーとそこにからまる多くの情勢も取材しました。

サッカーは同時に筆者の最も好きなスポーツです。少年時代には実際にプレーもしました。筆者は当時「ベンチのマラドーナ」と呼ばれて相手チームの少年たちを震え上がらせる存在でした。

時は過ぎて、日本、英国、アメリカ、そしてここイタリアとプータロー暮らしを続けながらも、筆者は常に世界のプロサッカーに魅了されてきました。

その経験から筆者は-むろん自身の独断と偏見によるものですが-なぜイングランドサッカーが大舞台で勝てないのかの理由を知っています。

ここから先の内容は過去にもそこかしこに書いたものですが、筆者の主張のほとんどが網羅されていますので、W杯が進行していることも考慮しつつ再び記しておくことにしました。

イングランドのサッカーは、直線的で力が強くて速くてさわやかでスポーツマンシップにあふれています 。

同時にそこにはアマチュアのフェアプレイ至上主義、あるいは体育会系のド根性精神みたいなものの残滓が漂っていて、筆者は少し引いてしまいます。

言葉を変えれば、身体能力重視のイングランドサッカーは退屈と感じます 。筆者はサッカーを、スポーツというよりもゲームや遊びと捉える考え方に共感を覚えるのです。

サッカーの文明化

サッカーがイングランドに生まれたばかりで、ラグビーとの区別さえ曖昧だったころは、身体能力の高い男たちがほぼ暴力を行使してボールを奪い合いゴールに叩き込む、というのがゲームの真髄でした。

イングランド(英国)サッカーは、実はその原始的スポーツ精神の呪縛から今も抜け出せずにいます。

彼らはその後に世界で生まれたサッカーのさまざまな戦術やフォーメーションを、常に密かに見下してきました。

サッカーにはかつてさまざまなトレンドがありました。イングランド発祥の原始人サッカーに初めて加えられた文明が、例えばWMフォーメーションです。

その後サッカー戦術の改良は進み、時間経過に沿って大まかに言えばトータルフットボール、マンマーク (マンツーマン)、ゾーンディフェンス、4-2-2フォーメーションとその多くの発展系が生まれます。

あるいはイタリア生まれのカテナッチョ(鉄壁のディフェンス)、オフサイド・トラップ、カウンターアタック(反転攻勢)、そしてスペインが完成させて今この時代には敗れ去ったと考えられている、ポゼッション等々です。

《子供の夢》

イングランドのサッカーは子供のゲームに似ています。

サッカーのプレイテクニックが稚拙な子供たちは、試合では一刻も早くゴールを目指したいと焦ります。

そこで七面倒くさいパスを避けてボールを長く高く飛ばして、敵の頭上を越え一気に相手ゴール前まで運びたがります。

そして全員がわーっとばかりに群がってボールを追いかけ、ゴールに蹴りこむために大騒ぎをします。

そこには相手陣営の守備の選手も参加して、騒ぎはますます大きくなります。

混乱の中でゴールが生まれたり、相手に跳ね返されてボールが遠くに飛んだり、自陣のゴール近くにまで蹴り返されたりもします。

するとまた子供たちが一斉にそのボールの周りに群がる、ということが繰り返されます。

相手の頭上を飛ぶ高く速いボールを送って、一気に敵陣に攻め込んで戦うというイングランド得意の戦法は、子供の稚拙なプレーを想起させます。

イングランドの手法はもちろん目覚しいものです。選手たちは高度なテクニックと優れた身体能力を活かして敵を脅かします。

そして往々にして見事にゴールを奪う。子供の遊びとは比ぶべくもありません。

子供たちが長い高い送球をするのは、サッカーの王道である低いパスをすばやくつないで敵を攻めるテクニックがないからです。

パスをするには正確なキック力と広い視野と高度なボール操作術が必要です。

またパスを受けるには、トラップと称されるボール制御法と、素早く状況を見渡して今度は自分がパスをする体勢に入る、などの高いテクニックがなくてはなりません。

その過程で独創と発明と瞬発力が重なったアクションが生まれます。

優れたプレーヤーが、敵はもちろん味方や観衆の意表を衝くパスや動きやキックを披露して、拍手喝采をあびるのもそこです。

そのすばらしいプレーが功を奏してゴールが生まれれば、球場の興奮は最高潮に達します。


スポーツオンリーの競技》

イングランドのプレーヤーたちももちろんそういう動きをします。テクニックも確立しています。

だが彼らがもっとも得意とするのは、直線的な印象を与える長い高いパスと、それを補足し我が物にしてドリブル、あるいは再びパスを出して、ゴールになだれ込む戦法です。

そこではアスリート然とした、速くて強くてしかも均整の取れた身体能力が要求されます。

そしてイングランドの選手は誰もがそんな印象を与える動きをします。

他国の選手も皆プロですから、むろん身体能力が普通以上に高い者ばかりです。だが彼らの場合にはイングランドの選手ほどは目立ちません。

彼らが重視しているのがもっと別の能力だからです。

つまりボール保持とパスのテクニック、回転の速い頭脳、またピッチを席巻する狡猾なアクション等が彼らの興味の対象です。

言葉を変えれば、低い短い正確なパスを多くつないで相手のスキを衝き、だまし、フェイントをかけ、敵を切り崩しては出し抜きつつじわじわと攻め込んで、ついにはゴールを奪う、という展開です。

そこに優れたプレーヤーによるファンタジー溢れるパフォーマンスが生まれれば、観衆はそれに酔いしれ熱狂します。

子供たちにとっては、サッカーの試合は遊びであると同時に身体を鍛えるスポーツです。

ところがイングランドのサッカーは、遊びの要素が失われてスポーツの側面だけが強調されています。

だからプレーは速く、強く、きびきびして壮快感があります。だが、どうしても、どこか窮屈でつまらない。

子供のころ筆者も楽しんだサッカーの手法が、ハイレベルなパフォーマンスとなって展開されるのですが、ただそれだけのことで、発見や発見がもたらす高揚感がないのです。


高速回転の知的遊戯》

サッカーのゲームの見所は、短く素早く且つ正確なパスワークで相手を攻め込んで行く途中に生まれる意外性です。意表を衝くプレーにわれわれは魅了されます。

準々決勝におけるフランスの展開には、いわばラテン系特有の多くの意外性があり、おどろきがありました。それを楽しさと言い換えることもできます。

運動量豊富なイングランドの戦法また展開も、それが好きな人には楽しいものだったに違いありません。

だが彼らの戦い方は「またしても」勝利を呼び込むことはありませんでした。

高く長く上がったボールを追いかけ、捉え、再び蹴るという単純な作業は予見可能な戦術です。

そしてサッカーは、予測を裏切り意表を衝くプレーをする者が必ず勝ちます。

それは言葉を変えれば、高度に知的で文明的でしかも高速度の肉体の躍動が勝つ、ということです。

ところがイングランドの身体能力一辺倒のサッカーには、肉体の躍動はありますが、いわば知恵者の狡猾さが欠けています。だからプレーの内容が原始的にさえ見えてしまいます。

イングランドは彼らの「スポーツサッカー」が、スペイン、フランス、イタリア、ドイツ、ブラジル、アルゼンチンなどの「ゲーム&遊戯サッカー」を凌駕する、と信じて疑いません。

でも、イングランドにはそれらの国々に勝つ気配が一向にない。1996年のワールドカップを制して以来、ほぼ常に負けっぱなしです。

イングランドは「夢よもう一度」の精神で、1966年とあまり変わり映えのしない古臭いゲーム展開にこだわります。

継続と伝統を重んじる精神は尊敬に値しますが、イングランドは本気でフランスほかのサッカー強国に勝ちたいのなら、退屈な「スポーツサッカー」を捨てるべきです。


世界サッカーの序列》

ことしのワールドカップでは、イングランドが優勝するのではないか、という多くの意見がありました。イングランドが好調を維持していたからです。

だが筆者は今回もイングランドを評価せず、1次リーグが進んだ段階でも優勝候補とは考えませんでした。彼らがベスト16に入った時点でさえ、ここに書いた文章においても無視しました。

理由はここまで述べた通り、イングランドサッカーが自らの思い込みに引きずられて、世界サッカーのトレンドを見誤っていると考えるからです。

イングランドサッカーが目指すべき未来は、今の運動量と高い身体能力を維持しながら、フランス、イタリア、ブラジル、スペインほかのラテン国、あるいはラテンメタリティーの国々のサッカーの技術を徹底して取り込むことです。

取り込んだ上で、高い身体能力を利してパス回しをラテン国以上に速くすることです。つまりポゼッションも知っているドイツサッカーに近似するプレースタイルを確立すること。

その上で、そのドイツをさえ凌駕する高速性をプレーに付加します。

ドイツのサッカーにイングランドのスピードを重ねて考えてみればいい。それは今現在考えられる最強のプレースタイルではないでしょうか?

イングランドがそうなれば真に強くなるでしょう。が、彼らが謙虚になって他者から学ぶとは思えません。

従って筆者は今のところは、W杯でのイングランドの2度目の優勝など考えてみることさえできません。

世界サッカーの序列は今後もブラジル、イタリア、ドイツの御三家にフランス、スペイン、アルゼンチンがからみ、ポルトガル、オランダ、ベルギーなどの後塵を拝しながらイングランドが懸命に走り回る、という構図だと思います。

むろんその古い序列は、今回大会で台頭したモロッコと日本に代表されるアジア・アフリカ勢によって大きく破壊される可能性があります。

そうなった暁にはイングランドは、W杯獲得レースでは、新勢力の後塵を拝する位置に後退する可能性さえある、と筆者は憂慮します。


生き馬の目を抜く世界サッカー事情》

欧州と南米のサッカー強国は常に激しく競い合い、影響し合い、模倣し合い、技術を磨き合っています。

一国が独自のスタイルを生み出すと他の国々がすぐにこれに追随し、技術と戦略の底上げが起こる。するとさらなる変革が起きて再び各国が切磋琢磨をするという好循環、相乗効果が繰り返されます。

イングランドは、彼らのプレースタイルと哲学が、ラテン系優勢の世界サッカーを必ず征服できると信じて切磋琢磨しています。その自信と努力は尊敬に値しますが、彼らのスタイルが勝利することはありません。

なぜなら世界の強豪国は誰もが、他者の優れた作戦や技術やメンタリティーを日々取り込みながら、鍛錬を重ねています。

そして彼らが盗む他者の優れた要素には、言うまでもなくイングランドのそれも含まれています。

イングランドの戦術と技術、またその他の長所の全ては、既に他の強国に取り込まれ改良されて、進化を続けているのです。

イングランドは彼らの良さにこだわりつつ、且つ世界サッカーの「強さの秘密」を戦略に組み込まない限り、永遠に欧州のまた世界の頂点に立つことはありません。

いま面白いNHK朝ドラ“舞い上がれ”の大河内教官は、「己を過信するものはパイロットとして落第だ」と喝破しています。

そこで筆者も言いたい。

イングランドサッカーよ、古い自らのプレースタイルを過信するのはNGだ。自負と固陋の入り混じった思い込みを捨てない限り、君は決して世界サッカーの最強レベルの国々には勝てない、と。

 

 

 

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型は過ぎると人間をロボットにする

衛星を介してNHKの番組をよく見ます。なかでもニュースはほぼ毎日欠かさずに見ています。

時間がないときは録画してでも見る番組もあります。日本ではBS1で放送され、総合テレビの深夜にも再放送されているらしい「国際報道2022」です。2014年に始まり毎年年号だけを変えて続いています。

その番組は世界各地のニュースをまとめて掘り下げて見せる、NHKならではの見甲斐がある内容ですから、外国に住む身としては親近感も覚えます。

同時に筆者はBBC、CNN、EuroNews、Al Zzeeraなどの英語放送とイタリアのNHKであるRAIの報道番組等も欠かさず見ています。なので「国際報道2022」を情報収集というより“日本人による世界の見方”という観点で注視することが多い。

番組の内容は世界中に張り巡らされたNHKの取材網を駆使して構成され面白く深い。だがそれを伝えるスタジオの構成に違和感を覚えます。

このことは2017年に番組のメインキャスターになった花澤雄一郎記者にからめても書きました。

参照:

NHK「国際報道2017」にひそむアナクロニズム

追記:NHK「国際報道2017」にひそむアナクロニズム 

それは物知りの兄貴に教えを請うおバカな妹、という設定への疑問です。花澤キャスター時代に始まり、次の池畑修平キャスター時代へと受け継がれました。

キャスターが交代しても設定は変わりませんでしたが、池畑キャスターはもしかすると番組内の時代錯誤的な設定に疑問を抱いているのではないか、という雰囲気が感じられました。

それでも番組の構成が変わることはありませんでした。ちなみにおバカな妹役のサブキャスターは増井渚アナから酒井美帆アナへと変わりました。

油井秀樹キャスターに変わってから国際報道にはさらに新たに不穏な仕様が加わりました。

番組の冒頭で、カメラに向かって斜めに並び立っている3人のキャスターが、次のカットで切り替わるカメラに向かって回れ右をします。

その動きが3人共に完璧でまるでロボットのように少しのズレもありません。日本的な完全無欠の動作ですが、とても違和感があります。忌憚なく言えばほとんど滑稽です。

カットはその日のニュース項目を表示するために成されます。カメラを引いて大きくなった画面に項目をスーパーインポーズするのです。

だがそのシーンは、3人の出演者が「ロボット的」という以外には何の豊かさも番組にもたらしません。項目を表示したいなら初めから画面を広げておくなど、幾らでも方法はあります。

滑稽なシーンが毎回繰り返されて飽きないのは、3人の動きが「型」として意識されているからだと考えられます。

「型」になった以上、それは自由よりもはるかに重要な要素と見なされるのが日本社会であり、日本的メンタリティーです。

型には型の美しさがあります。だが「型を破る」という型もあることを認めて、もうちょっと精神や発想の自由を鼓舞するほうが人間らしいし、より創造的です。

型にこだわり過ぎる「国際報道2022」のオープニングは、「報道のNHK」の一角を担う重要な番組の絵造りとしては寂しい、と毎回違和感を覚えつつ見るのは少し辛くないこともありません。

 

 

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真に強くなりたいなら日本サッカーは新戦術を“独創”するべき  

PK戦で日本を退けたクロアチアが、強豪のブラジルも同じPK戦で下して準決勝に進みました。

クロアチアの強さがあらためて証明された試合結果です。

ブラジル戦の前にクロアチアが日本を破った試合では、筆者はクロアチアの強さと同時に日本の強さも実感した、と強調しておきたい。

日本VSクロアチア戦を筆者は日本サッカーのレベルを計る試金石として見ました。

クロアチア戦の前に日本がドイツとスペインに勝ったのは、まぐれとまでは言わないまでも、ラッキーあるいは巡り合わせの妙、といった類の出来事に感じられました。

2度続けてのフロックの可能性は極めて低い。従ってドイツとスペインに連続して勝ったのは日本にそれなりの力があるからだ、という考え方ももちろんあるでしょう。

しかしながら世界トップクラスの2チームと、日本チームの力が一挙に逆転したとは考えにくい。

一方でクロアチアなら、日本との力の差はそれほどあるとは見えません。クロアチアは98年W杯で3位になり、前回ロシア大会で準優勝までしているチームです。

欧州の一部ですからサッカーの真髄を理解し、そこから生じるプレースタイルも身に着けています。ひとことで言えば要するに日本より力量は上です。

しかし、日本の力も最近は間違いなく伸びています。クロアチアと実力が真に拮抗している可能性も高い、と考えたのです。

クロアチアにはモドリッチというずば抜けたテクニックと戦術眼を持つスーパースターがいます。だが、集団力の強い日本の特徴が彼の天才力を抑える、という見方もできると思いました。

前半に日本が先制したときは、あるいは?と大きく期待しました。しかし、同点に追いつかれたときはやっぱりだめだ、負ける、といやな予感を覚えました。

負ける、とは90分以内にさらにゴールを決められて負ける、という意味です。つまるところ欧州チームのクロアチアが強いのだ、とあきらめ気味に思いました。

だが日本は90分をほぼ対等に戦い抜き、延長戦も互角に渡り合いました。しかし残念ながらPK戦で敗れました。

PK戦を偶然の産物と見なして、そこでの勝敗を否定する者がいます。しかしそれは間違いです。

PK戦は90分の通常戦や延長戦と変わらないサッカーの重要な構成要素です。PK戦にもつれ込もうが90分で終わろうが、勝者は勝者で敗者は敗者です。

現実にもそう決着がつき、また歴史にもそう刻印されて、記録され、記憶されていきます。

従って日本の敗北はまぎれもない敗北です。

同時に日本とクロアチアの力は伯仲していました。90分と延長の30分でも決着がつかなかったのがその証明です。

筆者は日本が世界最高峰のドイツとスペインを破ったことよりも、日本の実力がクロアチアのレベルに達したらしいことを腹から喜びます。

既述のようにクロアチアは、過去のW杯で準優勝と3位に入った実績を持つ「欧州のサッカー強国」です。

クロアチアに追いついた日本は、物まねのポゼッションサッカーや無意味なボール回しや“脱兎走り”を忘れて、蓄積した技術を基に「独自の戦術とプレースタイル」を見出し次のW杯に備えるべきです。

独創や独自性こそ日本が最も不得手とする分野です。だがそれを見出さない限り、日本がW杯で飛躍しついには優勝まで手にすることは夢のまた夢で終ることになるでしょう。

 

 

 

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