報道に不偏不党はあり得ない

マスメディアあるいは報道機関は、よく不偏不党の報道姿勢を前面に打ち出します。だが、不偏不党の報道など元よりあり得ません。

報道には必ずそれを行う者のバイアスがかかっています。事実を切り取ること自体が、すでに偏りや思い込みの所産なのです。

なぜなら事実を切り取るとは、「ある事実を取り上げてほかの事実を捨てる」つまり報道する事案としない事案を切り分けること、だからです。それは偏向以外のなにものでもありません。

少し具体的に言います。例えば日本の大手メディアはアメリカの火山噴火や地震情報はふんだんに報道しますが、南米などのそれには熱心ではありません。

あるいはパリやロンドンでのテロについてはこれでもか、というほどに豊富に雄弁に語りますが、中東やアフリカなどでのテロの情報はおざなりに流す。そんな例はほかにも無数にあります。

そこには何が重要で何が重要ではないか、という報道機関の独善と偏向に基づく価値判断がはたらいています。その時点ですでに不偏不党ではないのです。

だからこそ報道者は自らを戒めて不偏不党を目指さなければならない。「不偏不党は不可能だから初めからこれをあきらめる」というのは、自らの怠慢を隠ぺいしようとする欺瞞です。

報道機関は不偏不党であろうとする努力を怠ってはならない。「不偏不党は不可能」だからこそ、不偏不党の報道を追求する姿勢を持ちつづけるべきです。

そして資金や人的資本が豊富な大手メディアのうちの「まともな」報道者は実は、不偏不党を目標に事実に裏付けられた報道をしようと努力している場合がほとんどです。

一方ブログなどの個人報道ツールを用いる者には、自己以外には人材もなく金もないために、足と労力を使って得た独自情報やニュースは少ない。せいぜい身の回りの出来事が精一杯です。

そこで彼らは大手メディアが発信する情報を基に記事を書く場合が多くなります。そしてそこには、偏向や偏見や思い込みに基づく記述があふれています。それはそれでかまいません。

なぜならブログをはじめとするSNSは、事実や事件の正確な報告よりも「自分の意見を吐露する場」であるべきだからです。あるいは事実や事件を「考察する」ツールであるべきだからです。

そこでの最も重要なことは、報道者が自らの報道はバイアスのかかった偏向報道であり、独断と偏見による「物の見方や意見」であることをしっかりと認識することです。

自らの偏向独善を意識するとはつまり、「他者の持つ違う見解の存在を認めること」です。他者の見解を認めてそれに耳を貸す者は、やがて独善と偏向から抜け出せるようになるでしょう。

個人の報道者はそうやって自らの不偏不党を目指すべきです。ブログなど個人の情報発信者が、大手メディアを真似てニュースを発信しようとするのは間違っています。

独自の記事として書いても、また「シェア」という形で他者の記事を紹介しても事情は変わらない。自身の足と金と労力を注ぎ込んで集めた情報ではないからです。

このサイト「ピアッツァの声」では報道ではなく、「報道に基づく」書き手の意見や哲学や思考を発信して行ければ、と思っています。それは筆者が個人ブログなどでも一貫して努めてきた姿勢です。

 

※第一回投稿記事を加筆再録しました

 

 

 

 

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