“違うこと”は美しい

筆者はここイタリアではミラノにある自分の事務所を基点にテレビの仕事をして来ましたが、これまでの人生ではイギリスやアメリカにも住まい、あちこちの国を旅し、学び、葛藤し、そしてもちろん大いに仕事もこなして来ました。そんな外国暮らしの日々は、とっくの昔に筆者が大学卒業まで暮らした故国日本での年月よりも長くなってしまいました。

長い外国暮らしを通して筆者はいろいろなことを学びましたが、その中で一つだけ大切なものを挙げてみろと言われたなら、それは”違い”を認める思考方法と態度を自分なりに身につけることができた件だと思っています。

国が違えば、人種が違い言葉が違い文化も習慣も何もかも違う。当たり前の話です。ある人は、人間は全ての違いがあるにもかかわらず、結局は誰も皆同じであると言います。またある人は逆に、人間は人種や言葉や文化や習慣などが違うために、お互いに本当に理解し合うことはできないと主張します。それはどちらも正しく且つどちらも間違っています。なぜなら人種や言葉や文化や習慣の違う外国の人々は、決してわれわれと同じではあり得ず、しかもお互いに分かり合うことが可能だからです。

世界中のそれぞれの国の人々は他の国の人々とは皆違う。その「違う」という事実を、素直にありのままに認め合うところから真の理解が始まります。これは当たり前のように見えて実は簡単なことではありません。なぜなら人は自分とは違う国や人間を見るとき、知らず知らずのうちに自らと比較して、自分より優れているとか、逆に劣っているなどと判断を下しがちだからです。

他者が自分よりも優れていると考えると人は卑屈になり、逆に劣っていると見ると相手に対してとたんに傲慢になります。たとえばわれわれ日本人は今でもなお、欧米人に対するときには前者の罠に陥り、近隣のアジア人などに対するときには、後者の罠に陥ってしまう傾向があることは、誰にも否定できないのではないでしょうか。

人種や国籍や文化が違うというときの”違い”を、決して優劣で捉えてはなりません。”違い”は優劣ではありません。”違い”は違う者同士が対等であることの証しであり、楽しいものであり、面白いものであり、美しいものです。

筆者は今、日本とは非常に違う国イタリアに住んでいます。イタリアを「マンジャーレ、カンターレ、アモーレ」の国と語呂合わせに呼ぶ人々がいます。三つのイタリア語は周知のように「食べ、歌い、愛する」という意味ですが、筆者なりにもう少し意訳をすると次のようになります。

つまり「イタリア人(男)はスパゲティーやピザをたらふく食って、日がな一日カンツォーネにうつつを抜かし、女のケツばかりを追いかけているノーテンキな国民」です。それらは、イタリアブームがはるか前に起こって、この国がかなり日本に知れ渡るようになった現在でも、なおかつ日本人の頭の中のどこかに固定化しているイメージではないでしょうか。

ステレオタイプそのものに見えるそれらのイタリア人像には、たくさんの真実とそれと同じくらいに多くの虚偽が含まれていますが、実はそこには「イタリア人はこうであって欲しい」というわれわれ日本人の願望も強く込められています。つまり人生を楽しく歌い、食べ、愛して終えるというおおらかな生き方は、イタリア人のイメージに名を借りたわれわれ自身の願望にほかならないのです。

そして、当のイタリア人は、実は誰よりもそういう生き方を強く願っている人々です。願うばかりではなく、彼らはそれを実践しようとします。実践しようと日々努力をする彼らの態度が、われわれには新鮮に映るのです。

筆者はそんな面白い国イタリアに住んでイタリア人を妻にし、肉体的にもまた心のあり方でも、明らかに日伊双方の質を持つ二人の息子を家族にしています。それはとても不思議な体験ですが、同時に「家族同士のつき合い」の積み重ねという意味では、世界中のどこの家族とも寸分違わない普通の体験でもあります。

日本に帰ると「奥さんが外国人だといろいろ大変でしょうね」と筆者は良く人に聞かれます。そこで言う大変とは「夫婦の国籍が違い、言葉も、文化も、習慣も、思考法も、何もかも違い過ぎて分かり合うのが大変でしょうね」という意味だと考えられます。しかし、それは少しも大変ではないのです。私たちはそれらの違いをお互いに認め合い、受け入れて夫婦になりました。違いを素直に認め合えばそれは大変などではなく、むしろ面白い、楽しいものにさえなります。

日本人の筆者とイタリア人の妻の間にある真の大変さは、私たち夫婦が持っているそれぞれの「人間性の違い」の中にあります。ということはつまり、私たちの大変さは、日本人同士の夫婦が、同じ屋根の下で生活を共にしていく大変さと何も変わらないのです。なぜなら、日本人同士でもお互いに人間性が違うのが当たり前であり、その違う2人が生活を共にするところに「大変」が生じます。

私たちはお互いの国籍や言葉や文化や習慣や何もかもが違うことを素直に認め合う延長で、人間性の違う者同志がうまくやって行くには、無理に“違い”を矯正するよりも「違うのが当然」と割り切って、お互いを認め合うことが肝心だと考え、あえてそう行動しようとします。

それは一筋縄ではいかない、あちこちに落とし穴のある油断のならない作業です。が、私たちは挫折や失敗を繰り返しつつ“違い”を認める努力を続け、同時に日本人の筆者とイタリア人の妻との間の、違いも共通点も全て受け継いで、親の欲目で見る限りまあまあ良い方向に育ってくれた息子2人を慈しみながら、日常的に寄せる喜怒哀楽の波にもまれて平凡に生きています。

そして、その平凡な日常の中で筆者は良く独(ひと)りごちるのです。

――日本とイタリアは、この地球上にたくさんある国のなかでも、たとえて言えば一方が南極で一方が北極というくらいに違う国だが、北極と南極は文字通り両極端にある遠い大違いの場所ながら、両方とも寒いという、これまた大きな共通点もあるんだよなぁ・・・――

と。

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