詭弁が呼ぶ迷走
イタリアにいながら衛星放送を介して日本とのリアルタイムでほぼ毎日菅首相を目にします。むろんネット上でもひんぱんに見ます。出くわすたびに気が重くなります。
国会の答弁では相変わらず自らの言葉を持たず官僚が書いた文面を読み上げています。そのせいなのか目つきがあまり良くないと映ります。人を信用せず絶えず疑惑に囚われている眼差しに見えます。
彼は安倍政権の官房長官として脅しを専門にしていた、という噂をいやでも思い出してしまいます。脅しの性癖が形を変えて、だが端的に出るのが、批判されて「俺はそうは思わない」と開き直る見苦しい答弁なのでしょうか。
菅首相には前後の見境なく且つエビデンスも示さないまま、開き直ったり強弁したり詭弁を弄する癖があるようです。強弁が得意なところは彼のボスの安倍前首相にも似ています。
菅義偉首相は昨年12月14日、GoToトラベルを全国一斉に停止すると発表しました。それでいながら「GoToトラベルの人の動きによる感染拡大の証拠はない」と言い張りました。
それならなぜあのときGoToトラベルを止めたのだ、とありきたりの論難をする代わりに、ここで次のことを指摘しておこうと思います。
欧州の真実
欧州各国は、昨年3月から4月がピークだった感染拡大第1波の沈静化を受けて、5月から徐々にロックダウンを緩和し6月には多くの国がほぼ全面的にそれを解除しました。
それを受けて厳しい移動規制に疲れきっていたヨーロッパの人々は、どっとバカンスに繰り出しました。また仕事や旅行での人の動きも活発になりました。
その結果、夏ごろから英仏独スペインなどの主要国を筆頭に、欧州では感染拡大が再び急速に強まりました。第2波の到来です。
欧州の主要国の中では、唯一イタリアだけが感染拡大を免れました。
第1波で世界最悪のコロナ地獄を味わったイタリアは、ロックダウンを解除したものの、社会経済活動の再開スピードを抑えたり感染予防策を徹底し義務化するなど、慎重な政策を取り続けました。
それが感染抑制につながりました。
だがイタリアはEU(欧州連合)の加盟国であり、人と物の動きを自由化しているシェンゲン協定内の国でもあります。国外からの人の流入を止めることはできず、バカンス好きの自国民の移動を抑えることもできませんでした。
規制解除の開放感で高揚したイタリアの人々は、国内で動き回り、国外に出た者はウイルスを帯びて帰国し、他者に受け渡しました。そうやってイタリアにも遅い第2波がやってきました。
コロナウイルスは自身では動かず、飛びもせず、這い回ることもしません。必ず人に寄生して人によって運ばれ、移動先で新たな宿りを増やして行きます。
欧州全体とイタリアの例に照らし合わせて見ても、管首相の強弁とは裏腹に、GoToトラベルの人の動きが感染拡大の大きな一因、という見方には信憑性があることが分かります。
アナクロで陰気なムラオサ(村長)
「GoToトラベルは感染拡大を招かない」という菅首相の根拠のない主張は、経済を重視する気持ちから出た悪気のない言葉かもしれません。だが、不誠実の印象は免れない。
そんな例を出すまでもなく、菅首相の話しぶりや話の内容には、分別や学識がもたらす「教養」が感じられません。教養を基に形成される深い思考や創造などの「知性」に至っては、皆無とさえ言いたくなります。
もっと言えば古代のムラ社会のネクラなボスが、いきなり現代日本のトップに据えられたような印象さえあります。そういう人が日本の顔として国際政治の舞台にも出て行くことを思うと気が重くなります。
何よりも問題なのは、それらの負の印象が錯綜し相乗して、菅首相の存在自体から明朗さを消し去ってしまうことです。それがテレビ画面ほかで見る彼の印象です。
彼は実際には明るいオジさんなのかもしれません。だが国民にとっても世界の人々にとっても、メディアで見る菅首相の印象が彼の存在の核心部分になっているのは否定できません。
イメージの重さ
イメージは火のないところに立つ煙のようなものです。実体がありません。従ってイメージだけで人を判断するのは危険です。しかし、また、「火のないところに煙は立たない」とも言います。それは検証に値するコンセプトなのです。
一般的に見てもそうです。ましてや彼は日本最強の権力者であり、海外に向けては「日本の顔」とも言うべき存在です。そこではイメージが重要です。
菅首相のイメージの善し悪しは日本の国益にさえ関わります。細部にこだわって言えば、彼のネクラな印象は、例えば外国を旅する一人ひとりの日本国民のイメージさえ悪く規定しかねません。無視できないことなのです。
明朗さに欠ける国のトップのイメージは致命的です。国際政治の顔で言えば、中国の習近平国家主席や韓国の文在寅大統領、さらにいえばトルコのエルドアン大統領などの系譜のキャラです。
明朗な人の印象は、存在や言動や思想が、善悪は別にして「はっきりしている」ことから来ます。その点菅首相は表情も言動もはっきりしない。だから人に与える印象が暗い。そこは文在寅大統領も似ているようです。
中国の習主席は表情や物腰がヌエ的です。トルコのエルドアン大統領は、無知蒙昧なムラのボス的雰囲気が、不思議と暴力を連想させてうっとうしい。それが彼の暗さになっています。
コミュニケーション力
イメージもさることながら、日本のトップとしての菅首相の最大の難点は、何といってもコミュニケーション力の無さです。政策やポリシーや政権の方針といったものは、実は菅内閣はまっとうなものを掲げています。
それらは政策立案のうまい優秀な官僚やブレーンが考え出したものです。そして首相たるものの最大の役目は、彼の政権のブレーンが編み出したポリシーを、国民にわかり易く伝えることです。
国民が理解しなければ、政策への支持は得られず、結果それを実行に移すこともできない。即ち政策は無いにも等しいものになります。
菅首相は自らの言葉を持たないばかりではなく、国民と対面していながら官僚が準備した「政策文書」を下を向いて読み上げることが多い。それはコミュニケーション法としては最悪です。
彼は自分で考え、書いていないから内容を覚えていない。そのため正面を向いて国民に語りかけることができない。さすがに内容を理解してはいるのでしょうが、文面を覚えていないから棒読みをするしかありません。
せめて文面を暗記していれば、カメラ目線で、すなわち視線を国民にしっかり合わせながら内容を読み上げることができます。つまり語りかけるポーズが取れる。
正面を向いて語りかける言葉は国民の心に響きやすい。そこから菅首相への親近感が生まれ、それは政策への支持となって実を結びます。
コミュニケーション力が貧弱であるにもかかわらず、彼は文書を暗記しカメラに向かって語りかける努力さえしない。努力そのものがコミュニケーションの一環だという基本概念さえ知らない。
それは「俺が理解されないのは相手が悪い」という典型的な傲岸思想をもたらします。菅首相が国会答弁やインタビューなどで見せるそっけなさや閉鎖性は、そこに起因しているように見えます。
コミュニケーション力ほぼゼロの管首相が、今後国際会議などで世界中の首脳や政治家や各種官僚などと会談し、付き合い、外交関係を結んでいく状況を想像するのは難しい。
なぜならコミュニケーションのできない者には、それらの活動で成果を挙げることもできないからです。それどころか、それらの営為自体が実は「コミュニケーションそのもの」ですから状況は深刻です。
ムラの言語
日本人は一般的に欧米人に比べてコミュニケーション能力が低い、とよく言われます。日本文化が能弁や自己主張や個人主義に重きを置かない、内省的な傾向の強い社会・人文・生活体系だからです。
政治家もその縛りから逃れることはできません。
古い時代の日本の農民は、ムラの中だけで通用するいわば無言の言語「阿吽の呼吸」を駆使して彼らだけの意思伝達のシステムを作り、何かがあるとシステム外の者を村八分にしました。
片や現代の日本の政治家は、仲間や政党や派閥などの政治ムラの中で、彼らだけに通用する「根回し」という名のコミュニケーションの体系を作り上げます。
だが仲間や群れや徒党内だけで通用する意思伝達手法は、忖度や憶測や斟酌の類いの仲間内の符丁にとどまるものであって、不特定多数の人々に一様に、あるいは広範に伝わる真のコミュニケーションではありません。
菅首相の言葉が中々国民の心に沁み入らないのは、彼が政治ムラ内だけで通じる言語を使っているからです。彼が政界でのしあがったのは、彼の話す言葉が政界では十分以上に通用しているからなのでしょう。
だがテレビを見ている国民には一向に意味が伝わらない。国民は政界ムラ内の人間同士が使う言葉なんて知りません。知らない言葉に感動しろと言われても、国民にはなす術がないと思うのです。
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