秋の日はつるべ落としと言いますが、ここ北イタリアでは秋そのものがつるべ落としに素早くやって来て、あっという間に過ぎ去ります。印象としては夏が突然冬になります。日本の平均よりも冬が長く厳しい北イタリアですが、短い秋はそれなりに美しく、風情豊かに時間が流れて行きます。
ところが、イタリア語には、枯れ葉、病葉 (わくらば)、紅葉、落葉、朽ち葉、落ち葉、木の葉しぐれ、黄葉、木の葉ごろも、もみじ・・など、など、というたおやかな秋の言葉はありません。枯れ葉は「フォーリア・モルタ」つまり英語の「デッド・リーフ」と同じく「死んだ葉」と表現します。
少し優美に言おうと思えば「乾いた葉(フォーリア・セッカ)」という言い方もイタリア語には無いではありません。また英語にも「Withered Leaves(ウイザード・リーブ)」、つまり「しおれ葉」という言葉もあります。だが、筆者が知る限りでは、どちらの言語でも理知の勝った「死に葉」という言い方が基本であり普通です。
言葉が貧しいと いうことは、それを愛でる心がないということです。彼らにとっては枯れ葉は命を終えたただの死葉にすぎません。そこに美やはかなさや陰影を感じて心を揺り動かされたりはしないのです。紅葉がきれいだと知ってはいても、そこに特別の思い入れをすることはなく、当然テレビなどのメディアが紅葉の進展を逐一報道するようなこともあり得ません。
前述したように夏がいきなり冬になるような季節変化が特長的な北部イタリアでは、秋が極端に短い。おそらくそのこととも関係があると思いますが、この国の人々は木の葉の色づき具合に日本人のように繊細に反応することはありません。ただイタリア人の名誉にために言っておきますと、それは西洋人社会全般にあてはまるメンタリティーであって、この国の人々が特別に鈍感なわけではありません。
それと似たことは食べ物でもあります。たとえば英語では、魚類と貝類をひとまとめにして「フィッシュ」、つまり「魚」と言う場合があります。といいますか、魚介類をまとめてフィッシュと呼ぶことは珍しくありません。Seafood(シーフード)という言葉もありますが、日常会話の中ではやはりフィッシュと短く言ってしまうことも多いように思います。
イタリア語もそれに近い。だが、もしも日本語で、たとえひとまとめにしたとしても、貝やタコを「魚」と呼んだら気がふれたと思われるでしょう。
もっと言うと、そこでの「フッィッシュ」は海産物の一切を含むフィッシュですから、昆布やわかめなどの海藻も含むことになります。もっとも欧米人が海藻を食べることは、かつてはほとんどありませんでしたが-。タコさえも海の悪魔と呼んで口にしなかった英語圏の人々は、魚介類に疎いところが結構あるのです。
イタリアやフランスなどのラテン人は、英語圏の人々よりも多く魚介に親しんでいます。しかし、日本人に比べたら彼らでさえ、魚介を食べる頻度はやはりぐんと落ちます。また、ラテン人でもナマコなどは食べ物とは考えませんし、海藻もそうです。もっとも最近は日本食ブームで、刺身と共に海藻にも人気が出てきてはいます。
多彩な言葉や表現の背景には、その事象に対する人々の思いの深さや愛着や文化があります。秋の紅葉を愛で、水産物を「海の幸」と呼んで強く親しんでいる日本人は、当然それに対する多様な表現を生み出しました。
もちろん西洋には西洋人の思い入れがあります。たとえば肉に関する彼らの親しみや理解は、われわれのそれをはるかに凌駕します。イタリアに限って言えば、パスタなどにも日本人には考えられない彼らの深い思いや豊かな情感があり、従ってそれに見合った多彩な言葉やレトリックがあるのは言うまでもありません。
さらに言えば、近代社会の大本を作っている科学全般や思想哲学などにまつわる心情は、われわれよりも西洋人の方がはるかに濃密であるのは論を俟たないところです。心情が濃密であるとは、言葉が豊かで深く広いということにほかなりません。その部分では日本語は未だ欧米語の後塵を拝しているとも言えるかもしれません。
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