十字架に祈る盆の清廉

10月末から11月初めにかけてのイタリアの祝祭の日々が、2021年のコロナ禍中でもめぐってきました。

10月31日はハロウィン。ケルト族発祥のその祭りを最近、遅ればせながらイタリアでも祝う人が多くなりました。

翌11月1日はカトリック教会の祝日の一つ「諸聖人の日」。日本では万聖節(ばんせいせつ)」とも呼ばれるイタリアの旗日です。

続く11月2日は「万霊節」 。一般に「死者の日」と呼ばれます。

「死者の日」..日本語ではちょっとひっかかる響きの言葉ですが、その意味は「亡くなった人をしのび霊魂を慰める日」ということです。日本の盆や彼岸に当たります。

カトリックの教えでは、人間は死後、煉獄の火で責められて罪を浄化され、天国に昇ります。その際に親類縁者が教会のミサなどで祈りを捧げれば、煉獄の責め苦の期間が短くなる、とされます。

それは仏教のいわゆる中陰で、死者が良い世界に転生できるように生者が真摯な祈りを捧げる行事、つまり法要によく似ています。

万霊節には死者の魂が地上に戻り、家を訪ねるという考えもあります。イタリアでは帰ってくる死者のために夜通し明かりを灯し薪を焚く風習さえあります。

また死者のためにテーブルを1人分空けて、そこに無人の椅子を置く家庭もあります。食事も準備します。むろん死者と生者が共に食べるのが目的です。

イタリア各地にはこの日のために作るスイーツもあります。甘い菓子には「死の苦味」を消す、という人々の思いが込められています。

それらの習慣から見ても、カトリック教徒の各家庭の表現法と人々の心の中にある「死者の日」は、日本の盆によく似ていると感じます。

10月31日から11月2日までの3日間、という時間も偶然ながら盆に似ています。盆は元々は20日以上に渡って続くものですが、周知のように昨今は迎え火から送り火までの3日間が一般的です。

3つの祭礼のうちハロウィンは、キリスト教本来の祭りではないため教会はこれを認知しません。しかし、一部のキリスト教徒の心の中では、彼らの信教と不可分の行事になっていると考えられます。

人々は各家庭で死者をもてなすばかりではなく、教会に集まって厳かに祈り、墓地に足を運んでそれぞれの大切な亡き人をしのびます。

ところで11月1日の「諸聖人の日」は、カトリックでは文字通り全ての聖人を称え祈る日ですが、プロテスタントでは聖人ではなく「亡くなった全ての信徒」を称えて祈る日のことです。

プロテスタントでは周知のように聖人や聖母や聖女を認めず、「聖なるものは神のみ」と考えます。聖母マリアでさえプロテスタントは懐疑的に見ます。処女懐胎を信じないからです。

聖人を認めないプロテスタントはまた、聖人のいる教会を通して神に祈ることをせず、神と直接に対話をします。権威主義的ではないのがプロテスタント、と筆者には感じられます。

一方カトリックは教会を通して、つまり神父や聖人などの聖職者を介して神と対話をします。そこに教会や聖人や聖職者全般の権威が生まれます。

カトリック教会はこの権威を守るために古来、さまざまな工作や策謀や知恵をめぐらしました。それは宗教改革を呼びプロテスタントが誕生し、両者の対立も顕在化していきました。

ところが「死者の日」には、既述のようにカトリックの信者は教会で祈るばかりではなく、墓地にも詣でます。

あらゆる宗教儀式が教会と聖職者を介して行われるのがカトリック教ですが、この日ばかりは人々は墓地に出向いて直接に霊魂と向かい合うのです。

カトリックは慈悲深い宗教です。懐も深く、寛容と博愛主義にも富んでいます。プロテスタントもそうです。

キリスト教徒ではない筆者は、両教義を等しく尊崇しつつも、11月1日の「諸聖人の日」には、聖人よりも一般信徒を第一義に考えるプロテスタントにより共感を覚えます。

また、教会の権威によるのではなく、自らの意思と責任で神と直接に対話をする、という教義にも魅力を感じます。

それでは筆者は反カトリックの男なのかといいますと、断じてそうではありません。

筆者は全員がカトリック信者である家族と共に生き、カトリックとプロテスタントがそろって崇めるイエス・キリストを敬慕する、自称「仏教系無心論者」です。

「仏教系無心論者」である筆者は、教会で祈る時などにはキリスト教徒のように胸で十字を切ることはしません。胸中で日本風に合掌します。実際に手を合わせる時もあります。

例えば筆者は2018年、亡くなった義母を偲んで万霊節に墓参りをした際は、十字架に守られた墓標の前に花を供え、カトリック教徒の妻が胸の前で十字を切って祈りを捧げる脇で、日本風に合掌しました。

そのことにはなんの違和感もありませんでした。義母はカトリック教徒ですが、墓参のあいだ筆者はずっと「義母の新盆」ということを意識していました。

死して墓場の一角に埋葬された義母は、十字架に守られつつ筆者を介して、仏教思念に触れ盆の徳にも抱かれている、と素直に思いました。

何らの引っかかりもなく筆者がそう感じるのは、恐らく筆者が前述のように自称「仏教系の無心論者」だからです。

筆者は宗教のあらゆる儀式やしきたりや法則には興味がありません。心だけを重要と考えます。

心には仏教もキリスト教もイスラム教もアニミズムも神道も何もありません。すなわち心は汎なるものであり、各宗教がそれぞれの施設と教義と準則で縛ることのできないものです。

死者となった義母を思う筆者の心も汎なるものです。カトリックも仏教も等しく彼女を抱擁する、と筆者は信じます。その信じる心はイエス・キリストにも仏陀にも必ず受け入れられる、と思うのです。

カトリックの宗徒は、あるいは義母が盆の徳で洗われることを認めないかもしれません。いや恐らく認めないでしょう。

仏教系無心論者の筆者は、何の問題もなく義母が仏教に抱かれ、イエス・キリストに赦され、イスラム教に受容され、神道にも愛される、と考えます。

それを「精神の欠けた無節操な不信心者の考え」と捉える者は、自身の信教だけが正義だというドグマに縛られている、例えば窮屈な 一神教の信者、というふうに見えなくもありません。

 

 

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