「渋谷でテロ」という悪夢を招かないために

先日の記事で取り上げたテーマ、渋谷が変わったかどうか、若者オンリーの街かどうかなどの議論はさておき、渋谷で今もっとも目立つのは若者ではなく外国人です。渋谷センター街を歩くと欧米系の白人がよく目につきます。しかし日本人と見た目があまり違わないアジア人はきっともっと多いことでしょう。

彼らの多くは観光客ですが、多くはまた日本に滞在している人々であることは疑いありません。国内に留まっているそれらの人々と、新たに入ってくる外国人のうちの希望する者が、日本に定住することを認めるのか認めないのか、彼らを受け入れるのか受け入れないのか、日本人は真剣に考えるべき時期に来ています。受け入れると決めた場合、それは移民と同義語と心得るべきです。

外国人労働者とか移住労働者、あるいは出稼ぎ労働者、技能実習生、一時就労者、季節労働者など、など、と都合の良いように名前を変えてみても、彼らが移民であることの実態は変わりません。外国人労働者は全て移民と考えるほうが理にかなっています。

日本側の利便に基づいて働かせておいて、用済みになったらさっさと帰国してもらう、という考えで外国人労働者を雇う者は、間違いなくレイシストであり排外主義者です。なぜならそれらの人々は、相手が同じ日本人ならばそんな具合に冷たくは扱わないはずですから。

外国人を自らと同じ「普通の」人間である、と「普通に考えられない」者は誰もが皆、レイシストの素質を色濃く持っている、と認識しなければなりません。そしておそらく日本人の8~9割がこの部類に入ると考えられます。

そこには積極的に人種差別的な言動をするような行動パターンは見られませんが、何かにつけ白人種に遠慮したり無意識のうちに尊敬する一方で、アジア人や黒人などを「意識的にあるいは無意識に」見下したり、忌諱したり揶揄したりする一般的な風潮があることは否めません。

世間知らずな精神風土から派生する日本人の言動は、グローバル社会にあっては「知らなかった」で済まされるような甘い事案ではありません。日本人は後進的な閉鎖社会を育むメンタリティーを修正し、多様性を尊重する社会の構築に向けて動き出す必要があります。

外国人の受け入れを厳しく統制し、移民政策は取らないと執拗に言い続けてきた安倍政権は、実習生などの名目での裏口入国の移民を黙認し続けてきました。そして先日「改正出入国管理・難民認定法(改正入管法)」を成立させて、ついに「表玄関」からの外国人受け入れに本格的に踏み切り、事実上の移民政策を発進させました。

改正入管法には「特定技能1号」と「特定技能2号」という、命名自体が既に人間を物として扱うような「差別的な」響きを持つ在留資格が設けられています。1号は家族の同伴が認められず2号はOKという、日本政府に都合の良い規定が明記されています。しかし人間はそんな風に型通りにあるいは機械的にあつかわれるべき存在ではありません。

改正入管法によって入国した人々は、日本で生きていくうちに強い人間関係を構築したり、恋に落ちて結婚し子供を持ったり、職場に必要不可欠な大切な人材になったり、と人として当たり前の生活を展開していくことでしょう。そこで5年の任期がきたから自分の国に帰れ、と強制すれば摩擦が生じるのは必至です。

また家族の同伴が認められる「特定技能2号」は、初めから移民そのものなのですから、「移民政策は取らない」という安倍首相得意の口先ごまかしの姑息な強弁をやめて、全ての国民に移民を認め共生する道筋をたどるよう、促し説得するべきなのです。

突然のようですが 最近 、沖縄で安倍政権の強権的且つ横暴な手法による辺野古移設工事が強行されても、日本には暴力による抵抗、つまり立ち位置が変わればテロと呼ばれかねない騒動は起きないことが明らかになってきました。それは良いことですが、沖縄の屈辱と悲運に目を向けた場合、果たしてそのまま済ませた方が是か非かは定かではありません。

辺野古で起きている日本政府の横暴な行為に対しては、もしもそれが日本以外の国での出来事であるならば、暴力的抵抗が起きていても決して不思議ではありません。周知のように暴力を用いた抵抗運動は、それをされる側にはテロとして規定されますが、歯向かう側から見れば止むにやまれぬアクションであることがほとんどです。

ともあれ辺野古で住民の暴力抵抗が発生していない現実は、日本人が権力には羊のように従順であることを改めて示しているとも言えるわけですが、将来移民が多くなって多文化社会が出現したとき、人々が非民主的且つ強権的な安倍政権の手法を黙って受け入れるかといえば、それはおそらく難しいでしょう。

安倍首相と取り巻きの権力機構は、いつもの伝で「移民政策は取らない」と姑息な口説を用いて真相を隠蔽しつつ改正入管法を成立させました。しかし、あくまでも「外国人労働者」の受け入れに過ぎない、とする在留資格「特定技能1号」と「特定技能2号」は、れっきとした移民肯定法なのです。

移民を受け入れること自体は悪いことではありません。悪いことどころか、日本は今後は移民を受け入れることによってしか生き延びる道がないことは明らかです。問題は、その「大問題」を矮小化して伝える政権のあり方です。そしてさらなる大きな問題は、それを受け入れる日本国民です。

安倍首相はもう見苦しい強弁を止めるべきです。滅びの美学にのっとって国が亡びることを人々が受け入れるなら構いません。だがそれは嘘です。国民は皆生き延びたいはずです。それならば移民を受け入れるしかありません。そうではなく、国と共に滅びたい、というのであれば、それは死にたくない子供を無理やり地獄に引きずり込む、無理心中と同じ奇怪な世界観だと言わなければなりません。

ネット上にはびこっている右翼系の排外主義者らは、自らは何らかの方法で生き延びる画策をしておきながら、移民を受け入れるくらいなら共に滅びよう、という趣旨が密かに込められた欺瞞満載の主張をすることさえ厭いません。しかし彼らにだまされてはなりません

日本は生き延びるべきです。そのためには移民を受け入れるしかありません。ならばより良く、より正直に、より真摯に生きるために彼らを「我ら」と同じように扱うべきです。彼らは日本人と同じように教育を受け、社会福祉の恩恵に浴し、言うまでもなくきちんと税金も払ってもらう存在になるべきなのです。

そのうえで彼ら自身のルーツや文化を尊敬されつつ「日本人化」もまた受け入れてもらうのです。それは矛盾するコンセプトに見えますが、決してそうではありません。なぜなら彼らが日本の文化や伝統を心から尊敬していれば、彼らは自然に「日本人化」もしていくからです。それは欧米諸国の移民を見れば明らかです。

欧州に目を向ければ、主にイスラム過激派による近年のテロや反乱によって、あたかもイスラム系移民の全てが移住先の社会に適応できずにテロに走るような印象があります。だが決してそうではありません。多くの移民は移住先の社会に受け入れられ適応しているのです。

言うまでもなくそこに順応できずに疎外感を深め、過激思想に染まりテロに手を貸し、挙句にはテロの実行犯になってしまう者もいます。それを無くすには移民が“郷に入らば郷に従え”の精神を持つことと、同時に移住先の国民が彼らを受容する精神を育むことが重要なのです。

決してやさしい問題ではないことは欧米の状況が物語っています。しかしその背後には多くの成功例があることも忘れてはなりません。日本には2018年現在、既に128万人もの外国人労働者が働いているとされます。それが正しい数字ならば、不法労働者や不法滞在者を加えた数字はその2倍程度の可能性がある、と考えた方が現実的です。

また日本の学校に在籍中の子供のうち、「日本語指導が必要な児童生徒」は4万4000人にものぼります。短期間で帰国する筈だ、あるいは帰国させる、との勝手な思い込みでそれらの子供たちに十分な教育を施さなければ、将来彼らは疎外され怒れる若者となって、欧州等で既に起こっているように暴力やテロに走る可能性も高くなります。

彼らをそのまま放置すれば、 たとえテロに見舞われなくても 、日本社会は増大する外国人によって破壊されてしまうでしょう。現実を見つめて寛容でいるべきところは躊躇なく寛容に受け入れ、制限するべきところはきちんと制限し禁止し規定して、一日も早く「本音の」移民政策を掲げるべきなのです。

安倍政権が「必要な時だけ必要な数の人間」を受け入れて、要らなくなれば帰国してもらう、という都合の良い考えのみで政策を推し進めて行けば、近い将来渋谷のセンター街でテロが発生しても少しもおかしくありません。言うまでもなくここでいう渋谷とは、東京中の、ひいては日本中の繁華街のことにほかなりません。


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無神論者がクリスマスに熱狂する理由(わけ)

2018年、実に25年ぶりにクリスマスを日本で過ごしました。イタリア在住の筆者は毎年帰国はしているのですが、クリスマスとそれに続く年末年始は常にイタリアにいました。イタリア人家族を持つ筆者にとっては、特にクリスマスは在宅が必至だったのです。

イタリアを含む欧米諸国や世界中のキリスト教国では、人々がクリスマスをにぎやかに且つ厳かに寿ぎます。同時に世界中の非キリスト教国でも、人々はクリスマスを大いに楽しみ祝います。 25年ぶりの日本でのクリスマスもにぎやかに過ぎました。

毎年、クリスマスのたびに思うことがあります。つまり、今さらながら、西洋文明ってホントにすごいな、ということです。クリスマスは文明ではありません。それは宗教にまつわる文化です。それでも、いや、だからこそ筆者は、西洋文明の偉大に圧倒される思いになるのです。

文化とは地域や民族から派生する、祭礼や教養や習慣や言語や美術や知恵等々の精神活動と生活全般のことです。それは一つ一つが特殊なものであり、多くの場合は閉鎖的でもあり、時にはその文化圏外の人間には理解不可能な「化け物」ようなものでさえあります。

だからこそそれは「化け物の文(知性)」、つまり文化と呼称されるのでしょう。

文化がなぜ化け物なのかといいますと、文化がその文化を共有する人々以外の人間にとっては、異(い)なるものであり、不可解なものであり、時には怖いものでさえあるからです。

そして人がある一つの文化を怖いと感じるのは、その人が対象になっている文化を知らないか、理解しようとしないか、あるいは理解できないからです。だから文化は容易に偏見や差別を呼び、その温床にもなります。

ところが文化の価値とはまさに、偏見や恐怖や差別さえ招いてしまう、それぞれの文化の特殊性そのものの中にあります。特殊であることが文化の命なのです。従ってそれぞれの文化の間には優劣はありません。あるのは違いだけです。

そう考えてみると、地球上に文字通り無数にある文化のうちの、クリスマスという特殊な一文化が世界中に広まり、受け入れられ、楽しまれているのは稀有なことです。

それはたとえば、キリスト教国のクリスマスに匹敵する日本の宗教文化「盆」が、欧米やアフリカの国々でも祝福され、その時期になると盆踊りがパリやロンドンやニューヨークの広場で開かれて、世界中の人々が浴衣を着て大いに踊り、楽しむ、というくらいのもの凄い出来事なのです。

でもこれまでのところ、世界はそんなふうにはならず、キリスト教のクリスマスだけが一方的に日本にも、アジアにも、その他の国々にも受け入れられていきました。なぜでしょうか。それはクリスマスという文化の背後に「西洋文明」という巨大な力が存在したからです。

文明とは字義通り「明るい文(知性)」のことであり、特殊性が命の文化とは対極にある普遍的なコンセプトです。言葉を替えれば、普遍性が文明の命です。誰もが希求するもの、便利なもの、喜ばしいもの、楽しい明るいものが文明なのです。

それは自動車や飛行機や電気やコンピュターなどのテクノロジーのことであり、利便のことであり、誰の役にも立ち、誰もが好きになる物事のことです。そして世界を席巻している西洋文明とは、まさにそういうものです。

一つ一つが特殊で、一つ一つが価値あるものである文化とは違って、文明には優劣があります。だから優れた文明には誰もが引き付けられ、これを取り入れようとします。より多くの人々が欲しがるものほど優れた文明です。

優れた文明は多くの場合、その文明を生み出した国や地域の文化も伴なって世界に展延していきます。そのために便利な文明を手に入れた人々は、その文明に連れてやって来た、文明を生み出した国や地域の文化もまた優れたものとして、容易に受け入れる傾向があります。

たとえば日本人は「ザンギリ頭を叩いてみれば文明開化の音がする」と言われた時代から、必死になって西洋文明を見習い、模倣し、ほぼ自家薬籠中のものにしてきました。その日本人が、仏教文化や神道文化に照らし合わせると異なものであり、不可解なものであるクリスマスを受け入れて、今や当たり前に祝うようになったのは一つの典型です。

西洋文明の恩恵にあずかった、日本以外の非キリスト教世界の人々も同じ道を辿りました。彼らは優れた文明と共にやって来た、優劣では測れないクリスマスという「特殊な」文化もまた優れている、と自動的に見なしました。あるいはそう錯覚しました。

そうやってクリスマスは、無心論者を含む世界中の多くの人が祝い楽しむ行事になっていきました。それって、いかにも凄いことだと思うのですが、どうでしょうか。

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世界一の成獣羊肉料理を食する

羊肉&ステーキ

2018年の6月終わりから7月半ばまでイタリア・サルデーニャ島滞在しました。そこでは、海とビーチを忘れて観光や食巡りに終始しましたが、サルデーニャ島の食に関しては、筆者は一つ大きな勘違いをしていました。

それは島の重要な味覚の一つである子羊料理が、一年中食べられるもの、と思い込んでいたことです。島では子羊料理は晩秋から春にかけて提供される「季節限定の膳」だ、と聞かされて驚きました。

冷凍技術の発達で、昨今のイタリアでは子羊の肉はいつでも、どこでも手に入ります。ましてや羊肉の本場のサルデーニャでは、子羊料理は一年中食べられるに違いない、と思い込んでいたのです。

ところが子羊のレシピはどこのレストランのメニューにも載っていませんでした。代わりに多く目についたのが、サルデーニャ島のもう一つの有名肉料理「ポルケッタ(Porchetta)」、つまり子豚の丸焼きです。

ポルケッタにされる子豚は幼ければ幼いほど美味とされ、乳飲み子豚のそれが最高級品とされます。そのコンセプトは子羊や子ヤギの肉の場合とそっくり同じです。

ヒトの食料にされる動植物は、果物を除けばほぼ全てにおいて、残念ながら幼い命ほど美味とされます。それどころか誕生前のさらに幼い命である卵類でさえも、ヒトは美味いとむさぼり食います

ポルケッタは2軒のレストランで食べました。皮ごと提供されるその料理は、通ほどカリカリに焼けた皮を好むとされます。筆者は通ではありませんが、見事に焼きあがった皮の美味さには舌を巻きました。

肉そのものも絶妙な柔らかさに焼きあがって舌ざわりが良く、且つ香ばしい。口に含むとほんのわずかな咀嚼でとろりと溶けました。2軒の膳ともにそうでした。

店の一軒目は壁画アートが熱いオルゴーソロの店。路上にテーブルを出しているほとんど屋台同然の質素な場所でしたが、味は極上でした。

2軒目は滞在先のすぐ近くにあるレストランでした。そこは海際の街にありながら魚料理を一切提供せず、島のオリジナルの「肉料理」にこだわって評判が高い店です。

ポルケッタを食べに初めて足を運んだあと、そのレストランには一週間ほど毎日通いました。山深い島の内陸部でなければ食べられないような肉料理が盛りだくさんだったからです。

ポルケッタの次には普通の牛ステーキに始まって、成獣羊肉や牛の内臓や豚のそれを焼き上げた料理を一週間、毎日メニューを変えて味わいました。はほぼ全ての膳が出色の出来栄えでした。

店のメインの肉料理は炭ではなく徹底して薪の熾火で焼かれます。また味付けはほぼ塩のみでなされるのが特徴で、胡椒などもほとんど使いません。

料理される内臓は主に牛の心臓、肝、肺、腎臓、横隔膜、脳みそなど。また豚の睾丸なども巧みな火加減と塩使いで焼かれて提供されます。

それらはいずれも秀逸な味付けでした。ごく普通の牛ステーキでさえもちょっとほかでは味わえないような 妙々たる風味がありました。有名なフィオレンティーナ・ステーキも真っ青になるような豊かな味覚なのです。

パスタもミンチ肉や内臓の細切り煮込みやチーズなどを活かしたソースを使って、とにもかくにも「サルデーニャ島内陸部の伝統肉料理」にこだわったものでした。

サルデーニャ島の料理の基本は肉です。島でありながら魚介料理よりも肉料理が好まれたのは、島民が海から襲ってくる外敵を避けて内陸の山中に逃げ、そこに移り住んだからです。山中には魚はいません。

現在のサルデーニャ島には素晴らしい味の魚介料理が溢れています。だがそれは島オリジナルの膳ではなく、沿岸部を中心とするリゾート開発の進行に伴って、イタリア本土の金持ちたちが持ち込んだレシピなのです。

魚料理、特にパスタに絡んだサルデーニャ島の魚介料理は、イタリア本土のどの地域の魚介パスタにも引けを取りません。当たり前です。元々がイタリア本土由来のレシピなのですから。

通いつめた店で出される島オリジナルの肉料理はなにもかもが珍しく、またどれもが目覚ましい味わいでしたが、その店での最高の料理は「羊の成獣の骨付き肉焼き」でした。

それは目を洗われるような味わいの調理でした。しっとりと焼き上げられた羊肉は、肉汁はほとんどないのに肉汁のうま味がジワリと口中に広がるような不思議で秀逸な味がしました。

さらに付け加えると羊の成獣肉の臭みはきれいに消し去られていました。しかし「子羊肉」にも共通する羊肉独特の風味はきちんと残っています。もしかすると熟成肉なのか、とも思いましたが確認はしませんでした

羊(及びヤギ)の成獣の肉料理は筆者の中では、これまでカナリア諸島で食べた一皿が一番の味でした。が、今回のサルデーニャ島の焼き羊肉がそれを抑えてあっさりとトップに躍り出ました。

それは飽くまでも羊(及びヤギ)の「成獣の肉」の味のことです。成獣よりも上品でデリケートな味わいのある「子羊の肉」は一体どんな素晴らしい味がするのだろう、と考えるとわくわくします。

筆者は今度は、子羊料理の旬だと聞かされた晩秋から春の間に、サルデーニャ島を再び訪ねてみようと決意しているほどです。

※記事タイトルの「世界一の羊肉料理」とは、ヤギ及び羊料理が好きな筆者の独断と偏見による評価です。それは今後いくらでも順位や査定や格付けが変わる可能性があります。



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イタリア・サルデーニャ島海鮮料理に見る殖民地メンタル

イタリア本土の魚料理とサルデーニャ島の魚料理の在り方は、見ようによっては極めて植民地主義的な関係です。つまり力のある者、経済的優位に立つ者、多数派に当たる者らが、弱者を抑え込んで排斥したり逆に同化を要求したり、また搾取し、支配することにも似ています。多数派による数の暴力あるいは多勢に無勢、などとも形容できるその関係は料理に限ったことではなく、両者の間の政治力学の歴史を踏襲したものです。

ごく簡略化してサルデーニャ島の歴史を語れば、同島は先史時代を経て紀元前8世紀頃にフェニキア人の植民地となり次にはカルタゴの支配下に入ります。支配者の彼らは今のレバノンやチュニジア地方に生を受けた、いわゆるアラブ系の民族です。紀元前3世紀には島はローマ帝国の統治下に置かれましたが、8世紀初頭には多くがイスラム教徒となったアラブ人の侵略を再び受け、長く支配されました。

島はその後スペインやオーストリアなどの欧州列強の下におかれ、やがてイタリア王国に組み込まれます。そして最後にイタリア共和国の一部となりました。そのようにサルデーニャ島の歴史は、欧州文明の外に存在するアラブ系勢力の執拗な侵略と統治を含めて、一貫して植民地主義の犠牲者の形態を取ってきました。

サルデーニャ島の魚料理の変遷を政治的なコンセプトに重ねて見てみると、そこには多数派と少数派の力関係の原理あるいは植民地主義的な状相があることが分かります。或いはそこまで政治的な色合いを込めずとも、多勢に無勢また衆寡敵せずで、少数派の島人や島料理が多数派の本土人や本土料理に押され、詰め寄られ、凌駕されていく図が見えます。

そうした現実を進化と感じるか、逆に屈辱とさえ感じてしまうかは人それぞれでしょうが、島本来のレシピや味も維持しつつ、イタリア本土由来の料理も巧みに取り込んでいけば、島の食は今後もますます発展していくものと思います。島国根性に縛られている「島人」は、”島には島のやり方があり伝統がある”などと、一見正論じみた閉塞論を振りかざして、殻に閉じこもろうとする場合がままあります。

島のやり方は尊重されなければなりませんが、それは行き過ぎれば後退につながりかねない。また伝統が単なる陋習である可能性にも留意しなければなりません。特に食に関しては、「田舎者の保守性」という世界共通の行動パターンがあって、都会的な場所ではないところの住民は、目新しい食物や料理に懐疑的であることが多い。日本の僻地で生まれ育った筆者自身も実はその典型的な例の1人です。

植民地主義的事象は世界中に溢れています。それは差別や偏見や暴力を伴うことも多いやっかいな代物ですが、世の中に多数派と少数派が存在する限り植民地主義的な「不都合」は決してなくなることはありません。少数派は断じて多数派の横暴に屈してはなりませんが、多数派が多数派ゆえに獲得している可能性が高い「多様性」や「進歩」や「開明」があるのであれば、それを学び導入する勇気も持つべきです。

同時に多数派は、多数派であるが故に自らが優越した存在である、という愚劣な思い上がりを捨てて、少数派を尊重し数の暴力の排斥に努めるべきです。これは正論ですが実現はなかなか難しい要求でもあります。なぜなら多数派が、多数派故に派生する数の力という「特権」を自ら進んで放棄するとは考えにくいからです。それは多数派の横暴が後を絶たない現実を見れば明らかです。

それに対しては、少数派の反発と蜂起が続いて対立が深まり、ついには破壊的な暴力が行使される事態にまで至る愚行が、世界中で飽きもせずに繰り返されています。そうしたしがらみから両者が解放されるためには、堂々巡りに見えるかもしれませんが、やはり植民地主義の犠牲になりやすい少数派が立ち上がり声をあげ続けるしかありません。なぜなら多数派の自発的な特権放棄行為よりも、少数派の抗議行動の方がより迅速に形成され実践されやすいからです。

サルデーニャの食に関して言えば、イタリア本土の料理のノウハウを取り込みつつサルデーニャ食の神髄や心を決して忘れないでほしい。それは島人が意識して守る努力をしなければ、多数派や主流派の数の洪水に押し流されてたちまち消え去ってしまう危険を秘めた、デリケートな技であり概念であり伝統であり文化なのです。

20年前とは格段に味が違うサルデーニャ島の魚介料理、中でも海鮮ソースパスタに舌鼓を打ちつつ、また同時に20年前にはほとんど知らなかった島の肉料理のあっぱれな味と深い内容に感動しつつ筆者は、突飛なようですが実はありふれた世の中の仕組みに過ぎない植民地主義や植民地メンタル、あるいは多勢に無勢また数の横暴などといった、面倒だがそれから決して目を逸らしてはならない事どもについても思いを馳せたりしました。

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ボランティアという献身、利他主義という高潔

                                ウーゴさん

はじまり

カトリック系のイタリアの慈善団体、「マト・グロッソ」のウーゴさんが94歳で亡くなりました。

ウーゴさんとは、人生のほとんどを他人のためだけに生きてきた清高な男、カトリック・サレジオ(修道)会のウーゴ・デ・チェンシ神父のことです。

神父様ではなくウーゴさんと人々に愛称された彼はイタリア北部の生まれ。宣教師としてブラジルに行ったことがきっかけで、土地の名前を取った「マト・グロッソ」という慈善団体を立ち上げました。

「マト・グロッソ」はイタリア国内で年々発展を遂げ、多くのボランティアを南米各国に派遣するなど、広範囲にわたって慈善事業を展開しています。

マトグロッソは特に南米のペルーで大きく成長。今では同国で第2位の資産を有するまでになり、その資産を活用して事業を起こし、ペルー人を雇用し、貧者を支援するなどしています。

中でも貧しい青少年たちへの支援を中心に、学校事業や社会事業に多大な労力を注いで成果を挙げています。

ウーゴさんを訪ねて

先年、マト・グロッソBresciaの責任者夫妻と共に、ウーゴ神父を訪ねてペルーに行きまし。同国でのマト・グロッソの活動地域は、ほとんどが山中の貧しい場所です。

周知のようにペルーには、アンデス山脈、アマゾン川、ナスカの地上絵、マチュピチュ等々、魅惑的な観光スポットが数多くあります。

旅では標高約5千メートルの峠越え3回を含む、3700メートル付近の高山地帯を主に移動しました。言うまでもなくウーゴさんとマトグロッソの活動を見聞するためです。

目がくらむほどに深い渓谷を車窓真下に見る、死と隣り合わせの険しい道のりや、観光客の行かない高山地帯の村や人々の暮らしは、全てが鮮烈で面白いものでした。

面白いとは、旅人である筆者のノーテンキな感想で、ウーゴさんとマトグロッソのボランティアの皆さんは、日々厳しい慈善事業に精を出していました。

フィアットよりも大きな会社?

「イタリア最大の産業はボランティア」という箴言があります。イタリアのみならず欧米諸国の人々は概してボランティア活動に熱心です。

イタリアの場合は、カトリックの総本山バチカンを身内に抱える国らしく、欧米の平均に輪を掛けて人々が活動に一生懸命のような印象を受けます。

この国の人々は、猫も杓子もという感じで、せっせとボランティア活動にいそしみます。やはり博愛や慈善活動を奨励するローマ・カトリック教会の存在が大きいのでしょう。

奉仕活動をする善男善女の仕事を賃金に換算すれば、莫大な額になります。まさにイタリア最大の産業です。

「マト・グロッソ」のウーゴさんは、さしずめイタリアのその巨大産業の元締め、あるいは象徴的な存在の一人、と規定できるかもしれません。

チャリティーってなに?

チャリティーなんて金持ちやひま人の道楽、と考える人も世の中には多くいます。それはきっと日々の暮らしに追われている、豊かとばかりも言えない人々の正直な思いでしょう。

しかし、チャリティーは実は、貧富とは関係のない純粋な自己犠牲行為です。次の統計の一つもそのことを如実に物語っています。

慈善活動をする世界の人々のうちのもっとも裕福な20%の層は、収入の1、3%に当たる額を毎年寄付に回しています。

一方、 慈善活動をする世界の人口のうちのもっとも貧しい20%の人々は、彼らの収入の3、2%を寄付に回しています。貧しい人々は金持ちよりも寛大なのです。

他人の為に何かをするという行為は尊いものです。自己犠牲の精神からはほど遠い、俗物然とした心意しか持ち合わせのない筆者などは特にそう思います。

中でも「継続して」人のために活動をしている皆さんには頭が下がる思いがします。

思い続ける難しさ

たとえば災害時などに提供する義援金は、一度寄付をすればそこで終わりですが、「被災者を忘れない」という思いをずっと胸に抱き続けるのは難しいことです。

思い続けることはいたわりになり、それは行動になります。ボランティアやチャリティーも同じです。「続ける」ことが重要で、しかもそれはたやすいことではありません。

災害の被災者だけではなく、世界中の貧しい子供たちや不運な人たちを思い続けること。それが本物のボランティアやチャリティーの核心だと思います。

「にわかボランティア」や「にわか慈善行為」は、もちろんそれ自体がとても大切なことです。何はともあれ被災者や被災地に思いを寄せることだからです。

そしてボランティアや慈善行為を「続ける」ことができれば、さらにもっとすごいことです。だが、たぶん続けられる人はそれほど多くはいません。皆忘れます。「他人を心に思い続ける」のは至難の業なのです。

ゴルファーの藍ちゃんの失敗

チャリティーの精神を考えるとき、いつも頭に思い浮かぶエピソードがあります。

東日本大震災の直前に、アメリカの女子プロゴルフ界がチャリティーコンペを主催しました。チャリティーコンペですから賞金が出ません。賞金は全てチャリティーに回されるのです。

多くの欧米人プレーヤー参加したものの、宮里藍、上田桃子、宮里美香の日本人トッププレーヤー達は参加しませんでした。賞金が出ないからです。

ところがそのすぐ後に、東日本大震災が起こってしまいました。すると日本人3人娘が「被災地のためにチャリティーコンペをしよう」と呼びかけました。

それは良いことの筈なのですが、当時アメリカでは大変な不評を買いました。残念ながら彼女たちは、身内のことには必死になるが、他人のことには鈍感で自分勝手、と見破られてしまったのです。

自分や身内や友人のことなら誰でもいっしょうけんめいになれます。慈善やチャリティーやボランティアとは、全くの他人のために身を削る尊い行為のことなのです。

それは特に欧米社会では盛んで、有名人やセレブや金持ちたちには、普通よりも大きな期待がかけられます。

チャリティー活動が盛んではない国・日本で育った3人の日本人娘は、トッププレーヤーにはふさわしくない大失態を演じてしまいました。

しかしその後、彼女たちは懸命に頑張ってチャリティー活動を行い、1500万円余りの義援金を被災地に寄付したことは付け加えておかなければなりません。

それは「身内の日本人」被災者への思いやりで、彼女たちが「身内でない者」のためにも同じ気持ちで頑張るかどうか分からない、などと皮肉を言うのはやめましょう。身内のためにさえ動かない者がいくらでもいるのですから。

見返りを求めるチャリティーはない

チャリティー活動になじみのない日本人にありがちな、気をつけなければならないエピソードは、実は筆者の身近でも起こります。

筆者が関わった「マト・グロッソ」系のチャリティーイベントで、事前に告知されていたローストビーフが手違いで提供されなかったことがあります。それに怒った人々が担当者を突き上げました。

実はそうやって強くクレームをつけたのは残念ながら日本人のみでした。そこで大半を占めていたイタリア人は、一言も不平不満を言わなかったのです。

彼らはチャリティーとは得る(ローストビーフを食べる)ことではなく、差し出す(寄付する)ものであることを知りつくしていたからです。

イタリア人は、カトリックの大きな教義の一つである慈善やチャリティーの精神を、子供のころから徹底的に教え込まれます。

そうした経験がほぼゼロの多くの日本人にとっては、得るもの(食べ物)があって初めて与える(支払う)のがチャリティー、という思い違いがあるのかもしれない、と筆者はそのとき失望感と共にいぶかりました。

その一方、マトグロッソという慈善団体を立ち上げ、大きく育て、常に他人を思い利他主義に徹した「ウーゴさん」の尊い精神は、彼を慕うボランティアたちを介して今後も生き続けることが確実です。

ペルーでの思い出のみならず、イタリアでもチャリティー活動などを通して親しくさせていただいた偉大な男、“ウーゴさん”の逝去を心から悔やみつつ記します。

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親の壁

先日、筆者の父親が101歳で他界しました。またその数ヶ月前にはイタリア人の義母が92歳で逝きました。

義母は先年、日本の敬老の日を評して「最近の老人は、もう誰も死ななくなった。いつまでも死なない老人を敬う必要はない」と喝破したツワモノでした。

101歳の父と92歳の義母が「いつまでも死なない老人」であったかどうかはわかりません。しかし、その名文句 を言い放ったときの義母が89歳だったことを思えば、彼女の言う「いつまでも死なない老人」 の目安は90歳あたりです。

それというのも義母は正確に言えば、「《私を含めて》最近の老人は、もう誰も死ななくなった。いつまでも死なない老人を敬う必要はない」と自らの境遇に即して発言したのでした。

また当時、麻生太郎副総理兼財務相 が「90歳になって老後が心配とか、訳の分からないことを言う人がいる。一体いつまで生きているつもりだ」という趣旨の発言をして物議をかもしました。

筆者は日本の敬老の日の趣旨に続いて麻生さんの発言も義母に話しました。彼女は麻生さんの箴言に拍手喝采しました。そうしたいきさつからも「いつまでも死なない老人」の始まりは90歳前後、と筆者は考えます。

そしてその90歳という目安は、長寿がますます盛んになっていく昨今は、速い速度で95歳、100歳とどんどん先送りされていくことになるでしょう。

義母の「爆弾発言」は、日伊ひいては世界の大問題の一つである高齢化社会のあり方について、しきりに考えをめぐらせることが多い筆者に目からウロコ的な示唆を与えました。

高齢化社会の問題とは、財政と理念に基づく国のあり方であり、安楽死や尊厳死の解釈と当為の是非であり、命題としての一人ひとりの人間の死に様、つまり「生き様」のことです。

還暦を過ぎたばかりの筆者は、父や義母ほどの老人ではないかもしれませんが、いかに死ぬか、つまりいかに生きるべきか、という問いに不自然さを感じない程度の“高齢者”となりました。

老人の義母が「いつまでも死なない老人」と断罪したのは、「無駄に長生きをして周囲に疎まれながらもなお生存している厄介な超高齢者」という意味でした。

また彼女の見解では「疎まれる老人」とは、愚痴が多く、精神的にも肉体的にも自立していない退屈な高齢者、のことでした。

義母自身もまた筆者の父も、終わりの数年は愚痴の多い、あまり幸せには見えない時間を過ごしました。とはいうものの2人の愚痴は、老人の誰もが陥る晩年の罠というよりも、両者の生来の難しい性格から来ているように見えました。

2人のさらなる長生きを願いながらも、筆者は彼らのあり方をいわば「反面教師」として、自らの老い先の道しるべにしよう、とひそかに思ったりもしたことを告白しなければなりません。

とまれかくまれ、父を最後に筆者の親と妻の両親、また双方の親世代の家族の人々がこの世から全ていなくなりました。それは寂しく感慨深い出来事です。

生きている親は身を挺して死に対する壁となって立ちはだかり、死から子供を守っています。だから親が死ぬと子供はたちまち死の荒野に投げ出されます。次に死ぬのはその子供なのです。

親の存在の有難さを象徴的に言ってみました。しかしそれはただの象徴ではありません。先に死ぬべき親が「順番通り」に実際に逝ってしまうと、子供は次は自分の番であることを実感として明確に悟るのです。

筆者自身が置かれた今の立場がまさにそれです。だが人が、その場ですぐに死の実相を知覚するのかといえば、もちろんそんなことはありません。

死はやがて訪れるものですが、生きているこの時は「死について語る」ことはできてもそれを実感することはあり得ません。

人は死を思い、あるいは死を感じつつ生きることはできません。「死を意識した意識」は、すぐにそのことを忘れて生きることに夢中になります。

100歳の老人でも自分が死ぬことを常時考えながら生きたりはしません。彼は生きることのみを考えつつ「今を生きている」のです。

まだ元気だった頃の父を観察して筆者はそのことに確信を持ちました。父は残念ながら100歳のすぐ手前でほとんど何も分からなくなりましたが、それまでは生きることを大いに楽しんでいました。

楽しむばかりではなく、生に執着し、死を恐れうろたえる様子さえ見せました。潔さへの憧憬を心中ひそかに育んでいる筆者は、時として違和感を覚えたほどでした。

ともあれ、死について父と語り合うことはついにありませんでしたが、筆者は人が「死ぬまで生き尽くす」存在であるらしいことを、父から教わったのでした。

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「バラマキ予算が最善」とEUに吠える伊ポピュリスト政権

EUの欧州委員会は11月21日、イタリア政府の2019年度予算案に関して「過剰財政赤字是正勧告(EDP)」を発動するための準備を開始する、と発表しました。

これに先立ち同委員会は10月、財政赤字を国内総生産(GDP)の2、4%に設定するとしたイタリアの2019年度予算案を、EUの財政規律から大きく逸脱しているとして、受容を拒否していました。

これに対してイタリア政府は、小幅な修正を盛り込んだ予算案を提出しましたが、欧州委員会はこれにも難色を示して、ついに最悪の場合には最大でGDP(国内総生産)の0、5%分の罰金が科される可能性もあるEDPの第一段階に入ったのです。

ただ制裁金が科されるまでの道のりは長く、先ず2週間以内にEU各国の副財務相と会計責任者らが勧告の内容を審査します。その後、勧告は各国財務相らで構成されるEU財務理事会に送られ、理事会は来年1月に会合を開いてEDP入りを正式に決定します。

制裁手続きが開始されると、EUはイタリアに対して最長6カ月以内に財政赤字の是正や公的債務の削減削策などを要求します。イタリアがEUの勧告に従わなければ段階的に制裁が強化され、最終的にGDPの0,2%~0,5%を無利子でEUに預け入れるように命じることになります。

イタリア・ポピュリスト政権の予算案は、赤字の対GDP比率が前政権の見積もりの3倍にも達するバラマキ財政。実施すれば構造的赤字が拡大し、公的債務も拡大することが必至と見られています。2018年10月現在イタリアの借金は国民1人当たり€37000(約481万円)でEU圏最大です。

イタリア政府の来年度の予算案に対しては、EUはもとより財界や各国中央銀行からも見直しを迫る声が相次いでいます。財政赤字の対GDP(国内総生産)比率が既述のごとく2、4%にものぼるバラマキ予算案だからです。

赤字の対GDP比率が2、4%という数字は民主党前政権が示した予想の3倍に当たり、来年の構造的債務を、GDP比で0.8%まで押し上げる計算になります。それは国内外のエコノミストやEUからの強い批判にさらされたほか、イタリア政府債利回りの大きな上昇も招いています。

同盟と五つ星運動が連立を組むポピュリスト政権は、一律15%の所得税導入、貧困層への1ト月一律約10万円余のベーシックインカム支給(最低所得保証)、年金給付年齢の「引き下げ」などを主張してことし3月の総選挙で勝利しました。

そして6月に政権運営が始まると同時に、選挙公約を実現しようとやっきになっています。イタリアは総額約2兆3000億ユーロ(約300兆円)の借金を抱えています。それはEUが緊急時に加盟国を支援する常設基金、ESM(欧州安定メカニズム)でさえ対応しきれない規模です。

その額は例えば、1100兆円に近い日本の累積債務に比較すると小さく見えるかもしれませんが、日本の借金が円建てでイタリアのそれがユーロ建てであることを考えれば、天と地ほどの違いがあります。

分かりやすいように極端なことを言えば、日本はいざ鎌倉の時には自国通貨を発行しまくって借金をチャラにすることができます。しかし、EUの共通通貨であるユーロの発行権を持たないイタリアにはそんな芸当はできません。

借金漬けの家計を整理し健全化するのではなく、さらなる借金で楽に暮らそうとする一家があるならば、その家族には必ず自己破産という地獄が訪れることになるでしょう。

イタリアの現政権が打ち出した2019年度の予算案は普通に考えれば、自己破産という地獄へ向けてまっしぐらに走る、「借金漬け一家」のクレージーな生活設計です。

政権の主張は減税と福祉支出等の増加によって経済成長を促すというもので、2019年の経済成長率を1.5%、2020年を1.6%、2021年を1.4%と予測しています。だがそれらの数字に対しては多くの専門家が楽観的すぎるとの批判を強めています。

政権の実質的なボスの1人であるディマイオ副首相(五つ星運動党首)は、ベーシックインカム導入に強い意欲を示し、年金給付年齢を引き上げた2011年の政府決定は、選挙を経ないテクノクラート内閣が決定したものであるから無効だ、と主張。

また 政権内で彼と同等以上の影響力を持つと見られているサルヴィーニ副首相(同盟党首)は、イタリアの来年の経済成長率は、政府が先に示した1,5%ではなく2%になる、とほとんど根拠のない主張をしています。

政権を担当することになった彼らの今の言動を待つまでもなく、五つ星運動と同盟が先のイタリア総選挙で勝利し連立政権を組んだところで、現在の状況が出現するであろうことはすでに分かっていました。

あらためて言うまでもなく彼らは、移民難民を排斥し、(票獲得のために)ありとあらゆるバラマキ策を実施し、米トランプ主義を大手を振って賞賛する、ということを繰り返し主張し実践し確認して、政権を掌握したのです。

いまさら彼らの施策につべこべ言うのは負け犬の遠吠えにも似た無益な態度です。たとえそれがイタリアを破壊しかねないものであっても、彼らは行き着くところまで行くべきだ、というのが筆者の思いです。

事実上の首相であるサルヴィーニ副首相兼内相とディマイオ副首相兼労働相は、内外からの批判に答えて、予算案の見直しは絶対にしない、と繰り返し発言しています。EUへの強い対抗意識がはたらいているからです。

また財界、野党、それにEUからの非難や懸念や罵倒などにも関わらずに、イタリア国民の連立政権への支持は強まっています。それはそうです。彼らはそれらの政策を選挙公約に掲げて戦い勝利を収めたのですから。

国民の支持率の高さは、ジュゼッペ・コンテ首相への信頼感と無関係ではありません。政治的には全く無名の存在だったコンテ首相は、政権の船出の頃こそ学歴詐称疑惑などでつまずき「ミスター・ノーバディ(名無しの権兵衛 )」などと揶揄される存在でした。

ところがその後、同首相の学者然とした落ち着いた慎重な物腰が好感され、且つ政治的には素人である彼の言動が、政治家のアクの強さに辟易しているイタリア国民の心をしっかりと捉えて人気が高まっています。

世論調査によると、コンテ首相の支持率は67%に達します。その数字はここ最近の彼の前任者の誰よりも高いものです。また彼よりも目立つことが多い連立政権の2人のリーダー、同盟のサルヴィーニ党首の57%、五つ星運動のディマイオ党首の52%よりも高くなっています。

コンテ首相への好感度も手伝って、ポピュリスト政権への支持率も64%に達します。また同盟と五つ星運動両党への支持率も合計で62,3%に昇ります。来年度予算を巡るEUとのやり取りが国民を失望させる可能性もありますが、政権発足から今日までの状況は彼らにとって願ってもないものです。

ポピュリストとも野合とも揶揄される政権が、国民から高い支持を受けているのは、選挙公約を忠実に実施しようとする彼らの「ぶれない」姿勢への評価もさることながら、政治不信に陥っているイタリアの有権者が、確かな「変化」の風を感じてポジティブなムードが国中に醸成されているところにあります。

EUがイタリアの2019年度予算案への対応を誤れば、イタリアの世論は共通通貨ユーロの否定、ひいてはEU離脱へ向けて一気に加速・膨張するかもしれません。そしてその道筋こそが実は、連立政権を担うポピュリストの五つ星運動と、反EUの極右政党・同盟が最終的に目指しているものなのです。

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肉料理の島の海鮮レシピ

イタリア・サルデーニャ島の料理の主流、あるいは正当な伝統料理の食材は肉です。ところがいま現在のサルデーニャ島には魚料理があふれていて、それは食の国イタリアのどの地域の海鮮料理にも全くひけをとらない味を誇っています。

島の魚料理はリゾート地として目覚ましく発展している沿岸地帯を中心に生長してきました。ミラノをはじめとする北イタリアの金持ちたちが、彼らの専属シェフとともに魚料理のレシピを持ちこんで流行らせたり、古くからある沿岸地帯の数少ない魚料理を改良(ある種の人々にとっては改悪)していったのです。

専属シェフを抱えるほどの経済的余裕や食への情熱をそれほどは持たない者は、島のレストランや招待先で彼らの知る「イタリア本土料理」の要諦を講釈し、そこへ向けて島料理が変化するように要求しました。そうやってサルデーニャの「島風魚料理」は、徐々に「イタリア本土風の味」に変ることを余儀なくされたのです。

言葉を変えれば、島の魚介膳は世界の誰もが知る「普通の」イタメシへと変貌していきました。イタメシだからそれはほとんどの人にとって美味しい煮炊きです。それがサルデーニャ島の海岸地域に見られる今日の魚介料理の状況です。いつどこで食べても美味い。だがそれは島本来の魚介レシピではないのです。

2018年夏、サルデーニャ訪問旅で筆者が行き逢った最善の魚料理は、滞在先のキャンプ場の中のレストランで食べたタコ料理でした。その一皿は茹でたタコをスライスしてマリネ風の漬け汁で包み固めたものですが、レシピも味も伝統料理とは異なっていました。

筆者はマリネに特別な嗜好を持ちません。むしろ嫌いなほうです。そんな自分がすぐに好きになったほどの料理のマリネ風漬け汁の味が、タコのデリケートな滋味にからまって、得も言われぬ 旨味 を生成していました。

巧みな湯温度と塩加減で茹でられた素材は、まろやかでコクがあるのにさっぱりしている。言ってみれば「味の矛盾」が蝟集して、ユニーク且つ確固たる佳味 の小宇宙を形成していたのです。見事の一言につきる一品でした。

地中海域には、筆者が体験しただけでもギリシャやトルコやイタリアなど、タコ料理の美味い国々があります。そこで共通しているのは、日干しのタコやイイダコなどをトマトソースやオリーブ油やワインなどを絡ませてじっくりと煮込む調理法で、どの国の膳も美味い。

サルデーニャ島を含む地中海の島々に根付いたオリジナルのそれらのタコ料理は、本来は新鮮なタコを茹でたり焼いたりするだけの原始的なものでした。ところが16世紀にトマトが南米から欧州に導入され、18世紀に食用として一般化すると、タコ料理はトマトにワインとオリーブ油を加えて煮込む調理法へと変わっていったのです。

今回食べたタコ料理は、地中海伝統のその煮込み膳とは全く違っていました。見た目はむしろ、海鮮サラダとして提供される時の「茹でダコのスライス」に近いものでした。だが味は初めて体験するもので、一般的な海鮮サラダとはまるで違う、豊饒でまろやかな舌触りが特徴の優れた一品だったのです。

それに続く魚介料理の発見は、滞在先近くの街、ポルト・トーレスの老舗レストランで体験した魚介の前菜(伊語アンティパスト、英語スターター或いはアペタイザー)です。エビやタコなどの通常素材をデリケートなタッチで仕上げた技が絶妙でした。また小鮫の肉の煮込み皿と、いくつかの魚肉をミンチにして混ぜ合わせ、丸めて油で揚げたpolpetta(ポルペッタ:魚肉ボール揚げ)は、味はさておくとして面白い仕上がりでした。

タコの新しい味わいを引き出した前述の一皿や、冒険心満載の前菜魚介などは元もと、島の外の人々、つまりリゾートに休暇でやって来るバカンス客を目当てに、島の外のシェフや料理通らが編み出したレシピです。だが今では島の人々も自家薬籠中の物にしてさらに進展しています。

一風変わったそれらの海鮮料理はさておいて、今回もよく食べたのが海鮮パスタでした。いや、「最も多く食べた」のが海鮮パスタだった、と言わなければなりません。アサリやムール貝のソース、ボッタルガ(マグロの卵のタラコ風塩漬け)、ミックス魚介ソース和えなどの「通常」パスタの味は、どこも抜群に美味しいものでした。

イタリア人観光客が多いサルデーニャ島のレストランで、魚介ソースのパスタを美味く仕上げられないなら、その店は完全にアウトです。だからどの店も必死に魚介ソースのパスタに磨きをかけます。魚介ソースのパスタは、サルデーニャ島を含むイタリアでは、どこでもいつでも美味いのが「当たり前」なのです。

ところが今回は、イタリア国外でよく遭遇する不味い魚介パスタにそっくりの代物にも行き会いました。極めて珍しい例なのでここで言及しておくことにします。

場所はアルゲーロ(Alghero)のレストラン。スペインのカタルーニャ人が多く渡来し住み着いた、ユニークな歴史街。アルゲーロのスペイン風の街並みと空気感を楽しんだ後に、車を駆って面白そうなレストランを探し回りました。

そうして見つけたのが、ビーチに杭を打ち立てて建造されたりっぱな建物のレストラン。水着姿の客も多い文字通りの「海際の」店でした。これ以上はないというほどのすばらしい立地です。

筆者はごく普通にボンゴレ(あさり)ソースのスパゲッティを頼み、同伴している妻は魚卵ボッタルガのスパゲティを注文しました。出てきたのは見た目がちょっとゆるい感じのソースがからまったボンゴレと、ボッタルガの量をケチったのが見え見えの薄っぺらな雰囲気の2皿。

味見をしました。さすがに2品ともにパスタのアルデンテ(歯ごたえのある)まで外すことはなかったのですが、ソースの不味さにおおげさではなく「驚愕」しました。見た目そのままの味だったからです。

ボンゴレは水っぽく、プチトマトの味も良くありませんでした。おまけに貝の量が恥ずかしいくらいに少ないのです。魚介の味がほとんど感じられませんでした。パスタ全体の味を語る前に、まず魚介の具を増やさなければ話にならない、というほどの貧しさです。プチトマトを生のものではなく、「乾燥トマト」を使っていれば、味はぐんと違っていたのでしょうが、「ないものねだり」というふうでした。

もう一皿のパスタも良くありません。こちらも具のボッタルガの量が少ないのに加えて、素材がぱさぱさに乾ききっていて魚卵の風味が損なわれていました。ボッタルガに絡ませる素材も全く考慮していないのが明らかな不手際ぶりでした。

その店の料理人は恐らく、夏場の超多忙な時期だけに雇われる三流シェフなのだと感じました。素人に毛が生えただけの料理人を雇って、質よりも量を重視して一気に稼ぐ手法の経営体制の店に違いない。よくある話です。しかし、パスタの本場のイタリアでは、ファーストコースの麺料理をないがしろにする店が成功するのは至難の業です。

それでも繁盛しているように見えるのは、顧客層が普通とは違っていたからです。イタメシの本場の味としてはいかにも貧弱なその店の客は、ほとんどが外国人だったのです。特にドイツを中心とする北欧各国からのバカンス客が多いようでした。彼らは少々のイタメシの粗悪にはなかなか気がつかないといわれます。

その悪口はイタリア人を始めとする欧州の食通たちの言い草です。見方によっては不遜と取られても仕方のない彼らのそうした評価は、まさに思い上がりそのものである場合もありますが、真実を突いた見解であることも少なくありません。

繰り返しになりますが、その店の顧客は常連客やリピターではなく、その場限りの通りすがりの外国人がほとんどだったのです。料理の寡少にも拘わらずにレストランが繁盛している陰には従って、あるいは食通たちの批判通りの現実があるのかもしれません。

同時に筆者は、20年前のサルデーニャ海鮮料理体験も思い出していました。妻と子供2人を伴って、3週間にわたってキャンピングカーでサルデーニャ島を巡った折、筆者は島の魚料理の貧しさに閉口して自分で魚介を買っては調理した経験があります。

20年後の今、サルデーニャ島の魚介レシピは目覚ましい発展を見せていますが、根元では肉料理が主体の「島料理」のメンタリティーはあまり変わっていないため、魚介膳のそうした不備が時々顔を出すのかもしれない、と思ったりもしてみたのでした。

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北斎・広重に見る近代的自我あるいはその欠如

昨年、イタリア・ミラノで大きな北斎展が開かれました。ほぼ同じ催し物が間もなく、世界最古の大学がある学生の街ボローニャでも始まります。筆者はミラノに続いてボローニャの展覧会も観に行こうと待ち構えています。

ミラノでは1999年に大規模な北斎展が行われて以来、かなり頻繁に江戸浮世絵版画展が開かれています。そこでは浮世絵への理解と関心が高いのですが、ミラノの感興はイタリア全土のそれになりつつあります。

展覧会では葛飾北斎のほかに歌川(安藤)広重と喜多川歌麿の作品も展示されます。合計の展示数は200余り。3巨匠の作品がそれだけの規模で一堂に会する展覧会を見るのは、筆者にとって昨年のミラノが初めての体験でした。

展示作品は全て素晴らしいものでしたが、筆者はそこでは特に、北斎の風景画3シリーズ「富嶽三十六景」「諸国滝廻り」「諸国名橋奇覧」と、広重の「東海道五十三次」が並ぶように展示されているのをひどく面白く思いました。

北斎と広重をほぼ同時並行に鑑賞しながらあらためて感じたことがあります。それは広重をはるかに凌駕する北斎の力量です。北斎はドライで造形的、広重は叙情的で湿っぽい、とよく言われますが、北斎は精密とダイナミズムで広重に勝り、人物造形でも広重より現代的だと感じました。

作品群の圧倒的な美しさに酔いしれながら、人の顔の描写にも強く気を引かれました。北斎は遠くに見える小さな人物の顔の造作も丁寧に描いていますが、広重はほとんどそこには興味を抱いていません。そのために描き方も雑で、まるで子供が描く「へのへのもへじ」と同じレベルにさえ見えます。

多くの絵で確認できますが、特に人物が多数描かれているケースでそれは顕著です。例えば「嶋田・大井川」の川越人足の顔は、ほとんど全員が同じ造作で描かれています。子供の落書きじみた文字遊戯の顔のほうが、まだ個性的に見えるほどの、淡白な描き方なのです。

東海道五十三次は全て遠景、つまり”ヒキあるいはロング”の絵です。大写し又はクローズアップの絵は一枚もありません。そこでは人物は常に景観の一部として描かれます。これは当たり前のようですが、実は少しも当たり前ではありません。そこには日本的精神風土の真髄が塗り込まれています。

つまり、人間は大いなる自然の一部に過ぎない、という日本人にとってはごく当たり前のコンセプトが、当たり前に提示されているのです。そこでは、個性や自我というものは、自然の中に溶け込んで形がなくなる。あるいは形がなくなると考えられるほどに自然と一体になります。

その流れで個性や自我の発現機能であるヒトの表情は無意味になり、その結果が広重の人物の表情の「どうでもよい」感満載の表現だと思います。のっぺらぼうより少しましなだけの、「へのへのもへじ」程度の顔の造作を「とりあえず」描き付けたのが、広重の遠景の人物の表情なのです。

それらの顔の造作は「東海道五十三次画」全体の精密と緊張、考究され尽くされた構図、躍動感を捉えて描き付けた動きやタッチ、等々に比べると呆気ないほどに粗略で拙いものです。作品の隅々にまで用いられた精緻な技法は、人物の表情には適応されていないのです。

厳密な意味では北斎の表情の描き方も広重と大差はありません。が、北斎は恐らく画家としての高い力量からくる自恃と精密へのこだわりから、これを無視しないで表情を描き加えています。だがそれとて自我の反映としての表情、つまり感情の露出した顔としてではなく、単なる描画テクニック上の必要性から描き加えたもの、というふうに筆者には見えます。

従って、広重よりはましとはいうものの、北斎もやはり人物の顔の描写をそれほど重視してはいません。たとえば彼の漫画などの人物の表情の豊かさに比べると、たとえ遠景の人物の表情とはいえ、どう見ても驚くほどにシンプルです。表情の描写には、彼の作者としての熱意や思い入れ、といった精神性がほとんど見られないのです。筆者はそこに近代精神の要である“自我”の欠落のようなものを発見して、一人でちょっと面白がりました。

“私”という個人の自我意識によって世界を見、判断して、人生を切り開いていく、という現代人の我々にとって当然過ぎるほど当然の価値観は、西洋近代哲学の巨人デカルトが“我思う、故に我あり”というシンプルな命題に託して、それまでの支配観念であった「スコラ哲学」の縛りを破壊した“近代的自我”の確立によって初めて可能になりました。

スコラ哲学支配下の西洋社会では、「個人」と「個人の所属する集団と宗教」は『不可分のもの』であり、そこから独立した個人の存在はあり得ませんでした。デカルトが発見した“近代的自我”がそのくび木を外し、コペルニクス的転回ともいえる価値観の変化をもたらしたのです。自我の確立によって、西洋は中世的価値観から抜け出し、近代に足を踏み入れたのでした。

日本は明治維新以降の西洋文明習得に伴って、遅ればせながら「自我の意識」も学習し、封建社会の精神風土とムラ社会メンタリティーに執拗に悩まされながらも、どうにか西洋と同じ近代化の道を進んできました。欧米を手本にして進み始めて以降の精神世界の変化は、政治・経済はもとより国民の生活スタイルや行動様式など、あらゆる局面で日本と日本人を強く規定しています。

しかし、西洋が自らの身を削り、苦悶し、過去の亡霊や因習と戦い続けてようやく獲得した“近代的自我”と、それを易々と模倣した日本的自我の間には越えられない壁があります。模倣は所詮模倣に過ぎないのです。それは自我と密接に結びついている、「個人主義」という語にまつわる次の一点を考察するだけでも十分に証明ができるように思います。

「個人主義」という言葉は日本では利己主義とほぼ同じ意味であり、それをポジティブな文脈の中で使う場合には、たとえば『いい意味での個人主義』のように枕詞を添えて説明しなければなりません。その事実ひとつを見ても、日本的自我はデカルトの発見した西洋近代の自我とそっくり同じものではないことが分かります。デカルトの自我が確立した世界では、「個人主義」は徹頭徹尾ポジティブな概念です。「いい意味での~」などと枕詞を付ける必要はないのです。

自我の確立を遅らせている、あるいは自我を別物に作り変えている日本的な大きな要素の一つが、多様性の欠落です。「単一民族」という極く最近認識された歴史の虚妄に支配されている日本的メンタリティーの中では、他者と違う考えや行動様式を取ることは、21世紀の現在でさえ依然として難しく、人々は右へ倣えの行動様式を取ることが多くなります。

それは集団での活動をし易くし、集団での活動がし易い故に人々は常にそうした動きを好み、結果、画一的な社会がより先鋭化してさらなる画一化が進みます。そこでは「赤信号も皆で渡れば怖くなく」なり「ヘイトスピーチや行動もつるんで拡大」しやすくなります。その上に多様性が欠落している分それらの流れに待ったをかける力が弱く、社会の排外志向と不寛容性がさらに拡大するという悪循環になります。

多様性の欠落は「集団の力」を醸成しますが、力を得たその集団の暴走も誘発し、且つ、前述したように、まさに多様性の貧困故にそれを抑える反対勢力が発生し難く、暴走が暴走を呼ぶ事態に陥って一気に破滅にまで進みます。その典型例が太平洋戦争に突き進んだ日本の過去の姿です。

江戸時代の北斎や広重にはもちろん近代的な自我の確立はありませんでした。しかし、彼らは優れた芸術家でした。芸術家としての誇りや矜持や哲学や思想があったはずです。つまり芸術家の「独創を生み出す個性」です。それは近代的自我に酷似した個人の自由意識であり、冒険心であり、独立心であり、批判精神です。

しかし、社会通念から乖離した個性、あるいは“近代的自我”に似た自由な精神を謳歌していた彼らでさえ、自らの作品の人物に「個性」を付与する顔の造作には無頓着でした。筆者は日本を代表する2人の芸術家が提示した美の中に、“近代的自我”を夢見たことさえないかつての日本の天真爛漫の片鱗を垣間見て、くり返しため息をついたり面白がったりしたのでした。

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サルデーニャ島「4人のムーア人旗」の由来~島民の誇りと屈折

島旗=州旗=国旗

イタリア・サルデーニャ島には4人の黒人の横顔をあしらった独特の島旗があります。イタリア語で「Quattro mori(4人のムーア人)」と呼ばれるその旗を、島人は州旗と称し「国旗」とも表現します。

日本の四国よりも少し大きなサルデーニャ島は、付随する離島と共にイタリアの20州のうちの一つの州を形成しています。従って旗が州旗と呼ばれても何ら問題はありません。むしろそれが正しい呼称でしょう。

だがそれを「国旗」と呼ぶと、意図するコンセプトに深刻か否かの違いはあるかもしれませんが、発言した者は明確な動機に基づいてそれを口にしています。

つまりサルデーニャ島民が発言する場合はそれは、イタリア共和国からのサルデ-ニャ島の「独立」を意味する文脈で語られているのです。

島民の独立志向は島の苦難の歴史の中から自然発生的に出てきたもので、一時期は大きなうねりとなってイタリアを揺るがせたこともあります。が、現在は静まっています。しかしそれはサルデーニャ島民の心が静まったことを意味するものではありません。

島がたどってきた複雑な歴史や、当事者たちの複雑な心境、また島人の不満とイタリア本土人の無関心、など、などという世界では割とありふれた現象が、当事者中の当事者である島人の心を鋭く抉らずにはおかないのは、それが彼らのアイデンティティーの根幹に関わる重大事案だからです。

起源

スペインのアラゴン王国、イタリア半島のピエモンテに本拠を置く「大陸の」サルデーニャ王国、そして最後にサルデーニャ島自身のシンボル旗となった4人のムーア人の旗は、ひとことで言えば、キリスト教徒とイスラム教徒の血みどろの長い厳しい闘争によって生み出されたものです。

具体的に言えば、旗の意匠はスペインのアラゴン王国が1096年、侵略者のムーア人つまりアラブ・イスラム教徒を撃退し4人の将軍の首を落として戦勝を祝った、とする伝説に基づいています。それを示す古い絵柄では4人の顔が目隠しされています。捕らえた敗軍の将に目隠しをして首を切り落とすのは、洋の東西を問わず戦国の世の習いでした。日本の戦国時代でも敵の首を切り落として戦利品としました。

アラゴン王国軍は、アルコラスの乱と呼ばれるその大きな戦を、聖ゲオルギウス(英:聖ジョージ)の手助けで勝利した、と言い伝えられています。4人のムーア人の顔と共に聖ゲオルギウスの象徴である白地に赤い十字が旗に描かれているのはそれが理由です。

またムーア人の4つの顔は、アラゴン王国が4つ大きな戦争、即ちサラゴザ、ヴァレンシア、ムルシア、バレアリス諸島での戦いに勝利したことを表す、という説もあります。そこに十字軍のシンボル的な存在でもある前述の聖ゲオルギウスの伝説がからんだ、と主張するものです。

しかし最も多く語られるのは、前述のアラゴン王国がアルコラスの戦いに勝利した際、4人のムーア人将軍の首を切り落として祝ったとするものです。宿敵のイスラム教徒への怨みと怒りがこもったその説の方が信憑性が高い、と筆者も思います。

意匠の変遷

旗のデザインと成り立ちに関しては、伝説と史実が入り乱れた多数の説がほかにも存在します。史実の最も古い証拠としては、1281年に作られたとされる鉛製の封印があります。そこに描かれたムーア人は髭を蓄えていて且つ鉢巻をしていません。

14世紀にサルデーニャ島がアラゴン王国の支配下に入ると、4人のムーア人の絵柄はサルデーニャ島でも、あたかも島独自のもののように使われた始めました。そして1380年頃には4人のムーア人旗はアラゴン王国統治下の島の旗と認定され、サルデーニャ軍は1571年、鉢巻をした4人が右を向いている図柄を記章として採用しました。

以後、ムーア人の図柄は額に鉢巻をしたりしなかったり、頭に王冠が描かれたり、髭を蓄えていたりいなかったり、目隠しをされたり、顔が左に向いたり逆になったり、肌が白く描かれたり等々、様々に変化して伝えられました。アラゴン王国は最終的にオリジナルの絵柄を尊重して、頭に鉢巻を巻いたものが正しい、という触れを出したほどです。

島民の抵抗

1720年、サルデーニャ島はシチリア島との交換でアラゴン王国からサヴォイア公国に譲り渡されました。以後サヴォイア公国は、国名を「サルデーニャ王国」と改名して島を支配しますが、王国の本拠はフランスの一部とイタリア本土のピエモンテが合体した「大陸」でした。王国の首都もそれまでと変わらずピエモンテのトリノに置かれました。そして1800年、4人のムーア人の鉢巻が目隠し姿に変わった図柄の旗が出回るようになります。

これはイタリア本土を本拠地にしていたサヴォイア家が、サルデーニャ島を獲得したことをきっかけに前述のように自らの公国をサルデーニャ王国と称し、支配地の島に圧政を行ったことに対する島民の抵抗の現れだとされています。目隠しの絵は、鉢巻姿だった古い旗の図柄をわざと間違えて伝え残したもの、とも言われています。

さらに旗の原型はアラゴン王国にあるとはいえ、4人のムーア人旗はアラゴン統治以前のサルデーニャ島の歴史を物語るとされる説もあります。その当時サルデーニャ島には ガルーラ、ログドーロ(トーレス)、アルボレア、カリアリという4つの小さな独立国があり、それぞれがイスラム教徒の侵略から頑張って島を守ったとされます。4人のムーア人はその4国を表すというのです。

しかしその主張は、島人たちの希望的憶測あるいは願望に過ぎないと筆者は思います。彼らには侵略者のイスラム教徒を撃破する軍事力はありませんでした。8世紀からイベリア半島を蹂躙し支配したイスラム教徒は、破竹の勢いで地中海の島々も配下に収めていきました。サルデーニャ島の住民は、他の被征服地の住民同様に、 欧州のキリスト教勢力がイスラム教徒を撃破するまで身を縮めるようにして生き延びた、というのが歴史の真相です。

サヴォイア家支配下の1800年頃から島に多く出回るようになった4人のムーア人の目隠しの図柄は、その後も広がり続け、サヴィオア家の支配が終わり、やがて2つの大戦を経て、イタリアが近代化し成熟社会を迎えた20世紀終盤まで続くことになります。

第2次大戦後の1950年、目隠し姿の4人のムーア人旗は、サルデーニャ州(島)の正式フラッグとして認定されました。そこでは4人の顔は目隠しをしたままでした。そして1999年、4人の顔は目隠しではなく額に鉢巻をし且つ旗竿を左に右向きの横顔であること、とこれまた正式に改訂されました。

屈折

何世紀にも渡って物議をかもし続けたムーア人旗の絵柄やコンセプトの変遷を見るにつけ、筆者は大きな感慨を覚えずにはいられません。すなわち、サルデーニャ島民がかつての支配者のエンブレムを自らのそれと認識し、且つ絵柄の中心である4人のムーア人を、あたかも自らの肖像でもあるかのように見做している点が気持ちに引っかかるのです。

そこには2重の心理のごまかしがあります。一つはアラゴン家及びサヴォイア家の紋章を引き継ぐことで、自らも支配者になったような気分を味わっていること。また戦いに負けて首を落とされて以降は、いわば「被害者」である4人のムーア人にも自らを重ね合わせて英雄視している点です。

彼らは支配者であると同時に支配される者、つまり被抑圧者でもあると主張しているようにも見えます。もしもその見方が正しいならば筆者は、前者にサルデーニャ島民の事大主義を、また後者に同じ島民の偽善を感じないではいられません。筆者の目にはそれは、抑圧され続けた民衆が往々にして見せる悲しい性であり、宿命でさえあり、歴史が悪意と共に用意する過酷な陥穽、というふうに見えなくもないのです。

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