負け馬たちの功績

いま英国議会下院で起きているBrexit(英国のEU離脱)をめぐる議論の嵐は、民主主義の雄偉を証明しようとする壮大な実験です。それが民主主義体制の先導国である英国で起きているからです。

そこでは民主主義の最大特徴である多数決(国民投票)を多数決(議会)が否定あるいは疑問視して、煩悶し戸惑い恐れ混乱する状況が続いています。それでも、そしてまさに民主主義ゆえに、直面する難題を克服して前進しようとする強い意志もまた働いています。

民主主義とは、民主主義の不完全性を認めつつ、より良いあり方を求めて呻吟することを厭わない政治体制のこと。だから議論を戦わせて飽くことがありません。言葉を変えれば、不都合や危険や混乱等々を真正面から見つめ、これに挑み、自らを改革・改善しようと「執拗に努力する」仕組みのことです。

民主主義は完全無欠なベスト(最善)の政体ではありません。他の全ての政治システムよりもベター(より良い)なだけです。しかしベストが存在しない限り、“ ベターがベスト ”です。チャーチルはそのことを指して、民主主義はそれ以外の全ての政治体制を除けば最悪の政治だ、と喝破しました。

2016年、英国議会はBrexitの是非を決められず、結果として市民の要請に応える形で国民投票を行いました。国民の代表であるはずの議会が離脱の当否を決定できなかったのはそれ自体が既に敗北です。しかし国民投票を誘導した時の首相ディヴィッド・キャメロンと議会はそのことに気づきませんでした。

国民投票の結果、Brexitイエスの結果が出ました。民主主義の正当な手法によって決定された事案はすぐに実行に移されるべきでした。事実、実行しようとして議会は次の手続きに入りました。そこでEUとの話し合いが進められ、責任者のメイ首相は相手との離脱合意に達しました。

ところが英国議会はメイ首相とEUの離脱合意の中身を不満としてこれを批准せず、そこから議会の混乱が始まりました。それはひと言でいえば、メイ首相の無能が招いた結果だったのですが、同時にそれは英国民主主義の偉大と限界の証明でもありました。

議会とメイ首相が反目し停滞し混乱する中、彼女はもう一方の巨大な民主主義勢力・EUとの駆け引きにも挑み続けました。そこではBrexitの是非を問う国民投票が、英国民の十分な理解がないまま離脱派によって巧妙に誘導されたもので無効であり、再度の国民投票がなされるべき、という意見が一貫してくすぶり続けていました。

だが改めての国民投票は、民主主義によって選択された国民の意志を、同じ国民が民主主義によって否定することを意味します。それは矛盾であり大いなる誤謬です。再度の国民投票は従って、まさに民主主義の鉄則によって否定されなければなりません。

そこで「議会で解決の道が探られるべき」という至極当たり前の考え方から論戦が展開されました。審議が続き採決がなされ、それが否定され、さらなる主張と論駁と激論が交わされました。結果、事態はいよいよ紛糾し混乱してドロ沼化している、というのが今の英国の状況です。

そうこうしているうちに時限が来て、EUは英国メイ首相の離脱延期要請を受け入れました。それでも、いやそれだからこそ、英国議会は今後も喧々諤々の論戦を続けるでしょう。それはそれで構わない。構わないどころか民主主義体制ではそうあるべきです。

だが民主主義に則った議会での議論が尽くされた感もある今、ふたたび民主主義の名において、何かの打開策が考案されて然るべき、というふうにも筆者には見えます。その最大最良の案が再度の国民投票ではないか、とも思うのです。

なぜ否定されている「再国民投票案」なのかといいますと、2016年の国民投票は既に“死に体”になっている、とも考えられるからです。民意は移ろい世論は変遷します。その変化は国民が学習することによって起きる紆余曲折であり、且つ進歩です。

つまり再度の国民投票は「2度目」の国民投票ではなく、新しい知識と意見を得た国民による「新たな」国民投票なのです。初の審判から経過3年、という月日が十分に長いかどうかは別にして、2016年の国民投票以降の英国の激動は、民主主義大国の成熟した民意が、民主主義の改善と進展を学ぶのに十二分以上の影響を及ぼした、と考えることもできます。

いうまでもなく英国議会は、メイ首相を信任あるいは排除する動きを含めてBrexitの行方を自在に操る権限を持っています。同時にこれまでのいきさつから見て、同議会はさらなる混乱と停滞と無力を露呈する可能性もまた高い。ならば新たな国民投票の是非も議論されなければならないのではないか、と考えます。

そうなった暁には、投票率にも十分に目が向けられなければなりません。そこでは前回の72,1%を上回る投票率があるほうが望ましい。2016年の国民投票後の分析では、EU残留派の若者が投票しなかったことが、離脱派勝利の大きな一因とされました。

もしもその分析が正しいならば、投票率の増加は若者層の意思表示が増えたことを意味し、同時にその結果がもたらす意味を熟知する離脱派の「熟年国民」の投票率もまた伸びて、2016年次よりもなお一層多くの国民が意思決定をした、と見なすことができるでしょう。

要するにBrexitをめぐる英国の混乱と殷賑は、既述したように民主主義の限界と悪と欺瞞と、同時にその良さと善と可能性を提示する大いなる実験なのです。それは民主主義の改革と前進に資する坩堝(るつぼ)なのであって、決してネガティブなだけの動乱ではありません。

動乱を「EU内の紛糾」と視野を広げ俯瞰して見た場合、大きな変革の波は、先ず英国と欧州の成熟した民主主義の上に、Brexit国民投票を実施した当人のデイヴィッド・キャメロン前首相という負け馬がいて、それにイタリアの負け馬マッテオ・レンツィ前首相が続き、テリーザ・メイ英国首相というあらたな負け馬が総仕上げを行っている、という構図です。

民主主義の捨て石となっている彼ら「負け馬」たちに、筆者はカンパイ!とエールを送りたい気持ちです。なぜなら3人は、民主主義の捨て石であると同時に、疑いなくそれのマイルストーンともなる重要な役割を果たしていて、民主主義そのものに大きく貢献している、と考えるからです。






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「子ヤギ食らい」という自罪

4月21日はイタリアのパスクアでした。イギリスではイースター。日本語で言えば復活祭。イエス・キリストの死からの復活を寿ぐキリスト教最大のイベント。ハイライトは祭り当日に供される子ヤギまたは子羊料理です。

不信心者の筆者にとっては、パスクアは神様の日というよりも、ほぼ一年に一度だけ食べる子ヤギ料理の日。イタリアでは子羊料理は一年中食べられますが、子ヤギのそれはきわめて難しいのです。

ことしは初めてレストランで復活祭の子ヤギ料理を食べました。去年までは家族一同が自宅で、または親戚や友人宅に招かれて食べるのが習いでした。

実はことしも親戚に招かれていましたが、子ヤギも子羊も供されない普通の肉料理の食事会、と知って遠慮しました。年に一度くらいは特別料理を食べたいのです。

復活祭前夜の一昨日、友人からも子ヤギ料理への誘いがありました。しかし、すでにレストランを予約してしまっているという不都合もありましたので、そちらもやはり遠慮しました。

結論をいえば、レストランでの食事は大いに満足できるものでした。12時半に始まって4時間にも渡ってつづいた盛りだくさんの料理のメインコースは、もちろん子ヤギのオーブン焼きです。

それは「成獣肉料理」を含むこれまでに食べたヤギおよび羊肉料理の中でも第一級の味でした。来年も同じ店で食べてもいいとさえ思っています。

イタリアのレストランでは子羊料理は一年中提供されます。その一方で、子ヤギ料理は復活祭が過ぎるとほぼ完全に姿を消します。

ヤギは山羊、つまり「山の羊」と呼ばれるくらいですから、飼育や繁殖がむつかしくて数が少ない、ということがその理由かもしれません。

復活祭になぜ子羊や子ヤギ料理を食べるのかと言いますと、由来はキリスト教の前身ともいえるユダヤ教にあります。古代、ユダヤ教では神に捧げる生贄として子羊が差し出されました。

子羊は犠牲と同義語です。イエス・キリストは人間の罪を贖(あがな)って磔(はりつけ)にされました。つまり犠牲になったのです。

そこで犠牲になったもの同士の子羊とイエス・キリストが結びつけられて、イエス・キリストは贖罪のために神に捧げられる子ヒツジ、すなわち「神の子羊」とみなされるようになりました。そこから復活祭に子羊を食べてイエス・キリストに感謝をする習慣ができたのです。

復活祭に子羊を食べるのは、そのようにユダヤ教の影響であると同時に、「人類のために犠牲になった子羊」であるイエス・キリストを食する、という意味があります。

救世主イエスを食べる、という感覚はとても理解できないという日本人も多くいます。だがよく考えてみれば、実はそれはわれわれ日本人が神仏に捧げたご馳走や酒を後でいただく、という行為と同じことだと気づきます。

神棚や仏壇に供された飲食物は、先ず神様や仏様が食べてお腹の中に入ったものです。その後でわれわれ人間は供物を押し頂いて食べます。それはつまり神仏を食するということでもあります。

われわれは供物とともに神様や仏様を食べて、神仏と一体化して煩悩にまみれた自身の存在を浄化しようと願うのです。キリスト教でも恐らくそれは同じです。そんなありがたい食べ物が子羊料理なのです。

子羊はそれによく似た子ヤギにも広がり、現代のイタリアでは復活祭当日とその前後の時期には、子羊料理よりも期間限定のイメージが強い子ヤギ料理のほうが多く食べられるようです。

筆者は冒頭でことわったように不信心者なので、神や霊魂や仏や神々と交信するありがたさは理解できません。ただ、おいしいものを食べる幸せを何ものかに感謝したい、とは常々思っています。

イタリアでは復活祭の期間中に、通常400万頭内外の子羊や子ヤギが食肉処理されてきたとされます。それ以外の期間にも80万頭が消費されてきました。

しかし、その数字は年々減ってきて、ここ数年は200万頭前後に減少したという統計もあります。不景気のあおりで人々の財布のヒモが堅いのが理由です。子ヤギや子羊の肉は、豚肉や牛肉などのありふれた食材に比べて値段が張るのです。

一方で消費の落ち込みは主に、動物愛護家や菜食主義者たちの反対運動が功を奏しているという見方もあります。最近はいたいけな子ヤギや子羊を食肉処理して食らうことへの批判も少なくありません。

2017年にはあのベルルスコーニ元首相が「復活祭に子羊を食べるのはやめよう」というキャンペーンを張って、食肉業者らの怒りを買いました。

ベジタリアンに転向したという元首相は、彼の内閣で観光大臣を務めたブランビッラ女史と組んで、動物愛護を呼びかけるようになったのです。アニマリストから拍手喝采が起こる一方で、ビジネス界からは反発が出ました。

筆者は正直に言ってその胡散臭さに苦笑します。突然ベジタリアンになったり動物愛護家に変身する元首相も驚きですが、子羊だけに狙いを定めた喧伝が不思議なのです。食肉処理される他の家畜はどうでもいいのでしょうか。

動物の食肉処理の現場は凄惨なものす。筆者は以前、英国で豚の食肉処理場のドキュメンタリー制作に関わった経験があります。屠殺される全ての動物は、次に記す豚たちと同じ運命にさらされます。

食肉処理される豚は、1頭1頭がまず電気で気絶させられ、失神している20秒~40秒の間に逆さまに吊り上げられて喉を掻き切られます。続いて血液を抜かれ、皮を剥がれ、解体されて、またたく間に「食肉」になっていきます。

その工程は全て流れ作業です。血の雨が降るすさまじい光景ですが、工程が余りにも単純化され操作がスムースに運ばれるので、ほとんど現実感がありません。肉屋やスーパーに並べられている食肉は全てそうやって生産されたものです。

菜食主義者や動物愛護家の皆さんが、動物を殺すな、肉を食べるな、と声を上げるのは尊いことだと思います。それにはわれわれ自身の残虐性をあらためて気づかせてくれる効果があります。

だが、人間が生きるとは「殺すこと」にほかなりません。なぜなら人は人間以外の多くの生物を殺して食べ、そのおかげで生きています。肉や魚を食べない菜食主義者でさえ、植物という生物を殺して食べて生命を保っています。

人間が他の生き物の命を糧に、自らの命をつなぐ生き方は誰にもどうしようもないことです。それが人間の定めです。他の生命を殺して食べるのは、人間の業であり、業こそが人間存在の真実です。

大切なことはその真実を真っ向から見据えることです。子羊や子ヤギを始めとする小動物を慈しむ心と、それを食肉処理して食らう性癖の間には何らの矛盾もありません。

それを食らうも人間の正直であり、食わないと決意するのもまた人間の正直です。筆者はイタリアにいる限りは、復活祭に提供される子ヤギあるいは子羊料理を食べる、と決めています。

 

 

 

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男はだまって大いにしゃべる

筆者は故国日本の次にはヨーロッパが好きで、さらにアメリカも好きで、大学卒業後すぐに日本を出てからは英国、米国、そしてここイタリアに移り住み、その他の多くの国々を訪ね、勉強し、もちろん仕事もたくさんこなして来ました。

住んだ欧米の国々はすべて好きな場所なのでいつも楽しく過ごしてきたのですが、一つだけとても辛いものがあります。それが社交です。社交とは何か。それは「おしゃべり」のことです。つまり他者との会話の実践場が社交であり社交場です。

社交こそ、特に西洋で生きる時の一番疲れる気の重い時間です。しかもそれは欧米社会では、社会生活の根幹を成す最も重要なものの一つと見なされます。社交、つまり「おしゃべり」ができなくては仕事も暮らしもままならないのです。

昔、日本には、三船敏郎が演じる「男は黙ってサッポロビール」というコマーシャルがありました。あのキャッチフレーズは、沈黙を美徳とする日本文化の中においてのみ意味を持ちます。あれから時間が経ち、世界と多く接触もして、日本社会も変わりましたが、沈黙を良しとする風潮は変わっていません。

一方欧米では、男はしゃべることが大切です。特に紳士たる者は、パーティーや食事会などのあらゆる社交の場で、 自己主張や表現のために、そして社交仲間、特に女性を楽しませるために、一生懸命にしゃべらなければなりません。「男はだまって、しゃべりまくる」のが美徳なのです。

例えばここイタリアには人を判断するのに「シンパーティコ⇔アンティパーティコ」という基準がありますが、これは直訳すると「面白い人⇔面白くない人」という意味です。そして面白いと面白くないの分かれ目は、要するにおしゃべりかそうでないかということです。

ことほど左様にイタリアではしゃべりが重要視されます。イタリアに限らず、西洋社会の人間関係の基本には「おしゃべり」つまり会話がドンと居座っています。社交の場はもちろん、日常生活でも人々はぺちゃくちゃとしゃべりまくる。社交とは「おしゃべり」の別名であり、日常とは「会話」の異名にほかなりません。

言葉を換えれば、それはつまりコミュニケーションの重大、ということです。コミュニケーションのできない者は意見を持たない者のことであり、意見を持たないのは、要するに思考しないからだ、と見なされます。つまり西洋では、沈黙は「バカ」と同じ意味合いを帯びて見られ、語られることが多い怖いコンセプトなのです。

西洋人のコミュニケーション能力は、子供の頃から徹底して培われます。家庭では、例えば食事の際、子供たちはおしゃべりを奨励されます。楽しく会話を交わしながら食べることを教えられるのです。日本の食卓で良く見られるように、子供に向かって「黙って食べなさい」とは親は決して言いません。せいぜい「まず食べ物を飲みこんで、それからお話しなさい」と言われるくらいです。

学校に行けば、子供たちはディベート(討論)中心の授業で対話力を鍛えられ、口頭試問の洗礼を受け続けます。そうやって彼らはコミュニケーション力を育てられ、弁論に長けるようになり、自己主張の方法を磨き上げていきます。社交の場の「おしゃべり」の背景にはそんな歴史があります。それが西洋社会なのです。

沈黙を美徳と考える東洋の国で育った筆者は、会話力を教えられた覚えはありません。おしゃべりな男はむしろ軽蔑されるのが、いかに西洋化されたとはいえ日本の歴とした現実です。男は黙ってサッポロビールを飲んでいるべき存在なのです。自己表現やコミュニケーションを重視する西洋文化とは対極にあります。

日本の風習とは逆のコンセプト、つまり「‘おしゃべり’がコミュニケーション手段として最重要視される」西洋社会に生きる者として、筆者は仕事や日常生活を含むあらゆる対人関係の場面で、懸命に会話術の習得を心がけようと努力してきたつもりです。

おかげで日本人としては、パーティーや食事会などでも人見知りをせず、割合リラックスしてしゃべることができる部類の男になったのではないか、と思っています。ところがそれは、西洋人の男に比べると、お話にもならない程度のしゃべりに過ぎないのです。

子供時代から会話力を叩き込まれてきた彼らに対抗するには、筆者は酒の力でも借りないと歯が立たない。ワインの2、3杯も飲んで、さらに盃を重ねた場合のみ、筆者はようやく男たちのおしゃべりの末席を汚すか汚さないか、くらいの饒舌を獲得するだけなのです。

その後は知りません。彼らのしゃべりに圧倒されて、負けないゾと頑張って、頑張るために杯を重ねます。重ねるうちに絶対にやってはいけないことをやります。つまり「酔いに呑まれて」しまって、やがて人々のヒンシュクを買う羽目に陥ったりもするのです。



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独立自尊こそ島の心意気

サルデーニャ州旗

イタリア・サルデーニャ島にのしかかかった政治的「植民地主義」は近世以降、重く厳しい現実を島民にもたらし続けました。

2017年7月、サルデーニャ独立運動家のサルヴァトーレ・メローニ氏(74歳)は、収監中の刑務所で2ヶ月間のハンガーストライキを実行し、最後は病院に運ばれましたがそこで死亡しました。

元長距離トラック運転手だったメローニ氏は2008年、サルデーニャの小さな離島マル・ディ・ヴェントゥレ(Mal di Ventre)島に上陸占拠して独立を宣言。マルエントゥ共和国と称し自らを大統領に指名しました。それは彼がサルデーニャ島(州)全体の独立を目指して起こした行動でした。

だが2012年、メローニ氏は彼に賛同して島に移り住んだ5人と共に、脱税と環境破壊の罪で起訴されます。またそれ以前の1980年、彼はリビアの独裁者ガダフィと組んで「違法にサルデーニャ独立を画策した」として、9年間の禁固刑も受けていました。

過激、且つ多くの人々にとっては笑止千万、とさえ見えたメローニ氏の活動は実は、サルデーニャ島の置かれた特殊な状況に根ざしたもので、大半のサルデーニャ島民の心情を代弁する、と断言しても良いものでした。

サルデーニャ島は古代から中世にかけてアラブ人などの非西洋人勢力に多く統治された後、近世にはスペインのアラゴン王国に支配されました。そして1720年、シチリア島と交換される形で、イタリア本土のピエモンテを本拠とするサヴォイア公国に譲り渡されました。

サルデーニャを獲得したサヴォイア公国は、以後自らの領土を「サルデーニャ王国」と称しました。国名こそサルデーニャ王国になりましたが、王国の一部であるサルデーニャ島民は、サヴォイア家を始めとする権力中枢からは2等国民と見なされました。

王国の領土の中心も現在のフランス南部とイタリア・ピエモンテという大陸の一部であり、首都もサヴォイア公国時代と変わらずピエモンテのトリノに置かれました。サルデーニャ王国の「サルデーニャ」とは、サヴォイア家がいわば戦利品を自慢する程度の意味合いで付けた名称に過ぎなかったのです。

1861年、大陸の領地とサルデニャ島を合わせて全体を「サルデーニャ王国」と称した前述のサヴォイァ家がイタリアを統一したため、サルデーニャ島は統一イタリア王国の一部となり、第2次大戦後の1948年には他の4州と共に「サルデーニャ特別自治州」となりました。

統一イタリアの一部にはなったものの、サルデーニャ島は「依然として」サヴォイア家とその周辺やイタリア本土のエリート階級にとっては、異民族にも見える特殊なメンタリティーを持つ人々が住む、低人口の「どうでもよい」島であり続けました。

その証拠にイタリア統一運動の貢献者の一人であるジュゼッペ・マッツィーニ(Giuseppe Mazzini)は、フランスがイタリア(半島)の統一を支持してくれるなら「喜んでサルデーニャをフランスに譲り渡す」とさえ公言し、その後のローマの中央政府もオーストリアなどに島を売り飛ばすことをしきりに且つ真剣に考えました。

「イタリアという車」にとっては“5つ目の車輪”でしかなかったサルデーニャ島は、そうやってまたもや無視され、差別され、抑圧されました。島にとってさらに悪いことには、第2次大戦後イタリア本土に民主主義がもたらされても、島はその恩恵に浴することなく植民地同様の扱いを受け続けました。

政治のみならず経済でもサルデーニャ島は差別されました。イタリア共和国が奇跡の経済成長を成し遂げた60~70年代になっても、中央政府に軽視され或いは無視され、近代化の流れから取り残されて国内の最貧地域であり続けたのです。

そうした現実は、外部からの力に繰り返し翻弄されてきたサルデーニャ島民の心中に潜む不満の火に油を注ぎ、彼らが独立論者の主張に同調する気運を高めました。そうやって島には一時期、独立志向の心情が充満するようになりました。

第2次大戦後のサルデーニャの独立運動は、主に「サルデーニャ行動党 (Partito Sardo d’Azione)」と「サルデーニャ統一民主党 (Unione Democratica Sarda).」が中心になって進められ、1984年の選挙では独立系の政党が躍進しました。

だがその時代をピークに、サルデーニャ島の政党による独立運動は下火になります。その間隙をぬって台頭したのが‘一匹狼’的な独立運動家たちです。その最たる者が冒頭に言及したサルヴァトーレ・メローニ氏だったのです。

サルデーニャ島民は彼ら独自のアイデンティティー観とは別に、ローマの中央政府に対して多くの不満を抱き続けています。その一つが例えば、イタリア駐在NATO軍全体の60%にも当たる部隊がサルデーニャ島に置かれている現実です。また洪水のようにサルデーニャ島に進出する本土企業の存在や島の意思を無視したリゾート開発競争等も多くの島民をいらだたせます。

しかしながら現在のサルデーニャ島には、深刻な独立運動は起こっていません。不当な扱いを受けながらも、イタリア本土由来の経済発展が島にも徐々にもたらされている現実があるからです。2015年には「イタリアから独立してスイスの一部になろう」と主張する人々の動きが、そのユニークな発想ゆえにあたかもジョークを楽しむように世界中の人々の注目を集めたぐらいです。

イタリアには独立を主張する州や地域が数多くあります。サルデーニャとシチリアの島嶼州を始めとする5つの特別州は言うまでもなく、約160年前のイタリア統一まで都市国家や公国やローマ教皇国等として分離独立していた半島各地は、それぞれが強い独立志向を内に秘めています。

2014年3月にはヴェネト州で住民による独立の是非を問うインターネット投票が実施され、200万人が参加。その89%が独立賛成票でした。それは英国スコットランドの独立運動やスペイン・カタルーニャ州問題などに触発された動きでしたが、似たような出来事はイタリアでは割とよく起こります。

イタリアは国家の中に地方があるのではなく、心理的にはそれぞれが独立している地方が寄り集まって統一国家を形成しているいわば連邦国家です。サルデーニャ島(州)の独立志向もそのうちの一つという考え方もできるかもしれません。

ところが人口約160万人に過ぎないサルデーニャ島には、イタリアからの分離独立を求める政党が10以上も存在し、そのどれもがサルデーニャ島の文化や言葉また由緒などの全てがイタリア本土とは異なる、と訴えています。

例えそれではなくとも、有史以来サルデーニャ島が辿ってきた特殊な時間の流れを見れば、同地の独立志向の胸懐は、イタリア共和国の他の地方とはやはり一味も二味も違う、と言わなければならないように思います。



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スイスの海で泳いでみたい

スイスair機とサルデーニャ州旗

イタリアのサルデーニャ島は古代からイタリア本土とは異なる歴史を歩んできました。それゆえにサルデーニャ島人は独自のアイデンティティー観を持っていて 、自立・独立志向が強い、と言われています。

ローマ帝国の滅亡後、イタリアでは半島の各地が都市国家や公国や海洋国家や教皇国などに分かれて勝手に存在を主張していました。

そこでは1861年の統一国家誕生後も、独立自尊のメンタリティーが消えることはなく、それぞれの土地が自立あるいは独立を模索する傾向があります。あるいはその傾向に向かう意志を秘めて存在しています。

サルデーニャ島(州)ももちろんそうした「潜在独立国家」群の一つです。だが同島の場合、島だけで独立していたことはありません。イタリア共和国に組み込まれる以前はアラブやスペインの支配を受け、イタリア半島の強国の一つピエモンテのサヴォイア公国にも統治されました。

現在はイタリア共和国の同じ一員でありながら、サルデーニャ島民が他州の人々、特にイタリア本土の住民とは出自が違いルーツが違う、と強く感じているのは島がたどってきた独自の歴史ゆえです。

抑圧され続けた歴史への怨恨と島人としての誇りから、サルデーニャ島の人々は、独立志向が強いイタリア半島の各地方の中でも特に、イタリア共和国からの独立を企てる傾向が強いと見られています。

1970年代には38%のサルデーニャ島民が独立賛成の意思を示していました。また2012年のカリアリ大学とエジンバラ大学合同の世論調査では、41%もの島民が独立賛成と答えました。

その内訳は「イタリアからは独立するものの欧州連合(EU)には留まる」が31%。「イタリアから独立しEUからも離脱する」が10%でした。

今日現在のサルデーニャ島には深刻な独立運動は存在しません。しかしそれらの統計からも推測できるように、島には政党等の指導による独立運動が盛んな時期もありました。島の独立を主張する政党は今でも10以上を数えます。

それらの政党にかつての勢いはなく、2019年現在のサルデーニャ州の独立運動は、個人的な活動とも呼べる小規模な動きに留まっているのがほとんどです。

その中にはイタリアから独立し、且つEU(欧州連合)からも抜け出してスイスへの編入・統合を目指そう、と主張するユニークなグループもあります。なぜスイスなのか、と考えてみると次のような理由が挙げられそうです。

独立を目指すサルデーニャ島民の間には、先ずイタリア本土への反感があり、そのサルデーニャ島民を含むイタリア共和国の全体には欧州連合(EU)への不信感があります。最近イタリアに反EUのポピュリスト政権が誕生したのもそれが理由の一つです。

イタリア本土とEUを嫌うサルデーニャ島が、欧州内でどこかの国と手を結ぶとするなら、非EU加盟国のスイスとノルウェーしかりありません。バルカン半島の幾つかの国もありますが、それらは元共産主義圏の貧しい国々。一緒になってもサルデーニャ島にメリットはありません。

さて、スイスとノルウェーのどちらがサルデーニャにとって得かと考えると、これはもう断然スイスです。金持ちで、EU圏外で、しかも永世中立国。さらに国内にはティチーノ州というイタリア語圏の地域さえあります。このことの心理的影響も少なくないと思います。

ノルウェーもリッチな国ですが豊かさの大半は石油資源によるもの。石油はいつかなくなるから将来性に不安があります。また人口も約500万人とスイスの約800万人より少ない。従って後者の方が経済的にも受け入れの可能性が高い、など、など、の理由があると考えられます。

仮に島が分離・独立を果たしたとします。その場合にはスイスは、あるいは喜んでサルデーニャを受け入れるかもしれません。なにしろ自国の半分以上の面積を有する欧州の島が、一気にスイスの国土に加わるのですから悪くない話です。

しかも島の人口はスイスの5分の一以下。サルデーニャの一人当たりの国民所得はスイスよりもはるかに少ないですが、豊かなスイス国民は新たに加わる領土と引き換えに、島民に富を分配することを厭わないかもしれません。

スイス政府はこれまでのところ、サルデーニャ島からのラブコールをイタリアの内政問題だとして沈黙を押し通しています。それは隣国に対する礼儀ですが、敢えてノーと言わずに沈黙を貫き通していること自体が、イエスの意思表示のように見えないこともない、と筆者は考えています。

ただスイスと一緒になるためには、島は先ずイタリアからの分離あるいは独立を果たさなければなりません。イタリア共和国憲法は国内各州の分離・独立を認めていないからです。分離・独立を目指すならサルデーニャ島は憲法を否定し、従ってイタリア共和国も否定して、武力闘争を含む政治戦争を勝ち抜く必要があります。これは至難の業です。

分離・独立の主張は、イタリア本土から不当な扱いを受けてきたと感じている島人たちの、不満や恨みが発露されたものです。イタリア本土の豊かな地域、特に北部イタリアなどに比較すると島は決して裕福とは言えません、

経済的な不満も相まって、島民がこの際イタリアを見限って、同時に、欧州連合内の末端の地域の経済的困窮に冷淡、と批判されるEUそのものさえも捨てて、EU圏外のスイス連邦と手を組もうというのは面白い考えだと思います。

ただし誤解のないように付け加えておきます。スイスへの編入・統合を主張しているのは今のところ、サルデーニャ島の島民の一方的な声です。片思いなんですね。しかも声高に言い張るのは、これまた今のところはサルデーニャ島民のうちの極く小さなグループに過ぎません。

面白いアイデアながらグループの主張には筆者は違和感も覚えます。つまり彼らが独立を求めるようでいながら、最終的には独立ではなく、イタリア本土とは別のスイスという「新たな従属先」を求めているだけの、事大主義的主張をしている点です。どうせなら彼らは独立自尊の純粋な「独立」を追求するべきです。

筆者はサルデーニャ島の独立にも、そこに似た日本の沖縄の独立にも真っ向から反対の立場ですが、独立を志向する精神には賛成です。島に限らず、国に限らず、人に限らず、あらゆる存在は「独立自尊」の気概を持つべき、というのが筆者の立場です。そしてそういう考えが出てくるほどの多様性にあふれた世界こそが、理想的な「あるべき姿」だと考えます。

「イタリアを捨ててスイスに合流する」というサルデーニャ島民の荒唐無稽に見える言い分は、それをまさに荒唐無稽ととらえる欧州や世界の人々の笑いと拍手と喝采を集めました。しかしながら筆者の目にはそれは、荒唐無稽とばかりは言えない真摯な意志を秘めたアイデアにも見えるのです。

とはいうものの、海のないスイス連邦に美しいティレニア海と温暖で緑豊かなサルデーニャ島が国土として加わるというファンタジーは、 暴力と憎しみと悲哀のみを生みかねない政治闘争の可能性はさておき、 筆者の心を躍らせます。

ファンタジーが現実になって、スイス連邦サルデーニャ州のビーチで アイスクリーム を食べると、あるいはそれはイタリアのサルデーニャ島で食べるアイスクリームとは違う味がするかもしれません。やはりちょっと味見をしてみたい気もします。


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癒しのワンダーランド

サルデーニャ島ペローザビーチ

2018年夏、ほぼ20年ぶりにイタリア・サルデーニャ島を訪れました。ミラノから飛行機で約1時間の便利さを避けて車ともどもフェリーで島に着きました。船中一泊の長い旅です。

簡便な飛行機旅を避けたのは、 サルデーニャ島の歴史や文化の大半 は、「イタリア本土から遠いという事実に規定される」と考える持論に基づいて、イタリア本土とサルデーニャ島との距離感を実体験したかったからです。

サルデーニャ島がイタリア本土からかなり遠い位置にある、ということを肌身に感じて体験するには船旅が最適です。人はつい最近まであらゆる島には船でしか渡れませんでした。人の距離感覚は飛行機に乗ると麻痺するのです。

日本ほど島が多くはないイタリアには、意外なことに地中海で面積が1番大きいシチリア島と2番目に大きなサルデーニャ島があります。

筆者はロンドンの映画学校の学生時代からシチリア島は何度も訪れています。イタリアに居を定めてからは、仕事でもプライベートでもさらにひんぱんにシチリア島に行きました。

ところがサルデーニャ島は今回が2度目。しかも20年以上も時間が経っての再訪です。島の羊飼いを追いかけるドキュメンタリーを制作しようと思いついて、いろいろ調べた時期もありましたが、多忙に呑み込まれて立ち消えになっていきました。

サルデーニャ島は日本の四国よりも面積が大きい島ですが、人口はその半分にも満たないおよそ165万人程度です。内陸部は特に人口密度が低いことで知られています。

筆者は辺鄙な離島で生まれ育ったせいか、もともと島という場所に特別の愛着を抱く傾向があります。島と聞けばすぐに興味を持ち訪ねてみたくなります。サルデーニャ島も例外ではありません。

その上サルデーニャ島は、イタリアの島のうちでは面積もさることながら、多くの意味でシチリア島と並ぶ重要な島なのです。これまでに一度しか訪問していないのが自分でも不思議なくらいでした。

サルデーニャ島は何よりも自然の景観が目覚ましい島です。イタリアの自然はどこも美しい。だがサルデーニャ島のそれは格別です。なぜならこの島には、イタリアでも1、2を争うほどの豊かで手付かずの大自然がどんと居座っているからです。

島の北部の港町に午前6時に着いて、ホテルにチェックインするまでの長い時間と翌日の全てをかけて、島の半分ほどを一気に車で巡りました。それだけで20年前に経験した島のワイルドな自然を再確認することができました。

緑一色がえんえんと続く、集落も人影も見当たらない島の内陸部を旅すると、DHローレンスがいみじくも指摘したように、まるで限界ある島ではなく大陸の雄大の中を走っているような印象さえ受けます。

サルデーニャ島は、地中海の十字路とも形容されて古くから開発が進んだシチリア島やイタリア本土の大半とは違い、近代化の流れから少し取り残される形で歴史を刻んできました。

手付かずの大自然が多く残っているのはそのことと無関係ではありません。近代化とは開発の異称であり、開発は往々にして自然破壊と同義語です。

近代化の遅れを工業化の遅滞、あるいは産業化の滞りなどと言い換えてみれば、サルデーニャ島の置かれた状況は、イタリア本土の南部地域やシチリア島などにもあてはまる現象であることが分かります。

イタリア共和国を語る時によく引き合いに出される「南北の経済格差」問題とは、サルデーニャ島とシチリア島を含む南イタリア各州の経済不振そのもののことにほかならないのです。

サルデーニャ島の近・現代は、そのようにイタリアの南部問題のなかに包括して語られるべきものですが、同島の場合にはそれだけでは語りつくせない「遅れ」のようなものがあると筆者は考えています。

つまり、先史時代からサルデーニャ島が刻んできた特殊な歴史が、同島の近代化の遅れを語る前に既に、島の「後進性」の源を形成してきたということです。

サルデーニャ島には紀元前16世紀頃から謎に満ちたヌラーゲ人が住み着き、紀元前8世紀頃にはフェニキア人が沿岸部に侵攻して次々に都市を建設しました。やがてカルタゴ人が島を征服します。次にローマ帝国の支配を受けその後アラブ・イスラム教徒に支配されました。

海の民とも呼ばれるフェニキア人は今のレバノン近辺、またカルタゴ人は今のチュニジア周辺に生を受けた人々です。つまり彼らはアラブ人です。彼らのほとんどは7世紀以降、当時の新興宗教だったイスラム教に帰依していきます。

アラブ・イスラム教徒の支配は、9世紀にはシチリア島にも及びました。しかしサルデーニャ島の場合は、そのはるか以前からアラブ系の人々の侵入侵略、また占領が間断なく続いていたのです。その意味では島の歴史は、イタリアよりもスペインに近い、とも考えられます。

またシチリア島が、古代ギリシャの植民地となって発展した時代もサルデーニャ島は経験していません。そうした歴史が、サルデーニャ島を立ち位置のよく似たシチリア島とは異質なものにした、と言うこともできるようです。

さらに言えばサルデーニャ島は、再びシチリア島やマルタ島、またロードス島とクレタ島に代表されるギリシャの島々などとは違って、十字軍の進路の版図内にはありませんでした。そのために十字軍とともに拡散した「欧州の息吹」がもたらされることもなかったのです。

そればかりではありません。サルデーニャ島は極めて開明的だったベニス共和国が、アドリア海に始まる東地中海を支配して、自らの文化文明を地域に浸透させ発展させた恩恵にも浴することはありませんでした。

そのようにサルデーニャ島は、欧州文明のゆりかごとも規定される地中海のただ中に位置しながら、一貫していわば「地中海域の普遍的な発展」から取り残された島であり続けました。それがサルデーニャ島の後進性の正体ではないか、と筆者は考えます。

シチリア島が輝かしい文化の島なら、サルデーニャ島は素朴で庶民的な文化に満ちた場所です。そこにはシチリア島に見られる絢爛な歴史的建築物や芸術作品はあまり多くは存在しません。その代わりに豊穣雄大な自然と、素朴な人情や民芸などの「癒しの文化」がふんだんに息づいているのです。

サルデーニャ島はイタリアの中でも、ひいては欧州の中でも、きわめてユニークな歴史と文化を有しています。同島に関しては以前にも幾つかの論考を書きました。世界一の成獣羊肉料理を食するイタリア・サルデーニャ島海鮮料理に見る殖民地メンタル肉料理の島の海鮮レシピサルデーニャ島「4人のムーア人旗」の由来~島民の誇りと屈折などです。

それに続いて先日「アートに救われた人殺しの島」を書きました。そのついで、というわけではありませんが、筆者の心を捉えてやまない美しい島について、再びここで幾つかの論点にしぼって書いておくことにしました。

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アートに救われた人殺しの村

イタリア、サルデーニャ島に集落中の建物が壁画で覆われた村があります。深い山中にあるオルゴーソロ(Orgosolo)です。人口約4500人のその村は、かつて「人殺しの巣窟」とまで呼ばれて悪名を馳せていた犯罪者の拠点集落です。

犯罪者の拠る場所は往々にして貧民の集落と同義語です。山賊や殺人鬼や誘拐犯らがたむろしたかつてのオルゴーソロは、まさにそんな貧しい村でした。イタリア本土の発展から取り残された島嶼州サルデーニャの、さらに奥の陸の孤島に位置していたからです。

一般社会から隔絶された山中の村人は、困窮する経済状況に追い詰められながらも、外の世界との付き合いが下手で不器用なために、それを改善する方策を知りませんでした。貧しさの中に溺れ、あがき続けていたのです。

そのためにある者は盗みに走り、ある者は誘拐、また別の者は強盗や家畜略奪などに手を染めました。また残りの村人たちは、隣人であるそれらの実行犯を助け、庇護し、官憲への協力を拒むことで共犯者となっていきました。

犯罪に基盤を置く村の経済状況が良くなることはありませんでした。それどころか、外部社会から後ろ指を指される無法地帯となってさらに孤立を深め、貧困は進行しました。かつてのオルゴーソロの現実は、イタリア本土の発展に乗り遅れたサルデーニャ島全体の貧しさを象徴するものでもあります。

イタリア半島の統一に伴って、イタリア共和国に組み込まれたサルデーニャ島は、イタリア国家の経済繁栄にあずかって徐々に豊かになり、おかげでオルゴーソロの極端な貧困とそこから発生する犯罪も少づつ姿を消していきました。

第2次大戦後初の経済危機がイタリアを襲った際、国が村の土地を接収しようとしました。それをきっかけに村人の反骨精神が燃え上がります。彼らは国への怒りを壁画アートで表現し始めました。山賊や殺人犯や誘拐犯らは、イタリア本土の支配に反発する愛郷心の強烈な人々でもあったのです。

アナキストなどが先導する反骨アーチスト集団は、村中の家の壁に地元の文化や日常を点描する一方、多くの政治主張や、中央政府への抗議や、歴史告発や、世界政治への批判や弾劾などを描きこんで徹底的に抵抗しました。1960年代終わりのことです。

オルゴーソロはサルデーニャ島における壁画アートの最大の担い手ではありますが、実はそれの先駆者ではありません。島南部の小さな町サン・スペラーテの住民が、観光による村興しを目指して家々の壁に絵を描いたのがサルデーニャ島の壁画アートの始まりでした。

それは島の集落の各地に広まって、今では壁画アートはサルデーニャ島全体の集落で見られるようになりました。特に内陸部の僻地などに多いのが特徴です。そこは昔から貧しく、今日も決して豊かとは言えない村や町が大半を占めています。

そうした中、かつての犯罪者の巣窟オルゴーソロは、インパクトが大きい強烈な政治主張を盛り込んだ壁画を発表し続けました。それが注目を集め、イタリアは言うに及ばず世界中から見物客が訪れるようになっています。

外部からの侵略と抑圧にさらされ続けた島人が、「反骨の血」を体中にみなぎらせて行くのは当然の帰結です。そこに加えて貧困があり、「反骨の血」を持つ者の多くは、既述のように貧困から逃れようとして犯罪に走りました。

イタリア共和国の経済繁栄に伴って、村が犯罪の巣窟であることを止めたとき、そこには社会の多数派や主流派に歯向かう反骨の精神のみが残りました。そして「反骨の血」を持つ者らが中心となって壁画を描き始め、それが大きく花開いたのがオルゴーソロの壁画アートなのです。

サルデーニャ島は、イタリア共和国の中でも経済的に遅れた地域としての歩みを続けてきました。それはイタリアの南北問題、つまり南部イタリアの慢性化した経済不振のうちの一つ、と捉えられるべきものですが、サルデーニャ島の状況は例えば立場がよく似ているシチリア島などとは異なります。

まず地理的に考えれば、サルデーニャ島はイタリア本土とかけ離れたところにあります。地中海の北部ではイタリア本土と島は割合近いものの、イタリア半島が南に延びるに従って、本土はサルデーニャ島から離れていく形状になっています。

一見なんでもないことのように見えますが、その地理的な配置がサルデーニャ島を孤立させ、歴史の主要舞台から遠ざける役割も果たしました。イタリア半島から見て西方の、なぜかイタリアのどの島よりも「アフリカ側にある」と考えられた同島は軽視されたのです。

錯覚に近い人々の思い込みは、先史時代のアラブの侵略や後年のイスラム教徒による何世紀にも渡る侵入・支配など、島が歩んで来た独特の歴史と相俟って、サルデーニャをイタリアの中でもより異質な土地へと仕立て上げていきました。

島の支配者はアラブからスペインに変り、次にオーストリアが名乗りを上げて、最終的にイタリア共和国になりました。以後サルデーニャ島は、イタリアへの同化と同時に、自らの独自性も強く主張する場所へと変貌し、今もそうであり続けています。

島が政治・経済・文化的に本土の強い影響を受けるのは、あらゆる国の島嶼部に共通する運命です。また島が多数派である本土人に圧倒され、時には抑圧されるのも良くあることです。

島は長いものに巻かれることで損害をこうむりますが、同時に経済規模の大きい本土の発展の恩恵も受けます。島と本土は、島人の不満と本土人の島への無関心あるいは無理解を内包しつつ、「持ちつ持たれつ」の関係を構築するのが宿命です。

ある国における島人の疎外感は、本土との物理的な距離ではなく本土との精神的距離感によって決定されます。サルデーニャ島の人々は、イタリアの他の島々の住民と比べると、「本土との精神的距離が遠いと感じている」ように筆者には見えます。

そうしたサルデーニャ人の思いが象徴的に表れているのが、オルゴーソロの「怒れるアート壁画」ではないか、と筆者は以前から考えていました。だから島に着くとほぼ同時に筆者はそれを見に行かずにはいられませんでした。

抗議や怒りや不満や疑問や皮肉などが、家々の壁いっぱいに描かれたアート壁画は、芸術的に優れていると同時に、村人たちの反骨の情熱が充溢していて、筆者は自らの思いが当たらずとも遠からず、という確信を持ったのでした。

 

 

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二重国籍の大坂なおみは日本の大宝物

大坂なおみ&蓮舫

テニスの大坂なおみ選手の国籍問題で沸騰した日本の国内世論が、熱しやすく冷めやすい国民性をモロに発揮して急激に静まっているようです。日系人関連事案や国籍問題などのグローバルな設問は、国内土着の日本人には難解きわまるテーマだからでしょう。

国籍問題といえば、2016年に起きた蓮舫元民進党代表の二重国籍問題が思い出されます。当時は蓮舫氏へのバッシングのピークが過ぎてもしつこくそれを取り上げる人々がいて、問題の大きさをうかがい知ることができました。

排外・民族主義者の言い分

二重国籍(問題)に青筋を立てて「反対」の蛮声を上げ続けるのは、たいてい保守排外主義者です。中にはリベラルを自称したり2重国籍を歓迎する国はない、などと独善的な言説を弄する民族主義者さえいます。

それらの人々の大半はいわゆる嫌韓・嫌朝・嫌中派のナショナリストで、特に在日韓国・朝鮮人の人々への日本国籍付与に危機感を抱いているケースが多いようです。彼らの懸念は理解できないことではありません。

日本に敵愾心を抱いている在日外国人に日本国籍を与える必要はもちろんありません。必要がないどころかそれは大きな間違いです。しかし彼らの多く、特に日本で生まれ育った人々は、日本への親愛の念も強く持っているに違いありません。

そうした人々に例えば宣誓や署名文書など、順法精神を徹底させる方法で日本への尊敬や忠誠を明確に示してもらい、且つ違反した場合には日本国籍をただちに剥奪する、などの条項を設けて国籍を付与することは国益にもかなうことです。

なぜなら彼らは日本と彼らの出身国との間の架け橋になり得ますし、なによりも「外国人」の目でも日本を見、理解し、発言して日本文化の多様性を広げ、深め、豊かにしてくれることが期待できます。ネガティブな側面ばかりではなく、日本社会に資する側面も考慮して国籍問題を論するべきです。

排斥ではなく抱擁することが国益

二重国籍を有する者は今の日本では、本人が外国で生まれたり、生まれた時に両親が外国に滞在していたというケースなどを別にすれば、大坂なおみ選手のように日本人と外国人の間に生まれた子供、というケースが圧倒的に多いと考えられます。

理由が何であれ、そうした人々は日本の宝です。なぜならば、彼らは日本で育つ場合は言うまでもなく、外国で育っても、いや外国で育つからこそ余計に、自らのルーツである日本への愛情を深く心に刻みつつ成長していくことが確実だからです。大坂選手はその典型のようにも見えます。

そんな彼らは将来、日本と諸外国を結ぶ架け橋になる大きな可能性を秘めています。日本を愛するが日本国籍は持たない人々、すなわち親日派や知日派の外国人は世界に多くいます。われわれはそうした人々に親近感を持ちます。彼らの態度を嬉しいと感じます。

ましてや二重国籍の日本人は、黙っていても日本への愛情や愛着を身内に強く育んでいる人々がほとんどなのですから、純粋あるいは土着の日本人が、彼らに親近感を抱かない方がおかしい。彼らを排斥するのではなく抱擁することが、国益にもつながるのです。

例えばブラジルで生まれ育った二重国籍の日本人が日本に住む場合、あるいは彼らが日本社会の慣習や文化を知らないために周囲とトラブルや摩擦を起こすこともあるでしょう。そのときには無論、彼らが日本の文化風習を理解しようと努力することが第一義です。

同時に日本で生まれ育った土着の日本人も、彼らの心情を察してこれを受け入れ抱擁する寛容さが必要です。それを逆に相手が悪いとして一方的に排撃する者は、グローバル世界の今のあり方を解しない内向きの民族主義者、と見られても仕方がないのではないでしょうか。

国防ではなく安全保障を見据えるべき

二重国籍者を憎悪する排外民族主義者らは、多くの場合文化や心情や人となりで物事を理解するのが不得手です。そうした人々は、日本人に限らずどの国の者でも、暴力的なコンセプトで世界を捉える傾向があります。そこでそうした人々にも分かりやすい言葉で解説を試みようと思います。

二重国籍者を排撃しようとするのは、喧嘩や暴力や戦闘を意識して力を蓄えて、それを行使しようとする態度に近い動きです。つまり国家戦略で言えば「国防」の考え方です。先ず戦争あるいは暴力ありき、のコンセプトなのです。

これに対して二重国籍者を受け入れるのは「安全保障」の立場です。つまり、抑止力としての軍備は怠りなく進めながらも、それを使用しないで済む道を探る態度。言葉を替えれば友誼を模索する生き方、のことです。

たとえば蓮舫議員のケースを考えてみましょう。彼女をバッシングする人々の中には、台湾との摩擦があった場合、台湾国籍の彼女は日本への忠誠心が希薄なので、日本の不利になるような動きをして台湾に味方するのではないか、という疑問を呈する者がいます。

その疑念は理解できることです。そういう危険が絶対にないとは言えません。しかし、こうも考えられます。彼女は台湾国籍を持っているおかげで台湾との対話や友誼の構築を速やかに行うことができ、そのおかげで日台は武力衝突を避けて平和裡に問題解決ができる、という可能性も高くなるのです。

これを疑う人は、フジモリ元ペルー大統領のケースを考えてみればいい。われわれ日本人の多くはフジモリ大統領に親近感を抱きました。彼が日本にルーツを持っていたからです。それと同じように台湾や中国の人々は、日本の指導者である蓮舫氏が台湾にルーツを持っている事実に親近感を抱くことでしょう。

それは彼らの敵愾心を溶かしこそすれ決して高めることにはなりません。これこそが「安全保障」の一つの要になるコンセプトです。排撃や拒絶や敵愾心は相手の心に反発を生じさせるだけです。片や、受容や寛容や親愛は、相手の心にそれに倍する友誼を植え付け、育てることです。

引きこもりの暴力愛好家になるな

グローバル世界を知らない、また知ろうという気もない内向きな日本人は、概して想像力に欠けるきらいがあるためにそのあたりの機微にも疎い。だが国内外にいる二重国籍の日本人というのは、えてしてそうではない日本人以上に日本を愛し、さらに日本のイメージ向上のためにも資している場合が多いのです。

日本土着の日本人は、グローバル化する世の中に追いつくためにも、世界から目をそむけたまま日本という家に閉じこもって壁に向かって怨嗟を叫ぶ、石原慎太郎氏に代表される「引き籠りの暴力愛好家」の態度を捨てて、世界に目を向けて行動を始めるべきです。二重国籍者の価値を知ることがその第一歩になり得ます。

血のつながりに引かれるのは、イデオロギーや政治スタンスとは関係のない人間の本質的な性(さが)です。それは親の片方が日本人で、且つ外国に住んでいる二重国籍の子供たちを多く見知っている筆者にとっては、疑いようもない真実なのです。

外国に住んでその国の国籍と同時に日本国籍も有する子供たちの日本への愛着は、ほぼ例外なく強く、好意は限りなく深い。目の前に無い故国は彼らの渇望の的です。外国に住まうことでグローバルな感覚を身につけたそれらの日本人を、わが国が受容し懐抱して、彼らの能力を活用しない手はありません。

大阪なおみ選手の二重国籍を認めるべき

それと同じことが、日本国内に住まう二重国籍の日本人にも当てはまると考えます。例えば蓮舫国籍問題にかこつけて差別ヘイトに夢中になっている人々は、今こそ先入観をかなぐり捨てて「二重国籍者という国の宝」を排斥する間違いを正し、国益を追求する「安全保障」の方向に舵を切って歩みを始めるべきです。

テニスで世界を制しつつある大坂なおみ選手は日本の宝です。彼女がもしかすると22歳で日本国籍を失うかもしれない事態は不可解を通り越して奇怪です。大坂選手がプロのテニス選手としての利益を守るために、たとえ米国籍を取得したとしても、彼女から日本国籍を剥奪するべきではありません。

日本国籍を持つ日本人であると同時に米国籍も持つ大坂選手とは、いったい誰なのでしょう?言うまでもありません。彼女はどこまでいってもやはり日本人なのです。なぜなら日本国籍を有するから。日本の宝を「日本のものではない宝」にしてしまうのはもったいない。

同じことがグローバル社会の息吹を我が物として躍動する二重国籍の若者たちにも言えます。彼らが22歳になると同時に日本国籍を失うのはいかにも惜しい。日本人の血を持つ彼らの多くは、国籍を失っても日本を愛するでしょう。しかし日本人として世界であるいは日本国内で活躍できれば、彼らはもっとさらに日本を愛すると同時に、祖国のためにもっともっと懸命に働くことでしょう。

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同性婚でも当たり前に愛は勝つ

2019年2月14日、 いわゆる“愛の誓いの日 ” とされるバレンタインデー に、 日本の 13組の同性カップルが国を相手取って「ようやく」同性婚訴訟を起こしました。「ようやく」と表現するのは、日本がいわゆる先進7ヵ国の中で同性婚を認めない唯一の国だからです。

同性愛者が差別されるのは、さまざまな理由によるように見えますが、実はその根は一つです。

つまり、同性愛者のカップルには子供が生まれない。だから彼らは、特にキリスト教社会で糾弾され、その影響も加わってさらに世界中で差別されるようになりました。

自民党の杉田水脈議員が先ごろ、LGBTの人々は「生産性がない」と発言して物議をかもしましたが、彼女は恐らくそのあたりの歴史も踏まえて発言したのでしょう。つまりあの言説は、日本人の多くが口には出さないものの、胸の内に秘めている思いを吐露した、確信犯的な放言だったのです。

子孫を残さなければあらゆる種が絶滅します。自然は、あるいは神を信じる者にとっての神は、何よりも子孫を残すことを優先して全ての生物を造形しました。

もちろんヒトも例外ではありません。それは宗教上も理のあることとされ、人間の結婚は子孫を残すための「ヒトの道」として奨励され保護されました。そこから子を成すことができない同性愛などはもってのほか、という風潮が形成されていきました。

しかし時は流れ、差別正当化の拠り所であった「同性愛者は子を成さない」という烙印は今や意味を持たず、その正当性は崩れ去りました。なぜなら同性愛者の結婚が認められた段階で、そのカップルは子供を養子として迎えることができます。生物学的には子供を成さないかもしれませんが、子供を持つことができるのです。

同性愛者の結婚が認められる社会では、彼らはもはや何も恐れるべきものはなく、宗教も彼らを差別するための都合の良いレッテルを貼る意味がなくなります。同性愛者の皆さんは大手を振って前進すればいいのです。事実欧米諸国などでは同性愛者のそういう生き方は珍しくなくなりました。

同性愛者が子供を持つということは、子を成すにしろ養子を取るにしろ、種の保存の仕方にもう一つの形が加わる、つまり種の保存法の広がり、あるいは多様化に他ならないのですから、ある意味で自然の法則にも合致します。否定する根拠も合理性もないのです。それだけでは終わりません。

自然のままでは絶対に子を成さないカップルが、それでも子供が欲しいと願って実現する場合、彼らの子供に対する愛情は普通の夫婦のそれよりもはるかに強く深いものになる可能性が高い。またその大きな愛に包まれて育つ子供もその意味では幸せです。

しかし、同性愛者を否定し差別する者も少なくない社会の現状では、子供が心理的に大きく傷つき追い詰められて苦しむ懸念もまた強い。ところがまさのそのネガティブな体験のおかげで、その同じ子供が他人の痛みに敏感な心優しい人間に成長する公算もまた非常に高い、とも考えられます。

同性愛者の結婚は愛し合う男女の結婚と何も変わりません。好きな相手と共に生きたいという当たり前の思いに始まって、究極には例えばパートナーが病気がなったときには付き添いたい、片方が亡くなった場合は遺産を残したい等々の切実且つ普通の願望も背後にある。つまり家族愛です。

同性愛者は差別によって彼らの恋愛を嘲笑されたり否定されたりするばかりではなく、そんな普通の家族愛までも無視されます。文明社会ではもはやそうした未開性は許されません。同性結婚は、日本でもただちに認められるべきです。

同性愛者への偏見差別の大本は、既述のように彼らの関係が生物学的には絶対に子供を成さない、ということにつきます。そこからいろいろな中傷や罵詈や嘲笑が生まれてきました。

その一つが2012年に筆者が書いた記事:「友人でゲイのディックが結婚しましたが、それが何か?」

に寄せられた次のコメントです。

佐藤 -- · 港区 東京都

ゲイに限らないのかも知れないが、アナルセックスは汚らしい。

いいね! · 返信 · 2012年11 月15 日 10:15


コメントは公開された記事に寄せられたものです。従ってここで紹介しても構わないと考えました。あえてそうするのは、同性愛者への嘲笑や悪意や中傷の中にはこのコメントに近いものも多い、というふうに感じるからです。いやそれどころか、このコメントの内容はあるいは世間一般の人々の平均的なリアクションであるのかも知れません。

悪意に満ちたその論評には2つの意味で違和感を覚えます。一つは、普通の人は例えば友人カップル(異性愛者か同性愛者に関わらず)が「どのようにセックスをするのか」などと妄想したりはしません。このコメントの主が、彼自身の主張が示唆するようにその逆であるならば、彼こそマニアックで異様な性癖を持つ者である可能性があります。

そうではなく、彼が筆者の友人を知らないために平然と悪意の礫を投げたのであるならば、もっと許しがたい。なぜなら恐らく異性愛者である投稿者は、匿名性を隠れ蓑にして同性愛者を罵倒している卑劣な人間だからです。しかしそれよりももっと重大な誤謬がここにはあります。それが筆者が最も強い違和感を覚える2つ目のポイントです。

つまり自らに責任を持てる成人である限り、また当事者どうしが合意し満足する限り、人はどのようにセックスをしても構いません。なぜならそれは憎しみや怒りなどの対極にある『愛』にほかならないからです。愛の異名である性愛の形状は、繰り返しますが当事者たちが好む限りいかなるものでも構わない。

例えばある人がパートナーの“ つむじ ” が好きで、愛の交歓の際にそこに固執し、いつくしみ、愛撫してよろこぶならば、そして相手がそれを許し受け入れるならば(そしてできればそうすることでパーートナー自身もよろこぶならばなお一層)、それは愛です。つむじが親指になろうが鼻の頭であろうが何であろうが構わない。

性愛において許されないのは、なによりも先ず相手の同意を得ない行為のことです。続いて暴力行為。例えば強姦や小児性愛にはその二つが伴っています。といいますか、レイプやペドフィリアはその二つのカタマリ、と断定しても過言ではありません。他の「同意を得ない」性愛行為もほぼ同じと考えていいでしょう。

繰り返しますが、成人の当事者どうしが納得し愛し合うならば性行為は何でも構わない。同性愛者の親交の形のみを、“ゲスの勘ぐり”で邪推してそれを貶めるのは、差別意識の発露以外の何ものでもありません。

リンク記事で紹介した筆者の友人は、米ニューヨーク州が同性結婚を正式に認める決定をしたことを受けてパートナーの男性と結婚しました。彼がそうしたのは「男女の夫婦の場合と何も変わらない」事情からですが、特に愛する相手に「普通に遺産を残したい」という切実な思いがありました。ここでもやはり家族愛が最大の理由なのです。

同性愛者について語るときは、彼らの性愛や恋愛や性的嗜好や痴話など、性的事案の方にも多く関心が行きがちです。そしてそれらの偏見差別のせいで泣いているのは、友人のケースでも明らかなように、またここまでしばしば述べてきたように、家族愛などの人の「当たり前の」感情や権利にほかならないのです。

同性愛者は子を成さない、ということにまつわる宗教的、社会的、歴史的な差別はいわれのない誹謗であり中傷です。彼らはわれわれの社会になんらの危害も与えていません。危害どころか、人の「存在」の多様性、という大きな利益をもたらしているのが真実です。

もしもそうした考え方を受け入れられない批判者はこう考えてみてください。つまり同性愛者から見れば彼らの愛の形が普通であり「正常」です。あなた(筆者も含む)と、あなたの恋人や妻や夫や愛人との艶事は、異性愛者という「多数派の情交の形」であるに過ぎず、決して正義や道徳や節操を代表するものではありません。

それでも先のコメントに同調する人々はもしかすると、同性愛者は道徳的に社会に悪影響を与えていると主張するかもしれません。だがその道徳とは、何よりもまず「同性愛者=(イコール)異常性愛者」という偏見にまみれた結論ありき、の上に構築された似非道徳に過ぎません。

それは宗教界や政治権力等が同性愛者と同姓婚を否定するために利用したがる虚偽であり、またそれに影響された保守強硬論者やネトウヨ系差別論者などのヘイトスピー チ、あるいは牽強付会な汚れたレトリックなどと何も変わるところはないのです。

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漁師の命と百姓の政治

菜園を耕してみて分かったことの一つは、野菜は土が育ててくれる、という真理です。

土作りを怠らず、草を摘み、水や肥料を与え、虫を駆除し、風雪から保護するなどして働きつづければ、作物は大きく育ち収穫は飛躍的に伸びます。

しかし、種をまいてあとは放っておいても、 大地は 実は最小限の作物を育ててくれるのです。

百姓はそうやって自然の恵みを受け、恵みを食べて命をつなぎます。百姓は大地に命を守られています。

大地が働いてくれる分、百姓には時間の余裕があります。余った時間に百姓は三々五々集まります。するとそこには政治が生まれます。

1人では政治はできません。2人でも政治は生まれません。2人の男は殺し合うか助け合うだけです。

百姓が3人以上集まると、そこに政治が動き出し人事が発生します。政治は原初、百姓のものでした。政治家の多くが今も百姓面をしているのは、おそらく偶然ではありません。

漁師の生は百姓とは違います。漁師は日常的に命を賭して生きる糧を得ます。

漁師は船で漁に出ます。近場に魚がいなければ彼は沖に漕ぎ進めます。そこも不漁なら彼はさらに沖合いを目指します。

彼は家族の空腹をいやすために、魚影を探してひたすら遠くに船を動かします。

ふいに嵐や突風や大波が襲います。逃げ遅れた漁師はそこで命を落とします。

古来、海の男たちはそうやって死と隣り合わせの生業で家族を養い、実際に死んでいきました。彼らの心情が、土とともに暮らす百姓よりもすさみ、且つ刹那的になりがちなのはそれが理由です。

船底の板1枚を経ただけの、荒海という地獄と格闘する漁師の生き様は劇的です。劇的なものは歌になりやすい。演歌のテーマが往々にして漁師であるのは、故なきことではありません。

現代の漁師は馬力のある高速船を手にしたがります。格好つけや美意識のためではありません。沖で危険が迫ったとき、一目散に港に逃げ帰るためです。

また高速船には他者を出し抜いて速く漁場に着いて、漁獲高を伸ばす、という効用もあります。

そうやって現代の漁師の生は死から少し遠ざかり、欲も少し増して昔風の「荒ぶる純朴な生き様」は薄れました。

水産業全体が「獲る漁業」から養殖中心の「育てる漁業」に変貌しつつあることも、往時の漁師の流儀が廃れる原因になりました。

今日の漁師の仕事の多くは、近海に定位置を確保してそこで「獲物を育てる」漁法に変わりました。百姓が田畑で働く姿に似てきたのです。

それでも漁師の歌は作られます。北海の嵐に向かって漕ぎ出す漁師の生き様は、男の冒険心をくすぐって止みません。

人の想像力がある限り、演歌の中の荒ぶる漁師はきっと永遠です。


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