先日の記事「多様性という名のカオス」を読んだ保守系の読者の方から、「やはり多様性は良くないのですね」という趣旨のメッセージが届きました。
人は文章を読みたいようにしか読みません。あるいは自分の都合のいいようにしか解釈しません。よくメッセージをいただくこの方は民族主義的思考法が強く、多様性をほとんどアナキズムと同義にみなしています。
千差万別、多彩、人それぞれ、 百人百様、十人十色、 多種多様、、蓼食う虫も好き好き 、各人各様、など、など。人の寛容と友誼と共存意識の源となる美しいコンセプトを理解しません。
言うまでもなく彼は間違っています。多様性というのは絶対善です。絶対とはこの場合「完璧」という意味ではなく、欠点もありながら、しかし、あくまでも善であるという意味です。つまり、例えば民主主義と同じです。
民主主義はさまざまな問題を内包しながらも、われわれが「今のところ」それに勝る政治体系や構造や仕組みや哲学を知らない、という意味で最善の政治体制です。
また民主主義は、より良い民主主義の在り方を求めて人々が試行錯誤を続けることを受容する、という意味でもやはり最善の政治システムです。
言葉を変えれば、理想の在り方を目指して永遠に自己改革をしていく政体こそが民主主義、とも言えます。
多様性も同じです。飽きることなく「違うことの良さ」を追求し歓迎し認容することが、即ち多様性です。多様性を尊重すればカオスも生まれます。だがそのカオスは多様性を否定しなければならないほどの悪ではありません。
なぜならそれは、多様性が内包するところのカオス、つまり千般の個性が思い思いに息づく殷賑にすぎないからです。再び言葉を変えて言えば、カオスのない多様性はありません。
多様性の対義概念は幾つかあります。全体主義、絶対論、デスポティズムetc。日本社会に特有の画一主義または大勢順応主義などもその典型です。
筆者はネトウヨ・ヘイト系排外差別主義と極端な保守主義、またそれを無意識のうちに遂行している人々も、多様性の対極にあると考えています。
なぜなら それらの人々は、彼らのみが正義で他は全て悪と見做す視野狭窄の習慣があります。つまり彼らは極論者であり過激派です。むろんその意味では左派の極論者も同じ穴のムジナです。
それらは絶対悪ですが、多様性を信奉する立場の者は彼らを排除したりはしません。 ネトウヨ・ヘイト系排外差別主義や極右は悪だが、同時にそれは多様性の一環でもある、と考えるのです。
多様性の精神は、「それらの人々のおかげで、多様性や寛容や友愛や友誼や共存や思いやり等がいかに大切なものであるかが分かる」という意味で、彼らはむしろ“必要悪”であるとさえ捉えます。
先に触れた記事「多様性という名のカオス」の中で筆者は、
多様性を重視するイタリア社会は平時においては極めて美しく頼もしくさえあるが、人々の心がひとつにならなければならない非常時には、大きな弱点になることもある。今がまさにそうである。
と書きました。メッセージを寄せた方はそれを読んで、彼流の解釈ではあたかも多様性を否定しているとも見えるらしい筆者の言葉尻をとらえて曲解し、大喜びしたようです。
しかし真実は違います。多様性は非常時には大きな弱点になること“も”ある。という書き方でも分かる通り、筆者はそこでは単純に可能性の話をしただけなのです。
最も重要なことは、多様性が平時においては美しく頼もしいコンセプトである、という点です。非常時には平時の心構えが大きく作用します。つまり、多様性のある社会では、多様性自体が画一主義に陥り全体主義に走ろうとする力を抑える働きをします。
一方でネトネトウヨ・ヘイト系排外差別主義がはびこる世界では、その力が働きません。それどころか彼らの平時の在り方が一気に加速して、ヘイトと不寛容と差別が横行する社会が出現してしまいます。
日本で最後にそれが起きたのが軍国主義時代であり、その結果が第2次大戦でした。日本まだ往時の悪夢から完全には覚醒していない。つまり日本社会には多様性が十分には存在しない。その証拠が「多様性の枢要を理解しない国民の多さ」です。
多様性を獲得しない限り、あるいは多様性の真価を国民の大多数が血肉となるほどにしっかりと理解しない限り、日本は決して覚醒できず、従って真の民主主義と多文化と人種共存の意義も認識できない、とさえ筆者は懸念します。
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