文章が吹きすべれば暴力がもうかり喜ぶ~文意が伝わらなくても書く意味があるわけ

文章の趣旨は、基本的に読者に100%は伝わらないと思っています。原因は書き手と読み手の両方にあります。

言うまでもなく書き手がヘタで、読者に読解力がない場合、というのがもっとも深刻でもっとも多い要因でしょう。

しかし、ひんぱんに起こるのは、書き手の思い込みと読者の思い込みによる誤解です。

書き手の思い込みは「書き手のヘタ」と同じ意味でもありますが、読者の思い込みは少し違います。

読み手はいかに優れた人の場合でも、文章を「読みたいようにしか読まない」のです。

そのために同じ文章でも読み手によって全く違う解釈が生まれます。

黒と白、という極端な違いはあるいは少ないかもしれませんが、黒と白の間のグラデーションの相違、という程度のずれは多くあります。

そこに読者の「感情」がからまると、違いは目に見えるほど大きくなります。

例えば暴力に関する記述に接したとき、それと同じシチューエーションで殴った側に立ったことがある読者と、殴られた側にいた読者の間には、文意にそれぞれの「感情」がからまって違う解釈になる可能性が高い。

あるいは恋愛において、相手を捨てた側と捨てられた側の感情の起伏も、文意の解釈に影響することがあると思います。

それどころか、女と男という性差も文章読解にすでに影響している可能性があります。女と男の物事への感じ方には違いがあります。

その違いが文章読解に作用しないとは誰にも言えません。

そうしたことを考えだすと書く作業はひどく怖いものに見えてきます。

だが書かないと、理解どころが「誤解」さえもされません。つまりコミュニケーションができない。

人の人たるゆえんは、言葉によってコミュニケーションを図ることです。つまりそうすることで人はお互いに暴力を抑止します。

言葉を発せずに感情や思いを胸中に溜めつづけると、やがてそれは爆発し、人はこわれます。

こわれると人は凶暴になりやすい。

それどころか、コミュニケーションをしない人は、いずれ考えることさえできなくなります。

なぜなら「思考」も言葉だからです。

思考や思索の先にある文学は言うまでもなく、思想も哲学も言葉がなければ成立しません。数学的思考ですら人は言葉を介して行っています。

それどころか数式でさえも言葉です。

さらに感情でさえ言葉と言えるのかもしれません。なぜならわれわれは感情の中身を説明するのに言葉をもってするからです。

感情がいかなるものかを説明できなければ、他人はもちろん自分自身にもそれが何であるかがわかりません。ただやみくもに昂ぶったり落ちこんだりして、最後には混乱しやはり暴力に走ります。

暴力は他人に向かう場合と自分自身に向かう場合があります。自分自身に向かって振るわれる最大の暴力が自殺です。

暴力は自分に向かうにしろ他人に向かうにしろ、苦しく悲しい。

暴力を避けるためにも、人はコミュニケーションをする努力を続けなければなりません。

文章を書くとは、言うまでもなくコミュニケーションを取ることですから、たとえ文意が伝わりづらくても、書かないよりは書いたほうがいい、と思うゆえんです。




 

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