東京五輪の開幕式の様子をやや否定的な気分でテレビ観戦しました。思い入れの強いシークエンスの数々が、「例によって」空回りしていると感じました。
「例によって」というのは、国際的なイベントに際して、日本人が疎外感を穴埋めしようとしてよく犯す誤謬にはまっていると見えたからです。
英語にnaiveという言葉があります。ある辞書の訳をそのまま記しますと:
「(特に若いために)世間知らずの、単純な、純真な、だまされやすい、(特定の分野に)未経験な、先入的知識のない、甘い、素朴な」
などとなります。
周知のようにこの言葉は日本語にも取り込まれて「ナイーブ」となり、本来のネガティブな意味合いが全てかき消されて、純真な、とか、感じやすい、とか、純粋な、などと肯定的な意味合いだけを持つ言葉になっています。
五輪開会式のパフォーマンスには、否定的なニュアンスが強い英語本来の意味でのnaiveなものがいっぱいに詰まっていると思いました。意図するものは純真だが、結果は心もとない、とでもいうような。
それは五輪マークにこだわった開会式典の、コアともいうべきアトラクションに、もっともよく表れていました。
美しい空回り
日本独特の木遣り唄に乗せて職人が踊るパフォーマンスは興味深いものでした。トンカチやノコギリの音が打楽器を意識した音響となって木霊し、やがて全体が大仕掛けの乱舞劇へとなだれ込んでいく演出は悪くなかったと思います。
しかしすぐに盛り下がりが来ました。
踊る職人たちの大掛かりな仕事の中身が、「木製の五輪マーク作り」だった、と明らかになった時です。
演出家を始めとする制作者たちは、日本文化の核のひとつである木を用いて、「オリンピックの理念つまり核を表象しているところの五輪マーク」を創作するのは粋なアイデアだ、と自画自賛したに違いありません。またそれを喜ぶ人々も多くいたようです。
英国のタイムズ紙は、開会式が優雅で質朴で精巧だった、とかなり好意的に論評しました。パンデミックの中での開催、また日本国民の不安や怒りなどが影響して、あまり悪口は言えない雰囲気があったのだと思います。
木遣り唄のパフォーマンスは、タイムズ紙が指摘したうちの質朴な要素に入るのでしょうが、実際にはそれは、日本人の屈折した心理が絡んだ複雑極まる演出で、質朴とはほど遠いものでした。
なぜなら職人たちが作ったのは五輪マークという「神輿」だったからです。
五輪マークは技量抜群の職人と伝統の木遣り唄によって神輿に改造され、現実から乖離し神聖になり、担いで崇めてさえいればご利益があるはずの空虚な存在になりました。
傍観者
五輪マークに異様なまでに強くこだわるその心理は、世界の気分と乖離していると筆者は感じました。
五輪の理念や理想や融和追求の姿勢はむろん重要なものです。
だがそれらは、日本が建前やポーズや無関心を排して、真に世界に参画する行動を起こすときにこそ意味を持ちます。
しかし日本はその努力をしないままに、世界や日本自身の問題に対しスローガンや建前を前面に押し出すだけの、いわば傍観者の態度で臨んでいることが多い。
具体的に言えば例えば次のようなことです。
日本は先進国でありながら困難に直面している難民に酷薄です。また実質は「移民」である外国人労働者に対する仕打ちも、世界の常識では測れない冷たいものであり続けています。
日本国内に確実に増え続けている、混血の子供たちへの対応も後手後手になっています。彼らをハーフと呼んで、それとも気づかないままに差別をしているほとんどの国民を啓蒙することすらしない。
世界がひそかに嘲笑しているジェンダーギャップ問題への対応もお粗末です。対応する気があるのかどうかさえ怪しいくらいです。
守旧派の詭弁
夫婦同姓制度についても、女性差別だとして日本は国連から夫婦別姓に改正するよう勧告を受けています。
するとすぐにネトウヨヘイト系保守排外差別主義者らが、日本の文化を壊すとか、日本には日本のやり方がある、日本には夫か妻の姓を名乗る自由がある、などという詭弁を声高に主張します。日本政府は惑わされることなく、世界スタンダードを目指すべきなのに、それもしません。
夫婦別姓で文化が壊れるなら、世界中のほとんどの国の文化が壊れていなければなりません。だが全くそうはなっていません。
その主張は、男性上位社会の仕組みと、そこから生まれる特権を死守したい者たちの妄言です。
日本の法律では夫か妻の姓を名乗ることができるのは事実です。だがその中身は平等とはほど遠い。ほとんどの婚姻で妻は夫の姓を名乗るのが現実です。そうしなければならない社会の同調圧力があるからです。
同調圧力は女性に不利には働いています。だから矯正されなければならない、というのが世界の常識であり、多くの女性たちの願いです。
言うまでもなく日本には、何事につけ日本のやり方があって構わない。だがその日本のやり方が女性差別を助長していると見做されている場合に、日本の内政問題だとして改善を拒否することは許されません。国内のトランプ主義者らによる議論のすり替えに惑わされてはならないのです。
五輪は世界に平和をもたらさない
それらの問題は、日本が日本のやり方で運営し施行し実現して行けばよい他の無数の事案とは違って、「世界の中の日本」が世界の基準や常識や要望また世論や空気を読みながら、「世界に合わせて」参画し矯正していかなければならない課題です。
日本が独自に解決できればそれが理想の形ですが、日本の政治や国民意識が世界の常識の圏外にあるばかりではなく、往々にして問題の本質にさえ気づけないような現状では、「よそ」を見習うことも重要です。
日本は名実ともに世界の真の一員として、世界から抱擁されるために、多くの命題に本音で立ち向かい、結果を出し、さらなる改善に向けて行動し続けなければなりません。
「絆を深めよう」とか、「五輪で連帯しよう」とか、「五輪マークを(神輿のように)大事にしよう」とか、あるいは今回の五輪のスローガンである「感動でつながろう(united by emotion)」などというお題目を、いくら声高に言い募っても問題は解決しません。
オリンピックは連帯や共生やそこから派生する平和を世界にもたらすことはありません。世界の平和が人類にオリンピックをもたらすのです。
そして平和や連帯は、世界の国々が世界共通の問題を真剣に、本音で、互いに参画し合って解決するところに生まれます。
今の日本のように、世界に参加するようで実は内向きになっているだけの鎖国体制また鎖国メンタリティーでは、真に世界と連携することはできません。
五輪開会式に漂う日本式の「naive」なコンセプトに包まれたパフォーマンスを見ながら、筆者はしみじみとそんなことを頭に思い描いたりしました。
無垢な誤謬
この際ですから次の事柄も付け加えておこうと思います。
古い日本とモダンな日本の共存、というテーマも五輪の意義や理想や連帯にこだわりたい人々が督励したコンセプトです。
そのことは市川海老蔵の歌舞伎十八番の1つ「暫(しばらく)」と女性ジャズピアニストのコラボに端的に表れていました。
日本には歴史と実績と名声が確立した伝統の歌舞伎だけではなく、優秀なモダンジャズの弾き手もいるのだ、と世界に喧伝したい熱い気持ちは分かりますが、筆者は少しも熱くなりませんでした。
必死の訴えかけにやはりnaiveな孤独の影を見てしまったのです。
古い歌舞伎に並べて新しい日本を世界に向けてアピールしたいなら、例えば開会式の華とも見えた「2000台近い発行ドローンによる大会シンボルマークと地球の描写」をぶつければよかったのに、と思いました。
ドローンによるパフォーマンスこそ日本の技術の高さと創造性が詰まった新しさであり、ビジョンだと感じたのです。日本の誇りである「大きな」且つ「古い」歌舞伎に対抗できるのは、ひとりのジャズピアニストではなく、その新しいビジョンだったのではないでしょうか。
さらに、意味不明のテレビクルーのジョークはさて置き、孤独なアスリートや血管や医療従事者などのシンボリックなシーンは、手放しでは祝えない異様な五輪を意識したもの、と考えれば共感できないこともありません。だが、残念ながらそこでも、再び再三違和感も抱きました。
そもそも心から祝うことができないない五輪は開催されるべきではありません。
しかし紆余曲折はあったものの、既に開催されてしまっているのですから、一転してタブーを思い切り蹴散らして、想像力を羽ばたかせるべきではないか、と感じました。アートに言い訳など要らないのです。
オリンピックは、例えば「バッハ“あんた何様のつもり?”会長」の空虚でむごたらしいまでに長い「挨拶風説教」や、政治主張や訓戒や所論等々の強要の場ではなく、世界が参加する祝祭です。祝祭には祝祭らしく、活気と躍動と歓喜が溢れているほうがよっぽど人の益になると考えます。
最後に、自衛隊による国旗掲揚シーンは、2008年中国大会の軍事力誇示パフォーマンスほど目立つものではありませんでしたが、過去の蛮行を一向に総括しようとはしない守旧日本の潜在的な脅威の表象、という意味では中国の示威行動と似たり寄ったりのつまらない光景、と筆者の目には映りました。
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