マスク着用はむしろ危険な場合もある 

ちょうどマスク着用が国民1人ひとりの自由裁量になった日に筆者は日本に帰りました。

正確にはその前日の3月12日に羽田に着いたのです。予想していたものの着いた瞬間にほぼ誰もがマスク姿であることに少なからず衝撃を受けました。

日本に向かうITAエアーウエイズの飛行機の中でも日本人は全員がマスクをしていました。

片や外国人はほぼ全員がマスクなし。それはイタリアを含む欧州では当たり前の光景です。

入国すると送迎の人々や空港職員にはじまる誰もがむろんマスクで身を固めていました。

翌日、緩和が開始されても街中の光景には何の変化もないように見えました。マスクをしていない日本人を探すのはむしろ困難でした。

マスク着用が緩和されてもほとんどの国民がそれを外さない日本の景色は、生真面目を通り越して異様にさえ見えました。

パンデミックの当初、手本にする相手もないまま地獄を味わったイタリアでは、マスク着用が緩和されたとたんに多くの国民がわれ先にとそれを外して自由を謳歌しました。

ワクチン接種が広く行き渡ったこともありますが、外すことがむしろコロナへの挑戦、という人々の意気込みさえ感じられました。

それはイタリアのみならずほとんどの欧州の国が同じでした。

片や日本を見ると、ウイルスではなく世間の目が怖いからマスクを外せない人と、真にコロナ感染が怖いから未だにマスクを付け続けている人がいるようです。

その2者の数を合わせると、日本の閉鎖性と特異体質の総量が見えてきます。

世間への忖度は同調圧力ゆえであり、未だに感染が怖いのは非合理的な思い込みゆえです。

感染を恐れ、感染を避けようと努力するのは、むろん重要且つ正しい動きです。

だがそこには、外から見ると奇怪とさえ映る日本独特の現実があります。

欧米では歴史的に多くの人種が行き交って感染症が頻発し、それと対峙することで医学が発達し人々の認識が高まりました。

一方島国の日本は無防備であり、そこから派生する病気への対処法も未熟なまま歴史を刻みました。

その様相はかつて外界と接触しないで生きていた南米大陸のインディオの多くが、スペイン人のもたらした流行病や感染症であっけなく死んでいった歴史をも想起させます。

世界から隔絶されて、いわば純粋培養状態で生きる民はウイルスへの抵抗力が弱くなります。

だからこそ流行り病が起きたときは、流行がある程度終息した時点でむしろそれを「積極的に」放置しウイルスを泳がせて、人々の免疫力を高める努力も必要になります。

理由がなんであれ、マスクを付けっぱなしでウイルスの拡散を滞らせる対処法は、むしろ危険な場合もあるのです。

コロナパンデミックはエンデミックに移行したと断定するのはまだ時期尚早という意見もあります。だが、ワクチンの普及によって危険性が大幅に低下したのも事実です。

病院や高齢者施設また人が多く集まる閉鎖空間などの特別なケースを除き、マスク着用を止めて普通に行動するべき時が来ています。

それは科学的にも正しい在り方であり、情緒的にも極めて重要なプロセスです。

マスクのない素顔でコミュニケーションを取ることは、大人もそうですが特に感情の発達が未熟な子供たちにとっては重要なアクションです。

子供たちは子供たち同士で情緒の交換をしつつ、大人の表情を見て感情の抑制や開放や発展を学びます。つまり情感を発達させます。

マスク姿の大人からは子供は多くを学べず、心の機微が歪な大人になっていく可能性が高い。

だが大人にとっても子供にとっても何より重要なのは、マスクを外して自由になり同調圧力に立ち向かって精神の開放を取り戻すことでしょう。

日本国民の皆さん、マスクを捨てて街に出ようよ、と筆者は提唱します。

 

 

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