中国鬼とのかくれんぼ 

先の記事「COVID-19の今を斬る~ 中国は有罪?無罪?」を読んだ読者から、新型コロナ危機に関連して中国を全面否定しないのは腑に落ちない、という趣旨のメッセージがありました。それに答えて記しておくことにしました。

中国が先日、「香港国家安全維持法」を強引に成立させ施行して、自由香港の終わりが来たとさえ言われる横暴が現実のものとなりました。香港の人々の深い失望と無力感が、ひしひしと筆者の胸に伝わってきます。

筆者が中国を牛耳る中国共産党と首魁の習近平主席を「ほぼ全面的に」否定しながら、中国国民には罪はないと敢えて付け加えることが多いのは、中国国内にはまさにこの香港人と似た立場の国民が少なからずいると考えるからです。香港に加えて台湾の人々も同じ脅威にさらされています。

民主主義国家の場合、時の政権はまがりなりにも国民の意志によって形成され存在しています。国によって民主主義の成熟度に差があり民主主義体制自体も不備な点が多々あるために、問題は尽きることがありませんが、われわれは今のところ民主主義に勝る政治体制を発見していません。

そして民主制はその多くの欠点にもかかわらず、王制や貴族制や君主制などの過去の遺物的な政治体系、また専制や独裁制や全体主義などの近・現代の強権政治構造と比較して、はるかに開明的な仕組みです。むろん一党独裁の中国など問題にもならないほどの優れた政治システムです。

しかしながら、民主主義の優位性にもかかわらず、中国一党独裁国家は特に経済発展というコンセプトでくくって眺めると、あるいは民主主義と不可分の資本主義よりも効率的ではないか、という疑問を抱かせるほどに成功しています。中国独自の「社会主義市場経済」の不思議ですね。

欧米や日本などの先進国は、貧しかった中国を経済的に援助し続けることで彼の国を甘やかし過ぎました。そして中国が経済大国になった今、それらの先進国と世界は、往々にして成功した中国に遠慮し恐れさえして、中国はますますつけ上がる、という構図が出来上がってしまいました。

経済大国とはいえ中国には、民主主義国家に当たり前の基本的人権の保障、すなわち言論と表現の自由、法の下での平等と保護、集会結社の自由、宗教の自由などは皆無です。中国の都会に住んで働く農民工が、決して都市戸籍を得られず、死ぬまで農民のままでいなければならない仕組みなどを勘案すれば、職業の自由さえない、とも言えます。

中国における権力は、習近平氏を頂点にした共産党員によって独占されて、かつての王や専制君主並みかそれ以上の強権によって民衆はがんじがらめに縛られ統制され抑圧されて生きています。それでも権力に近い国民は、普通に権力に守られあるいは権力の便宜を受けて、特権階級となります。

またそれらの特権階級の係累や傘下にある人々も恩恵にあずかって生活水準が良くなったと感じ、権力を大いに支持します。そこには知識人や文化人やインテリ層や専門家集団、また富のおこぼれにあずかって喜ぶ無数の一般大衆などがいます。

彼らは全員が共産党支配を善しとし、中国が何事も世界で一番の国と思い、そう行動します。中には共産党の強権体制の弊害を知り、民主主義体制の長所を知りつつも、自分が特権の恩恵を受け続ける限り何も問題はない、と考える者もいるでしょう。

また思想統制、情報管理、洗脳教育などによって、一党独裁の現在の中国が最善の政治体制と“信じこまされている”無知蒙昧な民衆もいます。彼らは共産党員ではなくても、中国こそ善、中国こそ世界をリードする国、中国万歳、と叫んで排外主義を身内にはぐくみ募らせます。日本のネトウヨ系排外差別主義者らと同じ類の民衆ですね。

筆者に批判的な読者が「中国人は誰もが独善的」と非難するのは、もしかすると彼らがなにかのはずみでそんな類の人々にしか出会っていないからではないでしょうか?だが一般化は禁物です。筆者もそういう人たちを知っていますが、同時にそうではない中国人にもかつて住んでいた米英で、またここイタリアでも多く出会っています。

巨大国家中国には、民主主義体制下における言論、思想、移動行動、教育、政治行為など、全ての自由を知りつつ、それを享受できない、これまたおそらく「無数の」という形容詞を使っても許されるほどの多くの国民がいます。悲しいことに香港や台湾の人々も、近い将来この階層に組み込まれる可能性があります。

そうした人々の存在は、反体制運動家の逮捕や抑圧の現実、チベットの状況、ウイグル族への弾圧など、われわれ自由主義世界の住民にも漏れ伝わってくる断片的な情報で知ることができます。が、実態は判然としません。なぜか。まさに中国が独裁国家であり情報統制を最重要の命題と位置づける警察国家だからです。

強権体制の犠牲になっている国民がいて、前述の如く犠牲になっていることにさえ気づかない無知な民衆がいます。ただ「自らが抑圧されている」と気づくためには情報がなくてはならない。無知な大衆は、「比較する情報」が不足していると政府の非にも気づけないことがよくあります。

だから習近平主席が引っ張る共産党独裁政権は、情報を遮断しまた操作して、民衆をできる限り知の光の届かない暗闇の中に置こうと躍起になります。知の闇の中の人々も、積極的に習近平とその周りの権力に加担していない限り、全て「共産党の犠牲者」と筆者は考えています。

繰り返しになりますが、民主主義体制下では政治権力は国民の意志によって作られています。従って一国の責任は国民全体の責任、とも捉えることができる。政権に反対する国民は、あるいは自らには責任はないと主張するかも知れません。だが、それは間違いです。彼にも責任はあります。

なぜなら彼は現行の政権下では不利益をこうむっているかもしれないが、次の選挙で彼に利益をもたらすと考えられる政権を選ぶことができるからです。言うまでもないことですが民主主義国家には選挙によって政権が変わるという一大特徴があります。国民は政権を選ぶ可能性を有することで、巨大な政治的自由を享受しています。

一党独裁国家、中国の国民にはその自由がない。自由どころか彼らの多くは政治体制の犠牲者です。また彼らは習近平率いる独裁政権の樹立にかかわっていません。かかわることを許されていない。だから彼らには中国共産党に科せられるべき罪はないのです。民主主義国家との大きな違いはそこにあります。中国政権と民衆を筆者がいつも切り離して考える努力をしているのはそれが理由です。

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