それでもやはりプリンシプルを欠くと人も国も右顧左眄する

直近記事、「プリンシプルを欠くと人も国も右往左往する」の読者から
「全ての外国人の入国を拒否したのは変異ウイルスをシャットアウトする目的で《念のため》に導入した措置。従って問題はない」という趣旨の便りがありました。

菅首相の胸の内も、おそらくこの読者と寸分違わない。そしてそこには一理があります。だがそれだけです。敢えてダジャレを言えば、十理のうち一理だけが正しく、残りの九理が間違っています。

人に品位があるように国家にも品格 があります。仮にも先進国の一角を成す日本には、おのずとそれなりの風格が求められます。

それは国家に自由と明朗と自信が備わっているかどうか、ということです。自由主義世界では、国々はお互いに相手を敬仰し国境を尊重しつつ同時に開放する、という精神でいなければなりません。なにかがあったからといって突然国境を閉ざすのは品下る行為です。

世界は好むと好まざるにかかわらず、イメージによっても成り立っています。従来からあるメディアに加えて、インターネットが爆発的に成長した現代では、実体はイメージによっても規定され変化し増幅され、あるいは卑小化されて見えます。

突然の国境閉鎖は、世界に向けてはイメージ的に最悪です。子供じみた行為は、まるで独裁国家の北朝鮮や中国、はたまた変形独裁国家のロシアなどによる強権発動にも似た狼藉です。

独りよがりにしか見えない行動は、西側世界の一員を自称する日本が、結局そことは異質の、鎖国メンタリティーに絡めとられた国家であることを告白しているようにも映ります。

事実から見る管首相の心理は、後手後手に回ったコロナ対策を厳しく指弾され続けて、今度こそは先回りして変異コロナの危険の芽を摘み取っておこう、と思い込んだものでしょう。焦りが後押しした行為であることが見え見えです。

実利という観点からもそのやり方は間違っています。「全世界からの外国人訪問者を一斉に拒否」することで、管首相はわずかに回っていた外国とのビジネスの歯車も止めてしまいました。経済活動を推進し続けると言いながら、ブレーキを踏む矛盾を犯しているのです。

コロナ禍の世界では感染拡大防止が正義です。同時に経済を回し続けることもまた同様に正義です。しかも2つの正義は相反します。

相反する2つの正義を成り立たせるのは「妥協」です。感染防止が5割。経済活動が5割。それが正解です。両方とも8割、あるいは9割を目指そうとするからひたすら右顧左眄の失態を演じることになります。

変異種のウイルスを阻止するのは言うまでもなく正道です。だがそのことを急ぐあまり、周章狼狽して根拠の薄いまま国境を完全封鎖するのは、たとえ結果的にそれが正しかったという事態になっても、国家としていかがなものか、と世界の良識ある人々が問うであろう行為です。

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