開会式は見逃してしまいましたが、パラリンピックの車いすバスケットボール女子の試合をテレビ観戦しました。
予選2試合目のオランダvs米国です。
オランダが68-58で米国を下しました。片時も目を離せない出色の試合内容でひどく感動しました。
選手のテクニックも身体能力もガッツも、そしてむろんスポーツマンシップも、超一流だと心から思いました。
いうまでもなく選手は全員が身体障害者ですが、彼女たちのプレーに引き込まれるうちに健常者のそれとの違いが分からなくなりました。
例えばNBAなどのプロバスケットチームの試合のほうが非現実で、こちらのほうがリアルだと思ったりしました。
特に男子のプロバスケットのゲームでは、よくダンクショットなどのスーパープレーが飛び出して拍手喝采を浴びます。
だがそうした超人的なパフォーマンスは、筆者には異空間の出来事のようで、少しも面白くありません。
ただの見世物か曲芸の類いにしか見えないのです。
身長2m内外の大男たちが、ジャンプしてバスケットの上から中にボールを叩き入れるダンクショットは、単に身体能力の高さを示すだけで、優れたテクニックや意外性や創造性とは無縁です。
ま、いわばウドの大木の狂い舞い、というところでしょうか。
身体能力抜群のプロ選手を「のろまなウドの大木」と形容するのはむろん正確ではありません。
なので「異星人のフラメンコ」とでも言い直しておきましょう。
いずれにしてもダンクショットは、背が高くてジャンプ力があれば、いわば誰にでもできるアクションです。
それどころか、例えば身長が2m46㎝あるイランのパラリンピック選手、モルテザ・メヘルザードセラクジャーニーさんなら、ジャンプしなくても普通に立ったままでダンクショットができそうです。
その場合も身体能力はむろん高いに違いありません。しかし、テクニックや創造性というわれわれを感動させるスポーツのエッセンスは、やはりほとんど存在しません。
一方、女子車いすバスケットの選手たちは、不自由な身体を持ちながらもテクニックによってそれをカバーし、プレーヤーとしてはるかな高みにまで達しています。
車いすをまるで自らの体の一部でもあるかのように正確に操作しつつボールを受け、ドリブルしパスを送り、相手の動きをかわしたりブロックしたりします。
そして究極のアクションは、上半身だけのバネを使っての正確かつエレガントなショットの数々。
ショットはもちろん外れることもります。だがおどろくほどの高い確率でボールはゴールネットに吸い込まれます。
ショットの力量も、身体の全ての動きも、ボールコントロール技術も何もかも、飽くなき厳しい鍛錬によって獲得されたものであることがひと目で分かります。
彼女たちがパラリンピアンとして、あるいは世界有数のアスリートとして、そのひのき舞台に立っているのは必然のことなのだ、とまざまざと思い知らされるのです。
選手の躍動を支えているに違いない激甚なトレーニングと、自己管理と、飽くなき向上心が目に見えるようで激しく心を揺さぶられます。
彼女たちのプレーは現実の高みにあるものです。
言葉を替えれば、われわれ素人がバスケットボールを遊ぶその遊びの中身が、鍛錬と自己規制と鉄の意志によって、これ以上ない練熟の域にまで達したものです。
ダンクショットを打つNBAの猛者たちももちろん優れたアスリートであり熟練者です。
しかし彼らの身体能力は、キャリア追及の初めから常軌を逸するほどに優れていて、努力をしなくても既にはるかな高みにあります。
そのことが彼らをいわば異次元のアスリートに仕立て上げます。現実味がありません。いや現実味はあるのですが、われわれ凡人とは違う何者か、という強烈な印象を与えます。
もっと言えば、われわれは努力しても逆立ちしてもダンクショットを打つプレーヤーにはなれませんが、われわれは努力し情熱を持ち鍛錬すれば女子車いすバスケットの選手の域に達することができる。
達することができる、とわれわれが希望を持っても構わないような、そんな素晴らしい現実味があります。
彼女たちがわれわれと同じ地平から出発して、プロの高みと呼んでも構わない最高位のプレーヤーの域に達したように。
いや、少し違います。
不自由な肉体を持っている彼女たちは、身体能力という意味ではむしろわれわれ健常者よりも低い地平から身を起こしました。
そしてわれわれの域を軽々と超えて、通常レベルのアスリートの能力も凌駕してついに熟練のプレーヤーにまでなりました。
しかも彼女たちは、ダンクショットを打つ異星人ではなく、飽くまでもわれわれと共にいる優れたアスリートであり続けます。
その事実はわれわれを激しく感動させてやみません。
official site:なかそね則のイタリア通信