コロナ禍で中断していた射撃訓練を再開しました。
始めてすぐに、自分の中の拳銃への恐怖心がほぼなくなっていることに気づきました。
うれしい誤算でした。
撃ち方を習うのは、身内に巣食っている銃への恐怖心を克服するのが目的です。
筆者はその恐怖心を偶然に発見しました。それから20年ほど後に猟銃の扱い方を習得しました。
次に拳銃の操作を習い始めました。
稽古を始めたのは2019年の9月。射撃場に10回前後通ったところでコロナパンデミックがやってきました。
ほとんどの公共施設と同様に射撃場も閉鎖されました。2021年には条件付きで再開されましたが、全く訪ねる気になりませんでした。
2022年も同じ状況で過ごしました。
銃を殺傷目的の武器として扱うのではなく、自分の中の嫌な恐怖心をなくすための実習であり訓練です。それでも銃撃法を習うのは決して心おどる作業ではありません。
コロナ疲れもありましたが、稽古を再開するのは億劫でした。
先日、ようやく踏ん切りがついてほぼ3年ぶりに射撃場に行きました。
そこは世界的に有名なイタリアの銃器製造メーカー 「ベレッタ」の近くにあります。わが家からは車で30分足らずの距離です。
前述の如く、練習を再開してすぐにうれしい発見をしました。
てきぱきと銃を扱うところまではまだ行きませんが、それを手にすることを恐れない自分がいました。
予想外の成り行きでした。
危険防止の細心の注意をはらいながら、弾を込め、安全装置を解除して的に向けて射撃をする。
終わると銃口をしっかりと前方に向けたまま弾倉をはずし、再び弾を装てんし、両手と指を決められた仕方で慎重に組み合わせ、制動しつつ撃つ。
その繰り返しを心穏やかにできるようになっていました。
それは楽しいとさえ感じられました。
射撃がスポーツと捉えられる意味も初めて腑に落ちました。
恐怖心の克服が成ったいま、射撃練習を続ける意味はありません。が、せっかくなので目標に正確に撃ちこめるようになるまで続けようかとも考えています。
とはいうものの、習熟して射撃大会に参加するなどの気持ちにはなれません。
的確な銃撃のテクニックが役に立つことがあるとすれば、おそらくそれは家族と自分を守るために行動する時でしょう。
そんな日は永遠に来ないことを願いつつ、醜いが目覚ましいほど機能的な奇妙な道具を、とことんまで制圧してやろうと思います。
official site:なかそね則のイタリア通