SNS発信では、今何をしているかが重要であって、過去の出来事はあまり意味がない、と筆者は考えています。
SNSの面白さはSNSが出発点、というところにあります。
例えば筆者はFacebookでは、いただく友達申請のほかに、これはという投稿を見た場合はこちらからも迷わずに友達申請をします。その際には自分については「イタリア在住者です」とのみ名乗っています。
「今筆者が何を発信しているか」だけが重要だから、敢えて余計なことは書かないのです。
後はその方が筆者のタイムラインを見て、申請を受けるか否か判断する、と考えています。
過去や経歴を知らない人が、何か面白いこと、役に立つこと、印象深いこと等を書いているなら、それは本当に面白いこと、役に立つこと、印象深いことです。
片や執筆者の経歴を知っている場合は、特にその人が有名人だったりすると、経歴に引きずられてつまらない文章も輝いて見えたりします。
それではSNSを利用する意味がないと思います。
最近SNS上である人とやり取りをするうち、突然お前の生業はなんだ、と訊かれておどろきました。進行中の議論では生業は問題ではなく、お互いの「今の」考えのやり取りだけが重要だったからです。
それでも彼の言いを尊重して「私の生業はテレビドキュメンタリーと報道番組制作です」と返信しました。
するとすぐにまた「本当にTVドキュメンタリー制作者なら、お前の実績を教えろ。代表作はなんだ?会社名と作品を教えろ」とたたみかけてきました。
こちらの問いにはほとんど答えず、一方的に自説を繰り返すだけなので議論が成り立ちません。放っておこうとも思いましたが、またどうということもない経歴ですが、それまでのやり取りに免じて要望にこたえ経歴を送りました。
送ったあとで、まてよ、と考え直しました。
筆者は自分の経歴や生業については、個人ブログの中などで度々書いてきました。そのブログのタイトルも「【テレビ屋】なかそね則のイタリア通信」と、TVディレクターのブログであることを示唆する内容にしました。
読者は不特定ですが友人知己も多く、それらの皆さんは筆者の経歴については記事を読まなくても知っています。しかし交流サイトと言われるFacebookでは、友人知己を除けば筆者の経歴を全く知らない人がほとんどだと気づきました。
従って投稿を読んでくださるFB友のなかには、彼のように筆者の生業を気にする人もいるのではないか、と思い至りました。むしろその方が人情かもしれません。
そこで生業はなんだ?と訊いた相手に送ったものとほぼ同じ説明をここにも記しておくことにしました。
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MASANORI NAKASONE (仲宗根雅則) なかそね則
テレビディレクター(ドキュメンタリー&報道)
慶応義塾大学卒業 ロンドン国際映画学校卒業。
(職歴)
USケーブルTVディレクター(テレジャパン) 報道番組多数(日本にて)
NHK番組制作。NHKスペシャル、衛星放送報道番組&ドキュメンタリー、ほか報道番組取材多数、WOWOWほか民放番組取材多数。
1984年から2年間はニューヨークでアメリカ公共放送PBSの番組制作。
1989年―2010年番組制作プロダクション「ミラノピュー」代表。
以後フリーランス&自称ブロガー
(受賞歴)
1.ロンドン国際映画学校在学中に短編小説「新人賞」によって「小説新潮」月間新人賞・佳作入選。
2. 1986年、アメリカPBS放送のドキュメンタリー番組「のり子の場合」により「モニター賞」報道・ドキュメンタリー部門最優秀監督賞受賞。
3. 1996年制作のNHKドキュメンタリー番組「素晴らしき地球の旅~パリオ・中世の競馬~」によりNHK年間優秀番組賞受賞(衛星放送局長賞)。
(執筆歴)
「三田文学」(小説)、「トレンドセッター」「VACATION」「ウインド」「BURUTAS」その他の雑誌記事・連載・特集記事、新聞コラムなど。
WEB執筆:次のブログを管理・主催・執筆。
1.【テレビ屋】なかそね則のイタリア通信
2.ピアッツァの声
数年前までYahoo個人、アゴラ等、公のブログにも寄稿していました。?
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SNS発信は、言うまでもなく既存メディアのそれとは違います。筆者は既存メディアのうちテレビと紙媒体でプロとして仕事をしてきました。プロとしての仕事とは、制作費をいただいてテレビ番組を作り、取材をし、別の時間には新聞雑誌等に記事を書いたりもした、という意味です。肩書きはテレビのドキュメンタリーおよび報道番組ディレクターでする。新聞雑誌に書く記事また雑文などは、ディレクターとしての筆者の仕事があってはじめて発生した、と考えています。
箇条書きの履歴を少し説明しておきます。
ロンドンの映画学校で学んだ後は日本に帰国し、USケーブルネットワークの報道取材を多数こなしました。ケーブルテレビ全盛の頃で、若造だった筆者の企画も面白いように通りました。そのため多くの報道番組を作りました。ほぼ毎日ロケで日本全国を駆け回っていたような記憶があります。
その後、ニューヨークに来ないかという話があり渡米。アメリカでは主に公共放送・PBSの番組を作りました。Dick Cavettが全体のプレゼンターとナレーションを務めた「Faces of Japan」です。
13本シリーズのうち4本を筆者が監督し、残りの9本は数人の米国人監督が分担して撮りました。
筆者が作った4本のうち、シリーズの冒頭を飾った「The Story of Noriko」が国際モニター賞の報道・ドキュメンタリ部門監督賞を受賞しました。
その後イタリアに移住してNHKの衛星放送と地上波ドキュメンタリーでも仕事をしました。NHKとつながりができたのは、ニューヨークで受賞したことがきっかけでした。
NHK衛星放送は黎明期でもあり、そこではUSケーブルネットワーク 時代と同じように筆者の企画も良く採用され、パリ局とロンドン局を介して多くの番組を作り、取材もしました。
民放の仕事ではTBSほかの地上波を少々とWOWOWに多く関わりました。
NHK衛星放送とWOWOWでは、それまで全く知らなかったファッション番組とサッカーの衛星生中継もこなしました。貴重な体験になりました。
ミラノにささやかな番組制作プロダクションを開いてからは、スタッフを雇いNHKほかのコーディネーションの仕事も多く受けました。
報道とSNSに関する筆者の基本的な考えは
に記されています。
また仕事に絡まるブログ記事は:
等を参照していただければと思います。
official site:なかそね則のイタリア通信