多様性という名のカオス

イタリアが5月4日、新型コロナウイルス感染拡大を抑え込むために導入しているロックダウンの一部を解消してからはじめての週末がきました。

イタリアでは一日当たりの新規感染者数も、累計の感染者数も共に減少し、逆にcovid-19からの回復者の数は増え続けています。

また死者数も減少しています。それでも5月4日以降、昨日までの一日当たりの死亡者数は:
4日195人 5日236人 6日369人 7日274人 8日243人、と依然として多い。総計も30201人となりました。

死者数がすでにイタリアを上回り、感染者数の合計が明日にもイタリアを超えそうなイギリス、またそのどちらの数字も世界最悪のアメリカに比べれば増しかもしれません。が、例えば日本に比較すれば、イタリアは相変わらず地獄の様相を呈しています。

しかしあらゆる数字が状況の改善を示唆してはいます。1人の感染者がウイルスを何人にうつすかを示す基本再生産数 も1を下回っています。イタリアの死者数が多いのはこれまでに感染し重症化した人が亡くなり続けているからです。

それらの事情を踏まえてイタリア政府は5月4日、ほぼ2ヶ月に渡った過酷なロックダウンを「一部解除」しました。ところが多くの地域で人々があたかも「全面解除」のような動きに出て問題になっています。

イタリアの感染爆心地、北部ロンバルディア州ミラノで5月7日、若者を中心とする人々がおしゃれなナヴィリオ地区にどっと繰り出しました。彼らはマスク着用や対人距離の確保の義務などを無視して思い思いに集いました。

感染予防を全く気にしないそれらの人々への非難が殺到し、ミラノ市長は「恥知らずな行為」とまで罵倒して、再び同じことが起こるなら即座にナヴィリオ地区を封鎖する、と宣言しました。

ところが同様な光景はイタリア中に展開されて、感染拡大への懸念が募っています。特に感染者の少ない南部の主要都市で、ミラノにも勝る人数の人々が密集しマスクも外して談笑する様子が多く見られました。

この週末に感染拡大があってもそれはすぐには表面化しません。結果が明らかになるのは来週以降です。そこでCovid19関連の数字が悪化すれば、政府や地方自治体は規制を強化する可能性が高い。

しかし数字に変化が見られなければ、当局が厳しい動きに出るのは困難になり、人々の開放感はますます募って感染予防策がおろそかになることでしょう。

イタリアのコロナ禍は世界のそれと同じように全く終わってなどいません。行過ぎた規制緩和や人々の安易な行動は、将来大きな災いを呼び込む危険性が高い。

多様性を重視するイタリア社会は平時においては極めて美しく頼もしくさえありますが、人々の心がひとつにならなければならない非常時には、大きな弱点になる可能性もあります。

今この時がまさにそうです。


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ロックダウンに便乗する“ままごと”

以前の記事に

“手始めに、次のエントリーあたりでイタリア全土が封鎖された中での具体的な生活の様子を書いてみようと思う。イタリアの切羽詰った状況が日本に飛び火するようなことがあれば、もしかすると、このブログを読んでくれている日本の読者の皆さんの役に立つかも知れないから云々”



書いたものの、中々すぐには行動できずに来ました。他のテーマで書くべきことが多すぎたからです。また筆者は3月の初旬からほぼ完全に自宅籠りの生活を送っていて、これといって特別な要素もない、ということにも気づきました。

加えて、北部イタリア・ロンバルディア州の片田舎にある筆者の住まいには、周辺の家のほとんどがそうであるように庭があり、おかげで開放感があります。さらにそこは古い落ちぶれ貴族の邸宅だった場所で、床面積が広い。普段はひどく持て余している無駄な空間や不便な造りが、巣ごもりの生活では息抜きさえもたらす要素になっています。

そんな場所での隔離生活なので、特殊なケースであり、従ってその内容を書いてもあまり役に立つ情報にはならない、という疑念がありました。しかし、強制的な外出禁止がいかなるものであるかの「一例」として、書いておくのも悪くない、と思い直しました。また5月4日から始まるロックダウンの段階的解除がうまくいけば、隔離生活の記憶も薄れていくだろうから今がチャンス、とも考えました。

「自宅監禁」と呼んでもかまわない厳しい外出制限が真に苦痛になるのは、多くの場合おそらく都会生活者においてです。特に庭やバルコニーのない狭いアパートやマンションに住む、且つ子供のある家族にとっては極度の苦悶に違いない。またイタリアの場合は、一戸当たりの面積が欧州の中では狭い部類に入ります。かつてウサギ小屋と揶揄された日本ほどではないにしても、家族全員が長期間閉じこもるには厳しい環境です。

苛烈な外出制限や移動規制に象徴される隔離封鎖、あるいはロックダウンが敷かれている日常は、敢えて表現すれば「自由な監獄」です。数は少ないが営業を許されている仕事や病気など、れっきとした理由があれば外出はできます。食料の買出しも可能です。散歩や運動も自宅内や敷地、また集合住宅の中庭などでならできないことはない。牢屋のようだが少しの自由はあるので「自由な監獄」、と。

筆者の家族の場合は、庭を歩いたり屋内で少し動きはするものの、自主隔離とロックダウン期を加えたほぼ2ヶ月間、一歩も家の外に出ていません。食料の買出しにさえ出ない。普段から食料の備蓄が少しあることと、外出自粛(法令による禁止ではなく)が奨励されていた時期に、割と多目の食料や必需品を買い集めているからです。

自主的に自宅待機を始める1週間ほど前から、筆者は家族と共に少しづつ食料の買い置きを始めました。加工牛乳にはじまるロングライフ食材を買い求め、肉類も多く冷凍庫に備蓄しました。自宅待機を始めてからも同じ動きをしました。筆者は長い自宅隔離を意識して、呆れる妻を無視しては、ビールやワインも大量に買い込みました。街に出て日本酒までも仕入れました。

わが家は田園地帯にあって買出しには常に車が必要なこともあり、もともと食料を多めに備蓄する習慣があります。それに加えて、友人らを招いて庭でバーベキューをしたり飲み会や食事会などをすることも多い。それに備えての食材の買い置きもごく普通の行動パターンです。元々飲食品の蓄えが多いところに、ロックダウンを意識しての買いだめも進めました。おかげで2ヶ月も閉じこもった今でも、なおかつ食料や飲み物の余裕があります。

それでも野菜や果物などの生鮮品は今日までに3度配達してもらいました。住まいのある村のスーパーや食料品店など、営業を許されている生活必需品店は、頼めば宅配サービスをしてくれるのです。そのこと自体は便利なのですが、実はそこには自ら店に出向いて食材を買う時とは違う不安があります。

店で買い物をするときは、自分の手で商品に触り、仕分けをし、自分で全てを制御します。が、配達の場合は品物の接触も運搬も何もかも全て他人任せです。従って荷物の受け渡しの際や、あるいは荷物そのものにさえ、スーパーの人混みの中と同様にウイルス感染の可能性があるのではないか、と不安を覚えたりしないでもないのです。

筆者は一歩も外出をせずに 読書三昧 の暮らしをしています。 その合間に 執筆をし、料理をして食べ、風呂やシャワーを使い、WEBを巡り、少しだけ妻のおしゃべりに付き合い、日伊英3ヶ国語のニュースを見、読み、聞き、最後にRAI(イタリアのNHK)の夜のニュースをじっくり見ながらワインやビールを飲む、という暮らしを続けています。それは退屈どころか、読書用に1日当たりあと数時間は余計に時間がほしい、とさえ思う日々です。

繰り返しになりますがイタリアは5月4日、ロックダウンの一部を解除します。それに伴い、先ず製造業や建設業などで約450万人の勤め人が仕事に復帰します。段階的解除については賛否両論が渦巻いています。営業再開が遅れる美容業界などは激しく反発。すると即座にそれらの動きに便乗する政治家などが騒がしく声を上げ始めました。また感染者が少ない南部カラブリア州は、6月1日からの営業開始、と国が決めたレストランやカフェなどの飲食店の営業を、5月4日から許可する、と宣言して物議をかもしたりもしています。

急展開を主張するのは少数派です。国民の多くは、ここまでの新型コロナの脅威を恐れて、慎重な解除を望んでいます。だがそこは悩ましい状況です。良く言えば陽気でカラフルな多様性が目覚ましい国、イタリア。悪く言えばジコチューでまとまりのない人々がひしめく国、イタリアです。異を唱え「わが道を行く」と叫んで譲らない者には事欠きません。

新型コロナウイルス以前も不調だったイタリア経済は、2月以来のウイルスとの過酷な戦いによって大きなダメージを受けました。Covid-19にまつわる多くの数字が感染の沈静化を示唆している今、過酷なロックダウンを徐々に緩和して経済を動かし、「自宅待機疲れ」がピークに達している人々のストレスを軽減するのは必要不可欠なことです。だがそれには飽くまでも、「感染拡大がぶり返した場合には即座にロックダウンに移行する」というコンテ首相の宣言が、担保として付いてまわることを願いたいと思います。




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新型コロナのせいで書きそびれている事ども

2月初め以来、新型コロナウイルスにまつわる話ばかりを書いてきました。なにしろ突然にイタリアが世界最悪のCovid19跋扈地となり、中でも筆者の住まう村を含む北部ロンバルディア州が、正真正銘の感染爆心地となりました。身の危険も感じつつそのことについて書き続けてきました。

イタリアは相変わらず苦境の中にいます。日本は「日本式のロックダウン」つまり緊急事態宣言の延長を決めました。新型コロナウイルスはそれ自体のおぞましさはさて置いて、良い意味でも悪い意味でもあらためて欧州と日本の根本的な違いにも気づかせてくれました。それを実感できるのは外国に住まう者の特権、というふうにも思います。

古来、祖国を出て外国をさまよう者には根無し草の悲哀というものが付きまとうものですが、筆者の中にはそういう気分が全く生まれませんでした。それは生活や境遇や生業などが原因で「無理やり」国を出なければならなかった人々と違って、筆者が「すき好んで」外国に出奔した人間だからでしょう。しかも英国、米国、ここイタリアと移り住みました。その間には多くの国々も訪れました。

悲哀など感じる暇はありませんでした。今後もさらに多くの国や地域を旅するつもりでいたところに、新型コロナウイルスの惨禍がやってきました。人生はげに何があるかわかりません。新型コロナはむろん憎むべき変災ですが、それには人間の驕りへの懲罰、という意味合いが込められているようにも感じます。人間はコロナ禍を機に少しは謙虚になっていくのかもしれません。

そうなれば人類も捨てたものではない。世界中でたくさんの人がバタバタ倒れている今はまだ少し早く、敢えて口にすれば不謹慎のそしりを免れない、と感じつつもあえて言葉を選ばずに書いておきます。つまり、もしも新型コロナウイルスのおかげで人間が「自然や和平や科学や道理の前に恭謙な存在」になるのなら、コロナ禍もまた悪くはないのかもしれない、と。

月9ドラマ「監察医 朝顔」

民放のドラマは欧州では多くの場合、数ヶ月~半年ほどの遅れで放映されます。監察医の主人公と刑事の父親と夫に絡めて、東日本大震災で行方不明になった母親と、彼らが仕事で関わる「遺体」を輻輳させ深化させる手法のこのドラマも同じ。イタリアが新型コロナウイルス感染爆発の地獄に陥る直前に最終回が放映されました。

途中の回では、行き倒れた老人と息子が意味深な親子関係だったらしいことを匂わせるエピソードを挿入しながら、結局ふたりの間の壮絶な(?)ドラマは描かれませんでした。それはシリーズのまたドラマ構成上のあきらかな破綻です。

「そこにある銃は発砲されなければならない」とするいわゆるチェーホフの銃は、ドラマ作りにおけるプロットの重要性を説く理論で、劇中に提示されるあらゆるものには意味がある、という本則を伏線のあり方にからめて語っています。言葉を変えれば「劇中に余計な要素を入れてはならない」ということ。「監察医 朝顔」の死んだ老人と息子のエピソードがまさにそれです。

突然提示された行き倒れの老人と息子のエピソードは、そこに披露された以上必ずストーリーが展開され深化されて全体の中の必然にならなければならない。ところが一切そういうことは起きず、エピソードは無意味にそこに投げ出されて無意味に消えるのです。

最終回では津波に流された母親の死のトラウマを克服する朝顔が描かれます。それはいいのですが、夫の桑原があるいは事故で死ぬのか?と視聴者の気をひきつける展開を示唆しておきながら、何もなかったという安易なドラマ作りになっています。それもまた行き倒れの父親と息子の挿話と同じ粗略さでつまらない。

もう一つ重要な瑕疵に見えるコンテンツを指摘しておこうと思います。

朝顔の監察チームは、それぞれが医学のエキスパートですが、ドラマで重要な役割を負っている「死体」を常に「ご遺体」と呼びます。筆者はそこにも強い違和感を覚えました。実際の監察医たちもそうなのでしょうか?死体を遺体と呼ぶのは、亡くなった人への尊称です。

「ご遺体」と呼ぶのはもっと真摯な言葉です。特に日本には死者を貶めないという風習があります。悪人でも亡くなってしまえば仏であり敬意の対象です。ほとんどの日本人はそれを肯定的にとらえます。だが死体を解剖して死の謎を解明する監察医は科学者です。科学者は、科学する対象に対しては余計な感情移入をしないほうがいい。してはならない。それでなければ冷静な分析や考察や解析が雲る可能性があります。

「ご遺体」という言葉は、ドラマを観ている視聴者の心情に配慮してのフィクションだと思いますが、余計な忖度です。もしも実際の監察医たちが、遺骸を常に「ご遺体」と呼んでいるようなら、筆者はもっとさらに違和感を覚えます。行過ぎた礼はマナーではなく、慇懃無礼という不実です。


壇蜜のイスタンブール

壇蜜がトルコのイスタンブールを旅する紀行ドキュメンタリー『壇蜜 生と死の坩堝』 。壇蜜というタレントはとても興味深い。女性的という意味でもそうですが、知性的にもなにかがある、と感じさせます。彼女が遺体衛生保全士であったり葬儀の仕事をしていた体験などが、艶っぽい外観と不思議に調和している気配があって面白いのです。

街の雰囲気も彼女の自然体の紀行報告も悪くありませんでした。筆者も知っているイスタンブールの街が別の印象になって提示されていました。ベリーダンサーとの交流シーンでは、ひたすら性的なだけと見られがちなベリーダンスが、激しい体の動きによって人を楽しませることが主眼のショーだと訴えます。

ベリーダンスの衣装に着替えて体当たりで取材をする壇蜜と、若く美しく且つ小さな子供の母親でもあるダンサーの言動に説得力があって、ベリーダンスへの見方が変わること請け合いのシークエンスになっていたように思います。

タイトルの「生と死の坩堝」にからむエピソードでは、しかし、イスラム教を特別視する姿勢が強すぎて違和感も覚えました。葬儀を取材したものですが、死者の親族の叔父が「死は終わりではなく、始まり」と語ったあとに、壇蜜が「死者に行かないでとすがる気持ちよりも、“逝くなら見送らなくちゃ”という気持ちのほうが強いように思う」と語るシーンは嘘っぽい。

彼らはわれわれ日本人と全く同じように死を悼み、恐れ、愛する者をなくした苦しみの中で、「行かないで!」と懇願しながらそこに立ち尽くしているだけです。それ以下でもそれ以上でもない。イスラム教徒だけが、あるいはイスラム教の教義だけが、その普遍的な心情とは違う思想や哲学を宿している、と示唆するのは偏見や差別の温床になる可能性さえ秘めた危険な見方です。


食の起源

NHKスペシャルの「食の起源」は、テーマも情報も眼目も構成もいいのに、TOKIOというあまり必要とは思えないナビゲーターを置いたおかげで、違和感のある仕上がりになりました。

TOKIOのファンにはうれしい仕掛けなのでしょうが、この手の番組にはナビゲーターやレポーターは不似合いです。これは決してTOKIOが悪いという意味ではなく、ドキュメント内容以外の要素はNGという意味です。

ご飯(米)、塩、脂、酒、、美食、と取り上げられた素材を見るだけでも心躍るような構成。だが、せっかくの知的好奇心を満たす要素に、TOKIOのほとんど中身のないコメントや空騒ぎが織り込まれて、全てを台無しにしていると感じました。

タレントを使って視聴率を上げる腹積もりは分かりますが、番組の質が落ちるばかりで感心しない。せめて彼らの喋りの中に新たな情報が含まれていればまだ我慢もできますが、文字通りのダベリ一色。むろんそれはディレクターを始めとする制作サイドの不手際です。出演者は台本に沿って喋っています。

知的なテーマや、内容の濃い「構成もの」の質が悪い時に、タレントを添えてゲタをはかせるのは、民放の番組の十八番です。NHKは民放的「殷賑依存症」の番組作りをするようならあまり存在意義はありません。それならば民放になれ、と言われても返す言葉がなくなるのではないでしょうか。

大相撲3月場所

史上初の無観客での興行。白鵬が、もはや優勝回数を数えるのさえつまらないほどの回数で、また優勝。場所後に朝乃山が大関昇進を果たしました。だが、最近は栃ノ心、高安、豪栄道など、大関から陥落する力士が相次いでいて、申し訳ないが朝乃山にもあまり期待する気が起こりません。大関というのは昔はもっとずっと強かったようなイメージがありますが、それは子供時分の筆者の錯覚だったのかもしれません。

観客のいない取り組みは初めのころこそ違和感がありました。だが筆者は割合と早い段階で慣れました。それは土俵上の申し合いが真剣勝負であるのがよくわかったからです。若いころに、元大関貴乃花の藤島部屋で真剣勝負のぶつかり稽古を見たことが、筆者の大相撲への信頼の強い土台になっています。

大相撲に八百長があったのは事実でしょうが、筆者はそれが世論の猛烈な指弾に遭って矯正されたと信じています。なぜならテレビ画面から伝わってくるのは、筆者が学生時代に間近で感じた力士たちの真剣で厳しい息遣いと、緊張と裂ぱくの気合が激突するガチンコの凄みと同じ空気だったからです。

だからといって大相撲を無観客で見続けたいとは思いません。大相撲の醍醐味はやはり、多くのファンの声援が飛ぶ会場での取り組みにこそある、と強く感じます。

新外来語の威力

筆者が知る限り、日本語にはつい最近まで、疫学で「小規模の感染者集団」をあらわすクラスターという言葉はありませんでした。少なくとも「日常日本語」には見られなかった。それは新型コロナウイルス感染症対策に関する政府の専門家会議が初めに使って、たちまち一般化したものです。

日本の専門家たちには知見が不足していた。そこで英語を持ち出して概念を表現しました。お上のその決定を従順な大衆が受け入れました。地域封鎖や隔離や移動禁止などが合わさった「ロックダウン」、爆発的な感染流行を示すとされる「オーバーシュート」という英語由来の外来語も全く同じです。

筆者はそういう日本社会の大勢順応・迎合主義、つまり何事につけ主体的な意見を持たず「赤信号、皆で渡れば怖くない」とばかりに大勢の後ろに回って、これに付き従う者や風潮や精神に強い違和感を覚える者です。従って文章を書く際には、それらの言葉を極力用いない、と抵抗を試みました。

ところが三つの言葉は、“即座に”という形容が過言ではないほどの速さで一般化しました。感染者集団や隔離封鎖また感染爆発などという日本語よりも、伝達が早くコンセプトもよく理解されます。そこで今では筆者も、締まらない話ながら、そうした言葉をひんぱんに使うようになってしまいました。

それは悪く言えば日本人の節操の無さ、良く言えば日本語ひいては日本文化の柔軟な精神を端的にあらわしている、というふうにも見えてとても面白いとも感じます。



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石橋をたたき、またたたいては渡る

新型コロナ感染拡大を防ぐために欧州で最も厳しく且つ最も長くロックダウンをしてきたイタリアは、5月4日から段階的に封鎖を解除していくことになりました。

全土に渡るイタリアのロックダウンは3月10日に始まりました。国民は自宅待機を命ぜられ、医療とライフラインに必要な仕事以外の経済活動は全て禁止されました。

累計およそ19万8千人の感染者と、2万7千人の死者が出たあとの4月26日、イタリアの1日あたりのCovid19死者数は、3月14日以来もっとも少ない260人となりました。

ロックダウンの段階的解除はそのタイミングで発表されましたが、1日あたりの新たな感染者数や集中医療室患者も減少し、逆に治癒した患者の数は増えています。それらの事実が規制緩和の決め手となりました。

段階的解除の主な内容は:

5月4日の月曜日から製造業や卸売業及び建設業の再開を認める。人々の運動のための外出、公園への出入り、少人数で且つマスクを着けての親族との面会も許可する。

一方、許可のない人々の州境をまたいでの往来は、5月4日以降も継続して禁止。また学校も引き続き9月までは休校とする。

厳禁だった葬儀も、5月4日からは参列者15人までで、且つできる限り屋外で開くことを条件に認める。またスポーツ選手は個人での練習を再開できるが、団体での活動は5月18日まで待つこととする。

プロサッカーリーグ、セリエAの再開は、無観客での試合開催の可能性を含め、今後の検討事項とする。

レストランは、5月4日から客が店に立ち寄ってのテイクアウトの営業も認める。ただし料理は自宅で消費されなければならない(ロックダウン中はレストランは料理の宅配サービスのみ許されていました)。

5月18日からは商店など小売業の営業、美術館、博物館、図書館などの開館が許可される。またその2週間後の6月1日からは美容院やレストラン、カフェ、バールなどの飲食店も全面解禁とする。

イタリアは2月22日、北部ロンバルディア州での感染爆発を受けて同州の一部地域の隔離・封鎖を閣議決定しました。3月9日にはさらなる感染拡大を受けてロックダウン措置を同州の全域に拡大。それでも感染が爆発的に増え続けたため、3月12日には全土封鎖に踏み切りました。

それは医療と食料とライフライン従事者以外の国民を、それぞれの自宅に押し込める前代未聞の厳しいロックダウンでした。地域限定の最初のロックダウンから2ヶ月余り。イタリアの施策は効を奏して、未だに死者は多いものの感染拡大の勢いは収まりつつあります。

言うまでもなくワクチンや治療法が開発されるまではまったく予断を許しません。しかしイタリアは、ロックダウンによって瀕死の重体に陥っている経済を稼動させなければ、イタリア共和国そのものが崩壊しかねない瀬戸際に立たされました。

それを受けて段階的な封鎖の解除を決定しました。全ての規制緩和は感染状況によって柔軟に変更されます。また感染が再び拡大した場合には、イタリア政府は即座にロックダウンを再導入する腹積もりです。

イタリアの動きはイギリスを除く欧州主要国と近辺の国々にも波及しようとしています。

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コロナ地獄に咲く花

新聞に次の趣旨の短いコラムを書きました。

 

 

コロナ地獄に咲く花

欧州最大のCovid-19被害国であるイタリアは現在も苦境のまっただ中にいる。死者数、感染者数を始めとするさまざまな数字がイタリアの窮状を示しているが、中でもすさまじいのが医療現場の医師の殉職数。4月26日現在、150人にものぼる。

感染爆発によって医療機器が不足し、医師の防護服どころかマスクや手袋さえも不足する事態が続いた。現在は落ち着きつつあるが、それでも一日平均1~2人の医師が新型コロナ感染症で亡くなっている。

イタリアの感染爆心地である北部ロンバルディア州は、医療崩壊に陥ったほぼ一ヶ月前、300人の退職医師のボランティアを緊急募集した。するとすぐに募集人員の25倍以上にあたる約8000人の引退医師が名乗りを挙げた。年老いた彼らは平穏な年金生活を捨てて、高齢者を襲うことが多いCovid-19の医療の現場に、むろん危険を百も承知で敢然と立ち戻っていった。

イタリア最大の産業はボランティア、という箴言がある。イタリア国民はボランティア活動に熱心だ。猫も杓子もという感じで、せっせと社会奉仕活動にいそしむ。彼ら善男善女の無償行為を賃金に換算すれば、莫大な額になる。まさにイタリア最大の産業である。

ボランティア精神はCovid-19恐慌の中でも自在に発揮されている。救急車の運転手ほかの救命隊員や、市民保護局付けのおびただしい数の救難・救護ボランティア、困窮家庭への物資配達や救援、介護ボランティアなども大活躍している。8000人もの老医師が、ウイルスとの戦いの前線に行く、と果敢に決意する心のあり方も根っこは同じだ。

それらのエピソードが示しているイタリア人の博愛と寛容と勇気と忍耐の精神の強さに、僕はあらためて深い感動を覚えずにはいられない。

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ロックダウンにも雪と墨がある~イタリア開放記念日に寄せて

新型コロナウイルスによる イタリアの死者が2万5千969人、 米国のそれが5万890人にのぼった4月25日は 「解放記念日」と呼ばれるイタリアの終戦記念日です。イタリアの終戦はナチスドイツからの解放でもありました。だから終戦ではなく「解放」記念日なのです。

日独伊三国同盟で結ばれていたドイツとイタリアは、大戦中の1943年に仲たがいが決定的になりました。同年7月25日にはクーデターでヒトラーの朋友ムッソリーニが失脚して、イタリア単独での連合国側との休戦や講和が模索されました。

しかし9月には幽閉されていたムッソリーニをドイツ軍が救出し、彼を首班とする傀儡政権「イタリア社会共和国」をナチスが北イタリアに成立させて、第2のイタリアファシズム政権として戦闘をつづけさせました。

それに対して同年10月3日、南部に後退していたイタリア王国はドイツに宣戦布告。以後イタリアではドイツの支配下にあった北部と南部の間で激しい内戦が展開されました。そこで活躍したのがパルチザンと呼ばれるイタリアのレジスタンス運動です。

レジスタンスといえば、第2次大戦下のフランスでの、反独・反全体主義運動がよく知られていますが、イタリアにおいては開戦当初からムッソリーニのファシズム政権へのレジスタンス運動が起こり、それは後には激しい反独運動を巻き込んで拡大しました。

ファシスト傀儡政権とそれを操るナチスドイツへの民衆の抵抗運動は、1943年から2年後の終戦まで激化の一途をたどり、それに伴ってナチスドイツによるイタリア国民への弾圧も加速していきました。

だがナチスドイツは連合軍の進攻もあってイタリアでも徐々に落魄していきます。大戦末期の1945年4月21日には、パルチザンの要衝だったボローニャ市がドイツ軍から解放され、23日にはジェノバからもナチスが追放されました。

そして4月25日、ついに全国レジスタンス運動の本拠地だったミラノが解放され、工業都市の象徴であるトリノからもナチスドイツ軍が駆逐されました。

その3日後にはナチスに操られて民衆を弾圧してきたムッソリーニが射殺され、遺体は彼の生存説の横行を避けるために、ミラノのロレート広場でさらしものにされました。

同年6月2日、国民投票によってイタリア共和国の成立が承認され、1947年には憲法が成立しました。新生イタリア共和国は1949年、4月25日をイタリア解放またレジスタンス(パルチザン)運動の勝利を記念する日と定めました。

イタリアは日独と歩調を合わせて第2次世界大戦を戦いましたが、途中で状況が変わってナチスドイツに立ち向かう勢力になりました。言葉を替えればイタリアは、開戦後しばらくはナチスと同じ穴のムジナでしたが、途中でナチスの圧迫に苦しむ被害者になっていったのです。

日独伊三国同盟で破綻したイタリアが日独と違ったのは、民衆が蜂起してファシズムを倒したことです。それは決して偶然ではありません。ローマ帝国を有し、その崩壊後は都市国家ごとの多様性を重視してきたイタリアの「民主主義」が勝利したのです。むろんそこには連合軍の巨大な後押しもありました。

イタリア共和国の最大最良の特徴は「多様性」です。多様性は時には「混乱」や「不安定」と表裏一体のコンセプトです。イタリアが第2次大戦中一貫して混乱の様相を呈しながらも、民衆の蜂起によってファシズムとナチズムを放逐したのはすばらしい歴史です。

それから75年後の今、イタリアは民主主義世界の先頭に立って、新型コロナウイルスとの戦いを繰り広げています。それに先立って一党独裁国家の中国は、邪魔な国民を排除-あるいはもしかすると抹殺さえして-都合の悪い情報を隠蔽し、思い通りに民衆を圧迫する方法でウイルスと対峙しました。

自由主義世界に属する民主主義国家のイタリアは、国民との対話を続け、情報を徹底開示し、国民の協力を得つつ都市封鎖を実践して、どうやら感染封じ込めに成功しつつあります。イタリアの成功はスペイン、フランスにも波及し、今日現在は厳しい状況にあるものの、イギリスやアメリカも間もなく追いつくことでしょう。

もともと症状の軽いドイツをはじめとする北欧諸国は、イタリアよりも明確な形で現われた封じ込めの効果を逃さず、ロックダウンを緩和してさらに先に進もうとしています。日本も感染爆発や医療崩壊をうまく回避できれば、経済をはじめとする全てが速やかに復調していくはずです。

イタリアの終戦は先に触れたようにナチズムからの解放でした。同時にそれはナチズムと強く結託していたファシズムを打倒した瞬間でもありました。ナチズムやファシズムは、民衆への圧制や虐待や弾圧によって即座に全土を封鎖分断して、新型コロナウイルスでさえも思いのままに封じ込めることでしょう。一党独裁国家・中国が武漢でやったように。

ナチズムやファシズム、また日本軍国主義や一党独裁体制の下では、人民は虫けらと同じです。だから人々を思いのままに縛り上げ抑圧し抹殺して、都市封鎖でも何でも自在に断行しウイルスの封じ込めができます。だが民主主義国家ではそれはできません。そうしてはならないのです。

民主主義国の政府は国民と対話し、情報開示を完遂しながら国民の自由意志と権利を死守します。その上で必要ならば「自らの責任」においてロックダウンのような苛烈な規制を国民に課します。時には「自主規制」と称して責任を国民に押し付ける日本式歪形ロックダウンも出現しますが、それとて独裁方式よりはましです。

民主主義国家でも規制はかけますが、それは例えば中国が武漢でやったような有無を言わせずに人民を力で抑え込むものではなく、法の支配の原則に基づく民主的な方策です。罰則もかけますが、それらも全て民主主義の手続きを経て国民との合意に基づいて科されるものです。

独裁国家や専制体制の国々が、強権を用いて人々を圧迫し、よってウイルスの感染も阻止する様を見て、独裁や専制も悪くないと考える者が必ずいます。だがそれは間違っています。世界はナチズムやファシズム、また軍国主義や独裁や専制による辛酸をさんざん味わい苦しんだ後に、これを打倒して今の民主主義と開明と自由を獲得ました。

われわれはその開かれた仕組みによってパンデミックを克服し、例えば一党独裁国家中国よりも優れた体制の下にあることを証明しなければなりません。それでなければ世界は、第二次大戦前までと同じ暴虐と抑圧と恐怖が支配する、暗黒の大地に逆戻りするかもしれない危険を呼び込む可能性があります。

中国におけるパンデミックは、警察国家としての同国の性格をより強化するのに役立った、という論考があります。それは恐らく正しい。全ての民主主義国家は、繰り返しになりますが、中国とは対極にある開明と自由を基にパンデミックを克服するべきです。例えば75年前の4月25日、イタリアがナチズムとファシズムを放逐して自由を獲得したように。




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転生なるかイタリア

イタリアの新型コロナ感染者の実数が、パンデミック開始以来はじめてマイナスに転じました。感染者の実数とは、累計の総感染者数から死者数と治癒者数を差し引いたものです。

2020年4月20日時点の感染者実数は108237。前日の数字は108257。前日比20人減です。これまでの地獄絵を思えばこれは画期的な数字であり出来事です。

死者数は454。もちろんむごたらしい数字ですが、多いときには連日800人前後が亡くなり死者の総計が2万5千人にも迫ろうとするイタリアの現実では、これもまた朗報です。

治癒した患者数は増え、集中医療室の患者数は減っています。いずれも確実なトレンドらしくなってきました。新規感染者の減少傾向が確実になれば、Covid-19禍が一旦収束する道が見えてきたと考えてもいいでしょう。

言うまでもなく、治療法が見つかりワクチンが開発されるまでは全く安心はできません。それでも病気の勢いが弱くなる様子を見て、全土の封鎖・ロックダウンを緩和しようという動きも出てきました。

イタリアの経済は破壊され、生活困窮者が溢れ、学校閉鎖による子供と親のストレスは膨張し、不幸が国中を覆って文化社会生活はズタズタになっています。

だがそれらの苦難は、新型コロナウイルスの撃滅のために避けては通れない犠牲でした。いや、過去形ではなく難儀な生活は今も続き、今後もおそらく続きます。地獄を経験したイタリア国民はそのことにもまた勘づいています。

それでも、いやそれだからこそ、ロックダウンの期限が一旦切れる5月3日を境に、規制を一部緩めようという考えが出てきました。絶えず最大級の警戒を続けながら徐々に束縛を解くのは、おそらく必要なことです。

それでなければ、苛烈なロックダウン策で死にかけているイタリアの経済が、正真正銘の死を迎えかねません。今の世の中ではイタリアの国家経済の死とは、イタリア共和国そのものの完全消滅と同義語です。

不運は往々にして幸運とセットになっています。イタリアはこの危機のおかげで、自らに難局を乗り切る才幹があることを再確認しました。ふいに世界最悪のCovid-19被害地に陥りながら、不屈の精神と勇気と連帯で絶望の淵から立ち上がりかけています。

国民は当初、事の重大さがなかなか理解できずに移動禁止令を無視して出歩いたり、集会や宴会やイベントを催したり、井戸端会議やカフェでの語らいやバーやレストランでの集いまた歓楽を諦めようとはしませんでした。

だが彼らは、急速に厳重なロックダウンの必要性を認識しました。言葉を替えれば、Covid-19の毒牙が人々を容赦なく恐怖のどん底に突き落としたのです。人々は戸惑いつつも全土封鎖の辛苦を受け入れ始めました。

国の規制や禁止や抑圧に激しく反発する自由奔放な人々が、移動の禁止を受け入れ、外出を控え、自宅待機の訳合いを十分以上に理解してじっと耐えるようになったのです。

人々は家に籠もって、連日連夜展開されるCovid-19と医療現場の戦士たちの壮絶な戦いを、テレビ画面で目の当たりにしました。戦士は医師であり看護師であり病院のライフラインを支える技師であり清掃員などの末端の労働者です。

壮絶な戦いの中で、4月20日現在138名の医師がCovid-19の毒牙にかかって斃れ、30名余りの看護師が殉職しました。またパンデミックの最初からイタリア全国で休みなく働き続けている薬剤師の中からも多くの犠牲者が出ています。

医療崩壊がもっとも凄まじかったロンバルディア州が、300人の退職医師のボランティアを緊急募集した際には、アナウンスから24時間以内に定員の25倍以上にあたる8000人もの引退医師が名乗りを上げました。

年老いた彼らは安穏な年金生活を捨てて、高齢者を襲うことが多い新型コロナウイルスが猛威を振るう医療の現場に、むろん危険を百も承知で敢然と立ち戻っていきました。

それだけに限りません。救急車の運転手ほかの救難隊員や、市民保護局付けのおびただしい数の救命・救護ボランティア、困窮家庭への物資配達や救援・救助また介護ボランティアなども大活躍し今も活躍しています。

イタリア最大の産業はボランティア、という箴言があります。イタリア国民はボランティア活動に熱心です。猫も杓子もという感じで、せっせとボランティア活動にいそしみます。博愛や慈善活動を奨励するローマ・カトリック教会の存在も大きいのでしょう。奉仕活動をする善男善女の仕事を賃金に換算すれば、莫大な額になります。まさにイタリア最大の産業です。

ボランティア精神はCovid-19恐慌の中でも自在に発揮されています。普段からボランティア活動に一生懸命な人々は、感染のリスクを恐れながらも人助けに動かずにはいられない。8000人もの老医師が、ウイルスとの戦いの前線に行く、と果敢に決意する心のあり方も根っこは同じです。

イタリアに居を定めている外国人の筆者は、それらのエピソードが如実に示しているイタリア人の博愛の精神の強さと、寛容と忍耐と優しい心の強靭に、あらためて目をみはらずにはいられません。そうやってかねてから強いこの国への筆者の愛着と、敬愛と、歓喜はもっとさらに深まり強度を増しています。

あとは今のところは、故国日本のコロナ禍の状況が、厳しい中でもイタリアほかの欧州各国またアメリカのような感染爆発に至ることなく、何とか地獄絵の世界を避ける方向に推移して行ってくれれば言うことはありません。そうなることを心から祈るばかりです。

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似て非なる日本とスウェーデンの未来は同じ?

Covid-19対策で厳しいロックダウンを敷く欧州各国や、アメリカ、インド、イランなどとは一線を画して、国民を縛らないゆるい施策を取るスウェーデンと日本を、同列に見る日本人が少なからずいるようです。

だがそれは大きな心得違いです。スウェーデンと日本は今のところは、厳しいロックダウン策を取っていないという意味で、偶然にも確かに似ていなくもない。しかしその中身は全く別物です。

スウェーデンの施策は、成熟した民主主義に基づいて国民と政府がお互いに何をしていてまた何をすべきかを明確に理解し合いながら動くスキームです。そこには事態の成り行き次第で即座にロックダウンに切り換え替えるという合意があります。

一方日本の緊急事態宣言は、イタリアほかの国々が採用しているロックダウン策を、日本独特のヌエ的な手法で骨抜きにして、「自粛」という一見民主的だが実は強制以外の何ものでもない権謀を国民に押し付ける措置。

自粛には「同調圧力」という日本社会独特の刑罰が伴っています。それは歴史的には村八分とも呼ばれてきた社会的仕置きです。その点を除けば緊急事態宣言の内容はロックダウンと何も変わりません。

翻って スウェーデンは、学校閉鎖もしない、大小の各種イベントも禁止しない、国民に自宅待機も呼びかけない等々、世界の趨勢に真っ向から立ち向かう政策方針を取っています。それにはれっきとした合理的な根拠があります。

早くから自宅待機を強要すれば、感染流行が最高潮に達したころに「自主隔離疲れ」を覚えた人々が一斉に表に出てしまう危険がある。大規模イベントや集会を禁止しないのは、それらが行われる広い空間では、自宅などの狭い空間で家族や友人同士が感染し合う可能性よりもリスクが低いから。

また学校を閉鎖するのも無意味。なぜなら子供がかかりやすい季節性のインフルエンザの場合は学校閉鎖が効果的だが、新型コロナは高齢者を襲うケースが多く子供の発症リスクは低い、など、など、科学的な知見に基づいて実行しています。

それらの見識とスキームは、実は以前にイギリスで生まれました。同国のボリス・ジョンソン首相は、イギリスがまだパンデミックの入り口にいたころ、その施策を実行に移そうとして国民の猛烈な反発に遭い、早々と諦めてロックダウン策に方向転換しました。

同じ方針が人口が少なく且つ民度の高いスウェーデンでは受け入れられました。政府と国民がいわば大人と大人の強い信頼関係で結ばれ、手を取り合い、感染拡大を抑えるために責任を持って行動する戦略が採用されているのです。

つまり国民と政府が政治的合意の下にロックダウンを避けているもので、既述のように必要ならいつでもロックダウンに移行できる態勢です。安倍首相が国会の場で「日本はロックダウンはしない」と明言した、「行き当たりばったり」術に見えなくもない方策とは意味が違います。

ところが同時に、両国はまた似ているところもあります。つまりここまでの状況では、スウェーデンも日本も結局、イタリアが先鞭をつけたロックダウン策を導入しなければ感染拡大を阻止できなくなるのではないか、との見方も出始めているのです。



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建前「緊急事態宣言」が本音の「ロックダウン」に変わるとき

7都府県が対象だった「緊急事態宣言」が全国に拡大されました。筆者は「緊急事態宣言」はいわば建前であり、本音はロックダウンだと捉えています。

ただし、そのロックダウンの罰則は日本独特の同調圧力を利用した村八分。そこがイタリア発・欧州各国またアメリカなどのロックダウンとは違います。

その観点から7都府県に限定した「緊急事態宣言」は意味を成さないと思っていました。なぜなら北部地域に限定したイタリアのロックダウンも効果が薄かったからです。

ロックダウン域から規制の薄い地域へ逃亡する不心得者が必ずいます。またそうではなくても、規制をかけた地域とそうでない地域の人々の仕事などでの往来が絶えないのが原因です。

案の定、「緊急事態宣言」は全国に拡大されました。イタリアのロックダウンがそうであったように。全国への拡大は正しい方向だと思います。

それによって日本の感染拡大が抑え込まれることを祈りたい。そうなればここイタリアに始まり、スペイン、フランス、イギリス、アメリカ、また世界各地をなぶっているCovid19の毒牙も極小になることでしょう。

だが、そうならないケースも考えておいたほうがいいと思います。つまり、「自粛」を頼りにする日本式ロックダウン、即ち「緊急事態宣言」がうまく作用しない場合です。

その時は、世界各地で実行されている罰則さえ伴う「正真正銘」のロックダウンへの移行を余儀なくされるでしょう。そこでは経済のさらなる破壊と国民の大きな犠牲が不可避です。

同時に日本政府も、自らの責任を曖昧にしたまま国民だけに「自粛という犠牲」を強いる、「緊急事態宣言」の守護神という都合のいい立場ではいられなくなります。

禁止や罰則を国民に強いることで、日本政府はそこから出る結果に全て責任を持ち、壊滅した経済の再生や社会秩序の護持、そして何よりも国民の安全保障のために死に物狂いで取り組まなければなりません。

ロックダウン策を取る場合は日本は、先ず一部地域を封鎖して徐々に拡大するのではなく、一気に全国を封鎖したほうがいい。なぜなら全国一律にしなければ、そこでもまた7都府県を対象にした「緊急事態宣言」の時と同じ瑕疵が必ず露呈するからです。

そのことを含めて、ほとんど全てのアイデアと対策と実行法は、ここイタリアまた欧州各国、さらにアメリカが既に発明しています。それは日本が「緊急事態宣言」そのものと、そこに至るまでの試行錯誤の過程で遺憾なくパクった通りです。

日本政府は、もしもロックダウンをしなければならないような不運に見舞われた場合は、今度こそそれは施策の本家本元の欧州に倣ったものであることを隠さず、正直に国民に相対し、重い責任を全て背負い直して、決死の覚悟でウイルスに立ち向かっていくべきです。

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“いつまでも死なない老人”さえ害する新型コロナウイルスの悪意

イタリアのCovid-19の死者が突出して多いのはなぜか、という質問を何人もの方からいただきました。ひとことで言えば今のところ、イタリアが高齢化社会だから、というのがその答えです。

新型コロナウイルスは高齢者を多く攻撃し、重症化させ、死に至らしめる。そしてイタリアは欧州随一の高齢化社会であるため、必然的に死者が多くなるという理屈。今のところは専門家の間でさえそれ以上に納得のいく説明はなされていません。

その答えを最も良く知るはずの現場の治療従事者は、医療崩壊が深刻な状況の中で患者を救うための必死の仕事を続けていて、今はとてもそのことの説明や、分析や、もしかすると告発などに時間を割く余裕はない、というのが現実だろうと思います。

正確な答えは、パンデミックが終息し彼らが統計学ほか幅広い分野の専門家等も交えて分析・考察を行えるようになったときに、必ず明らかにされることでしょう。

そうはいうものの、今このときに筆者が考える答えはあるのでそれを書いておくことにました。それは多くの情報とパンデミックの経緯と数値と、加えて現地にいることで得られる知見に基づいた筆者なりの分析と結論です。従って正確ではない可能性があることをあらかじめ断っておきます。

専門知識と経験、また事実とエビデンスに基づいた学術的な考察は、いま述べたように近い将来きちんと導き出されることと思います。そうされなければならないほどに、イタリアのCovid-19の死者数は異様に大きいものに見えます。

イタリアは欧州随一の老人大国で高齢者が多いのがCovid-19死亡率の高さにつながっている、というのが先に触れたように当のイタリアを含む欧州での通説です。65歳以上の者が全人口に占める割合、いわゆる高齢化率はイタリアでは23パーセントを超えています。

イタリアでの被害が拡大したもうひとつの理由は、若者が祖父母などの高齢者と頻繁に交流する文化があること、という考察もあります。だがそれは感染拡大の理由にはなっても、なぜ死者が多いのかの説明にはなりません。言うまでもなく感染が多いから死者も多い、という理屈は成り立ちますが。

イタリアの死者が多いのは高齢化社会のせい、という説はむろん正しいでしょう。だがそれだけが正解ではないのではないか。感染者が爆発的に増えて医療が重症者を十分にケアできていない、というのもきわめて重要なポイントではないか、と筆者は考えます。

Covid-19にまつわるイタリアの劇的な変化は2月22日に始まりました。巨大津波のようなオーバーシュート(感染爆発)に襲われたのです。ふいに足元をすくわれ、体勢を立て直す暇もないまま、さらにそれの波状攻撃を受けてにっちもさっちもいかなくなりました。患者の数があまりにも多く、感染爆心地の北部イタリアの医療体制はパンクしました。

別名、医療崩壊という名の恐慌に陥った医療の現場では、治療が全く行き届かず患者がバタバタと死んでいきました。火事場騒ぎの中で、患者の生死を分けるトリアージなどもほとんどためらいなく進行して行きました。いや敢えてトリアージを行うまでもなく、重症者は次々に死亡しました。

患者が十分な治療を受けられない状況が急激にそして長く出現します。ピークの頃は患者の発見、入院、治療、死亡までの平均時間がたった8日間だったことでもそれは明らかです。さらに医師の感染、死亡もこれまでで116名と異様に多い。そのこともまた医療崩壊の惨劇を如実に物語っていると思います。

日本の医療専門家や評論家の中には、イタリアがほぼ医療崩壊に陥った事態を、医療レベルが低いから、としたり顔で指摘する者が少なくありません。彼らは日本式画一主義あるいは大勢順応・迎合主義にでっぷりと浸っていて、その毒に侵された目と頭脳でしか物が見えず考えられない。

そのため地域の多様性に富むイタリアの実情も自らの土俵に呼び込んで、「画一的」思考で判断しイタリアの医療レベルは低いと断じます。だが多様性が持ち味のイタリア社会には-その是非は別にして-平均的事案が少なく、突出しているものと劣悪なものが並存しています。医療分野もその例に洩れません。

イタリア最大のCovid-19被災地である北部ロンバルディア州は、欧州全体でもトップクラスのGDPや生活水準を誇る場所です。従ってそういう場所は当然、医療レベルもトップクラスのものを備えます。ロンバルディア州の医療レベルは欧州でもきわめて高いのです。

そのロンバルディア州の高レベルの医療体制が、感染爆発であっさりと崩壊しました。医療レベルが低かったからではなく、感染爆発の勢いがあまりに強烈だったからです。感染者の数が急激に増え、それに連れて高齢者が主体の重症者も激増しました。そうやって遺体の山が築かれていきました。

イタリアの医療レベルを全体で均らすと、中南部が弱い分確かにドイツなどの北欧よりは低いかもしれません。だが、ロンバルディア州を頂点にピエモンテ、ヴェネト、エミリアロマーニャなどの北部大規模州と周辺の小規模州は、ドイツほかの国々の医療レベルに引けをとらない質があります。

医療レベルの高いイタリアの北部州でさえ、新型コロナウイルスに自在に蹂躙された、というのが筆者の論点です。感染爆発が中南部で起こっていたなら、イタリアの惨状は、さらにもっと辛いものになっていたことでしょう。日本の論者は、知らないイタリアを案ずるよりも、足元の日本の今の医療態勢を憂慮して、政府の対応に物申すなど少しは人の役に立つ言動をしたほうがいいのではないでしょうか。

ちなみに日本の老人化率は28%以上で世界最大です。もしも東京でロンバルディア州並みの感染爆発が起きて、同じように高齢者が多く死亡すれば巷間言われている「高齢化社会」説は正しいということになるかもしれません。なぜならロンバルディア州の医療レベルは細部や項目ごとの違いはあるものの、ほぼ東京のそれに匹敵すると考えて良いからです。

もしもそうならなければやはり別の理由がある。筆者はそれは目をおおいたくなるばかりの医療崩壊が大きな鍵だと考えていますが、真実は後の研究で明らかになることでしょう。いずれにせよ日本は、イタリアの特にロンバルディア州の惨状とそれを監視しながら感染爆発に備えたスペイン、フランス、ドイツ、アメリカなどがどうなったかをつぶさに見てきています。

従って日本はうまく切り抜けなければならない。ところがイタリアを始めとする欧州各国の厳しいロックダウン策を見ている筆者の目には、日本の動きは生ぬるい、と映ります。何があってもまさかロンバルディア州のような悲惨な事態にはならない、と信じてはいますが。逆に今の緩さで、例えば今日現在のドイツ並みの結果を残すことができれば、日本はたいしたものだ、という評価になるのではないでしょうか。

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